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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-11-19

「「救われる」とはどういうことですか?阿弥陀様から信心をいただくことですか?南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?」(セリさんのコメントより)

セリ 2017/11/16 19:27

「救われる」とはどういうことですか?

阿弥陀様から信心をいただくことですか?

南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171113/1510556193#c1510828055

エントリーが遅くなりすみませんでした。

「救われる」とは、RCさんがコメントに書かれてますが、「成仏」です。そして、生きている間は浄土に往生することに定まった身になることをいいます。

信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことですから、信心というなにか「モノ」を頂くことではありません。

そこで南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の本願が成就したものなので、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことをまた、信心といいます。

その意味で、南無阿弥陀仏を称え聞いても疑いがある人は生死流転します。

ただ、お尋ねの趣旨からすると「南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者」と言われていますが、阿弥陀仏に救われた人と言っても何か智慧が勝れるような人になるものではありません。南無阿弥陀仏が、私を助ける本願そのままであると聞き入れるだけであるので、病気がなおったことに例えられます。といいますのは、私たちは病気にかかって、その病気が医者や薬の力で治ったとしても、ただ「病気がなおった」だけであって外は何もかわりません。病気が治った刹那に病気についての専門的知見が身に付くということもありませんし、なぜ治ったのかという医学的な背景が突然理解出来るということもありません。

ここでいう病気が治ったというのは、生死流転するという病が治り、往生浄土が定まり仏になることをいいます。この南無阿弥陀仏で、生死を続ける病が治ったということは疑い無く聞き入れても、それ以外は何も分かりません。

ただこの南無阿弥陀仏が私を救う法だとただ今聞いていることを信心といいます。

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