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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-02-18

「では『念仏に疑いのない関係』になるためにはどうしたら良いですか?

」(みそみそさんのコメントより)

前回のエントリー

「そもそも質問なのですが、他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?私はそう理解しているのですが、皆さんは無条件の救いとおっしゃいます。どっちなんですかか?」(みそみそさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

について、みそみそさんよりコメントを頂きました。また、他の方からもコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2018/02/15 22:44

では「念仏に疑いのない関係」になるためにはどうしたら良いですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180213/1518514819#c1518702258

それについては、前回のエントリーで書きましたように、「関係」という方面から書いてみます。

仏様は私にとって不請の友であることを前回書きました。

友達といっても、友の「関係」であると書きました。その関係が、どうして出来たかといえば、阿弥陀仏から「お前は友達だ」と言ってくるのに対して、私が「そうですね」と言ったところで成り立ちます。


友達になった証拠と言うものは特に何もありません。例えば、何か神秘体験をしたから友達になったということはありませんし、私が何かをしたことによって友達になったと言うこともありません。何かをしたことの見返りとして友達になったと言うことであればそれは不請の友ではなく、取引相手と言うことになります。


阿弥陀仏と私の関係で言うと、私の方から阿弥陀仏に向かって友達になってくださいとお願いして友達になるのではありません。阿弥陀仏の方も何かしたからそれに免じて友達になってくれると言う事でもありません。


同じように、念仏に疑いのない関係と言うのは、阿弥陀仏の方から働いて下さる南無阿弥陀仏を、南無阿弥陀仏と念仏申すところに、私がその通りと頷くところに成り立ちます。


また、阿弥陀仏という「どこかにおられる仏様」を想像すると、何かの神話のなかの作り話のように思えると思います。

そのため、阿弥陀仏が救うと言っても具体的な理由がわからないところが疑いになっているのだと思いますが、その理由について仏願の生起本末が説かれているのですが、それも信じられないということで質問を書かれていると思います。


しかし、南無阿弥陀仏と私は実際に口に称え、耳に聞いております。この南無阿弥陀仏は、私というものなしには存在しないものなのです。


それについて、少し見方を変えてみます、先程の友達の話でいいますと「友達」と言う人間は世の中にはいません。例えばAさんが私の友達だといっても、Aさんの顔が友達なのでもAさんの髪が友達ということはありません。そういう意味で友達というのは関係性のところでいいます。ですから、Aさんという人は、私がいてもいなくても存在しますが、「私にとっての友達という関係」は私がいなければ、存在しないものです。


同じように阿弥陀仏と言う仏は、私を救うために本願を建てられた結果あらわれられた仏なので、「私を救う」関係において存在する仏様なんです。私がいてもいなくても存在する仏様ではありません。


ですから、南無阿弥陀仏も、単独で存在するものではありません。阿弥陀仏が私を救うと言う関係で成り立つものですから、南無阿弥陀仏に疑い無い状態には、阿弥陀仏のお前を救うお働きと言う関係が成り立っています。

阿弥陀仏も、南無阿弥陀仏も私なしには存在しません。私を救うということろの関係についての名前ですから、その関係そのもののことだと聞いて見ると、「念仏に疑い無い関係になる方法」は存在しません。

(82)

十方微塵世界の

  念仏の衆生をみそなはし

 摂取してすてざれば

 阿弥陀となづけたてまつる

(浄土和讃)

南無阿弥陀仏は、「摂取してすてない|という阿弥陀仏と私の関係をいわれたものです。「摂取して捨てない」は、すでにある関係なので、「関係に疑い無い関係になる方法は?」という問いは成立しません。「摂取して捨てない」南無阿弥陀仏を称え聞いたところに、疑い無いのが「摂取して捨てない救い」にあった信心です。

夕顔夕顔 2018/02/18 21:15 この方は、六字の名号の意味を既に言葉では、知っておられるんじゃないかしら。
南無の意味も、阿弥陀仏の4字の意味も。

みそみそみそみそ 2018/02/18 23:16 夕顔樣
はい。言葉の意味では六字の名号を常々聞かせて頂いております。
ただ聞けば聞くほど、私の心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいになり、阿弥陀様からはるか彼方に心は離れていってしまいます。

雑な例えで言うなれば、私には育ての親とは別に、生まれてすぐに他界した生みの親が居たとして、
ある日突然その事実を育ての親から告げられ、
「これから辛い時、悲しいときがあったとき、その親の名を称えなさい。今はもう、『名前』と言うかたちでしか、影も形も存在していないけど、
その人は誰よりもお前を愛し、お前の幸せを願っていた。そしてその思いはあの世の影から、守護霊みたいな形でお前の直ぐ側で今もお前を愛し、支えてくれているから。」
「だからこれからの人生、なんにも心配すんな。後生のことも心配すんな。」

