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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-02-13

「そもそも質問なのですが、他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?私はそう理解しているのですが、皆さんは無条件の救いとおっしゃいます。どっちなんですかか?」(みそみそさんのコメント)

前回のエントリーについて、複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそさんからの質問について書きます。

みそみそ 2018/02/12 22:45

そもそも質問なのですが、他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?

私はそう理解しているのですが、皆さんは無条件の救いとおっしゃいます。どっちなんですかか?

私は今他力の信心という荒唐無稽な雲をつかむようなモノを得ようと必死になっています。

信心と念仏があって救われるのですか?それとも念仏さえ称えていれば無条件で往生できるのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180211/1518295501#c1518443113

この件に関しては、私もブログで種々書いてきたので改めて書きます。

みそみそさんの言われる

他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?

についてはその通りです。


しかし、「他力の信心」と「念仏」は別物で二つあるという理解は間違いです。言葉上、「他力の信心」と「念仏」は独立した二つのように見えますが、この二つは決して分けることが出来ません。


念仏は、南無阿弥陀仏であり、阿弥陀仏の本願成就の法そのものです。その南無阿弥陀仏を口で称することを念仏といいます。

次に、他力の信心は「念仏するものを救う本願に疑い無いこと」をいいます。ですから、信心といってもそれは「モノ」ではありません。言い替えますと、「疑い無い状態」とも言えますし「関係」のことです。


信心とは、「モノ」ではなく「関係」だというのは、少々わかりにくいかもしれませんので、例えていいます。

例えば、「友人」というのは、特定の個人というよりは、「友人関係」という間柄に存在する言葉です。Aさんは私の友人ですといったところで、ではAさんの髪の毛が友人なのでしょうか?Aさんの顔が友人なのでしょうか?そういうことはありません。Aさんと私の「関係」が「友人関係」であるときを指して、Aさんは友人ですといいます。


友人と言えば、仏様は私にとっては「不請の友」といわれます。

もろもろの庶類のために不請の友となる。(大無量寿経 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P7)

(註釈)衆生が請願しなくとも、衆生のために大いなる慈しみをもってその親友となる人。


親友となる仏様といっても、それは私との「関係」です。親友になったとたんに、仏様が凡夫になるということではありませし、私が仏になることもありません。


繰り返しになりますが、信心とは「モノ」ではなく「念仏するものを救う本願」と私の「関係」が「疑い無い」関係になったことをいいます。先ほどの例えで言えば、Aさんと私が友達になったと言っても、Aさんが何か変わる訳でもなく、私が何か変わる訳でもありません。ただ、Aさんと私の間柄が、友人という「関係」になったということです。


これを真宗のことでいうと、救われても南無阿弥陀仏は全く変わりませんし、私も変わりません。ただ、南無阿弥陀仏と私の関係が変わっただけなのです。ですから、信心といってもその「関係」のことを指している名前なので、私の方に何か「モノ」があるわけではありません。ただ、南無阿弥陀仏と私があるだけです。そしてその関係は、 「疑い無い」関係です。


お尋ねのように、念仏を称えている行為だけで浄土往生はできません。信心を伴わねばなりませんが、その信心とは先ほど書きましたように、「念仏するものを救う本願と聞いて疑い無い状態」です。言い換えれば、救われたのを信心といいます。信心を獲てから救われるのではありません。


例えば、「念仏はそのとおりと聞き受けました。それで他力の信心はどこでしょうか?」ということはないということです。なぜなら「念仏はそのとおりと聞き受けました」のが信心ですから、それ以外に信心はありません。ですから探しても他にはありません。


また、無条件の救いに関しては、その「念仏するものを救う本願に疑い無いこと」になるのに、知識や努力や神秘体験などの条件がないということです。


念仏を信じる一つで救われるというのが、お尋ねに対する答えになります。

その他力の信心は、あくまで阿弥陀仏に救われたことであり、「念仏に疑い無い関係」になったことをいいます。


ただ今救われて下さいというのも、ただ今信心を獲て下さいということであって、ただ今信心を獲てそれから救われて下さいということではありません。