安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「極めてごく一部の人にしか恩恵がない法のようです。残念です。信心決定・獲得とか妙好人とか、悟りを拓いた人など、出あったことがありません。よほど感性が鋭い人でないと気づきは起らないものと思っています。800年経ってもこのありさまです。」(タケシさんのコメントより)

タケシ 2017/09/26 00:51
結局さっぱわかりません。
極めてごく一部の人にしか恩恵がない法のようです。残念です。
信心決定・獲得とか妙好人とか、悟りを拓いた人など、出あったことがありません。よほど感性が鋭い人でないと気づきは起らないものと思っています。
800年経ってもこのありさまです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170918/1505688465#c1506354703

タケシさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

少なくとも私が出会ったことのある範囲の話ですが、阿弥陀仏に救われた人と言うのは、特別に感性が鋭い人に限った話ではありません。いろんな方がおられますが、その「いろんな」というのは日常に出会う人の「いろんな」とそんなに変わらないというのが正直な印象です。人並みはずれた感性の鋭い人ばかりというイメージは、信心獲得したという人に出会われたことがないからではないかと思います。
阿弥陀仏の救いは、そのうような感性の鋭さといった個人の資質に影響されないところが有り難いところです。その点があるからこそ、私もそうですが、これまでに現れられた念仏者は人にも勧めてこられました。もし、個人の資質と救いが関係あるのならば、親鸞聖人は以下のようには言われません。

しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。(教行信証総序)
(現代語版)
このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも生きやすい近道なのである。釈尊が説かれた全ての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。

顕浄土真実教行証文類 (現代語版)

顕浄土真実教行証文類 (現代語版)


阿弥陀仏の救いは、「極く一部の人にしか恩恵がない法」ではありません。逆に、「自分のような者は恩恵がない法だと思っている人」の為の法なのです。自分にとっては関係のない救いと思えば、疑いも出てくるでしょうが、唯一つ阿弥陀仏がタケシさんが救われることを信じていることを知っておいて下さい、これは期待しているではなく、「必ず浄土に往生する」と疑い無く信じておられるということです。これは、世の中によくいう「自分を信じろ」ということではありません。そんな風に自分を信じられるのならば、多くの人はあらゆる場面で悩んだり苦しんだりしません。阿弥陀仏は、「自分を信じるな、私(阿弥陀仏)が大丈夫だと信じる自分(ここではタケシさん)を信じろ」と言われています。


そのように阿弥陀仏が「間違いなく私の浄土往生を信じられている」ことを聞いて疑い無いのが信心です。それには、特別鋭い感性も必要ありませんし、年齢も性別も関係ありません。それまでの人生経験も関係ありません。全く純粋に信じられる阿弥陀仏に対しては、私の疑いなどは最早意味のないものになり捨てるしかありません。


例えて言えば、猫が好きな人限定ですが、道端であるいは友人の紹介で生まれたばかりの子猫にであったとして、その子猫が「この人は自分を護ってくれるに違いない」と疑い無くまっすぐな目で見られたら、心が少しは動かないでしょうか。全ての人とはいいませんが、ある割合で子猫が信じた通りに「子猫を護る人」になる人はあると思います。では、その人は特別勝れた人だったのでしょうか?感性が鋭いと回りからも言われているような人だったのでしょうか?


その人を「子猫を護る人」にしたのは、「子猫が私を信じる心」ということになります。私の感性の鋭さではありません。


私が信じる信心ならば、いろいろな資質も必要でしょうが、阿弥陀仏が信じられているという信心は私の資質は必要ありません。
ただ今救う法を聞いて、ただ今救われて下さい。