そんなことを言われたって・・・だいたいそんな心境です。

rr 2018/02/19 22:17 みそみそ様

>ただ聞けば聞くほど、私の心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいになり、阿弥陀様からはるか彼方に心は離れていってしまいます。

このような感情は、阿弥陀仏の救いのさまたげにはなりません。問題ありません。


>そんなことを言われたって・・・

この「・・・」は、どんなお気持ちですか? たとえば「そんなことを言われたって、信じらないよ」という感じでしょうか。

RCRC 2018/02/20 11:27 みそさま。
みそみそさまの「たとえ」で 言うと、みそみそさまが 聞き違えているところは、「南無阿弥陀仏」を、ただのお名前、ただの言葉と 受け止めているところです。

「南無阿弥陀仏」は、ただの名前、言葉では、ありません。
阿弥陀さまが、私を「私たちを 必ず仏にする」と おはたらきくださっているお姿が、南無阿弥陀仏です。

私たちは、南無阿弥陀仏のおはたらきの中にいます。
けれど、「南無阿弥陀仏のおはたらき」があっても、私たちが 知ることが出来なければ、私たちの救いになりません。
私たちは、どうやって、その はたらきを知るのというと、「南無阿弥陀仏」の名号です。
阿弥陀さまは、17願を建てて 、諸仏に「南無阿弥陀仏」を褒め称えさせると誓われ、その17願が成就したので、お釈迦さまが、無量寿経のご説法をしてくださいました。
お釈迦さまは、無量寿経のご説法で、私たちに 南無阿弥陀仏のいわれ、南無阿弥陀仏の意味、南無阿弥陀仏の価値を 教えてくださいました。

法蔵菩薩であった阿弥陀仏が、「私が仏になったならば、私は 『南無阿弥陀仏』となって、はたらく。その 南無阿弥陀仏 を すべて諸仏に褒め称えさせてみせる、と 誓われて、そのお誓いが完成したお姿が、「 南無阿弥陀仏 」の名号です。「南無阿弥陀仏」の名号は、」私を仏にする仏さま」、そのものです。

そして、「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀さまから私へのメッセージでもあります。
「お前を、必ず 仏にするよ。安心して生きて、安心して死んでいけるよ。お前のために、お浄土を完成して、必ずそこに連れて行くよ」と、いう呼びかけの言葉 です。
阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」の言葉になって、私のところに来てくださっています。

私の口から出る お念仏は 、阿弥陀さまからの 「お前の 成仏は、私が引き受けた。お前のはからいは、いらないよ。私にまかせておくれ。安心しておくれ。」という 阿弥陀さまの大慈悲が 出ているのです。

称名の「称」の字を、親鸞聖人は、「秤(ばかり)」と同じとおっしゃって、「しょうみょう」には、「唱」の字は、一度も使っておられないそうです。
「秤(ばかり)」は、100gの重り乗せれば、100gと出ます。200gの重りを乗せれば、200gと出ます。
つまり、「称名(お念仏)」とは、私に届いている 南無阿弥陀仏が、そのまま 私の口から出てくださっているお姿です。
「南無阿弥陀仏のおはたらき」が、届いているから、私の口から 南無阿弥陀仏と お念仏が出てくださるのです。
秤に、100gの重りが乗って、100gと出るように、私に「南無阿弥陀仏」のおはたらきが 届いてくださっているから、「南無阿弥陀仏」と、お念仏が出てくださるのです。

「南無阿弥陀仏のおはたらき」を知る知恵のない私に、「今、ここで、南無阿弥陀仏がはたらいているぞ!」と お示しくださり、証拠になってくださっているのが、名号です。

「そういう 南無阿弥陀仏である。」と お聞きすることが、真宗の聴聞です。

そして、南無阿弥陀仏の意味、価値、尊さをお聞きしたことを、信心と言います。
「 聞 即 信 」ですから。

春が来たら、梅や桜が咲きます。
春は、はたらきだから、「春」そのものは、見ることは、できません。
見えない春が、来たことを、私たちは、梅や、桜が咲いたことで知ります。

同じように、
「南無阿弥陀仏」は、おはたらきなので見えません。
その おはたらきを 私たちが、どうやって知るのかと言えば、
お同行の口から 、また、私の口から 「南無阿弥陀仏」と 出てくださるお念仏で、
南無阿弥陀仏のおはたらきが届いていることを知るのです。

「われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの親のよび声」

南無阿弥陀仏

みそみそみそみそ 2018/02/20 23:15 r樣

ありがとうございます。
どんな気持ちかと言われると、そんなことを言われても影も形もない相手をどう想ったところで現実に対してなんら救いにも足がかりにもならないじゃないかといった感じです。

多分それを言い出した時点で私には宗教と言うものに向いていないのかも知れません。

RC樣
ありがとうございます。
そう事実としては受け入れられますが私の中ではそれ以上にもそれ以下にもなりえないといった感じです。
こういったお話を聞いて一時的に有り難い気持ちになったり、自分がやがて救われていくような感覚は得られますが、時間が立てば、現実の苦しい状況に立たされれば、簡単に吹き飛んでしまう。
そんな状態です。

rr 2018/02/21 00:16 みそみそ様

なるほど・・・

みそみそ様はどうも、ご自分に対して厳しすぎるように思われます。

救いは無条件であり、どれだけ甘えても甘えすぎるということはありません。
阿弥陀仏に対する不満があれば、それを出してもよいのです。

分からないぞ! 実感がないぞ! 現実に対して何も救いにも足がかりにもならないじゃないか! 

そのように叫んでよいのです。自分の本音をぶつければ、認めざるを得ない自分の姿も見えてきます。それこそが偽らざる自分ですし、阿弥陀仏の視点から見れば仏願の生起であります。

阿弥陀仏の本願は、仏道修行ができず成仏する可能性を持たない、出来損ないの悪凡夫がお目当てですので。


みそみそ様。

どうぞ、書ける範囲でけっこうです。阿弥陀仏の本願に対する、ご自分の本音を書き込んでみてくださいませ。

淳心房淳心房 2018/02/21 21:31 >では本当に念仏を唱えるだけで助かるのですか?

私が助けるわけではないので、私には教えを示すことしかできません。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(末灯鈔12通)

阿弥陀仏の本願は、念仏を称える者を極楽へ迎える、平たく言えば「助けるぞ」という本願ですから、その誓いをそのまま受け容れて仰せの通り念仏申すだけです。私の中に信心を探していてもそんなものはありゃしません。あるのは煩悩妄念のみです。親鸞聖人が示して下された教えを通して阿弥陀仏の勅命を受けて下さい。なんまんだぶなんまんだぶ・・・

チュウビチュウビ 2018/02/22 00:16 すみません、私からも。みそみそさんは、
もうどうもならんと、わかってらっしゃるように感じます。私が信心決定するのを目指すのでなくて、もうそれはあきらめて捨て去って阿弥陀様にまかせてください。阿弥陀様の仰せに、ハイそうですね。とまかせて念仏申してください。「でも、念仏称えてますけど、救われたのですか?実感ないです」ではなくて阿弥陀様がそう仰せなのだから信じて順うのです。念仏称えさせるぞの仰せを聞いて称えているそのままが信心です。私に起こる不思議体験も、瞬間的な、がらりと心の様変わりもありません。だんだん朝日が上ってきて気づいたら明るくなっていた。そんなように疑心無く念仏を称えている状態に気づくと思います。高森の一念の体験談が頭に強烈にこびりついて理解不能にさせてるのです。他力回向の信心は念仏を称えさせるぞが信心です。念仏称えてください。なんまんだぶなんまんだぶ。

YGMYGM 2018/02/22 11:58 みそみそさんへ

>>多分それを言い出した時点で私には宗教と言うものに向いていないのかも知れません。

 いままで仏法を聞いてきて、多少は救いに近づいたのかと思ったりもしたけど、結局自分は最初からこんなことだったんだと思うでしょう?
 
 もうあなたは、阿弥陀さまの手の中に握られているのです。
 
本当に宗教というものに向いていないと思うでしょう?
 その自分が、後生が気になったり、苦しい魂をかかえて流転し続けることに苦しんだりしているわけです。
 本当は私がこんなこと気になる筈がないんです。
 これは阿弥陀さまの入れ知恵だからなんです。私の知恵ではこんなこと気になりません。阿弥陀さまの手の中に握られ、堕としはしないという願いがまさに働いているからです。
 
 母親に抱かれた赤ん坊が、向いているとか向いていないとか考える所詮がありません。
 怖い苦しいと暴れず、安心して抱かれるのみです。

みそみそみそみそ 2018/02/23 23:02 r樣
ありがとうございます。

事実としては受け止められる、
それを聞けば何だか助かったような気持ちになる。ありがたい気持ちになる。
だけどそれ以上のものにもそれ以下のものにもなりえないというのが本音です。

