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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-04-10

「南無阿弥陀仏のいわれを聞こうと、ご法話に足を運んでおります。しかし、何度聞いても「話」としか聞けず、これで本当に助かるのだろうかと思います。」(頂いた質問)法は歌のようなものという話

南無阿弥陀仏のいわれを聞こうと、ご法話に足を運んでおります。しかし、何度聞いても「話」としか聞けず、これで本当に助かるのだろうかと思います。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏のいわれ、仏願の生起本末を聞いてもそれは「話」ではないかと思われる気持ちはよく分かります。私も以前はそのように思っていました。


そこで、話す人によって違うのだろうかと考え始めるとそれは、知識帰命という「善知識(話す人)の力によって救われる」という間違いになってしまいます。


そこでいろいろと説明をしているうちに、最近気づいたことがあるのでここに書きたいと思います。

それは、同じ話を聞いて「またあの話しか」と思う人と、「また聞けてよかった!」という人の違いについてです。


御一代記聞書には、以下のように書かれています。

一 ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。(御一代記聞書130 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1273)

現代文

信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。

人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。

https://goo.gl/RLU52H

私は以前、同じ話でも「初めて聞いたような気持ちで聞こう」と思って頑張っていました。しかし、そんな努力はしてみても、やはり「同じ話」は「同じ話」でしかありません。それを「初めて聞いたように聞ける」ように「信のうへには」あるのかと想像し、やはり信心を獲た人は自分とは相当違う境地に立っているのだろうと考えていました。


しかし、それは間違いです。いくら信心を獲た人であっても、「同じ話」なら何を聞いていても「初めたるやうに」聞く訳ではありません。例えば、身内でも知人でもいいですが、「何度も同じ話をする人」はおられます。そういう人が「何度も聞いた話」を話し始めると、大体周りの人は「はいはいあの話ね」という反応をし、中には先回りして結論までいう人もいます。


確かにすでに知っている話を何度も聞くことは、多くの人にとっては苦痛だと思います。しかし、それでも「全く同じ言葉の並び」を「何度も聞きたい」と思い喜んでいる場面は実際にあります。


それは何かと言えば、「歌」です。「歌」というのは、曲と誰が歌っているかを除けば、それこそ一字一句間違いなく同じ日本語を並べています。それでも、いわゆる「良い歌」は何度聞いても良いものだと多くの人が感じて、歌詞まで覚えていても「また聞きたい」と思います。


そのよい例が、紅白歌合戦の常連出場歌手が歌う曲です。例えば、石川さゆりは「津軽海峡冬景色」や「天城越え」を紅白歌合戦で何回も歌っています。見ているほうも、すでにその曲は知っている訳ですが、実際に石川さゆりがそれらを歌うと、ついつい聞き入って「良い歌だな」と感じ入ってしまいます。それを「その歌はもう知ってる」とか「このあとこう歌うんですよね」と茶々をいれる人はあまりいません。


「歌詞」は言葉ですから、ただ目で読んだり朗読を耳で聞いただけでは「ただの言葉」になります、しかし、歌として歌われるのを聞くと、その「言葉」にこめられたいろいろなものが伝わってきます。その意味では、「歌詞」と「歌われた歌」は、同じですが全く同じではありません。


その意味で「南無阿弥陀仏のいわれ」「仏願の生起本末」それを説かれる「法話」は、「歌」と同じです。「法」を歌のように聞く人は「いつもめづらしく初めたるやうに」聞きます。「法」をただの言葉として聞けば、「いつも同じ話」「ただの話」にしかならないでしょうが、「歌われる歌」と聞いていると何度聞いてもよいものだとなります。


歌は歌うことでしか伝わらないものがあるように、法も南無阿弥陀仏とならないと伝わらないものがあります。その南無阿弥陀仏は、言葉ではなく法として聞いて下さい。ただ今救われます。

笹舟笹舟 2018/04/11 06:50 思えば9年前に親鸞会を捨てて、茫漠たる闇夜に漕ぎ出だした私は、飛雲さんのブログを海図とし、山も山さんの問答を灯炬として、他の一切の方の法話をも聞かずに、阿弥陀さまのお救いにあわせて頂いたのでした。
今更ながらに感謝申し上げます。
親鸞会では恩知らずの裏切り者呼ばわりされているようですが、あそこを捨てたからこそのご信心だったなあと、有り難く念仏称える日々を過ごさせて頂いております。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

