安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われない人のほうが遥かに多いのが現実でしょう?『いや、いや、すでに救われているのだ』っといった話は心が納得しないわけです」(タロウさんのコメントより)

タロウさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
コメントはかなり長文なので、全文はエントリーの最後に転載しました。

いろいろと考えさせられましたが、その中の以下の部分について書きます。

タロウ2018/10/05 10:46
(略)
そもそも、なぜ仏教では、みな救われるというのでしょうか?
お寺(或いは仏教界)の営業活動なのでは?と思われるフシが
あります。
聴聞すれば救われる、念仏すれば救われる・・
実践者の、せめて10%でも救われている事実でも
あればと思うのですが、せいぜい1000人とか1万人
に1人でしょう。
救われない人のほうが遥かに多いのが現実でしょう?
「いや、いや、すでに救われているのだ」っと
いった話は心が納得しないわけです。
聞くのは「耳」ですが、聞いたまま「救われている」とは
思えないように心がでけています。なので、自力は役に
経たないから絶対他力にお任せなのでしょうが、
「お任せする」という発想が既に自力です。
どうにもこうにも手が付けられません。
仏教というのはホントにクセが悪いのです。
自分でも何を言ってるのかわけがわからなく
なってしまいました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180930/1538252270#c1538703982

私は、「自分でも何を言っているのかわけがわからなくなってしまいました。」
の部分が大変心に残りました。なぜなら、「安心問答」と銘打ってブログを書いてきましたが、質問を流暢に言語化できるならば、その人はほぼ尋ねることの答えもまた自分の中ではほぼ言語化できています。あとは、その通りになるかならないかという問題です。


質問したいけれど、何を聞いたらいいのかわからないの方が多数派だと思います。そんな中、今回このように文字にして質問を書いてくださったことは、本当に自分の心で思ったことをそのまま書かれたのだと思います。自分の心をそのように打ち出してくださったことは、本当にありがたいことだと思います。


そこで救われる人はあるのか問題について書いてみます。
少なくとも、私がかつて所属していた親鸞会では自称を含めても「救われた人」はほとんどいませんでした。「千中無一」「万不一生」そのままの状態でした。


ただ、一度そこを出るといろんな有り難い方々に出会いました。私が「救われた人かどうか」を認定する力はありませんので、○人に一人という数字を出すことはできませんが、確実に南無阿弥陀仏に救われたと喜ばれている人はおられます。





しかし、タロウさんのコメントを読みますと、このようにしなければ救われないというモデルケースを想定して、そんな風に自分はなれないよということで書いておられるのだと思います。しかし、その考えはよく考えてみなければなりません。


歎異抄に、親鸞聖人のお言葉として、以下のものが有名です。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(歎異抄 後序 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P853)

http://labo.wikidharma.org/index.php/歎異抄#P--853


この私一人がためというのは信心のことでも同じことです。
例えば妙好人がこのように喜んだとか、このように求道したということを真似する必要はない訳です。そのことについては既に聞いておられると思います。
加えて言えば、信心の喜びや、信心をいただいた上でのその人の語る言葉も、その人その人でいろいろ違いがあってもよいのです。南無阿弥陀仏に疑い無いという以外は、みんな違います。


ある人が信心を頂いて泣いたから、信心を頂いた人はみんな泣かなければならないということはありません。信心を頂いた人が喜んだからといってその人の真似をする必要はありません。泣いてもいいですし、喜んでもいいのです。また、泣かなくてもいいし、喜ばなくてもいいのです。何も人のマネをどうしてもしなければならないということではありません。


それは、なんとかなろうと聞いているときも同じです。「あの人はこうだったそうだからこうしよう」という考えは、「私一人がための本願」ではありません。ただの「他人が救われた本願をまねている」にすぎません。人まねは、自分の仏道ではありません。そこで、「人はこうだったからこうしようと思ったけど、そんなの無理です」というのは、そもそもとして人まねなので、「私一人がための本願」とは成っていません。


そういう意味で「ただ一つの正解」がないのが、救われるまでの道程であり、救われた後の世界です。もし、そんなものがあるならば、浄土真宗の門徒は親鸞聖人がされたように比叡山に出家してから山を下りて、念仏の教えを聞き、救われたならば生涯いわゆる普通の仕事をせずに布教に一生を捧げ、著作も多数書くことになります。こういうと、「親鸞聖人は別格です」という人もあるかもしれませんが、そんなことはありません。親鸞聖人御自身が「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と仰ったのは、一人一人求める過程も、救われた後も違うということを言われています。


タロウさんには、タロウさんの「ひとえに私一人がため」の仏道があります。
とはいっても、それは南無阿弥陀仏の道なのですが、ただ今救う南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われて下さい。


タロウさんのコメント

タロウ 2018/10/05 10:46
>今日も駄目だったかと

大半の人がそんな感じではないでしょうか?
おそらく、信心獲得などすることなく生涯
を終える人のほうが遥かに多いのではないかと思います。
残念なことに、極めて稀な選ばれし者だけしか信心を頂
くことないというのが現実と思っています。
聖道門で救われるのは「難中の難」と言った偉人も
おみえですが、むしろ浄土門こそ「難中の難」という禅僧もいます。
禅修行なんぞできるわけもなく、易行も役に立たない
という現実を思う時、一休さんが残した、
「釈迦といふいたずらものが世にいでて」
っという歌がとてもしっくりきます。
仏教なんぞに出会わなければよかったと思うこともあります。

「いつかは、いつかは・・」
この希望こそが問題を深める元になっていると思えて
仕方がありません。
こうやれば信心を頂ける、こうやれば「救われる・悟れる」の
「こうやれば」というものはない・・っというのであれば、
まったく手の付けようがなく、始末が悪いです。
禅修行の極意は「何もしないこと」なのだそうです。

そもそも、なぜ仏教では、みな救われるというのでしょうか?
お寺(或いは仏教界)の営業活動なのでは?と思われるフシが
あります。
聴聞すれば救われる、念仏すれば救われる・・
実践者の、せめて10%でも救われている事実でも
あればと思うのですが、せいぜい1000人とか1万人
に1人でしょう。
救われない人のほうが遥かに多いのが現実でしょう?
「いや、いや、すでに救われているのだ」っと
いった話は心が納得しないわけです。
聞くのは「耳」ですが、聞いたまま「救われている」とは
思えないように心がでけています。なので、自力は役に
経たないから絶対他力にお任せなのでしょうが、
「お任せする」という発想が既に自力です。
どうにもこうにも手が付けられません。
仏教というのはホントにクセが悪いのです。
自分でも何を言ってるのかわけがわからなく
なってしまいました。

熱心な方の夢をぶち壊すような書き込みになって
しまいましたが、私と同じ思いの人はとてもとても
多いと思います。

山も山さんのネットラジオは毎日「耳ダンボ」に
して聞きまくっています。