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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-05-12

「なぜお勤めをするべきなのでしょうか? お勤めにはどのような意義があると考えられますか?」(rさんのコメントより)

r 2018/05/09 18:51

あまりにも基本的な質問で恥ずかしいのですが、お勤めの意義を教えていただけると有難いです。

私はお勤め(勤行)する意義を明確には理解していません。

たしかに『正信偈』には浄土真宗の教えが簡潔に示されています。しかし教えを理解するだけなら、一度『正信偈』の講義を聞けば、内容は理解できます。


なぜわざわざ歌うように声に出して、毎日朝晩、読経するように『正信偈』を唱えるのでしょうか? 仏徳讃嘆だというのならば、別にお念佛だけでもよいような・・・?

しかしせっかく蓮如上人が『正信偈』を勤行であげるよう制定してくださったわけですし、あの庄松同行もお勤めをされていたそうです。きっとそこには重要な意味があるのだと思います。

現代では忙しく、なかなか朝夕のお勤めを実行できない、という怠け心も私にはあります。そもそも仏教に反する素質ばかりの自分なので、お勤めをしてみようと考えること自体が不思議なのですが、なぜか今、お勤めをしてみようかなと思っています。

なぜお勤めをするべきなのでしょうか? お勤めにはどのような意義があると考えられますか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180502/1525257624#c1525859480

勤行の元々の意味については、

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

から紹介します。

ごんぎょう 勤行

1 仏道修行に努めること。「易行品」には「あるいは勤行精進のものもあり、あるいは、信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり」(行巻引文・註151)とある。

2 「おつとめ」ともいう、法要・儀式を執り行い、経典などを読誦すること。

浄土真宗の勤行は、蓮如上人の時代に御門徒の方々に勧められたものが今に続いています。

そこで、勤行について蓮如上人が仰ったことをいくつか紹介します。

聖教は読みやぶれ

そもそもの話として、蓮如上人はお聖教をよくよく読みなさいと勧められています。それが以下にあげる二つの御一代記聞書です。

(5)

一 蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

現代文

蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

(89)

一 聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

現代文

お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。

蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。

世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。

お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。

その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。

自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

読みやぶれといわれても、そんなに読んでも分からないと私たちは思ってしまいますが、読書百遍自ずから通ずの言葉まで出して勧めておられます。その意味で、私たちが勤行すると、百回以上は一年で越えてしまいます。和讃をくり読みしたとしても、百回くり読みするのに何年もかかりません。


繰り返し読むのは何のため?他宗と違う意味

それだけ繰り返し聖教を読みなさいといわれるのは、いわゆる普通の人がイメージする「読経」の目的である自力回向ではないといわれています。

(11)

一 十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讃」をよみて、仏にも聖人親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり。御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人和讃にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、和讃にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。

現代文

十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。

他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。

しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。

特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

正信偈あるいは和讃にに関しては、親鸞聖人が七高僧の書かれたものを誰が聞いても分かるように書かれたものだったのでそのご恩をよくよく理解して、ご恩を喜ぶものなのだといわれています。


声に出して読むことの意味

現在ならば、文字を読める人も多いので、浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版などで親鸞聖人和讃を読むことは出来ます。しかし、蓮如上人は勤行の形式で「声に出して読む」ことを勧められています。それについて書かれたのが以下の御一代記聞書です。

(3)

一 御つとめのとき順讃御わすれあり。南殿へ御かへりありて、仰せに、聖人親鸞)御すすめの和讃、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたりと仰せ候ひき。ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなしと御述懐なり。

現代文

勤行のとき蓮如上人が、ご和讃をあげる番になったのを忘れておられたことがありました。

南殿へお戻りになって、「親鸞聖人のご和讃のみ教えがあまりにもありがたいので、自分があげる番になったのをつい忘れていた」と仰せになり、「これほどありがたい聖人のみ教えであるが、それを信じて往生する人は少ない」とお嘆きになりました。

このころ和讃を順番によむ形式になっていました。それを「順讃(いまは巡讃)」といいます。順番に前の人が和讃を読み、ご自身も和讃を読まれている内に有り難さのあまり、自分があげる順番を忘れられたということです。


これは、以前のエントリーにも書きましたが、このように声に出してお聖教を拝読するのを「声明」といいます。蓮如上人は、この声明についてとても厳しく教えておられる方でした。*1それは、親鸞聖人がつくられた、正信偈和讃も声に出すこと伝わることがあると考えておられたからです。私たちが好きな歌というのも、歌詞だけを何の事前情報もなく読むよりも、曲に合わせて上手な歌い手だ歌うのを聞いて「歌詞だけ」では分からなかった感動を覚えることがあります。

ここにあげた御一代記聞書3の蓮如上人は、まさにそのような状態で思わず自分の順番を忘れるほど感動をされたことでしょう。

まとめ

rさんのコメントから、勤行の意味をまとめると以下のようになります。

  • お聖教は何度も読まないとは分からないから。
  • 何度も読めば必ず分かるから。
  • 声に出すことでよりわかるから。
  • 自力回向ではなくご恩を知るご縁となるから。

