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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-10-16

「浄土真宗の教えは教えを聞いて「金が儲かる」「病気が治る」「長生きする」というような新興宗教が言うような現世利益が無い教えであると理解しております。そうすると浄土和讃にある現世利益和讃が少し引っかかります。(園児さんのコメントより)

園児 2018/10/15 00:08

こんにちは

いつもご説法ありがとうございます。浄土真宗の教えは教えを聞いて

「金が儲かる」「病気が治る」「長生きする」

というような新興宗教が言うような現世利益が無い教えであると理解しております。

そうすると浄土和讃にある現世利益和讃が少し引っかかります。

「阿弥陀如来来化して

息災延命のためにとて

 『金光明』の「寿量品」

 ときおきたまへるみのりなり」

「南無阿弥陀仏をとなふれば

 この世の利益きはもなし

 流転輪廻のつみきえて

 定業中夭のぞこりぬ」

などは「寿命が延びる」「早死にを防ぐ」ととらえることができるように受け取れますし

「山家の伝教大師

 国土人民をあはれみて

 七難消滅の誦文には

 南無阿弥陀仏をとなふべし」

は国家の平和や災害を防ぐために念仏を「祈祷」に近いように称えるように思えます。

親鸞聖人新興宗教のような現世利益を説くことはあり得ないと思いますが、和讃の解説書を拝見しても利益を肯定しているようにみえます。これらのご和讃の正しい理解をご教示いただければと思います。よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181014/1539459506#c1539529734

現世利益の意味について、最初に浄土真宗辞典から引用します。

○現世利益の意味

げんぜりやく 現世利益

現世において得る利益のこと。浄土真宗では仏・菩薩などへの祈願・祈祷によって現世利益を求めることを否定するが、他力信心の行者は現生正定聚などの利益を得るとする。(浄土真宗辞典


ここでも言われますように、現世利益とは仏・菩薩への祈願・祈祷によって得られる利益を一般にいいます。現世でさとりをひらくことも否定されますが、現生正定聚に入ると親鸞聖人は言われています。

煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。

この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。(入出二門偈)

https://bit.ly/2EneSpN

正定聚に入るといっても、それは往生定まる身になることで、「正定聚といわれるさとりをひらく」ことではありません。しかし、その信心さだまったその信心の徳についていえば凡夫ではないといわれています。



実際問題として、正定聚のさとりを開いている訳ではないので、信心獲得した人が「私は正定聚になった」とか「私はすでに凡夫ではない」と確信するようなことはありません。南無阿弥陀仏は、私を浄土に往生させ仏にしてみせるとよびかけて下さっていることを聞いて疑い無いだけです。ただ、その常によびかけ働き掛けられている南無阿弥陀仏の徳から言えば、「仏に成るに定まる」と言う点で正定聚の位の人と同じような身にさせて頂いているということです。この現世で仏に成るに定まるというのが、最も親鸞聖人が重きをおいておられたところです。その意味での「現生正定聚」です。



○現実問題と信心の徳

そういう意味で、親鸞聖人がいわれた「現世利益和讃」に書かれていることは、「現実問題(第三者的にみても)そうなるのか」ということと「信心の徳(南無阿弥陀仏の徳)から言えばそうなる」ということを分けて見ないと誤解をすると思います。

そこで、園児さんのコメントに書かれた和讃を見ていきます。

(96)

阿弥陀如来来化して

 息災延命のためにとて

 『金光明』の「寿量品」

 ときおきたまへるみのりなり」

(99)

南無阿弥陀仏をとなふれば

 この世の利益きはもなし

 流転輪廻のつみきえて

 定業中夭のぞこりぬ(現世利益和讃

https://bit.ly/2NN5U4E

これは、コメントにもあるように、長生きできるようになると読めますし、そう書かれています。

ただ、先ほど書きましたように「信心獲得した人は本当に長生きするのか」ということを聞くと、「現実問題」としては検証のしようがありません。なぜなら、同一人物が信心獲得した場合と、そうでない場合の寿命を測定することはできないからです。また、信心獲得した人5000人と、そうでない人5000人の平均寿命をとるということもできません。理由は、「信心獲得した」という人の認定が第三者的には不可能だからです。


○長生きをどう定義するか

さらに言えば、「あの人は100歳まで生きたのに、私は70歳だった、日本人の平均より低いから長生き出来なかった」といっても、本来はその人が50歳までしか生きられなかったのだといってしまうと何も言えなくなってしまいます。

このように「現実問題」としての現世利益を、一般の感覚で考えるとそもそもとして証明ができないことばかりです。


もちろん、親鸞聖人が現世利益和讃で書かれていることは、「親鸞聖人の現実問題として実感したことだけ」を根拠として書かれているものではありません。すべて、経典はじめお聖教等に記されていることから書かれているものです。


