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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-02-22

「信心獲得や信心決定といった言葉はどのタイミングを指して言われたものでしょうか。南無阿弥陀仏が私に届いたことか。南無阿弥陀仏ひとつで良かったんだなあーと気づかせていただいたことか。はたまた全く違うことをいわれたのでしょうか。」(常夏さんのコメント)

常夏 2018/02/18 11:38

(略)

最近はあまり獲得!とか決定!とか意識していなかったのですが、信心獲得や信心決定といった言葉はどのタイミングを指して言われたものでしょうか。

南無阿弥陀仏が私に届いたことか。南無阿弥陀仏ひとつで良かったんだなあーと気づかせていただいたことか。はたまた全く違うことをいわれたのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180211/1518295501#c1518921496

エントリーに書くのが遅くなり申し訳ございませんでした。


信心獲得はいつのときのことかといえば、蓮如上人の御文章でいえば「帰命の一念」「たのむ一念」ということになります。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖5通)

「南無と帰命する一念の処」といっても、その時間そのものは人間の知覚にかかるようなものではないので、親鸞聖人は「時剋の極促」ともいわれています。

お尋ねのコメントで書かれた文章でいうなら「南無阿弥陀仏が私に届いたこと」になります。

信心獲得といってもそれは「第十八願をこころうる」とこであり「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。いわゆる、南無阿弥陀仏に疑い無い状態になったことをいいます。それもすべて、「弥陀如来の凡夫に回向しましますこころ」ですから、オリンピックメダルが確定した瞬間のようなものではありません。

自覚の上で言えば、すでに疑心なかったという人が多いのではないかと思います。その「疑心がなくなった瞬間の自覚の有無」は、救いとは関係ないので拘らなくてもいいところです。

南無阿弥陀仏一つでよかったなと聞き入れるのは有り難いものです。

常夏常夏 2018/02/24 12:10 ご解答ありがとうございました。
以前は「阿弥陀にはへだつる心なけれども 蓋ある水に月は宿らじ」のお歌をよく思い出して、でも蓋は自力では無くせないんでしょ、阿弥陀仏がパカッと空けて下さるんでしょ、それはいつ?ただいま救うと言われるのに何故私は救って貰えないのか意味が解りませんでした。
でも蓋は、自分で有ると思っていただけでした。仰る通りで、いつなくなったのか解りません。初めからなかった気もします。

もうひとつ言うと、蓋が空けば当然月が見えるはず!と思っていましたが、ない蓋がないと気付いただけなので、見えるものは変わらず…
こんなこと言うと叱られそうですが、そこは少し残念です。

ぶらぼーぶらぼー 2018/02/24 14:44 疑蓋無雑の一心
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

蓋なしは佛。
凡夫は、凡の字のごとく覆われてる。
他力信心が、蓋を知らしめる。

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