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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-08-11

「ブログを読めば(聞法すれば)救われるというのは間違いのように思いますが、読まない方がいいとも思いません。身の置き場がないように感じますが、どのように受け取れば宜しいでしょうか?」(ぷろぐれすさんのコメントより)

ぷろぐれす 2018/08/09 14:16

この度は、質問にご回答下さりありがとうございます。

あまり仏教の知識がないのでコメントするのも気がひけるのですが、さらに質問させて頂きます。

聞法(聴聞)が大切だとお聞きしますが、

こちらのブログを読むこと=聞法していること

と理解して宜しいでしょうか?

ブログを読めば(聞法すれば)救われるというのは間違いのように思いますが、読まない方がいいとも思いません。身の置き場がないように感じますが、どのように受け取れば宜しいでしょうか?

宜しくお願い致します。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180805/1533411986#c1533791777

ぶろぐれすさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

上記のコメントについて、園児さん、rさんよりコメントがありました。

その後、ぷろぐれすさんより以下のコメントを頂きました。

ぷろぐれす 2018/08/10 18:39

園児様

r様

山も山様

皆様コメントありがとうございますm(__)m

ご紹介頂きましたブログを見させて頂きました。

『「私」が称える念仏というものがあるか!

  「称えさせる御方」なくして、煩悩具足、邪見驕慢、懈怠の我が身が

  どうして称えることができるのか。

   称えさせる御方があってこそ、称えさえて頂ける念仏であるぞ。

   この念仏をどなたが成就して下さって、だれの為に、何の為に称え

  させてくださっているのか。 

  阿弥陀如来が私に称えさせて下さっていることを、常に称えて、

  常に聞くのだ。』

このお言葉がとても心に響きました。

日常生活ではことあるたびに念仏を口ずさんでいましたが、救われる為に念仏するのは間違いではないかと思い、信前の私が念仏するのは正しいのだろうかと疑問に思うこともありました。

もう少し、ご紹介頂きましたブログを読ませて頂こうと思います。

あまり知識はありませんので場違いのコメントや質問をしてしまいそうで心配です。

数ヶ月前にネットを見ていて、たまたまこのブログに出会いましたが、こんなすごいブログがあったこと、いつも皆様がすごいコメントを書かれることに、ここで1人感動しております。


今後ともどうぞ宜しくお願い致しますm(__)m

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180805/1533411986#c1533893976

園児さんが紹介されたブログ記事は以下のものです。

大悲にふれて どのように聞き求めるのか ?

コメントは、思ったことを思った時にそのまま書いて頂くのがいいと思います。意外と、思ったことというのは後で書こうとすると忘れてしまうものです。


最初のコメントについて改めて書きますが、聞法(聴聞)は、一番いいのは法話などで話をされる場所で聞くことです。

とはいえ、いつも法座があるわけでもないですし、自分の時間の都合がつかないことも多いと思います。そこで、お聖教や、お聖教に書かれているような南無阿弥陀仏のいわれについて書かれた本でもブログでも読むことも聴聞になります。

今日はインターネットによって、仏教の本を取り寄せることもネット書店から注文もできますし、電子書籍なら即時に入手できます。

響流書房?仏教を、電子書籍で。



最初のコメントにも書かれているように、「この人の話を聞けば救われる」「この本を読めば救われる」「このブログを読めば救われる」という考えは間違いです。

よくいわれる言い方では「聞いて助かるのではなく、お助けを聞く」というのがあります。

親鸞聖人が、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P251)

http://labo.wikidharma.org/index.php/顕浄土真実信文類_%28末%29#P--251]

といわれているのはそのことです。


「仏願の生起本末」とは、阿弥陀仏が私を救う本願を建てられた由来と、その本願が成就して現に私を救おうと働いておられることをいいます。つまり、「阿弥陀仏が自ら私を助けようとされている」ことを聞くのが、「聞」ということです。


少し考えて見ると「どうしたら助かるのだろう」と思って聞くのは、阿弥陀仏に向かって「どうしたら助けてくれるのですか?」と尋ねているようなものです。同様に、「聞いたら助かる」という考えも、「私が聞くという行為がなければ、阿弥陀仏の本願は完成しないと思っていることになります。


