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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-05-02

「なぜ聞き開いた後は「称名念仏に励むべき」なのでしょうか?」(rさんのコメントより)

rさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

r 2018/05/01 14:53

(略)

なぜ聞き開いた後は「称名念仏に励むべき」なのでしょうか?

私は仏願の生起本末に関係ある話を聞いた時は、思わず念仏せずにおれなくなります。しかし私の自性を見ると、念仏したくない、人前で念仏してる姿を見られたくない、という心があります。いくら最高の宝である、と知識では分かっていても、世間体を優先する自分がいるのです。

しかし親鸞聖人も蓮如上人も、称名念仏を薦めておられます。

獲信者であれば、いつ死んでも構わないし、念仏しようがしまいが変わりないような気もします。

しかし念仏することが「御礼になる(報恩)」ということです。

いまいち、よく分かりません。ご法話を聞いているとき、有難いことを聞くと思わず念佛は勝手に出て来るのですが。しかし

「励むべし」というのは、お礼をたくさん言いなさい、ということでしょうか?

そもそも、念仏することが御礼になる、というのがよく分かりません。とはいえ、「念仏するものを極楽浄土に生まれさせ、必ず仏にする」と聞く時は、念仏せずにおれませんが。

一説には「念仏を称えることで往生するのではなく、他力信心を得ることで往生するということをはっきりさせるために、念仏は報恩行であると強調された」とも、聞いたことがあります。

なぜ「称名=御礼」になるのでしょうか。阿弥陀仏を賛美することになるからでしょうか。そして、獲信者はどのように余生を過ごすべきなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180429/1525000068#c1525153998

称名念仏に励みなさいと言われる理由は、2つあります。

1つは、本願文に念仏を勧められているから

2つは、そのように勧められないと、中々念仏しようとしないのが私たちだから


本願文には、信心と念仏が誓われています。本願から言えば、「本願を信じなさい、念仏しなさい」と勧められています。そこから、私の往生に関しては、信心で定まるのか、念仏で定まるのかという議論がかつてはありました。そこで、親鸞聖人は信心が定まる時に往生が定まるのだと教えられました。*1


そこで、rさんの言われるように、信心定まったなら、念仏を称えるとか称えないという回数そのものは私の往生とは関係はありません。ではこの念仏はなんなのかということで「称名報恩」と教えられました。


以下、浄土真宗辞典より

しょうみょうほうおん 称名報恩

「大経」第十八願には、信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ(略)

念仏そのものは、「はたらき」から言えば、私を往生させる働きがあります。ここでは「行者の心持ちからいえば」と条件付きで「感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たもの」とされてます。


その意味では、「称名=御礼」ではなく、救われた人が念仏するのは救われる為でもなく、御礼の心で称えているのだということです。このような少々持って回った言い方になるのは、「念仏で救われるのか、信心で救われるのかの議論」とか「信心一つ、念仏一つで救われるのだからといって、救われたあとの念仏を軽視する人たち(一念義)と、生涯念仏を称え続けて臨終来迎で往生が定まるとする人たち(多念義)の争い」があった歴史から出てきたものです。


そこで、阿弥陀仏に救われた上での信心と念仏の関係をいわれたのが「信心正因 称名報恩」という言い方です。


念仏称える回数で往生が決まるものではありませんから、救われた上で念仏する心は、助けて下さいの心ではなくは御礼の心でだということです。

その念仏を励みなさいというのは、「ご恩を思いなさい」ということです。日々のことで忙しくしていると、阿弥陀仏のご恩もなかなか心に懸からない生活をしていますので、阿弥陀仏のご恩を常に忘れないようにしなさい、ご恩を思いましょうと勧められているのが「称名念仏励むべし」ということです。


阿弥陀仏に救われた人はどのように余生を過ごすべきかについては、阿弥陀仏のご恩を思った上で自分がよいと思うように生きていけばよいと思います。報謝の思いから出ることは、自分の仕事を全うすることになる人もあるでしょうし、また別の仕事を始める人もあるかも知れません。どの生き方をしても、報恩の思いを忘れなければそれが念仏者の生き方だと思います。

*1:信心の定まるとき往生また定まるなり。末灯鈔1