みよひろみよひろ 2018/04/11 06:53 聞ける→たすかる
阿弥陀さまはたすからないからたすける

聞けるはずが疑いだから聞けないのは当たり前です

YGMYGM 2018/04/12 17:05 今回の記事、特にナルホドと思いました。
歌は同じでも、違う歌手が歌うと、良さが薄れたりします。

法も阿弥陀さまのじかの歌と思うと有難いなぁと思います。
人間が解説していると思って聞いてしまうと、ありがたさは薄れて感じるように思います。

rr 2018/04/15 04:28 山も山様
毎回ありがたく読ませていただいております。

ご法話や真宗の本を読むときに、気になることが1つありまして、質問をさせてください。

蓮如様のことなのですが、紙切れが一枚おちていただけでも「阿弥陀様からいただいたものなのに、もったいない」と押し頂かれたり、蓮如様が物品をあげるときに相手が恐縮すると「私(蓮如様のこと)があげるものだと思っているのか。全て如来さまのお働きだ」と言われたとのことです(御一代聞き書き)。
 
これを聞いたとき、私は「無我」という言葉を思い出します。蓮如様にとっては私物が無いからです。そして私には、分かる部分もありますし、分からない部分もあります。
 
私の身の回りの全ては、阿弥陀様が私を仏にするための手段なのだ、という受け取り方をするとき、理解することができます。蓮如様は「全ては阿弥陀様のお手回しだ」と積極的に思っておられたのではないか、ということです。
 

しかし私個人の生活からいえば、日々肉食をするなどの罪を犯し続け、紙切れどころか、身の回りの便利なものに対する感謝も基本的には起きません。
 
ただし、それらによって私が犯している罪を考えて、法蔵さまが私の代わりに実行してくださった仏道修行を思わせて頂くとき、申し訳なさと感謝が生まれます。パソコン・カメラ・机などの便利な物を生産するために、どれほどの生物が死ななければならなかったことか。そしてその罪を肩代わりしてくださる阿弥陀仏の本願がなければ、私は迷いの世から出ることは不可能です。

ですがこのような感謝と懺悔は、蓮如様の如来聖人に対する常なる感謝とは、少々ちがうような感じがします。
 
なので、蓮如聖人のそのような言行録を読むたびに「すごいなあ、自分とは何かちがうなあ」と思わされます。私は「自分の物、自分のお金、自分の身体」という執着に縛られています。しかし蓮如さまには、そのような私物化の槪念が無かったように思えます。
 
なぜ蓮如聖人はそのような言動ができたのでしょうか。 他力信心を頂いた人が繰り返し正しく聴聞をしていけば、そのような無我を極めた状態になるのでしょうか?
 
お手数おかけしますが、ご回答いただけるとありがたいです。

rr 2018/04/15 18:34 連投すみません。

上のコメントを書き込んでから、1つ思い出したことがありました。

それは「冥加」という言葉です。

冥加金などと言いますが、本来は仏様の計り知れないお働きのことだそうです。


しかし、ではどこまでが冥加なのか? たしかに阿弥陀仏のお働きによって、私は他力信心を頂きました。他力が存在しなければ、聞法しようという心すら無い私は、浄土真宗に親しむことはなかったでしょう。仏願の生起本末をそのまま聞けるようになってから、阿弥陀仏の存在をありありと感じさせられています。
 
ですが、よく「お米の一粒一粒に阿弥陀様がおられる」と言われますが、「冥加だから服もお米も阿弥陀様なんだよ」と言われても、ピンと来ません。
 
それにどこまでが阿弥陀様なのか、という線引きもよく分かりません。私が念仏となえるためには、服や食料が必要なのはわかります。ですがそれを言い出したら、この地球だって必要だし、この宇宙だって必要です。じゃあ地球そのものも阿弥陀様だし、宇宙そのものも阿弥陀様なのでしょうか?
 
