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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-07-08

「南無阿弥陀仏と称えても聞いても私を救う力があるというような実感がありません。それでも救われることがあるのでしょうか?」(頂いた質問)

「南無阿弥陀仏と称えても聞いても私を救う力があるというような実感がありません。それでも救われることがあるのでしょうか?」(頂いた質問)

確かに、口に南無阿弥陀仏と称えていても「これは凄い」とか「言葉にできないけど何かを感じる」と思って称えている人はあまりないと思います。私も以前は、「無上甚深の功徳利益がある」と御文章にあるとは知ってはいても、どれだけ称えてみても「さのみ功能のあるべきともおぼえざる」というのが実際のところでした。


南無阿弥陀仏には、凡夫を仏にするという大変なお働きがあるのですが、そのお働きとか力というものは本願力に限らず目に見えるものというのはなかなかありません。


例えば、「磁力」というのは鉄を引き寄せる力がありますが、その「磁力そのもの」を目に見ることは出来ません。

ホワイトボードや冷蔵庫に紙を止めるための磁石がはってありますが、その磁石をみても「磁力そのもの」を目で見ることはできません。しかし、その磁石が鉄を引き付けホワイトボードに張り付いている状態をみたり、またクリップを引き付ける様子をみて磁力はこういう力があるのだなというこを知ることが出来ます。


親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を磁石のようなものと例えられているところがあります。

なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。(教行信証・行の巻)

現代文

ちょうど磁石のようです、本願に誓われたとおりに信心の行者を吸いつけていくからです。

https://goo.gl/fD54NQ

磁石が鉄を引き付け、鉄そのものには磁力はなくても鉄を磁力によって吸い付け、磁石にしてしまう働きがあります。そのように、南無阿弥陀仏は本願に誓われたように、本来仏になるような力のない私を本願力によって引き付け信心の行者にしてくださり、仏にするという働きがあります。


私が南無阿弥陀仏と称えている姿が、かつて念仏をすることもなかった状態からすると、南無阿弥陀仏のお働きが働いていることをあらわしています。鉄そのものが動く力はなくても、磁石よって引き付けられ動くように、私に念仏するような心はなくても、本願力によっていま念仏を称えさせられいます。

それに不思議を感じないとしても、それが本願力のあらわれであるということです。本願力そのものは磁力のように目に見えなくても、その力のあらわれたところでその力のあることを知ることができます。


いま南無阿弥陀仏と念仏申されているということは、私に本願力が働いているということです。その本願力に疑い無いなら、必ず浄土に往生し仏となります。