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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-11-13

「救われないまま死んでしまったら、今まで聞いてきたことは無意味になってしまうのでしょうか?だとしたら私が仏教に出会ったことに何の意味があるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2017/11/06 17:54

結局救われなかったものは何処へ行くのでしょうか?

救われないまま死んでしまったら、今まで聞いてきたことは無意味になってしまうのでしょうか?

だとしたら私が仏教に出会ったことに何の意味があるのでしょうか?

何をどう考えても私には助かる縁手掛かりがあるようには思えません。

阿弥陀仏の本願を聞いてもただの「お話し」としか受け取れません。信心と呼ばれるものが欠片ほども沸き起こって来ません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171025/1508873398#c1509958493

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

エントリーにするのが遅くなり申し訳ございませんでした。

コメント欄に短く書いたので、それに付け加える形で書いていきます。

最初の、「結局救われなかったものは何処へ行くのでしょうか?」については、生死を離れることが出来ないので、浄土往生はできません。いわゆる生死の世界のどこかにまた生まれていくことになります。

次の

「救われないまま死んでしまったら、今まで聞いてきたことは無意味になってしまうのでしょうか?

だとしたら私が仏教に出会ったことに何の意味があるのでしょうか?」

については、意味があるとかないということについては、そういう話ではないというのが答えになります。

今仏法を聞いていることに意味があるとか、ないという話になると、それは救いにとってより有利になるかならないかという問題になってしまいます。今日の私たちの使う言葉で「それって何か意味有るんですか?」「それでは無意味ですね」という時の「意味」というのは「メリット」という意味合いで使われることが多いかと思います。恐らくみそみそさんもそういう意味合いで使われているのではないかと思います。別の言い方をすると、最近よく使われる言い方では「コスパがいい」「コスパが悪い」という感じでしょうか。コスパとは、コストパフォーマンスのことで自分の労力などの投資に対してどれだけリターンがあるかということです。


私が受験生だったころにも、言葉こそないものこのような考えたかは普通になっていました。いかに少ない勉強時間で最大限の効果をあげるのかとみな考えていました。それが大学に行くと、いかに少ない労力で単位を取得するかを多くの学生は考えていました。ですから、出席しなくても単位に影響しない授業に真面目に全部出席するのは「コスパが悪い」ということで、授業の履修者に対して、出席率が非常に低かったことを覚えています。そのように、全てのことを限られた労力に対してどれだけ多くのリターンを獲られるのかということは、今では多くの人が考えている考えだと思います。

しかし、この考え方は大学教育の場ではなじまないと教育現場の方はよくいわれます。なぜなら大学とは文字通り「学ぶ」ところであって「単位取得」「大学卒業証明書」をただ受け取る場ではないからです。それにも関わらず、「単位取得」「大学卒業」が目的化すると、コスパを重要視した結果、いかに授業に出ずに、いかに勉強せずに単位取得をするか、またそうする人の方がスマートなやり方だと考えるようになってしまいます。私が学生時代のころは今ほど就職が厳しくなかったので、いかに「単位取得」するかだけが問題でしたが、今日は就職が厳しいので「いかに就職に有利かどうか」が目的で、同様に授業にどれだけ出るかというコスパを考えて行動する学生が多いとのことです。


同じく、この「コスパ」という考えがあわないのが浄土真宗の救いであり、聞法です。なぜならば、私の労

力が救いとそもそも関係ないからです。いわば私が救われるにあたって私は何も投資をしないので、「投資にみあった救い」というものが存在しません。


ですから、これだけ助かるのに善いだろうと思ってやったことも、往生の手助けともならず、助かるのに不利になるだろうと思っていることも、往生の妨げにはなりません。

口伝鈔にはこのようにあります。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ(口伝鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P878)

https://goo.gl/wLYRh2

お尋ねの内容からすると、救われる為にと思っていままで聞いてこられたことは無意味にはなりません。しかし、足しにもならないということです。

何をどう考えても私には助かる縁手掛かりがあるようには思えません。(みそみそさんのコメントより)

とのことですが、私の方には何も手掛かりは元々ありません。阿弥陀仏の本願は、そういう手掛かりがないものの為に建てられているのですから、私の方を探しても何も出てきません。なぜなら、ないものはどれだけ探してもないからです。