もっといえば、「憎い人は、あなたの中の憎しみ心を教えてくれる仏様なんですよ」という法話を聞いたこともあります。じゃあ悪い人も(たとえば戦争をしている人も殺人者も)仏様なんでしょうか? そんなわけはない・・・と思うのですが。

考えていくとますますよく分からなくなります。
このあたりについて、山も山様のお考えを聞かせていただけると有難いです。

愚愚流愚愚流 2018/04/16 14:11 rさま

失礼します。
蓮如上人はすごいお方だと思います。

自分の思うところは、、、

目に映るこの世の万物は変わりゆくものです。
私を含めて、この世のすべての物、事には
真実はない。
そのことを映し出して下さるのが
南無阿弥陀仏の働きであり
われに南無せよの勅命です。

口に入る生き物は
血となり肉となり、仏法を聞かせて頂く力になります。
この世のすべてに働きかけて
すべての存在に、私に
南無させようとして下さる
南無阿弥陀仏の働きです。

私の親は寝たきりでコミュニケーションは
ほぼゼロです。何もできない私だと思っていましたがある日気づきました。
分かろうが分かるまいが関係なく
南無阿弥陀仏を聞かせようと。
私にできるのは枕元で
南無阿弥陀仏を称え、聞いてもらうことです。
それが一番の行いであり、称えさせてくれる親は
阿弥陀様の働きを伝えてくれる仏様、権化の人です。
広く見れば、こちらが仏法を伝えたい相手は
仏法を説かせて、聞かせてくれる人なので
仏様、権化の人だと思います。
これはお味わいというよりも、事実として頂かれることです。

南無阿弥陀仏の働きをいつも頂きながら、
阿弥陀様に背を向けて自分の都合で
目の色を変えて相対の幸福に心を奪われる自分、
外儀は仏教のすがたにて内心外道を帰敬せり
の自分を省みなければなりません。
このことが知らされるのも
南無阿弥陀仏の働きです。
有難いです。

大峯顕先生は対談で
「宇宙という無限者の中に、我々は
全部無限の働きによって働かれて生きている。
我々はどんな力のあるものでもないものでも、
宇宙の働きに任せて来ているんだという。
そのことを感じることが宗教だ」という
フリードリヒ・シュライエルマッハー博士の
言葉を引用されておられます。

南無阿弥陀仏

rr 2018/04/17 01:15 愚愚流様

素晴らしい経験を教えてくださりありがとうございました。
親御さんを通して阿弥陀仏のお働きを知らされるというのは、真宗の行者ならではだと思います。
 
愚愚流様のような他力信心に生きる方の言動は、一般常識から考えれば不可思議なものに映るでしょうし、同じく他力の同行から見ればとても有難いです。
 
私も日々、ただただ凡夫として相対の幸せを求めて生きているだけです。その卑小な私を包み込んでしまった南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を称えさせてくださり、阿弥陀仏に南無させてくださいます。
 
 
ところで私の本性からいえば、無常も罪悪も因果の道理も、頭では理解しても、心の底では無視しています。だから明日も生きておれると思いながら肉食して地獄にも落ちないと決め付け、平常心を保って生きていられます。
 
ですので、先の投稿で書いた疑問も、たいした問題ではないのかもしれません。煩悩に振り回されて他の生物を殺しながら生きている私ですので、そんな私が疑問を解決できたとしても、大きな意義はないのかもしれない。
 
 
しかしながら、あの蓮如上人の言動や冥加という言葉には、大事なことが教えられてあるんじゃないか、とも感じています。
 
冥加のような教えは法話のテーマとしてはマイナーな方だと思います。それよりも無常・罪悪・因果の道理・仏願の生起本末などをよく目にしますし、こちらの方が重要だと思ってきました。
 
しかし私はなぜか、冥加についてもっと知りたいのです。仏願の生起本末をそのまま聞けるようになってから10年以上たちますが、阿弥陀仏のお働きのことがより詳しく分かるのではないか? という期待があるのです。
 
 
愚愚流様、大峯先生のお話もありがとうございました、この引用は初めて知りました。


南無阿弥陀仏

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