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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-07-27

2017-07-17

「阿弥陀仏の本願を聞いて、確かにそうだと思ってもなかなか『そうでございます』と受け取れません。どう聞いたらいいでしょうか?」という人に見ていただきたいNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」

「阿弥陀仏の本願を聞いて、確かにそうだと思ってもなかなか「そうでございます」と受け取れません。どう聞いたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

このように尋ねられる方は決して少数派ではありません。私も以前は「理屈ではそうだろうと思うけれども、なかなか納得はしきれない」と思っていました。このような考えの前提としてあるのは、「納得できないものは信じない」という態度です。確かに現代社会では情報が溢れ、またフェイクニュースなるものが出てくるご時世ですから、少ない情報を鵜呑みにするわけにはいかないという態度は日常生活では大事なことと思います。ただし、これはあくまで私たちの日常生活上のことならば当てはまることですが、阿弥陀仏の本願にはあてはまりません。なぜなら、とある政治に関するニュースを目にした時、それが正しいのかフェイクニュースなのかは、一次情報を探せばそれを確かめることができます。また、それを見て納得することもできます。それに対して、阿弥陀仏の本願は、いわゆる「五劫思惟の願」でありますから、私たちがちょっとやそっと考えたくらいで「納得」することは難しいものです。


こういう話は、私も人に尋ねられて説明もしてきましたが、それを聞いてすぐに「そうですか」と思って頂ける場合は決して多くはありませんでした。なぜなら、これまでの私たちの日常生活で「人間が納得(理解)できないけれども、それが正解」という場面はあまり出会うことはなかったからです。


しかし、今日その「人間が納得(理解)できないけれども、それが正解」いわゆる人智を越えたことを奇跡ではなく目の当たりにすることができるようになりました。それが人工知能の発達です。


それを分かりやすく解説したNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」の録画を最近みました。その内容は、かなり衝撃的なものでした。

この番組では、近年の人工知能が実際の産業でどのように生かされているのかを紹介するとともに、日本の将棋佐藤天彦名人が、人工知能ボナンザと対戦する「電王戦」の様子と、それらを羽生善治三冠がコメントするという構成でした。


この番組で、実例としてあげられているのが以下のものです。

人間の知性を越える人工知能が、すでに現実社会に進出している。名古屋のタクシー会社では、客がいる場所を指示する人工知能を導入、客の数を大きく伸ばした。人工知能が、人間を評価するという事態も起こっている。シンガポールのバス会社では、事故を起こす危険性の高い運転手を人工知能が見つけ出す。アメリカでは、過去の膨大な裁判記録を学んだ人工知能が、被告の再犯リスクを予測し、刑期の決定などに関わっている。日本のある企業でも、退職の予兆がある人を、人工知能が事前に察知するというシステムを導入した。

NHKスペシャル | 人工知能 天使か悪魔か 2017

この番組ではなぜ人工知能将棋に強くなったのかについて、人工知能が過去のタイトル戦の棋譜5万局を読み込むことを挙げています。その上で、人工知能将棋ソフト同士が対局をしています。その対局数は700万、人間が仮に1年間に3000局打ったとしても2000年以上かかる数です。


初日では3八金を打ったボナンザに(普通は歩を動かす)、佐藤名人は頭を抱えます。しかし、結果は人工知能の勝利に終わりました。

二日目は更に、人工知能は先手でいきなり玉を動かします。それをみてまたしても佐藤名人は頭を抱えます。私は将棋は殆ど素人ですが、さすがにこの初手に玉を動かすというのはちょっとあり得ない手だと思いました。それでも結果を見ると、人工知能の勝利に終わりました。


この番組中で、人工知能プログラマーが「プログラムをしたのは自分だけれども、書いている本人にも(なぜ強いかは)実は完全には分かっていない」と述べていました。


また、番組で羽生善治三冠は、こう語っていました。

私たち棋士の直面している違和感は人工知能の思考がブラックボックスになっていることです。膨大な情報をどのように処理して、その結論に至ったのかは分かりません。

それと佐藤名人はこう語っています。

人間同士で打っていると気がつかないうちに、将棋の中のある一つの銀河系にしか住んでいないような感じになっていくんですね。ただもっと広い視点で見れば、いろんな惑星があるかもしれないですし、そうすると今まで気がついていなかった自分自身の持っている面も気がつかされてたのかなという気持ちもあります

いづれも人間で考えることには及ばないことが現実に起きていることに直面している方の発言です。


このように人間の知性を超えるものが出てきた現実をみると、阿弥陀仏の本願のいわれも、「お経の話でしょ」とか「方便なんですよね」とは言えなくなってきたといえます。


大無量寿経には、法蔵菩薩が浄土を建立するにあたって210億の諸仏の浄土を見られてそこから勝れたものを選び取られたと説かれています。

ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。(大無量寿経)

また、その浄土に往生する行として念仏を選び取られました。それも、あらゆる行を見られた上で念仏を選び取られたのですが、その詳細な経緯については、いろいろな経文上には根拠はあるものの、その根拠はなぜそういわれるのかといわれれば、とどのつまりは「ブラックボックス」になっています。

また、210億の浄土のを調べて見ろと私に言われた所で、一日

年に10の浄土を見ても21億年かかります。一年100の浄土でも2億1千万年かかります。こうなると、将棋人工知能どころではなく、どう考えても「理解出来ない」のが阿弥陀仏の本願です。こうなると「理解できないけれども、それが正解」ということは、阿弥陀仏の本願にそのままあてはまるのではないでしょうか?

