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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-02-03

「長く仏法聴聞しておりますが、いまだに後生に驚きが立ちません。どうすれば救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

「長く仏法聴聞しておりますが、いまだに後生に驚きが立ちません。どうすれば救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

このように後生に驚きが高まると救われるが近い、または後生に驚きが立たないと救われないと思っている人がいます。その意見については、私も以前はそのように考えていた時期がありましたので、お気持ちはよくわかります。


結論から申しますと、そのようなことはありません。このエントリーを読まれている方で「後生に驚きが立っていない」状態でもただ今救うのが、阿弥陀仏の本願力です。


ではなぜそのように考えてしまうのかについて少し考えてみたいと思います。

まず、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、ただ今現在救われないといけないことになります。


しかし、ただ今救われると聞くと、何かものすごい変化が起きるような気がして、その前に1つステップがあるはずだと勝手に考えてしまいます。ちょうど花が咲くのにはタネから芽が出て葉が茂り、大きくなってつぼみができてやっと花開きます。そのようなものを想像してしまいます。以前お会いした方の中には「蓮の花が開くのはポンと開いて時間がかからないでしょうが、そこまで茎や葉が伸びるのには時間がかかるではないですか!」と言われた方もありました。


信心という花か開くには、つぼみの状態や、そろそろ開きそうだという状態になるはずだと考える人があるのは、有る意味自然な発想だと思います。ところが、そうなると今の今までそれこそ何年も話を聞いたり求めてきたのに、ある日突然何の前触れもなく救われると心に決めて、阿弥陀仏の救いの喚び声に対して耳に蓋をしてしまいます。


以前の私はまさにそのような考えで、それこそ棚からぼたもちのようにある日突然救われるなんておかしいと考えていました。


そこで、参考にするのは過去の妙好人と言われる人たちや、いろんな人の獲信体験です。当時私は救われる前になると後生が苦になって夜も眠れないようになってくると言う話を聞いていて、また後生が苦になったら赤飯を炊いて喜ばねばならないのも聞いたことがあります。実際に、後生が苦になって夜も眠れないという人もありますし、そういう人に会ったことがあります。


その頃の私は、そのような夜も眠れなくなる体験もなかったので、これは真剣に求めていないからだとに考えていました。そのため、真剣に求めていけばいつかそのような切羽詰まった心境になるのならと考えています。しかし実際はそうではありません。阿弥陀仏の救いを聞き、言われるにはそのような前段階のステップを踏む必要はなかったのです。


御文章には、そのような造作はいらないのだということを「なにのやうもなく(何の造作もなく、はからいなく)」と言われています。

それ、在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。(御文章5帖目3通 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1190)

https://goo.gl/g5Bj7P

この御文章を御覧になるとわかりますが、「なにのやうもなく」であって、「後生に驚きが立った人限定」ではありません。その証拠に、この御文章の相手は「在家の尼女房」です。今日でも、当時でも家庭をもった女性は忙しいのです。気がつけば一日終わっていたというのは、実生活の感覚としてよくあるものだと思います。


そんな人が救われるということを、言われているのが上記の御文章です。

ただ、「一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへ」とする一つです。阿弥陀仏のただ今助けるの仰せをそのまま聞き入れる一つです。


「後生に驚きが立つ」ステップを踏まなければならないと言う私の考えもいらないということです。


このような考えになってしまうのは、阿弥陀仏の救いを「私個人のこと」とするものなのですが「全人類」に普遍化してしまうところから来る勘違いだと思います。阿弥陀仏の救いは「ただ今」ですが、それは「あなた」を救うのであって、まったく仏教を聞いたこともない人が、ある日突然救われるという話ではありません。

こういうと、「じゃあそんな人は助けないのか」という方もあるかもしれませんが、そういう人は阿弥陀仏の本願の鑑査員なのでしょうか?阿弥陀仏が本願通りにちゃんと働いているかを検査してるのでしょうか?


少し前の国会の森友学園問題で出てきたのが、第三者機関会計検査院です。会計検査院は、あくまで第三者として国有地の売買が適正に行われたかを検査する期間であって当事者ではありません。


このように会計検査院のような心で、阿弥陀仏の本願を精査しているのが、いわゆる「はからい」と言われるものですが、言い替えるならば「当事者性が抜け落ちている」ということになります。阿弥陀仏は「お前を救う」と名指しされているのに対して「他の人はどうなの?」としているところに、「後生に驚きが立たないと救われない」論が出てくる元があります。


阿弥陀仏が「ただ今救う」と言われているのに「後生に驚きが立ってないので、少し待って下さい」という人がいると考えるとおかしくないでしょうか?そういう状態が、「後生に驚きが立たないと救われない」論の人です。

そんな考えは、横に置いてただ今救われて下さい。

みそみそみそみそ 2018/02/07 00:57 一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせてとありますが私にはそんな心が微塵の起こってきません。そんな私は助からないのでしょうか?

yamamoyayamamoya 2018/02/07 04:17 助かります。また、エントリーに書きます。

YGMYGM 2018/02/07 10:31 「一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」

そんな心が微塵もないということはないと思いますが、
“ふかく”ということは、
今ちょこっと思ったとか、何時間かその想いが継続したとか、朝起きて眠るまでずっとたのんでいたとか、そういう程度ではありません。
法縁にあって有難く思っているときも、なんとも思わないときも、寝ているときも、
阿弥陀さまの願いに満たされて過ごしているわけです。お慈悲に安心していることも忘れて生活していますが、こころの深いところで安心を与えられているのです。
 
 家を施錠して外出しているとき、常に鍵をかけたことを思い出しながら外出してはいません。一旦施錠したら、忘れてはいますが施錠したことに安心して外出しているのです。
安心していることにも気づかず他事をしていますが、そういう安心のなか外出しているようなものです。

 なんとも思わない自分のこころをみて、助かるとか助からないとかを思うべきでありません。阿弥陀さまが私にかけている願いに注目してください。

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