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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-06-10

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

スナオさんから質問を頂きました。有り難うございました。

この聴聞をしていくと自力か他力か「ハッキリする」に関しては、結論から言えばハッキリすると言えます。

なぜならば、自分で壊そうとして壊れるような自力ならば、自力とは言えません。また、自分で手放そうとして自力を手放せるのならば、阿弥陀仏のお働きはせいぜい「助力」程度であって、本願力一つの救いにはならないからです。


聴聞を重ねるというのは、別の言い方をすると「知らない言葉を聞く」ことによく似ています。スナオさんがどういう方かはよく存じ上げませんが、私たちは日々生活する上で使う言語によって考え方が規定されていきます。そのため、日本人でいえば、英語を学ぶ時に、全ての文章に「主語」があることに驚くと思います。なぜなら、日本が主語がなくても通じる言語だからです。例えば、ご近所の人に朝あった時に「お早うございます」と言います。しかし、英語では「Good morning」といいます。少し考えると「お早うございます」は、「Good morning」にはなりません。なぜなら、「Good morning」は正確にいうと「I wish you a good morning(あなたによい朝が訪れるように)という祈りの言葉です。それに対して、日本語の「お早うございます」は、単に「朝早いですねー」「そうですねー」と言っているにすぎません。それでも、日本語を話す人には通じる情感があります。


そこで、別の例を出すと、アマゾンのアモンダワ族は、時間の概念がありませんでした。そのため、時間を示す言葉は雨期と乾期くらいで、「週」「月」「年」という概念がありません。その部族が外部と接触し、ボルトガル語を学ぶと、一年、二年といった「年」の概念を習得していったそうです。

時間の概念がない!? アモンダワ族の人々の生き方が凄い - NAVER まとめ

それと同じように、私たちは、「阿弥陀仏が救って下さる」ということは知りません。それを「言葉」として教えられているのが、お釈迦さまであり、真宗で言えば親鸞聖人が示された七高僧方であり、親鸞聖人です。


「言葉」というのは、私たちは軽く考えがちですが、その「言葉」によって私たちの考えや行動は規定されているのは、先ほどのアマゾンのアモンダワ族の例でわかる通りです。

舎利弗、われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するがごとく、東方にまた、阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし〉と。(阿弥陀経)

現代文

舎利弗よ、わたしが今、阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえているように、東方の世界にも、また阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざ まな仏がたがおられ、それぞれの国でひろく舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、< そなたたち世の人々よ、この 《 阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経 》 を信じるがよい > と仰せになっている。

https://goo.gl/hLzYhg

そもそも概念として「私を救う方など存在しない」という世界に住んでいる私に、言葉をもって「お前を助けるぞ」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。

その意味では、南無阿弥陀仏は阿弥陀経でいう「誠実の言」です。お釈迦さまは、その誠実の言を信じなさいと勧めておられます。「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」といわれています。

私は、その「誠実の言」を聞き入れることで、私を救うという「誠実の言」があることを聞き入れます。それを信心と言います。

先にあげたアモンダワ族の人にとって「時間」というのは、存在しません。しかし、一度「時間」のある言葉を聞き入れると、「時間」はあるものとなります。それと同じように、「私を救って下さる阿弥陀仏がまします」ということは、「誠実の言」を聞かない人には、存在しません。しかし、一度「誠実の言」を聞き入れる人には、私を救う阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となっておられることは、全く不思議なことではありません。そのように、まことを、まことと聞き入れたことを信心といいます。

聴聞するとは、そのように、まことを聞かせていただくことです。自らの作為によってどうこうということではありません。

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

スナオさんから質問を頂きました。有り難うございました。

この聴聞をしていくと自力か他力か「ハッキリする」に関しては、結論から言えばハッキリすると言えます。

なぜならば、自分で壊そうとして壊れるような自力ならば、自力とは言えません。また、自分で手放そうとして自力を手放せるのならば、阿弥陀仏のお働きはせいぜい「助力」程度であって、本願力一つの救いにはならないからです。


聴聞を重ねるというのは、別の言い方をすると「知らない言葉を聞く」ことによく似ています。スナオさんがどういう方かはよく存じ上げませんが、私たちは日々生活する上で使う言語によって考え方が規定されていきます。そのため、日本人でいえば、英語を学ぶ時に、全ての文章に「主語」があることに驚くと思います。なぜなら、日本が主語がなくても通じる言語だからです。例えば、ご近所の人に朝あった時に「お早うございます」と言います。しかし、英語では「Good morning」といいます。少し考えると「お早うございます」は、「Good morning」にはなりません。なぜなら、「Good morning」は正確にいうと「I wish you a good morning(あなたによい朝が訪れるように)という祈りの言葉です。それに対して、日本語の「お早うございます」は、単に「朝早いですねー」「そうですねー」と言っているにすぎません。それでも、日本語を話す人には通じる情感があります。


そこで、別の例を出すと、アマゾンのアモンダワ族は、時間の概念がありませんでした。そのため、時間を示す言葉は雨期と乾期くらいで、「週」「月」「年」という概念がありません。その部族が外部と接触し、ボルトガル語を学ぶと、一年、二年といった「年」の概念を習得していったそうです。

時間の概念がない!? アモンダワ族の人々の生き方が凄い - NAVER まとめ

それと同じように、私たちは、「阿弥陀仏が救って下さる」ということは知りません。それを「言葉」として教えられているのが、お釈迦さまであり、真宗で言えば親鸞聖人が示された七高僧方であり、親鸞聖人です。


「言葉」というのは、私たちは軽く考えがちですが、その「言葉」によって私たちの考えや行動は規定されているのは、先ほどのアマゾンのアモンダワ族の例でわかる通りです。

舎利弗、われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するがごとく、東方にまた、阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし〉と。(阿弥陀経)

現代文

舎利弗よ、わたしが今、阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえているように、東方の世界にも、また阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざ まな仏がたがおられ、それぞれの国でひろく舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、< そなたたち世の人々よ、この 《 阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経 》 を信じるがよい > と仰せになっている。

https://goo.gl/hLzYhg

そもそも概念として「私を救う方など存在しない」という世界に住んでいる私に、言葉をもって「お前を助けるぞ」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。

その意味では、南無阿弥陀仏は阿弥陀経でいう「誠実の言」です。お釈迦さまは、その誠実の言を信じなさいと勧めておられます。「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」といわれています。

私は、その「誠実の言」を聞き入れることで、私を救うという「誠実の言」があることを聞き入れます。それを信心と言います。

先にあげたアモンダワ族の人にとって「時間」というのは、存在しません。しかし、一度「時間」のある言葉を聞き入れると、「時間」はあるものとなります。それと同じように、「私を救って下さる阿弥陀仏がまします」ということは、「誠実の言」を聞かない人には、存在しません。しかし、一度「誠実の言」を聞き入れる人には、私を救う阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となっておられることは、全く不思議なことではありません。そのように、まことを、まことと聞き入れたことを信心といいます。

聴聞するとは、そのように、まことを聞かせていただくことです。それは自らの作為によって、質問の言葉を借りると自分で壊す、手放す、また手放そうとすることではありません。他力を聞かせて頂くと、他力(阿弥陀仏が私を救う働き)を聞く訳ですから、他力は他力とわかります。他力を聞けば、自力も分かります。