そこで、上記のご和讃も、信心の徳という点から見ると不思議なことは書かれていません。

なぜなら、信心獲得の身になることは、現生正定聚の身になるということであり、浄土に往生して仏になる身に定まるということです。つまり、「死んだら終い」と思っていた凡夫が、「死んだら終い」ではなく無量寿の仏になる身にさだまったということです。その徳からいえば、一般に言う「長生き」という視点からは外れたものということになります。100歳まで生きても、生きなくても、無量寿の仏にするという南無阿弥陀仏の徳からいえば、いってしまえば何方でも変わらないということです。


○頂いた命ということ

つまり「実際問題(第三者的にわかる)」長生きは、計測できないし、それを問題にするのは私を知っている人の判断の問題です。「私の父親は長生きだった」「私の母親は早死にした」と、いわれたところで、信心獲得した人からすれば、信心の徳からすればたとえ何歳でこの命が終わっても「頂いた命」としかいいようがないので、それに長いとか短いというのもおかしなものです。必ず無量寿の仏になる身にして頂くのですから、一般的な意味では長生きさせて頂けるわけです。


○「七難消滅の誦文」について

次の和讃についてです。

(97)

山家の伝教大師

 国土人民をあはれみて

 七難消滅の誦文には

 南無阿弥陀仏をとなふべし(現世利益和讃

https://bit.ly/2ChTMWY

これは、事実として過去に嵯峨天皇から伝教大師に対して、病気や戦で世情が不安な時にこれをどうしたら鎮められるのかと尋ねたことがありました。それに対して伝教大師は、金光明経などによって念仏を勧められたことがあったことから書かれているものです。

嵯峨の天皇の御時、天下に日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづれの行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師最澄)に勅問ありしかば、「七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず」とぞ申されける。(持名鈔)

https://bit.ly/2yjE1Mn

ここで伝教大師が勧められたのも、経典にもとづいての勧めです。この「金光明経」だけではなく、南無阿弥陀仏の功徳利益を褒め称える経典はいくつもあります。それだけ南無阿弥陀仏のお徳というのは大変有り難いものだからだといえます。


○現実問題として七難消滅のしたのか問題

そこで「現実問題として」この嵯峨天皇の時に七難消滅したのかということについては、検証しようがありません。その時代から現代にいたるまで、地震や水害、病気や戦争は絶えず起こっています。だからといって「これはウソだ」というのもまた、証明ができない問題です。それについて浄土真宗の門徒の間では、昔から「大難を小難にしていただいた」という言い方をしてきました。水害が起きても、「本当はもっと大きかったかもしれないのだ」といわれてしまうとなんとも言い様がなくなってしまいます。


それに対して、南無阿弥陀仏のお徳ということからいえば、金光明経にも記されていることなので、そのように受け取るということです。社会全体ということではなく、南無阿弥陀仏と聞いている一個人からすれば、いつ死んでもどんな目にあっても全く不思議はないものですから、それでも一日生きたらそれはお陰様というしかありません。


○まとめ

その意味で、南無阿弥陀仏のお徳とそれによって浄土に往生して仏になる身に定めていただいたことを、有り難く讃嘆されたのが現世利益和讃です。

園児園児 2018/10/16 11:51 山も山様

お答えありがとうございました。ご教示を見て、あらためてご和讃を拝見したら「南無阿弥陀仏をとなえたら〇〇の利益が得られた」という事実は述べられいないことに気づきました。経典を根拠にして「こういう利益が説かれています」と解説されている内容です。
「七難消滅の誦文」の和讃は「他宗でも南無阿弥陀仏を大事にしている」という事実を述べられたように思いますが、実際に「七難消滅」になったとは書かれていません。

私が出した前の二つの和讃については正信偈の曇鸞大師の段の
「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」
を思い出しました。曇鸞大師が菩提流支三蔵に対して自分が授けられた仙人の教えである「長生不老の術」を誇ったところ、菩提流支三蔵が唾を吐き捨て「仏教では寿命無量が説かれている」と観経を示され、それを見た曇鸞大師が仙経を焼き捨てて浄土門に帰したという話です。
親鸞聖人の教えの真意は現世での長寿ではなく「阿弥陀仏に救われれば浄土に生まれて、無量寿を得る」ということにあると思います。曇鸞大師が仙経を焼き捨てたということを正信偈で紹介されているのは単に現世利益だけの教えは捨てなさいと教えられているのだと思いました。

脱線しますが、私の家の近くにある新興宗教の本部があります。教えは「信者になればお金が儲かる」という現世利益です。日曜日の朝はその本部のある駅に向かう電車は上りも下りも信者で一杯となります。昔、本部の入り口に潰れかけのそば屋がありましたが、そば屋の主人が信者になったところ、たちまち、店が大繁盛してついには自社ビルまで建ったということです。教団ではこれを利益の証拠としているようですが、なんのことはない教祖が「集会の後はかならずあのそば屋で食事をすること」というお達しをしていたということでした。現世利益と聞くとこの話がいつも頭に浮かびます。

