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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-10-07

ネットラジオ版安心問答#010・「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。(タロウさんのコメントより)を更新しました。

#010 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。(タロウさんのコメントより) by ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について) ? A podcast on Anchor

以下のタロウさんのコメントについて話をしました。

タロウ 2018/10/06 22:38

山も山さんこんにちは。

わざわざ記事にしてくださりありがとうございます。

>それは、なんとかなろうと聞いているときも同じです

わからないのがここです。

これだと、

「なんともなろうとは思ってない聞き方」があると解釈

できてしまします。

ネットラジオNo4で山も山さんがお話になった、

「聞思して遅慮することなかれ。」っという

ことなのだと思うのですが、心の性質上そんなこと

が可能とは思えないのです。耳で聞いた情報は、耳に入ってき

た瞬間に思いが(計らい事が)働き、自分勝手に解釈

してしまうようにでけていると思うのですよ。。

「聞思して遅慮することなかれ」

これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という

ようなものではないかと思うのです。

つまり、できっこないことをヤレ!と言われている

気分なのですよ。

気にする、注意する、思う・・っといったことは、

わりかしできますが、

・思うな

・気にするな

・計らうな

これは無理っぽいです。

・思う必要がない

・気にする必要がない

・計らう必要は無い

これが腑に落ちる縁に出会った時に初めて可能

になるのだろうとは思います。

聴聞というのは禅の公案みたいな

ものなのかな?とは勝手に思っています。

聞いたまんまが信心です・・の、聞即信。

聞いたまんま、そうですね・・っと、

ならないのが煩悩の仕業であるとは

思ってます。

「必ず救う、我に任せよ」・・

これが、たとえおとぎ話であろうがなんだろうが、

本心から、

「ホントにそうなんだぁ!、なんてこったいウヒョー!!」

っと思い喜べたら、それは間違いなく素晴らしいことです。

頭がイカれた奴と思われても私は一向に構いません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181006/1538814415#c1538833128

こちらからも聞けます。

Google ポッドキャスト - ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について&#652

Apple Podcat内のyamamoyama「ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)」

ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について) on Spotify

タロウタロウ 2018/10/07 11:11 ラジオ番組の題材にまで取り上げて
いただきありがとうございます。

拝聴させていただきます。

愚愚流愚愚流 2018/10/07 13:46 タロウさま
 
割り込み、失礼致します。
とても真面目に考えおられることが伝わってきます。

埼玉が近い、遠い、は自分の思いだけで線引きするこの世だけの問題。
その判断をしている自分に対する信頼はどこから来るのでしょう。その判断に間違いはないのでしょうか?その判断に間違いがあるのなら一体、その間違いによって自分はどうなってしまうのでしょうか。
この世の問題は自分の判断で処理して生きられても
浄土往生は自分の判断で実現しません。
当たり前でしょう。人間にその能力はありません。
逆に自分のはからいのない、仏様のお言葉の通りに浄土往生は実現します。
仏様のお言葉と、自分の考えのどちらを選択するかだけの問題です。
仏教を聞いていても、仏様のお言葉を信頼しきっていないのなら、聞いていないのと結果は同じです。

自分の心持ちで救われるのではありません。
自分の心持ちをあれこれ考えるよりも助けようとされている阿弥陀様のお心を考えてみて下さい。
阿弥陀様はすぐ、そこに、来ておられます。

愚愚流愚愚流 2018/10/07 13:46 タロウさま
 
割り込み、失礼致します。
とても真面目に考えおられることが伝わってきます。

埼玉が近い、遠い、は自分の思いだけで線引きするこの世だけの問題。
その判断をしている自分に対する信頼はどこから来るのでしょう。その判断に間違いはないのでしょうか?その判断に間違いがあるのなら一体、その間違いによって自分はどうなってしまうのでしょうか。
この世の問題は自分の判断で処理して生きられても
浄土往生は自分の判断で実現しません。
当たり前でしょう。人間にその能力はありません。
逆に自分のはからいのない、仏様のお言葉の通りに浄土往生は実現します。
仏様のお言葉と、自分の考えのどちらを選択するかだけの問題です。
仏教を聞いていても、仏様のお言葉を信頼しきっていないのなら、聞いていないのと結果は同じです。

自分の心持ちで救われるのではありません。
自分の心持ちをあれこれ考えるよりも助けようとされている阿弥陀様のお心を考えてみて下さい。
阿弥陀様はすぐ、そこに、来ておられます。

