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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-20

「(略)真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。(略)教えて頂けませんでしょうか。」(Aさんのコメントより)

「(略)真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。(略)教えて頂けませんでしょうか。」(Aさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170418/1492499465#c1492596776

結論からいいますと、「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことはあります。しかし、これには、多少言葉を加えたほうがいいと思います。

もう少し正確にいうと「信心を獲たのだろうかと疑問をもつ時期はあります」しかし、これは本願に疑いがあるからいうのではなく、「本願に疑心はないけれども、これが信心というものか?」と思うことはあるという意味です。


そのような事が起きる場合は、「信心とはこういうもの」「信心を獲たらこうなるはず」という事前に思い描いたものがある人は、「そう思い描いたものがない」ことに「これはどういうことだろうか?」と疑問を持っても不思議はありません。


言い替えると「信心を獲たと思ったれども、自分は本当に信心を獲たのだろうか?」という心境になる人はいると思います。


例えば「信心を獲たら地獄行きの自分の姿がハッキリと知らされる」と聞いて「どんな恐ろしい自分の罪悪が、あたかもパンドラの箱を開けた如く知らされるのだろうか?」と思っていれば、そんな体験が起こらない限りは本願に疑い晴れたとしても「これで信心を獲たのだろうか?」と思うのではないでしょうか?

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(参考動画 レイダース失われたアーク後半より「アーク」と呼ばれる箱を開けるととんでもない怪物が出てくる場面です。)


先の例は、多少大げさに書きましたが、それでも私が以前思っていたことです。かつて話を聞いていたところでは「名利の冷血獣」とか「ゾッとする巨悪の本性」と聞かされてきたので、信心決定したらとんでもなく極悪人の自分が知らされるのだろうとか、とても人前に出られないような自分の姿が知らされるのだろうと思っていました。また、今まで経験したこともないような達成感や感激が沸き起こるのだろうと思っていました。しかし、少なくとも本願に疑い晴れると同時にそんなことはありませんでした。(そんな体験をする人もあるのかもしれませんが)


仮に、そんな自分の思い描いた通りの体験があったとしたら、「心得た」と思っていたことでしょう。例えば、こんな表情をするのではないでしょうか?

f:id:yamamoya:20170420154630p:image:w640

(参考 漫画「デスノート」より)

ちなみにこの画像は、漫画「DEATH NOTE コミック 全12巻完結+13巻セット (ジャンプ・コミックス)」の一コマです。自分が事前に思っていた通りに事態が進んだことを喜ぶ登場人物の表情です。(少なくとも阿弥陀様は、こんな表情はされません。念のため)


そのため蓮如上人は、「心得た」と思って「これで信心を獲たぞ!」ということは、危ないことだと御一代記聞書に言われています。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1300より御一代記聞書213)

https://goo.gl/djh3KR

体験もふくめて「心得た」(分かった!)というのは、信心ではないと蓮如上人は言われています。自分の側で分かった分からないと考えるよりも、阿弥陀仏の仰せの通りであると聞いて下さい。

wmwm 2017/04/23 11:47 仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のこととより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。

AA 2017/04/23 22:06 宮田様
 詳しく御回答頂きありがとうございました。自分で自分の心を詮索しても切がありません。
今後も浄土真宗の教えに接し本願を仰ぎたいと思います。

AさんAさん 2017/04/27 02:49 自分が「ひょっとしたら救われたかもしれない」と思ったとします
その言葉を聞いた他人は「本当か?」と自分の信心を疑うでしょうが、阿弥陀仏の本願から見ればそれを否定するものは何処にも存在しません
全ての人間は阿弥陀仏の救いに値する者であり、条件はありません
"そのままで"良く、"それで"良い
それを「これじゃあダメだ」と考える自分がいるならそれが自力であります
ですが救われた後に「これが信心なのだろうか」と疑問を持つ状態と
「ひょっとしたら救われたのかもしれない」と考える状態に厳密な違いなど存在しないと私は思います
阿弥陀仏を疑っている人が「ひょっとしたら救われたのかも」などとは到底思うはずもありません
それを確認するための御念仏であり、私にそれを教えてくれるのが称名念仏であります
「ひょっとしたら救われたのかもしれない」
というのを確認してみるには
「私は阿弥陀仏に救われました」と、南無阿弥陀仏と称える事です
そして疑いがなければ
ああ私は救われたのだなと実感を得、
「いやまだダメだ」と思うのであれば
その「まだ足りない」と感じる分だけ私が自力を頼りにしているという事です

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