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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-12-03

「自分の心に振り回されてばかりで疲れてしまいました。そんな時にお念仏しようってふと思い出します。でも何もわからないので最初に「南無阿弥陀仏と称えても何もわからない」と質問させてもらいました。」(セリさんのコメントより)

セリさんのコメントについて、多くの方からコメントを頂きました。有り難うございました。

ここ最近風邪を引いておりエントリーを書いておりませんでした。ようやく治ってきましたので、今回エントリーに書きます。

セリ 2017/12/02 01:00

(略)

自分の心に振り回されてばかりで疲れてしまいました。

そんな時にお念仏しようってふと思い出します。

でも何もわからないので最初に「南無阿弥陀仏と称えても何もわからない」と質問させてもらいました。

(略)

皆さんが異次元のことを話しているようにしか聞こえなくて苦手です。

何を言われても全然わからないからです。

以前、ある先生に同じような質問をしたら、

まだまだだね。と回答されたのですが、

初めて決死の覚悟で聞いたのでそれから質問できなくなってしまって。

だからこうして文章で質問させてもらって、見返したりできてとても有難く思っています。

お念仏のことだけお話できる場はあまりないと思います。

くださったコメントを受けて、苦しいと感じることもあります。

でも自分と同じように苦しんだ人もいるんだ、と共感したりもします。

なんと言ったらいいかわからないですが

このような場所があってよかったです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171119/1511037595#c1512144048

セリさんは、これまでのコメントの文面からすると大変生真面目な面のある方なのかなと思います。

このブログは、管理人がある意味適当なので何を書いて頂いても問題はありませんので、書きたいことを書いて頂ければいいと思います。

ここからは、私が座談会などで感じることを一つ書きます。

それは、信心の沙汰や座談会をしていますと、中には面接試験や口頭試験を受けているような気持ちになっておられる方がいますが、そういうものではないということです。なぜなら、信心というのは定義から言えば「仏願の生起本末をききて疑心あることなし」「弥陀をたのむ」ことであって、それ以上の「表現」や「感じたこと」については「人それぞれ」なので「正解」というものはありません。


とかく「私はこう感じるのですが……どうでしょうか?(正解ですか)」みたいな話はよく聞きます。

しかし、そこで「正解!」と私が言ったところで、それで相済みの信心なら知識帰命の異安心になってしまいます。その意味で、信心というのは、阿弥陀仏の本願に疑いなければ、なんだっていいのです。本願まことと聞き入れるところには、「こうでなければならない」というものはありません。いうなれば「信心警察」の出番はないのです。


もちろんこう言うと、「そんなことでは駄目ですよ」という方もあり、その意見もよくわかります。もちろん異安心を赦すような言い方は慎まねばなりません。しかし、長い真宗の歴史を振り返ると、異安心騒動などを乗り越えるごとに「信心の定義を厳格にせねば」とするあまり、なにか信心とか救いが市井の人々にとって何か遠いものになり、それこそセリさんのいわれる「異次元のこと」のようになってしまっては、かえって人々を阿弥陀仏の救いから遠ざけることになっているのではないかと思います。こういう私も、日常は個人商店で生鮮食品を販売し、あれやこれやと日を過ごしております。ご縁があればあちらこちらに出掛けて話をしておりますが、そこで感じることは、信心とか救いというのは私の日常を離れたものではないということです。


阿弥陀仏の本願力は、早朝市場に出掛けるときや、日中仕事をしているとき、夕方日が暮れたと思う時、そんな時にも常に私に働いて下さっているものです。一日過ごしていて「ふっ」と何かを考えたり、別のことを考える時はないでしょうか?その時に、南無阿弥陀仏は私に働いて下さっているのです。いわゆる「こんなところにいるはずもないのに」という所におられます。一例を挙げると、私は、早朝車を走らせている時、夜明けに西に沈む月を見る時は南無阿弥陀仏の光と思って有り難く思っています。


でも、考えて見ればそのとき「何かを感じているか」といえば、何も感じてはいません。いわゆる「異次元のなにか」を感じてはいません。いってみれば、南無阿弥陀仏がましますという以外にはなにもありません。それをあれこれ「評価」したり「期待」しないのが、「疑心あることなし」ということです。


本願力にすでにセリさんもあっておられます。しかし、それを評価しないことです。評価とは、すなわちあれやこれやという疑いになってしまい、本願力が働かなくなってしまいます。

(13)

本願力にあひぬれば

 むなしくすぐるひとぞなき

 功徳の宝海みちみちて

 煩悩の濁水へだてなし

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版高僧和讃P580)

https://goo.gl/Z849TJ

本願力にあう人は必ず救われます。