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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-06-14

信心獲たとした上での「名もなき感情問題」を考える。「私は他の方々と違い、そうだったのか!とはなりません。往生一定の身になったのですか?本当ですか?となっています。何故でしょうか。(コロンさんのコメントより)」

コロン2017/06/11 17:06

往生の身になる難事に取り組むぞー!と思ってきましたが、「往生一定の身にあなたはなりました」のおことば。驚きですし、何といいますか肩透かしな感じも受けました。肩の荷が下りた、かもしれません。

ですが私は他の方々と違い、そうだったのか!とはなりません。

往生一定の身になったのですか?本当ですか?となっています。何故でしょうか。(コロンさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170608/1496907784#c1497168360

なぜ「他の方々と違い、そうだったのか!とならない」のかについては、「そうだったのか」というのは、表現として使う方もありますが、本願を聞き入れた上での表現は人それぞれ異なるからです。親鸞聖人や、蓮如上人の書かれた言葉や、過去の妙好人の言ったとされる言葉、または自分の身近な信を獲たと言っている人の発言の中で、自分に当てはまりそうな表現を使っているに過ぎません。


その意味でコロンさんが、書かれている部分についてはご自身の言葉で書かれたものですから、私はそれは(信の有無は判定できませんが)とてもよい表現だと思ってよみました。どれだけ、喜びを語った人があっても借り物の言葉では、その信心の有無は分かりませんが、本当にその人の感じたことかどうか位は分かります。

そういう意味で、「他の人が使っているような表現が自分に当てはまらないから、自分は救われていない」というのは間違いです。もし、それが正しいとするならば、誰かが言っている通りの心になったから自分は大丈夫だということになってしまいます。そういうものではありません。


信心とはあくまでも、本願を聞いて疑心あることなしかどうかであって、「どういう表現で言ったか」はまた別の問題です。

また、今でも名前の残る妙好人と言われる人は、「それまで誰も言わなかった表現をした人」だから名前や発言が残っています。もし「誰も言わなかったことを言ったから間違いだ」ということになれば、それらの妙好人といわれる人はみな間違いだということになります。

そこで、本願を聞いて疑い無いというのは、信心という言葉の定義としてありますが、その上で「本願を聞いて疑い無い」状態での心の状態をどう言葉にするのかは、人によって異なっても不思議はありません。さらに、その上であれこれと心に浮かぶ喜びや人によっては懺悔の言葉も人によって異なります。

親鸞聖人が「慶喜いよいよいたり」と書かれたり「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」と書かれていることが、獲信した人がその刹那に全く同じ情感を心に浮かべるということはありません。


なぜなら、信心獲得したとは阿弥陀仏の本願に疑い無い状態ですから、私の心には「疑が無い」というだけで、何かあるとすれば南無阿弥陀仏があるだけだからです。

しかし、ここで話が終わってしまうとでは、「救われても何も思ったり、感じたりしないのでしょうか?」と疑問を起こされる方もあります。もちろん、獲信したその時から心がなくなってしまうわけではないので、いろいろと縁に触れて思うことはあります。ただそれを「こういう心になるのだよ」という人はあまり多くありません。それはなぜかと言えば、それまで本願に疑心しかなかった人からすれば、疑心がない状態というのは経験したことのないことです。その上でいろいろと感じることは、あっても人生経験上適当な言葉がないからです。私はそれを「名もなき感情問題」と最近呼んでいます。(この言葉はラジオ番組東京ポッド許可局2017年03月06日放送分で聞いた「名もなき感情論」から来ています。仮に同じラジオを聞いている人がおられたら私も許可局員です。)


「本願を聞いて疑い無いのですが、この感じはなんと言ったらいいのでしょうか?」というのは、本願を聞いて疑い無い人にはどこかで一度は感じることではないかと思います。何も感じない訳ではないですが、それをあらわす適当な言葉がありません。そこで、過去のお聖教の言葉や、妙好人の言葉の中で自分の感じているものと近いものを借りて使っています。

世の中のことならば、一応共通しているなんとなく伝わる表現はあります。「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「美味しい」等々です。それらに必ずしも合致しないことが心に浮かぶ時、それは「名もなき感情」とでもいうしかありません。


個人的には、自分の信仰上感じた思いを適切に言語にできる人の方が少ないのではないかと思います。そのため、自分の所属する団体でよく使われている言葉を多用する人が多いのではないかと思います。私個人でいっても、このブログを初めて9年以上になりますが、「自分の感じたことを言語化できた」という感覚は年に一回もあったかどうかという感じです。


まとめ

コロンさんが、感じられる疑問をまとめると、「誰かが言った獲信の表現」に自分の気持ちが合わないことで「これで往生一定の身になったのだろうか?」ということで質問をされました。

それに対して、いろいろと書きましたが、まとめると「他人の発言と合致するかどうかで信心かどうかを決めるものではない」ということです。

なぜならば、本願を聞いて疑心あることないかどうかが、信心の定義です。

コロンさんが、本当に本願を聞いて疑心がないかどうかということであって、他人の発言と自分の心が同じか違うかは気にする必要はありません。

阿弥陀仏が私を救って下さる本願がすでに成就している。それに疑いないかどうかです。

最後に、コロンさんに限らず、信仰上のことは思ったことをそのまま言葉にされるのがいいことです。間違っていれば、誰かが必ず正してくれます。また、間違ってなくても、本当に感じたことを言葉にすることで阿弥陀仏の本願は多くの人により伝わることになります。