将棋人工知能ソフトに勝てるくらいの人なら、阿弥陀仏の本願のいわれを納得するまで考えて見てもいいかもしれません。ただそれでも結果は変わらないのではないでしょうか?

一 思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。

現代文

「思案のきわまりというべきは、五劫の間思いをめぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、これを超えるものはない。

弥陀如来のこのご思案のおもむきを心に受け取れば、どんな人でも必ず仏になるのである。

心に受け取るといっても他でもない。

「われにまかせよ、必ず救う」という機法一体の名号のいわれを疑いなく信じることである」と仰せになりました。

https://goo.gl/heTHP9

この思案の頂上である阿弥陀仏の本願に同心するかしないかです。どうか、阿弥陀仏の本願をただ今聞いてただ今救われて下さい。

参照

NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「人工知能 天使か悪魔か 2017」

2017-07-15

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

ご自身が地獄に堕ちるか堕ちないかということを、自分の心で決めているのであれば、「自分は地獄へ堕ちない」とどれだけかたく信じていてもそれは後生とは関係がありません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。

(略)

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

と執持鈔にあります。

後生のことは、ただ阿弥陀如来にまかせるだけであって、自分の方から「私は浄土へ参れるだろう」「地獄へ堕ちるだろう」と決めることではありません。

ご自身の心の上では本来は「地獄へ堕ちると思う」のが普通であって、そう思えなくなったことに対する不審からではないかと思います。ここで大事なことは、自分の心がどうであるかということに拘り、その心の善し悪しで一喜一憂することはよいことではありません。


例えば九州行きの新幹線に乗った人は、「自分が九州に行けると思えるかどうか」を問題にしません。なぜなら、乗った人がどう思ったところで、九州に行けるかどうかは新幹線の力によるからです。もっと身近なことで言えば、最近は携帯電話にも入っている電卓ですが、それで 三桁のかけ算と割り算を実施してその結果が合っていると「思えるかどうか」を問題にする人はありません。なぜなら、その結果が「合っていると思えるかどうか」は、計算結果に関係がないからです。計算の結果は、計算機の力によるものであって、私の「思い」とは関係がありません。


後生のことは、阿弥陀仏にまかせるだけであって、その上で私がどう思ったところで結果が変わるわけではありません。「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」です。自分の心が定まってから阿弥陀仏にまかせるのではなく、ただ阿弥陀仏の仰せのとおりに弥陀にまかせて下さい。

2017-07-11

「端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。(wmさんのコメントより)

wm 2017/07/11 08:09

端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170425/1493108159#c1499728172

有の見(常見)については、浄土真宗辞典から引くと以下のように説明があります。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

じょうけん 常見

断見に対する語。有見ともいう。因縁によって生じるものは消滅変化して少しの間もとどまらないということをさとれず、自己と世界を常住不変と見て執着する見解。仏教において断見とともに、縁起の正理に背く邪見として退けられる。

常見というのは、上記にあるように、自分も世界も常に変わらないという考え方でそれは間違った考えであると仏教で言われているものです。


そこでお尋ねの、「常見と浄土往生は同じように思われます」について、以下書いていきます。

私が、このお尋ねの文章から考えたことは、「浄土は無常の世界ではないと聞いているから、それは常見ではないのか」と思われたのではないかということです。(間違っていたらご指摘下さい)


そこで、浄土は無常の世界ではない常住であるならば、それは常見ではないかということについて説明をしていきます。

まず、「常住」について、また浄土真宗辞典から引用します。

じょうじゅう 常住

無常に対する語。常ともいう。生滅変化なく、永久に存在すること。『涅槃経』では「如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ」(真仏土巻引文・註348)、「有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり」(化身土巻引文・註408)などといい、如来や涅槃の異名ともされる。

この文章を見ると「生滅変化なく」とあるので、これから浄土(往生)は常見ではないのかと思われる人もあるかと思います。

結論からいいますと、そうはなりません。

なぜならば、まず浄土に「生滅変化がない」というのは、救われる対象によって変化したり、また無くなったりしないという意味です。正信偈に「如衆水入海一味」とありますが、救われた世界は一味であって救われる対象によって違いはありません。また、浄土往生も「救われた人によって異なる」ということはありません。例えば、極悪人なら低い浄土で、善人や戒律を守った人は高い浄土と言うことは有りません。

阿弥陀仏の浄土は、私が考えるようなものではありません。無くなるということはありませんが、常に衆生済度に働いておられるので「変化がない」ということはありません。たとえば、どこかの大仏や絵像の仏のように動かない(変化がない)仏ではありません。

常に「AでなければB、BでなければC」と常に私を救う為に変化し続けるのが、南無阿弥陀仏です。その目的は変わらないという意味で「生滅変化なし」であります。

仮に南無阿弥陀仏(救う法)や、浄土往生が「生滅変化なし」だとすれば、その「消滅変化なし」の基準に合わない人は救われないことになってしまいます。しかし、それでは全ての人を救う本願にはなりません。

あからさまにいえば、私たち凡夫は阿弥陀仏に救って頂くことに対して、それほど感謝の気持ちも持ち合わせていないものです。それでも、阿弥陀仏は私を救って下さいます。それはまさに「種々に善巧方便」された結果であって、帽子に合わせて頭を削れと言われたものではありません。実態は、私に応じて南無阿弥陀仏が「変化」をされています。




そういう意味で南無阿弥陀仏は「変化」をされているという意味では「常見」ではありません。しかし、「すべての人を救う」という意味では「常住」です。この「常見」ではないけれども「常住」であるのというのが、wmさんの回答になるかと思います。

2017-07-04