いっときの癒やしや救いは得られても、時間の経過とともに薄れさってゆくものだし、
また現実の困難の壁の前では、何の足しにもなりえないというのが現状です。

rr 2018/02/24 06:46 みそみそ様

勇気を出して本音を書き込んでくださったこと、大変有難いです。

何だか助かったような気持ちになる、ありがたい気持ちにもなるが、一時の癒しなどは得られても、現実の前には何の足しにもならない・・・。

なるほど、まさにおっしゃる通りだと思います。南無阿弥陀仏のおいわれを何度も聞いたとしても、この世の困難に対しては足しにならないようにも感じるでしょう。阿弥陀仏の本願が目的としているのは、この世のことではなく、みそみそ様の後生のことですので。


ところで・・・まことに申し上げにくいのですが、みそみそ様には1つだけ、聴聞の間違いがあるように見受けられます。間違いというか、方向が逆なのですが・・・ただ、あまりにも正反対を向いておられるので、修正するのは簡単であるとも言えるものです。

もしかしたら、このようなことを言うのは良くないのかもしれません。

しかし、みそみそ様が正反対の方向を見ておられる限り、阿弥陀仏の本願を正確に聞くことはなかなか難しいのではないか、と思われます。懇切丁寧に教えてくださる同行や知識がおられれば、正反対を向いているのを修正してくださると思いますが。

これは聴聞の方向を修正するだけですので、未信であっても当然可能なことです。



一応内容を簡単に書いておきます。

みそみそ様は現在、自分の理解や実感を中心にして聴聞しておられることでしょう。しかしその方向では「理解できない、分からない」という思いが増えていくだけです。なぜなら20年も仏道修行された親鸞聖人でさえ「不可称・不可説・不可思議」と言われた阿弥陀仏の本願を、私たちが理解できるわけがないからです。またそもそも、理解する能力は必要ありません。

ですので、ご自分の理解や実感をたよりにする聞法は、いったん横に置いてみてください。


そして次に、視点を180度変えてみましょう。これは未信者でも可能です。先ほどの自分中心の視点から、くるりと、阿弥陀仏中心の視点に変えてみるのです。

阿弥陀仏中心の視点というと難しいようですが、要は「阿弥陀仏から見たら、私(みそみそ様のこと)はどのように見えるのだろうか」ということです。

たとえば阿弥陀仏から見れば、もしもみそみそ様が牛のお肉を食べれば、それは救わずにおけない罪の1つです。日常生活の罪の1つ1つが、阿弥陀仏のご修行の理由となります。たとえたった1つの罪を見逃しただけでも、みそみそ様は来世も六道輪廻を続けてしまうので、1つも漏らさずに調べ上げて、その罪悪を打ち消して極楽往生させるだけの仏道修行をしてくださったのです。

ですので殺生や貪欲・瞋恚など、ご自分の罪悪を見つけるたびに、「自分にはよく理解できないし実感できない。しかしこの罪のために、法蔵さまが果てしない仏道修行して功徳を積んでくださったらしい」ということを確認していってください。

また阿弥陀仏から見れば、みそみそ様の口から出ているお念仏は、みそみそ様を極楽往生させて仏にする功徳を持ったものです。「自分には空念仏にしか思えないが、阿弥陀仏がおっしゃるには、この念仏に往生成仏の功徳が詰め込んであるらしい」ということを確認していってください。


たとえ、みそみそ様が自分中心の視点に戻ってしまい、「そんなこと言われても分からない、理解できない」という思いが出て来たとしても、問題はありません。そのような思いに対しても、「阿弥陀様から見ればどういうことだろう?」「そうか、念仏の価値も分からない自分を、必ず往生成仏させると誓っておられるのか」「理解できない自分に対して、阿弥陀様はそうおっしゃっておられるらしい」という視点で見ていってください。


これは盲信するのとは違います。なぜなら盲信しようにも、阿弥陀仏の本願はあまりにも私たちの常識とかけ離れているため、信じ込むことすら出来ないからです。

盲信しようと努力するのではなく、「自分には絶対に理解できないし実感できないが」・・・、「しかし、阿弥陀様はどう見ておられるのか? 阿弥陀様は自分に対してどう誓っておられるのか?」を見ていく、ということです。


どうぞ、お手間かもしれませんが、お金も何もかかりません。
一度、聴聞の方向性だけ、180度くるりと変えてみてくださいませ。

ぶらぼーぶらぼー 2018/02/24 14:41 難しそうで簡単な信心、簡単そうで難しい念佛。内側の障りと外側からの障りが大きく得難い信心ゆえ、先達は「念佛せーやー」って勧められる。

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