阿弥陀仏の本願は、ただのお話しとしか聞けないとのことですが、必ず助ける本願ですから必ず助かるということがあります。

ただ今南無阿弥陀仏を聞いてただ今救われて下さい。

RCRC 2017/11/13 22:00 みそみそさま。

山も山さまが、おっしゃっているように、救われる手掛かりのない者だから、どんな者も救う南無阿弥陀仏があるのです。
そして 「お前は 救われる手掛かりのない者」と 知らせているのが南無阿弥陀仏のおはたらき 、そのものだと思います。
光が 届いているから、影が見えるのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきが届いているから、救われる手掛かりのないことが、知らされているのです。
救われる者になって 救われるのではなくて、救われる手掛かりのない者のまま救うのが 南無阿弥陀仏です。
「南無阿弥陀仏」は、「あなたをそのまま救う。あなたを必ず仏にする。」という 阿弥陀さまからの メッセージです。
皆んな、救われる出掛かりのない者です。でも、みそみそさまも、私も、南無阿弥陀仏をお聞きすることが、できました。
本当に、有り難いことです。
南無阿弥陀仏が、往生の証拠です。

淳心房淳心房 2017/11/13 22:54 救われる手掛かりがないから、どうにかしようとしているその手を放して阿弥陀さまにまるまるおまかせして下さい。「安心してまかせよ、助ける」と仰せなんだから、仰せの通り安心しておまかせして下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

淳心房淳心房 2017/11/13 22:54 救われる手掛かりがないから、どうにかしようとしているその手を放して阿弥陀さまにまるまるおまかせして下さい。「安心してまかせよ、助ける」と仰せなんだから、仰せの通り安心しておまかせして下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

はあはあ 2017/11/14 06:37 仏法の話とは関係ないですが、偏差値偏重詰め込み学歴社会でみんな要領やコスパばかり考えて打算的になり既成のメリットや数字が目的になる人間が増えた結果日本の色々なものが凋落してしまったと思います。
音楽ではCDミリオン連発ということで沸いていたが心に残る歌はとても少ない。
テレビ番組では視聴率なんて昔は業界人だけが考えていたのに最近では視聴者までもが取り沙汰するようになった。
コスパを求めるために中国に行って作らせてたら全部持っていかれて逆転され脅威になるようになってしまった。
行動が金を生むんでなくて金がないと何もできないという思考になってしまった。
企業は内部留保を溜めまくって金を流さず滞留させがちに。
そんなこんなでデフレ不況は全く解消する見込みすらない。
もう2、30年ずっと成長率が0。

あの頃は周囲の学生を見回しながらこんな連中ばかりで日本の将来は大丈夫なんかと常日頃眉をひそめながら危惧していました。
残念ながら思った通りになってしまった。
平成というネーミングも悪かった。
もっと厳つい文字を期待していたのに平易な小学生低学年で習う文字でガッカリした人は多かった。
楽に楽にという甘えがあった気がします。
楽を求めて苦を得る。もう終わる平成の歴史はそんな時代だったようです。

でんでん 2017/11/14 09:16 少し理屈っぽくなりますが、
来世に於いて、仏縁に遭えなかったとして、
悔やむことがあるでしょうか。
疑問に思います。
ならば、来世の心配など無用なのでは?

セリセリ 2017/11/16 19:27 「救われる」とはどういうことですか?
阿弥陀様から信心をいただくことですか?
南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?

RCRC 2017/11/17 09:21 仏教で 目指す救いは、「成仏」です。
阿弥陀仏は、「私の臨終の時に、私を お浄土に生まれさせ、仏にするという本願」を建てて その本願が、成就しています。
ですから、「 私を仏にする仏 」が今 おられるて、私たちは、そのおはたらきの中にいるのです。
でも、おはたらきは、目に見えません。だから
阿弥陀仏は 「 南無阿弥陀仏 」という「言葉の仏さま」に なられて、私の口から お出ましくださり
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、安心していいんだよ。お前は、必ず 仏になるのだよ。お前の還るところは、私の浄土だよ。」と喚んでくだっているのです。
このことを知ったら、安心 でしょ。

その 安心 を 信心 と呼ぶのです。

「 南無阿弥陀仏 」という6字は、法蔵菩薩が、「すべての者を仏にできなければ、私は仏にならない」と誓いを建てて、ご修行されて、ご修行が完成して 「私を 仏にする仏になったお姿」です。だから、「南無阿弥陀仏」と聞こえたら、阿弥陀さまが、「 私が お前を仏にするよ。お前は 仏になる者なのだよ。」と おっしゃっているのが聞こえているっていうことです。
私口から出ている「南無阿弥陀仏」は、「私を救う仏さま」そのものです。

私に気づかせるために、「声の仏さま」になってくださったのです。

煩悩具足で、痛ましい日々を送るばかりの私なのに、仏になる者だとは・・・❗
それは、本当に 有り難く幸せなことでは、ないですか?
それが「救われる」ってことです。

南無阿弥陀仏

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