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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-07-11

「端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。(wmさんのコメントより)

wm 2017/07/11 08:09

端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170425/1493108159#c1499728172

有の見(常見)については、浄土真宗辞典から引くと以下のように説明があります。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

じょうけん 常見

断見に対する語。有見ともいう。因縁によって生じるものは消滅変化して少しの間もとどまらないということをさとれず、自己と世界を常住不変と見て執着する見解。仏教において断見とともに、縁起の正理に背く邪見として退けられる。

常見というのは、上記にあるように、自分も世界も常に変わらないという考え方でそれは間違った考えであると仏教で言われているものです。


そこでお尋ねの、「常見と浄土往生は同じように思われます」について、以下書いていきます。

私が、このお尋ねの文章から考えたことは、「浄土は無常の世界ではないと聞いているから、それは常見ではないのか」と思われたのではないかということです。(間違っていたらご指摘下さい)


そこで、浄土は無常の世界ではない常住であるならば、それは常見ではないかということについて説明をしていきます。

まず、「常住」について、また浄土真宗辞典から引用します。

じょうじゅう 常住

無常に対する語。常ともいう。生滅変化なく、永久に存在すること。『涅槃経』では「如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ」(真仏土巻引文・註348)、「有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり」(化身土巻引文・註408)などといい、如来や涅槃の異名ともされる。

この文章を見ると「生滅変化なく」とあるので、これから浄土(往生)は常見ではないのかと思われる人もあるかと思います。

結論からいいますと、そうはなりません。

なぜならば、まず浄土に「生滅変化がない」というのは、救われる対象によって変化したり、また無くなったりしないという意味です。正信偈に「如衆水入海一味」とありますが、救われた世界は一味であって救われる対象によって違いはありません。また、浄土往生も「救われた人によって異なる」ということはありません。例えば、極悪人なら低い浄土で、善人や戒律を守った人は高い浄土と言うことは有りません。

阿弥陀仏の浄土は、私が考えるようなものではありません。無くなるということはありませんが、常に衆生済度に働いておられるので「変化がない」ということはありません。たとえば、どこかの大仏や絵像の仏のように動かない(変化がない)仏ではありません。

常に「AでなければB、BでなければC」と常に私を救う為に変化し続けるのが、南無阿弥陀仏です。その目的は変わらないという意味で「生滅変化なし」であります。

仮に南無阿弥陀仏(救う法)や、浄土往生が「生滅変化なし」だとすれば、その「消滅変化なし」の基準に合わない人は救われないことになってしまいます。しかし、それでは全ての人を救う本願にはなりません。

あからさまにいえば、私たち凡夫は阿弥陀仏に救って頂くことに対して、それほど感謝の気持ちも持ち合わせていないものです。それでも、阿弥陀仏は私を救って下さいます。それはまさに「種々に善巧方便」された結果であって、帽子に合わせて頭を削れと言われたものではありません。実態は、私に応じて南無阿弥陀仏が「変化」をされています。




そういう意味で南無阿弥陀仏は「変化」をされているという意味では「常見」ではありません。しかし、「すべての人を救う」という意味では「常住」です。この「常見」ではないけれども「常住」であるのというのが、wmさんの回答になるかと思います。