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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-10-25

「阿弥陀仏の救いに私が入っていないような気がします」(頂いた質問)

何年も真宗のお話しを聞かせて頂いております。しかし、なかなか「阿弥陀仏に救われた」という心境にはいたっておりません。あれやこれやと考えていると、自分は阿弥陀仏の本願には入っていないのではないか。反対に、救われたと言っている人は、自分とは何かが違うのではないかと考えてしまいます。(頂いた質問)

何年も聞き続けても、何も変わらないと感じるとそのように思われる気持ちもよく分かります。

しかし、阿弥陀仏の救いに質問された貴方は必ず入っています。

それについて、理由を以下に書いていきます。

阿弥陀仏の本願は、そもそも私を救う為に建てられたものです。

そのことを曇鸞大師は浄土論註にこのように書かれています。

仏本(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。(浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P57)

https://goo.gl/i8hrmc

阿弥陀仏が、本願を起こし私を救おうとされたその理由は、私の姿をごらんになると、「ホント」ということが全くなく、しかもそれを際限なく続けて果てしがないことは、尺取り虫が同じところをグルグル回るようであり、蚕が自分の口から糸を吐いて繭をつくりそこから出られなくなるようなものでした。それをあわれに思われて、嘘偽りのない、二度と迷わない世界に生まれさようと思われてのことでした。

そうして建てられた本願でありますから、私が入らない道理はありません。

例えとして、阿弥陀仏を医者、私を病人として、その病気を治す薬を南無阿弥陀仏とするものがあります。これは昔から例えとして使われていますが、現代的に言いますと、私の病気というのは「ウイルス」による病気であり、南無阿弥陀仏は「ワクチン」ということになります。

ワクチンは、それが発見される以前の薬と違うところは、「(ウイルスよる)病気にしか効かないが、それには確実に効く」という点です。例えば、昔から日本にあり有名な薬として「ラッパのマークの正露丸」があります。

f:id:yamamoya:20171024153321p:image

その効能は多岐にわたります。

効 能

軟便、下痢、食あたり、水あたり、はき下し、くだり腹、消化不良による下痢、むし歯痛

https://www.seirogan.co.jp/products/seirogan/

お腹の不具合から、虫歯の痛みにまで効くというかなりの守備範囲を持っています。

それに対して、ウイルス性の病気に対するワクチンはどうでしょうか?

例えば、天然痘ワクチンは、天然痘にしか効きません。それも、発症する前に打たなければなりません。

阿弥陀仏の本願による救いは、このワクチンのように、いよいよ後生と踏み出す前に受け入れればそれによって生死を繰り返す結果を引き起こすことはありません。しかし、そのワクチンは「無窮に輪転する」ことからの救い以外に、特段病気にならなくなるとか、人間関係を修復してくれるものではありません。

ただ、今回大事なことは、ワクチンウイルスからつくられると言う点です。そのため、ワクチンは該当するウイルスにしか効き目がありません。天然痘ワクチンを打っても、むし歯痛には全く効きません。そのため、ウイルスには確実に効きます。

阿弥陀仏の本願は、私が感染するウイルスに対して生まれたワクチンですから、私に効かない筈はありません。もし、効かない人がいたらその人は、最初から「これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相」ではなかった人だということになります。もし、そんな人がいたら、特段後生の心配は必要ありません。もう迷わない人だということになります。

しかし、そうでないならば、その後生の心配も有る意味無用です。その私の「これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相」に対して、つくられたワクチンがあるからです。そのワクチンは、私を迷わせるウイルスからつくられたものですから、確実に効きます。

そのワクチンこそ、南無阿弥陀仏であり、その南無阿弥陀仏を成就した本願のあらわれです。

現在後生が不安な人、自分は一体なんなのかと思いつつ生きている人に、阿弥陀仏の本願は建てられています。ただ今救う本願にただ今救われて下さい。

2017-10-22

2017-10-17

「もう救われる方法にこだわるのは辞めよう。「私を救ってくれる」「どんなときも見捨てないでいてくれる」そんな存在がいると言うだけで充分じゃないか。そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中は空っぽになります。(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2017/09/27 21:05

有難うございます。

しかし、もう救われる方法にこだわるのは辞めよう。「私を救ってくれる」「どんなときも見捨てないでいてくれる」そんな存在がいると言うだけで充分じゃないか。

そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中は空っぽになります。

阿弥陀佛の大悲を全く感じることが出来ません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170926/1506410986#c1506513907

みそみそさんの言われることもよく分かります。

阿弥陀仏の大悲を全く感じることが出来ません」というのは、現在または過去に感じたことのない何かをもって「阿弥陀仏の大悲」と思われているのではないかと思います。私もかつてはそのように思っていました。

しかし、振り返ってみると、阿弥陀仏の大悲というのは救われる前からすでに私に降り注いでいたものだったのだというのが、後から思うことです。人によっては「そんなの分かる訳ないやん」というものかも知れません。

今まで当たり前に見てきたことが、そういわれて見れば阿弥陀仏の大慈悲であったのかと言うのが実際です。

みそみそさんが「心の中が空っぼになります」と言われるのは、ご自身が想像しているところの「今まで見たこともないなにか」にあえないからなのだと思います。


しかし、考えて見ると私が日ごろ接しているいろいろなもののなかで「あって当然」なものは何もありません。それでも、私は最初からあるものに関しては、忘れてしまいます。例えばこの記事を読んでいる瞬間にも呼吸をしている「空気」もあって当たり前になると、その存在は忘れてしまい(または始めから認識しないまま終わり)ます。


例えば、「親」がいる人は「親がいる」ことに「有り難い」と思う人は多くはないかもしれません。また、子供のいる人にしてみれば「子供が生きている。成長している」ことに「有り難い」と思う人は大多数ではないかもしれません。そのいづれも、現在起きているいろいろなことを「当たり前」と思っているからではないかと思います。しかし、それらの目の前にあるものは、ある時に無くなってしまうものばかりです。そういうことからすれば、目の前にあるさまざまなものがあるということは一般的な言葉で言えば奇跡としかいいようがありません。

阿弥陀仏の本願のお働きに関しては、その通りと疑い無く聞き入れるか入れないかの違いはあっても、常に私に働いておられるものです。南無阿弥陀仏の念仏も、すでに称え聞いておられると思います。ただ、その南無阿弥陀仏が「往生の業」と聞いてもそうとは思えない、疑っているだけです。

ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。(親鸞聖人 御消息23 末灯鈔9)

「とかく御はからひあるべからず」と言われています。あれこれと疑うのも計らいですが、「きっとこんなことが実感されるようになるだろう」「今まであったこともないものにあえるのだろう」というのも計らいです。

今まで聞いてこられた阿弥陀仏の救いや仏願の生起本末も、「こういうものだろう」という計らいはあると思います。しかし、そういうはからいは必要ありません。ただ今救う法をただ今救う法と聞いて下さい。

2017-10-06