親鸞聖人はご和讃を作られたのは難しい経典を読めない者のために経典や聖教の内容をやさしい和語で教えるためであったと思い出しました。山も山様のご説明も和讃の内容は「現実問題」を述べているのではなく、教えを述べているのだということでした。現世利益和讃が含まれる浄土和讃もまさに大経、観経、小経をわかりやすく紹介している内容と思います。その精神で教えとして現世利益和讃が書かれたとなると今回の話は大変納得できました。

大船大船 2018/10/17 02:07 親鸞聖人は信巻に「浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類」と仰って厭穢欣浄が念仏者の常であることを明かされています。
阿弥陀仏に救われたからといって、この世が極楽になるわけでもなく、厭穢欣浄の心は変わらないのです。
そういう念仏者にとって、死を迎えるまでの人生を如何に生きるのかは、大きな問題です。
それに対して親鸞聖人は、現世利益を説き置いてくださってあります。

南无阿弥陀仏をとなふれば
この世の利益きはもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ

「念仏者の寿命は自分の業や他の者が決める」のではない、「阿弥陀仏が決めてくださる」のですから、
「定業中夭は除かれる」のです。
現世利益が約束されてあるからこそ、
阿弥陀仏に生かされ念仏称える身となれば、あの世のことはもちろんのこと、
この世のことも弥陀任せ、ただひたすらに念仏の人生を送れるのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

園児園児 2018/10/17 09:22 大船様

今年のはじめですが、念仏者で若くに亡くなった方をブログで知りました。最近はお目にかかっていませんでしたが、生前のお姿をハッキリと覚えている方でした。ブログで知った奥様のメールアドレスにメールをしてご著書を送っていただき「仏法を聞くか迷っている」と正直な気持ちを相談しました。背中を後押しするような暖かいお返事をいただき、再び仏法を聞くようになっております。その方が死の間際に残していただいたメッセージで今の自分がおります。しかし「なぜ、こんなにも早くに」という思いがあるのも事実です。

山も山様も書かれていますが、長生きといっても実際は曖昧に思います。単なる数字では計れないとも思います。

「現世利益が約束されてあるからこそ、阿弥陀仏に生かされ念仏称える身となれば、あの世のことはもちろんのこと、この世のことも弥陀任せ、ただひたすらに念仏の人生を送れるのです。」

救われるのも弥陀まかせなら、信後の念仏者としての人生も弥陀まかせなんですね。「この世の次の間が弥陀の浄土だ」と言われた庄松同行の話も思い出されます。何年何ヶ月という数字では表せない寿命に生かされるということでしょうか。
「今生で阿弥陀仏に救われる人生なら、『長生き』したと言える」
という思いで仏法を聞いております。

故嶋田さんのブログです。
http://blog.livedoor.jp/byakudo2/

おおふねおおふね 2018/10/17 21:14 園児様

「この世の次の間が弥陀の浄土だ」

わかりやすい有難い言葉ですね。救われた身にとって浄土はこの世と同じくらい確かな「次の世界」となります。

しかし、現世利益のこととは話しが違います。
結論から言えば、現世利益を説かれてあるのは、念仏者のためであるということです。
「今の間」をどう生きて「次の間」に行くかを問わずにおれない身となって、初めてその有り難さを知ることになるのです。

南无阿弥陀仏をとなふれば
この世の利益きはもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ

「きはもなし」に物差しをあてるのは、弥陀の光明寿命に物差しをあてることです。
「この世の利益きはもなし」を字句の通りに読める身に早くなってください。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

高田馬場高田馬場 2018/10/19 02:54 私は毎日仕事やお金、人間関係に悩み、この世界から抜け出して楽になりたい、楽しい世界で生きたいと願っています。
だから、仏教を聞き求めていけば絶対の幸福になれると聞き、絶対の幸福の世界に憧れ、絶対の幸福になりたいと思うようになりました。
突き詰めれば、私の願いは現世利益で、現世利益を求めて仏教を聞いていることがわかります。。
楽になりたい、楽しい世界で生きたいと思っている私は、どう生きたら良いのだろうと迷っています。
ご意見を聞かせて頂けると有り難いです。

園児園児 2018/10/19 13:02 高田馬場さま

私も30数年前に「絶対の幸福」を求めてその教えを説く親鸞会に入りました。その時の気持ちは今思っても新興宗教の「現世利益」を求める心丸出しでした。なぜならば親鸞会の教えが現世利益を求める心を誘導するような教えだったからです。しかし、求められずに脱会しました。