となります。

また、ご質問があればよろしくお願い致します。


まとめのあとに追記で書くと、勤行については、それがこころよいからということに尽きると思います。

歌が好きな人に、なぜ歌を歌うのですか?と聞くようなことではないかと、少なくとも蓮如上人のお勧めに関しては思います。

*1:御一代記聞書87

林遊@なんまんだぶ林遊@なんまんだぶ 2018/05/13 16:04 ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土真宗では、安心門と起行門ということを云います。
これを混乱したりごっちゃにすると、某会のように訳がわからなくなります。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%B5%B7%E8%A1%8C%E9%96%80

rr 2018/05/15 01:56 yamamoyama様
何度も質問する私に、分かりやすく丁寧に答えてくださり感謝です。

「親鸞聖人がつくられた、正信偈も和讃も声に出すことで伝わることがあると考えておられたから」

この文章には目からうろこでした。確かに声に出すことで理解が深まったり、気付くことがありますね。獲信した人にとっても、初事を毎日聞かせてもらえることになりますし。
今回のブログ記事を読ませていただいて、また少し、勤行に対する興味が大きくなりました。


>勤行については、それがこころよいからということに尽きると思います。
 
私は勤行が苦手だったのですが、少しずつ勤行がこころよいという感覚に近づいているのかもしれません。
こんなことが書いてあったのか、という発見も増えています。たとえば六首引きでご和讃を目にすると、いかに「帰命せよ」の文字が多いかに驚かされます。阿弥陀仏に帰命せよ、他力信心を得よ、と、くり返し親鸞聖人が讃嘆されていたことが有難いです。
 
念仏させてもらいながら生活していると、いろんな疑問が浮んできます。また質問させていただこうと思います。

rr 2018/05/19 07:05 yamamoyama様
先日、西本願寺の僧侶の方と話す機会があり、「教学」というものに興味が出てきました。
 
まだ教学について調べ始めたばかりですが、すこし疑問に思うことがあります。
 
教学とは元々、完成された救いである南無阿弥陀仏1つを説明したものだ、と私は考えています。
 
たとえとして、空に浮ぶ月を説明するときに、「あそこに浮かんでる丸くて白いものだよ」と説明するか、「潮の干満に影響を与える太陽系の衛星だよ」と説明するか。どちらにしても、同じものを指しています。
 
しかし伝統教学とか近代教学とか石泉とか空華とか言われると、まるで南無阿弥陀仏にいくつも種類があるかのようです。どれも同じ救いを説明したもののはずだから、教学に伝統も近代もないんじゃないかと思うのですが・・・。
 
 
またそれらの学問が複雑になればなるほど、私のような凡人には理解しにくくなりますし、学解往生のような異安心に陥る人も増えるのではないか? 誤解を招くような細部はそぎ落として、誰でも分かる本質だけにしぼるべきではないか? と疑問に思っています。具体的には、仏願の生起本末や疑蓋など、重要なものに絞ったほうが正しい理解が広まるような気がします。
 
ときどき、この人は教学によって強固な自力の信心を作り上げているようだな、と感じる人にも会います。これも複雑化した教学の弊害なのでは、と思います。
 
 
救いは完成された1つのものなのだから、できるかぎりシンプルな説明が1つあればよいのではないか。
最高無上の救いを説明している人々の間で派閥ができて、それらが争うなんていうのは、もうギャグのようなものではないか。
そんなことも考えてしまいます。 
 
 
阿弥陀仏の素晴らしさをもっと知りたい、と私は思っているのですが、教学の面からは、どこから手をつけるのがおすすめでしょうか。やはり『教行信証』を原文で読んでいくのがよいのでしょうか。それとも何か良いテキストなどありますでしょうか。

yamamoyayamamoya 2018/05/19 20:07 rさんへ
教学についての疑問は、私も感じたことがあるものです。結論は南無阿弥陀仏一つでも、「どういうことでそうなっているのか」について昔からいろいろと議論をされてきました。

取り急ぎ、参考になる本としては、本願寺出版のものからいくつか紹介します。
「親鸞聖人の教え」(勧学寮)
聖典セミナー「教行信証(教行の巻)」
浄土真宗辞典
ほかにもいろいろあるとは思いますが、最初はこのあたりを読まれたらいいと思います。

rr 2018/05/21 04:32 yamamoyamaさま

まだ私は教学の存在意義もよくつかめていません。少しずつ味わっていこうと思います。
すぐに教えてくださりありがとうございました、あまりにも真宗関係の本が多く、どれから手をつけてよいか分かりませんでした。
 
教えていただいた本は読んだことがありませんでした、浄土真宗辞典はyamamoyamaさんの記事でよく出て来るので手元に置きたいなと思っていました。入手して早く読みたいと思います。

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