タロウタロウ 2018/10/07 14:31 愚愚流さんこんにちは。

>阿弥陀様のお心を考えてみて下さい。

仰せの通りにいたします。

ありがとうございました。

YGMYGM 2018/10/09 09:52 タロウさん
思考そのものが私??思考なぞは八識中の意識より形而下のもんですぞ。そんなのは私の浅い一部ですよ。

阿弥陀様の願いは、あなたがどう思考しようがそれとは別であり、それより遥か以前から働いています。
納得してすっきり理解したいでしょうが、あなたが納得されようが有難がろうが関係ありません。

AbcAbc 2018/10/10 01:32 よこから申し訳ございません。Abcです。

>>それは、なんとかなろうと聞いているときも同じです

わからないのがここです。

これだと、

「なんともなろうとは思ってない聞き方」があると解釈

できてしまします。 (タロウさん)


「なんともなろうとは思ってない聞き方」、尤もな記述かと私は考えております。
親鸞は、『尊号真像銘文』善導和尚の六字釈 にて、
 「「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、[乃至] かならずといふは自然に往生をえしむとなり、自然といふは、はじめてはからはざるこころなり。」とございます。

いきなりの引用文で驚かれるかとは思いますが、殊に申し上げたいことは、「自然といふは、はじめてはからはざるこころなり。」と言う箇所でございます。

 それゆえ、『和讃』には、「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず」 ともございます。こちらの「自然」も「はからはざるこころ」であり「阿弥陀さまのおん計らい」であります。

「自然」という事柄にて、一番に浮かんでくるのは、「自然法爾の事」でありましょうか。
このお手紙は、「上人あひまいらせてのききがき、そのとき顕智これを書くなり。」とあり、親鸞が話されていることを顕智上人が記されたものであります。 ただここで焦点になってくることは、「誰が書いたか」ではなく「自然とは?」です。以下に抄出します。

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

最後に
 今回は、「なんともなろうとは思ってない聞き方」について、親鸞の著書より抜き出しながら説明いたしましたが、いかがでしたでしょうか。「自然」ということは「阿弥陀さまのおん計らい」のことであります。その計らいにお任せする「自然法爾」という名前にはほかにも様々ございますから、その「さまざまなお名前」をお聖教から探し出すのもよいかもしれませんね。

なもあみだ なもあみだ
Abc

タロウタロウ 2018/10/10 11:54 YGMさん

>納得してすっきり理解したいでしょうが、
>あなたが納得されようが有難がろうが関係ありません。

はい。よーくわかりました。
ご教授ありがとうございました。


Abcさん、


心が何を思い、この身がどう行動するかは、
心と体に根付いた条件付けが全てを決定
するものだと思っています。ぶっちゃけ、人には
自由意志などないということです。
ならば、全ては阿弥陀様の仕業でしょう。
これこそが「自然」というものかと思っています。

阿弥陀様は私に何をさせようとしてるのだろう?
っと、思う昨今です。
これも私の「勝手な」考えです。

ご教授ありがとうございました。

AbcAbc 2018/10/10 22:14 タロウさん

ご返信いただきありがとうございます。
タロウさんが疑問に思われた点について私なりに記しておきます。

>阿弥陀様は私に何をさせようとしてるのだろう?(タロウさん)

そのように思われたならば、阿弥陀様はもう目の前にいらっしゃるのでしょう。まことに有難いことです。なもあみだなもあみだ。

さて、「阿弥陀様がわたしに行わせようとされていること」それは「念仏」であります。

「「念仏(称南無阿弥陀仏 『観経』より)」は「真宗」である」ともいわれます。その根拠として以下の『和讃』がございます。

念仏成仏これ真宗  万行諸善これ仮門 
  権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ(『浄土和讃』)

であります。

また、「天親の回向文」(『願生偈回向文』とも)にも、

世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国 (『回向文』 『浄土論 願生偈』に記載)

とあります。この回向文では主語が「世尊」とありますが、この「世尊」は、「阿弥陀さま」でもあり「お釈迦さま」でもあります。

それは、前に引用しました『尊号真像銘文』の「善導六字釈」にて、

 「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。(「南無」についての解説)

とございます。先述いたしましたとおり「阿弥陀仏 = 自然 = 行者のはからはざるこころ = 不回向 = 行者のためには非行・非善」であり、
今示しました「南無 = 二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころ = 発願回向之義」でありますから、わたしたち真宗のものが懇ろに申し上げれれている「南無阿弥陀仏(なもあみだ なんまんだぶ なむあみだぶつ なまいだ 等)」は「釈迦・弥陀 二尊の通りに安楽国に生まれようと願い(安楽国を願生し)、「私のはからい(自力)を交えないで阿弥陀さまにお任せします。」とお任せする」ということであります。

タロウさんも「「南無阿弥陀仏」に生き、「南無阿弥陀仏」に生かされ、「南無阿弥陀仏」と楽しまれるお念仏の日々」となられていただきたいです。今回のご質問、まことにありがとうございました。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

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