色々なご縁があり、脱会したブランクの後にまた仏教を聞き始めています。
この時に決意したのは
(1)特別なカリスマを頼って法を聞かない。
(2)経典、聖教の解釈を客観的に行う。特定の人の解説ではなく、広く教説を求める。
(3)献金(布施)を強要するような団体や人物には関わらない。
という事でした。

その上での結論は
「仏教においては『絶対の幸福』という教えはない」
ということでした。『絶対の幸福』という言葉も概念も経典にありませんし、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人のこのようなことを説かれていません。経典や聖教を断章したり、他の言葉で読み替えたり、元の文章に入っていない言葉を挿入したり、他の宗教団体から移入したりで作り上げた創作であるということです。

今、仏教を聞いておりますが、絶対の幸福を求めてのことではありません。今回、現世利益について質問させていただきましたが、あくまでも「ご和讃で読み取れない」事への疑問からでした。現世利益を求めての事ではありません。

親鸞会にいたときは仏教を聞くことが苦痛で、自分が削られてどんどん小さくなっていくように思いました。今で言うパワハラに近い事も多く、狭い所に閉じ込められているように感じて、最終的にはそれに耐えられず辞めました。
今は法話会を調べて参詣したり、勧められた本を読んで、押し付けではなく自分の足で仏教を求めるようになり、仏教がどんどん広がって大きくなって来ています。
「宇宙全体の生きとし生ける全てを救う」という阿弥陀仏の本願が「特定の人物の教えで北陸の一地域だけでしか聞けない」という考え方は阿弥陀仏の御心を思ってもあり得ないことではないでしょうか?地域限定でなければ救えないとなると阿弥陀仏を能力の低い如来と見なしていることになると思います。また善知識方のご著書が「特定の人物でなければ正しく理解できない」というのであるならば「仏法弘まれ」という一心でお書きになった善知識方の文書表現能力を疑っていることになると思います。

最後にもう一度書きますがが「絶対の幸福」などありません。

大船大船 2018/10/19 16:44 園児様
高田馬場様

御二方には法然聖人のお言葉をお示ししておきます。
それぞれにお聞きください。

されば念仏を信じて往生をねがふ人は、ことさらに悪魔をはらはんために、よろづのほとけかみにいのりをもし、つつしみをもする事は、なじかはあるべき。
いはんや仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恒沙の鬼神を眷属として、つねにこの人をまもり給ふといへり。しかればかくのごときの諸仏・諸神、囲繞してまもり給はんうへは、又いづれの仏・神かありて、なやまし、さまたぐる事あらん。
又宿業かぎりありて、受くべからん病いは、いかなるもろもろの仏 神にいのるとも、それによるまじき事也。祈るによりて病いも止み、いのちものぶる事あらば、誰かは一人として病み死ぬる人あらん。
いはんや又仏の御ちからは、念仏を信ずるものをば、転重軽受といひて、宿業かぎりありて、重くうくべき病いを、軽くうけさせ給ふ。いはんや非業をはらひ給はん事ましまさざらんや。されば念仏を信ずる人は、たとひいかなる病いをうくれども、みなこれ宿業也。これよりも重くこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなりとこそは申す事なれ。われらが悪業深重なるを滅して、極楽に往生する程の大事をすら遂げさせ給ふ。ましてこの世にいくほどならぬいのちをのべ、病いを助くるちからましまさざらんやと申事也。されば後生をいのり、本願をたのむ心も薄き人は、かくのごとく囲繞にも護念にもあづかる事なしとこそ善導はの給ひたれ。
おなじく念仏すとも、ふかく信をおこして、穢土をいとひ極楽をねがふべき事也。かまへて心をとめて、このことはりをおもひほどきて、一向に信心を至して、つとめさせ給ふべき也。


南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

高田馬場高田馬場 2018/10/20 11:46 園児さま
絶対の幸福という教えはないので、絶対の幸福を人生の目的にしたら、出口の無い迷宮で宝探しをしているようなものでしょう。
迷宮には抜け出せない仕掛けが随所にあるので出られた人は幸運です。

高田馬場高田馬場 2018/10/20 11:46 園児さま
絶対の幸福という教えはないので、絶対の幸福を人生の目的にしたら、出口の無い迷宮で宝探しをしているようなものでしょう。
迷宮には抜け出せない仕掛けが随所にあるので出られた人は幸運です。

高田馬場高田馬場 2018/10/20 12:26 大船さま
不満をタラタラ言っていますが、紙一重で事故に遭わず、大きな病気もしないで生活させてもらっています。この先事故に遭っても病気をしても自分に都合の悪いことが起きても、念仏のおかげで転重軽受して頂いているのですね。今の状況が身に余る幸せだと思えました。ありがとうございます。
南無阿弥陀仏

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