また、阿弥陀仏の本願は成就しているとはいっても、「私がなにか働きかけねば救ってくれない」としか思えませんが、実際はそうではありません。助けたいとしか阿弥陀仏の本願はありません。それを、「こうやって助けて下さい」と理髪店や美容院で注文をつけるように注文をつけているところに阿弥陀仏と私のすれ違いがあります。


阿弥陀仏の救いに「助け方」という条件は実際のところありません。「助ける」という法をただ聞いて下さい。ただ今救う南無阿弥陀仏に、ただ今救われます。

ss 2018/08/13 02:34 救われるというのはどういうことでしょうか。
日常会話で「救われる」というのはいろんな意味で使われると思いますが、阿弥陀仏の救いとはどのような救いなのでしょうか。

ゲストゲスト 2018/08/21 13:08 「4つの聞き方」を私たちに教えて下さった真宗の布教師 香樹院と、ある禅僧との問答〜

禅僧・弘海は、仏道に入ったものの禅の修行に耐えられず、
真宗の教えを求めるようになりました。
ある時、名僧・香樹院師に教えを乞う機会に恵まれたのです。

問 私は真宗に帰依して御講師に従い聴聞しておりますが、
   いまだに心に阿弥陀如来の呼び声が聞こえません。
   どうしたらよいでしょうか。

答 まず聖教を熟読しなさい。

問 ありがたく一生懸命に拝読しますと、
   内容は理解できますが、
   自分の往生は、いまだにハッキリ致しません。

答 よく聞くことだ。

問 よく聞くとは、どのように聞くことでしょうか。

答 骨折って聞きなさい、ということである。

問 骨を折るとは、遠路をいとわず聞き歩くことでしょうか。
   また、衣食を忘れて聞くことでしょうか。

答 そうだ。

問 それほどの苦労しないと弥陀の呼び声が聞こえないのならば、
   今までの禅宗でのつらい求道と変わらないではないですか。

答 そなたに法を求める志なし。
   いかに易行の法であっても、
   仏の悟りという大きな結果を得る一大事である。
   だから、求法の志なき者はこれを聞き得ることは
   できない。
   あぁ、そなたは馬鹿者か。

問 それならば、身命を顧みない志で聞けばよいのですか。

答 当然である。
   身を切りて求める志がなくてどうして大事を成せるのか。
   常に間断なく聞きなさい。

問 その志で聴聞しても、法座は常にあるわけではありませんが。

答 なんと愚かなことを言うのか。
  法話の無い時は、聞いたことを常に思い出しなさい。
  法話の時間だけが「聞く」ではないぞ。
  そなたにも目があるだろう。常に聖教を拝読しなさい。
  これもまた法を聞くことである。

   そして、もし世間の事で忙しく、聞くことも読むことも出来ない
   時は、口に常に名号を称えなさい。
   称名念仏もまた、法を聞くことだぞ。

   そなたが信心決定できないのは、過去世からの業障に
   よるのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・疑情(過去世からの業障ではない)
   だから心を励まし、常に心を砕き、よく聞きなさい。
   信心獲得は聴聞に極まるのだ。

問 法話を聞くことも、自ら聖教を読んで我が身に聞かせる
   ことも良く分かりました。
  ただ、「念仏することが聴聞だ」というのは
  どういうことでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「念仏することが聴聞だ」間違い


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いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて
  候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまること
  なりと云々。(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1292))

「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖目十一通)

「よきひとのおおせをかぶりて 信ずるほかに別の子細なきなり」『歎異抄』

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  私が称えて、その声を私の耳で聞くということですか。

弘海の問いを聞いて、香樹院師は、大喝しておっしゃった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大喝(機ぜめの悪知識)

  そなた、何を言っているのだ!
  「私」が称える念仏というものがあるか!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・間違い(念仏面々の心で称える)
  「称えさせる御方」なくして、煩悩具足、邪見驕慢、懈怠の我が身が
  どうして称えることができるのか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・間違い(弥陀は十方衆生に念仏すすめている)
   称えさせる御方があってこそ、称えさえて頂ける念仏であるぞ。
   この念仏をどなたが成就して下さって、だれの為に、何の為に称え
  させてくださっているのか。 
  阿弥陀如来が私に称えさせて下さっていることを、常に称えて、
  常に聞くのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰命を勘違いしている悪知識

禅僧弘海、この香樹院の言葉に胸を打たれ、自らの聞き誤りを正された。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここを他力の信心獲たかのよう読んでいる現代の人多い

・・・これが問答の一部始終でした。

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