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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-25

「仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。」(wmさんのコメントより)

wm 2017/04/23 11:47

仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170420/1492671055#c1492915667

wmさんのコメントで言われているようなことは、私も耳にしたことがあります。よいご縁だと思い、考えて見ます。


まず、「死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねば」という人について考えて見ます。

このようにいう人の考えは、死ぬ時に「あれをやっておけばよかった」と後悔をしたくないという気持ちではないかと思います。


こういう人に直言するとすれば「私は人生においてやり残したことはありません。十分生を全うして、生ききったら、死に切りたいと思っています」というところでしょうか。


歎異抄第九条には、このように書かれています。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。(歎異抄第九条 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P837)

https://goo.gl/1d27gq

この世を去る時には名残惜しいという心もあるものの、この世の縁が尽きたなら浄土に参らせて頂くだけです。急いで浄土に参りたいというこころもない私を、阿弥陀仏はとくにあわれに思って下さいます。だからこそ、阿弥陀仏の大慈悲はたのもしく、往生は定まっていると心得させて頂きます。


私にとって浄土往生というのは、生まれてきた時からすればはまさに想定外のことです。それを遂げさせていただくという救いにあったなら、人生において「あれをやっておけばよかった」ということはありません。そういう意味で、生きるとか死ぬということに、苦しいから駄目だとか楽しいから良いとかいう意味付けをしようとする心はありません。


阿弥陀仏に救われたからといって、私の環境ガラリと変わることはありません。また、自分自身も急に智慧が勝れたり、煩悩が減ったりすることもありません。そうなると、それまでと変わらない人間関係なども起きてきます。しかし、苦しみも楽しみも同じように有り難いことと受け入れる(即座にとはいいません。時には時間を於いてでも)のが、以前との違いかと思います。


「いま生きているうちに楽しまねば」という人には、「今が幸せです」とでも答えるのがいいのでは無いかと思います。ただそれは「貴方よりは幸せです」という意味ではなく、ただ有り難いという意味での幸せです。

林遊@なんまんだぶ林遊@なんまんだぶ 2017/04/25 22:03 仏教では「帰依」ということをいいます。
大谷派の金子大栄師は帰依ということを「死の帰する処、生の依って立つ処」と仰ってましたですね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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