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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-04-16

「蓮如さまには、そのような私物化の槪念が無かったように思えます。なぜ蓮如聖人はそのような言動ができたのでしょうか。 他力信心を頂いた人が繰り返し正しく聴聞をしていけば、そのような無我を極めた状態になるのでしょうか?」(rさんから頂いた質問)


r  2018/04/15 04:28

(略)

蓮如様のことなのですが、紙切れが一枚おちていただけでも「阿弥陀様からいただいたものなのに、もったいない」と押し頂かれたり、蓮如様が物品をあげるときに相手が恐縮すると「私(蓮如様のこと)があげるものだと思っているのか。全て如来さまのお働きだ」と言われたとのことです(御一代聞書)。

(略)

なので、蓮如聖人のそのような言行録を読むたびに「すごいなあ、自分とは何かちがうなあ」と思わされます。私は「自分の物、自分のお金、自分の身体」という執着に縛られています。しかし蓮如さまには、そのような私物化の槪念が無かったように思えます。

なぜ蓮如聖人はそのような言動ができたのでしょうか。 他力信心を頂いた人が繰り返し正しく聴聞をしていけば、そのような無我を極めた状態になるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180410/1523360474#c1523734092

コメントに書かれていた御一代記聞書は、以下の箇所です。

(308)

一 蓮如上人、御廊下を御とほり候ひて、紙切れのおちて候ひつるを御覧ぜられ、仏法領の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候ふと[云々]。総じて紙の切れなんどのやうなる物をも、仏物と思し召し御用ゐ候へば、あだに御沙汰なく候ふのよし、前住上人(実如)御物語り候ひき。

現代文

蓮如上人が廊下をお通りになっていたとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「阿弥陀仏より恵まれたものを粗末にするのか」と仰せになり、その紙切れを拾って、両手でおしいただかれたのでした。

「蓮如上人は、紙切れのようなものまですべて、仏より恵まれたものと考えておられたので、何一つとして粗末にされることはなかった」と、実如上人は仰せになりました。

蓮如上人には全く執着がなく、無我を極めたような方だったのかと言えば、それでも凡夫であることには違いありません。


しかし、このように物を大事にされていたのは、一つには、浄土真宗の教えを再興すること一つに生きておられたので、そのために必要なものは大変大事にされました。

(143)

一 御病中に蓮如上人仰せられ候ふ。御代に仏法を是非とも御再興あらんと思し召し候ふ御念力一つにて、かやうにいままでみなみな心やすくあることは、この法師が冥加に叶ふによりてのことなりと御自讃ありと[云々]。

現代文

ご病床にあった蓮如上人が、「わが生涯のうちに浄土真宗をぜひとも再興しようと願った志一つで、浄土真宗が栄えるようになって、みんながこのように安らかに暮らせるようになった。これもわたしに、目に見えない仏のおはたらきがあったからなのである」と、ご自身をほめて仰せになりました。


また、そうして法をひろめるためにあるものは、全て仏様から頂いたものであって、自分のものではないという考えもまた強くもっておられました。

(313)

一 兼縁、堺にて、蓮如上人御存生の時、背摺布を買得ありければ、蓮如上人仰せられ候ふ。かやうの物はわが方にもあるものを、無用の買ひごとよと仰せられ候ふ。兼縁、自物にてとりまうしたると答へまうし候ふところに、仰せられ候ふ。それはわが物かと仰せられ候ふ。ことごとく仏物、如来・聖人親鸞)の御用にもるることはあるまじく候ふ。

現代文

蓮如上人がご存命のころ、蓮悟さまが堺で模様入りの麻布を買い求めたところ、上人は、「そのようなものはわたしのところにもあるのに、無駄な買物をしたものだ」と仰せになりました。

蓮悟さまが、「これはわたしのお金で買い求めたものです」とお答え申しあげると、上人は「そのお金は自分のものか。

何もかも仏のものである。

阿弥陀如来・親鸞聖人のお恵みでないものは、何一つとしてないのである」と仰せになりました。

繰り返し法を聞かれていわゆるお育てに預かっていくうちにこのような心が育っていくものです。しかし、それでも蓮如上人がこのように徹底して物やお金を全て如来聖人から頂いたものであって自分のものではないという態度を取り続けられたのは、浄土真宗の再興を自分の生きている間に成し遂げると強く思い続け活動をされていた影響が大きいと思います。

教えを弘めるのは、法そのものがされていくという視点から見ると、法をひろめるために必要な全ては仏様のものとなります。