Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-04-29

「私はなかなか救われないのですが、その原因は自分が死ぬ気になって聞き抜こうという気持ちになっていないからではないかと思います。その辺はどう思われますか?」(頂いた質問)

私はなかなか救われないのですが、その原因は自分が死ぬ気になって聞き抜こうという気持ちになっていないからではないかと思います。その辺はどう思われますか?(頂いた質問)

お尋ねの内容からすると、すでにいろいろと法を聞くご縁にあわれている上でのことだと思います。

「死ぬ気になる、ならない」「本気になるなら、ならない」「今日にも死ぬと思える、思えない」など、いろいろと表現は違いますがこれらは心の状態、精神状態をさしてのことです。

それらが、阿弥陀仏の救いに関係しているのではないかと考える気持ちはよく分かります。私も以前は、関係があると思っていました。


しかし、これは私が現代の日本に生きているからだとも言えます。遥か昔のことならば、「女性は救われない」と多くの人が考え、それを信じていました。ですから、阿弥陀仏の本願にも女人往生の願が誓われていたり、蓮如上人の御文章には度々「五障三従の女人」と書かれています。その意味で、現代の私たちは「女性だから」「男性だから」というように性別で救いが別れることは考えていないと思います。


また、法然聖人の時代で言えば、臭いの強いものを食べて念仏してもいいでしょうか?と尋ねた人があるくらいです。

一。にら・き・ひる・ししをくひて、かう(香失)せ候はずとも、つねに念仏は申候べきやらん。

答。念仏はなににもさはらぬ事にて候。(百四十五箇条問答*1

ニラや、大蒜、猪肉を食べて、その臭いが消えない間に念仏しても良いものでしょうか?と尋ねたところ、「念仏は何物もさわりにはならない」と答えられています。


こちらの方は、特に現代の私たちからすると、そのようなことを気にする人はないと思います。

「今日は念仏するから、ご法話に参詣するから、こういうものは食べないようにしよう」とは考えません。


性別や食べたものが、阿弥陀仏の救いに関係ないように、また、私たちの煩悩も阿弥陀仏の救いの妨げにはなりません。

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 (尊号真像銘文)

よって、精神状態も阿弥陀仏の救いには関係がないということです。阿弥陀仏の側から見れば、私の年齢や性別、煩悩も精神状態も救いを妨げるものはなにもないと言うことです。もっといえば、体調とも関係ありません。血糖値や、血圧の高い低いとも関係ありません。


関係があるのは、「こんな状態だから救われない」と阿弥陀仏の救いを疑っている点です。ただ今必ず救う南無阿弥陀仏だと、ただ今聞いて救われて下さい。

*1:法然聖人の語録

ねんねんねんねん 2018/04/30 15:12 >自分が死ぬ気になって聞き抜こうという気持ち

これぞまさに自力の心そのものですね。
この心を追い求めた先に、自力が廃るということがあるのでしょうか?
あるいは他力が求まったということがあるのでしょうか?

そうではないのだと、稲城選恵和上という方が上手い例えで教えておられますよ。
「引っ張ったら開くドアを、押すんです。開くかいね、これ。……引っ張ったら開くのを押すんですから。聞き間違いと言うのは、こういう聞き様なんです。」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

rr 2018/05/01 14:53 yamamoyama様

お忙しい中のブログ更新、ありがとうございました。楽しみに読ませて頂いてます。
 
少々内容とちがう質問なのですが(質問ばかりですね、すみません)、なぜ聞き開いた後は「称名念仏に励むべき」なのでしょうか?
 
私は仏願の生起本末に関係ある話を聞いた時は、思わず念仏せずにおれなくなります。しかし私の自性を見ると、念仏したくない、人前で念仏してる姿を見られたくない、という心があります。いくら最高の宝である、と知識では分かっていても、世間体を優先する自分がいるのです。
 
しかし親鸞聖人も蓮如上人も、称名念仏を薦めておられます。
 
獲信者であれば、いつ死んでも構わないし、念仏しようがしまいが変わりないような気もします。
 
しかし念仏することが「御礼になる(報恩)」ということです。

いまいち、よく分かりません。ご法話を聞いているとき、有難いことを聞くと思わず念佛は勝手に出て来るのですが。しかし「励むべし」というのは、お礼をたくさん言いなさい、ということでしょうか?
 
そもそも、念仏することが御礼になる、というのがよく分かりません。とはいえ、「念仏するものを極楽浄土に生まれさせ、必ず仏にする」と聞く時は、念仏せずにおれませんが。
 
一説には「念仏を称えることで往生するのではなく、他力信心を得ることで往生するということをはっきりさせるために、念仏は報恩行であると強調された」とも、聞いたことがあります。
 
なぜ「称名=御礼」になるのでしょうか。阿弥陀仏を賛美することになるからでしょうか。そして、獲信者はどのように余生を過ごすべきなのでしょうか?

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証