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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-09-30

タロウタロウ 2018/10/05 10:46 >今日も駄目だったかと

大半の人がそんな感じではないでしょうか?
おそらく、信心獲得などすることなく生涯
を終える人のほうが遥かに多いのではないかと思います。
残念なことに、極めて稀な選ばれし者だけしか信心を頂
くことないというのが現実と思っています。
聖道門で救われるのは「難中の難」と言った偉人も
おみえですが、むしろ浄土門こそ「難中の難」という禅僧もいます。
禅修行なんぞできるわけもなく、易行も役に立たない
という現実を思う時、一休さんが残した、
「釈迦といふいたずらものが世にいでて」
っという歌がとてもしっくりきます。
仏教なんぞに出会わなければよかったと思うこともあります。

「いつかは、いつかは・・」
この希望こそが問題を深める元になっていると思えて
仕方がありません。
こうやれば信心を頂ける、こうやれば「救われる・悟れる」の
「こうやれば」というものはない・・っというのであれば、
まったく手の付けようがなく、始末が悪いです。
禅修行の極意は「何もしないこと」なのだそうです。

そもそも、なぜ仏教では、みな救われるというのでしょうか?
お寺(或いは仏教界)の営業活動なのでは?と思われるフシが
あります。
聴聞すれば救われる、念仏すれば救われる・・
実践者の、せめて10%でも救われている事実でも
あればと思うのですが、せいぜい1000人とか1万人
に1人でしょう。
救われない人のほうが遥かに多いのが現実でしょう?
「いや、いや、すでに救われているのだ」っと
いった話は心が納得しないわけです。
聞くのは「耳」ですが、聞いたまま「救われている」とは
思えないように心がでけています。なので、自力は役に
経たないから絶対他力にお任せなのでしょうが、
「お任せする」という発想が既に自力です。
どうにもこうにも手が付けられません。
仏教というのはホントにクセが悪いのです。
自分でも何を言ってるのかわけがわからなく
なってしまいました。

熱心な方の夢をぶち壊すような書き込みになって
しまいましたが、私と同じ思いの人はとてもとても
多いと思います。

山も山さんのネットラジオは毎日「耳をダンボ」に
して聞きまくっています。

スナオスナオ 2018/10/06 14:32 山も山さま

ラジオ安心問答聞かせて頂きました。
「今日も聞きひらけなかった」と思って法話会場から家に帰る人は、「自分の都合で聞いている人」であり、阿弥陀様の「不断光」を「期間限定光」だと思っている人だと聞かせて頂きました。「期間限定」と聞くと、私はユニクロの土日限定セールの赤札をイメージしてちょっと笑ってしまいました。そうではないよ、冷蔵庫を動かす電気のように絶えず働いているものだよ、と聞かせて頂きました。

「私の聞き方、私の心もち」だけにしか目が向かない私たちが、大悲の本願・念仏(衆生に聞かせんとする弥陀の願心)に目が向くのはひとえに聞法によるお育てですね。
仏心というのは人から人へ伝わっていくものだと改めて思います。お聖教だけ手渡されても、問答(信心の沙汰)がなければ大悲は伝わらないし頂けないと思います。直接法座の御縁に会えない人でもこのようにネットで問答できる環境はありがたいです。このブログのタイトル「安心問答」というのが素敵なタイトルだとしみじみと思いました。

スナオスナオ 2018/10/06 14:39 タロウさま

>聴聞すれば救われる、念仏すれば救われる・・
>実践者の、せめて10%でも救われている事実でもあればと思うのですが、せいぜい1000人とか1万人に1人でしょう。
>救われない人のほうが遥かに多いのが現実でしょう?

親鸞会の二千畳に集まっている人の中には、信心喜ぶ人は一人もいないと私は思いますが、真宗のご法座にはいらっしゃいますよ。

>「いつかは、いつかは・・」
>この希望こそが問題を深める元になっていると思えて仕方がありません。

「獲信」を「因果の道理」でとらえていらっしゃいませんか?
私が求めて、私が得る。
現在の私が「幸せ」になるための種まきをして、未来の私が「幸せ」という結果を得る。
現在の私が「獲信」するための種まきをして、未来の私が「獲信」という結果を得る。
現在の私が「往生」するための種まきをして、未来の私が「往生」するという結果を得る。
このような考えを「信罪福心」と言います。因果の道理のことです。
聖道門の人たちは仏教を信罪福心で受け止めて実践している人です。
浄土門の人たちは「信罪福心を捨てよ」と聞かせて頂いている人です。

信罪福心について山も山さんも記事に書かれていらっしゃいますので、二つ挙げます。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421/1271798657
http://anjinmondounote.hatenablog.com/entry/2012/01/09/071808

ところが親鸞会では因果の道理の実践を強調します。浄土真宗と名乗っておきながら、その本質は聖道門的な考え方です。親鸞会・高森会長は自身が聖道門的な教えを広めようとしているので、「興福寺奏上の第六の失」を隠蔽しています。さまざまなブログですでに指摘されている通りです。

真宗ではどのように教えられているのか、すでにご存知かと思いますが。
法蔵菩薩が十方衆生を救うために浄土を建立し、浄土に生まれさせるための手立ても用意して、すでに完了しています。大切なことは、「浄土往生は弥陀のひとりばたらき」だということです。私が主役ではなく、弥陀が主役です。つまり私はお客さんです。私が客であるにも関わらず、私が主役になりたがる。その心が自力の心です。
山も山さんが、救助隊のたとえで記事を書いていらっしゃいます。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125

「弥陀がホスト、私がゲスト」が事実です。これが「弥陀と私の本来の関係性」なのに、「私がホスト(主役)」であるかのように勘違いして、間違った関係性を自分の頭の中で勝手に構築しているのが自力の心です。

自分勝手にこしらえた間違った関係性が、正しい関係性にひっくりかえるのが信心決定です。本来の関係性に戻っただけですので、何が変わったというのでもありません。信心とはただそれだけのことです。

「浄土往生のことは持ち主に聞け!」と庄松同行は言いました。浄土という目的地もそこに行くための手段も阿弥陀様が用意したものですから、私たちは浄土の主である弥陀の本願を聞かせて頂く以外にはないと庄松同行もおっしゃっています。自力の心は本願力によって必ず破られます。

弥陀の救いを「いつか、いつか」に設定するのは、御本願と合致しないと思いまして、書き込みさせて頂きました。

タロウタロウ 2018/10/06 23:04 スナオ さんこんにちは。ご教授はありがたいのですが、
僭越ながら申しますと、今の私には難しくてよく理解できません。

>自分勝手にこしらえた間違った関係性が、
>正しい関係性にひっくりかえるのが信心決定です。
これはには、たぶんそういうことなんだろうと、
「うすうす」感じておりました。

「自分勝手に考える」これを自力で止めることは、
不可能とは思っております。

「弥陀がホスト、私がゲストが事実です。」
「ただいま救われてください・・」
これがどういうことなのか?が頭から離れません。

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