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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-10-23

「この光明に触れる縁があれば、有ればあるで苦しみ、無ければ無いで悲しむことから今生から解放されるのでしょうか。それとも、この世は煩悩を抱えて束縛から解放されることは無いのでしょうか。分別の束縛から解放されることがなくても、今生は浄土に向かう過去の生とは違う生として頂けるのではないかと思います。」(高田馬場さんのコメントより)

高田馬場様よりコメントをいただきました。

エントリーが遅くなり申し訳ございません。

高田馬場 2018/10/20 13:17

(略)

毎日の生活は、勝った負けた、儲かった損した、美しい醜い、早い遅い、長い短い、多い少ないなどの分別で生きています。分別の世界で満たされようとして満たされることが無く延々と繰り返している姿が迷いではないか思いました。

絶対の幸福については、よく考えたことは有りませんでしたが、大きな喜び、今まで経験したことの無い経験だろうと想像して、絶対の幸福という心境にたどり着けば、人生が明るく楽しいものに変化すると思っていました。

この光明に触れる縁があれば、有ればあるで苦しみ、無ければ無いで悲しむことから今生から解放されるのでしょうか。それとも、この世は煩悩を抱えて束縛から解放されることは無いのでしょうか。分別の束縛から解放されることがなくても、今生は浄土に向かう過去の生とは違う生として頂けるのではないかと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181019/1539945850#c1540009045

絶対の幸福という言葉に惹かれて、またはあこがれて「絶対の幸福になろう」と思っていた時期は私にもありました。高田馬場さんが言われるように理解をして「大きな喜び、今まで経験したことの無い経験」をするのものだと信じていました。


私が、親鸞会に長くいた関係もありますが、阿弥陀仏に救われ後に最初に驚いたのは「絶対の幸福になってない!」ということでした。それでも、私が「絶対の幸福になれなくて絶望した!」とならなかったのは、お聖教に書かれいるように、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」については、その通りと聞いていたからです。


それは、私を必ず助け、浄土に往生させ、仏にするという南無阿弥陀仏に疑い無いならば、私は本願の働きかけの通りに浄土に往生させていただき、仏になるより他はありません。それに勝る「絶対の幸福」というものがあるとしても、阿弥陀仏の救いに勝る何かがある訳ではありません。凡夫を仏にする以上のものが「絶対の幸福」だとすれば、私も驚くでしょう。しかし、コメントに書かれているような「今まで経験したことのない」精神の一時的な高揚感は、仮に有っても浄土真宗ではそれをもって信心とはいいません。実際、浄土真宗においての異安心とされるものには、そのような「精神的な高揚感を信心と取り違える」というものがあります。「歓喜正因」もそうですし、「地獄秘事」も裏返して言えば同じことを言っています。

絶対の幸福という心境にたどり着けば、人生が明るく楽しいものに変化する?

絶対の幸福という心境にたどり着けば、人生が明るく楽しいものに変化すると思っていました。

高田馬場さんのコメントより抜粋)

ここで言われているのは、「絶対に幸福という心境にたどり着けば幸せ」であり、そうならなかったら「不幸」という考え方です。しかし、「絶対の幸福になっていないから、自分は不幸だ」という考え方は間違っています。なぜなら、それも前回のエントリーに紹介した「有無を離る」ではないからです。有るか無いかに拘って、幸福や不幸を想定しています。

以下の和讃は「絶対の幸福になる」ということを言われたものではありません。

(5)

解脱の光輪きはもなし

光触かぶるものはみな

有無をはなるとのべたまふ

平等覚に帰命せよ(浄土和讃

阿弥陀仏の救いの働きによって、有無を離れるとあります。しかし、生きている間はいわゆるさとりをひらくことはありません。そのため、煩悩による束縛からも逃れることはありません。


ただ、有無をはなれて浄土往生する身に定まるので、その点は今までとは異なります。自分の力では、どうにもならないことろを南無阿弥陀仏が救って下さることを聞いて疑い無いならば、全く同じとは言えません。


絶対の幸福ではないけれど、往生浄土すべき今を生きる

自分が何者かも分からずに、ただ目の前のことに一喜一憂していた私が、浄土往生し仏になる者になる人生に変わるのですから、その点は大きく変わります。言い方を変えれば、どこに流れていくから分からない人生から、地に足がついた人生に替わるということです。それは、仕事や人間関係が良好になるということではありませんが、今生きていることと、その生きている今が浄土往生して仏になることにそのままつながっているということです。

そういう意味では、過去を歎くことも、未来を不安に思うことも往生に関してはなくなります。譬えていえば、電車に乗っている状態は変わりませんが、架線切り替えで往生浄土のルートに入ったようなものです。電車に乗っていることも、見える景色もルートの切り替えでぱっと変わるようなものではありませんが、全く違うものになっています。

RCRC 2018/10/23 07:14 山も山さま。

いつも、ありがとうございます。
電場に乗っている我が身は、相変わらず 、自分のことしか心配できず、仏さまに成れるような者では、ありませんが。
お浄土行きの電車に乗せていただいていることに気づかせていただけて、なもあみだぶつ と、お念仏させていただき、安心して 生きていられます。

AbcAbc 2018/10/25 00:00 山も山さん

今回も読ませていただきました、ありがとうございます。

「真宗」というのは山も山さん自身が仰られているように
「私が、親鸞会に長くいた関係もありますが、阿弥陀仏に救われ後に最初に驚いたのは「絶対の幸福になってない!」ということでした。」のとおり、
「絶対の幸福」ではありませんが、「阿弥陀さまにおまかせする」というこれ以上(といって何かと比較するというのもなんですが)ない頼もしさがあります。
 ただそれも、「何を以ってその頼もしさとするのか」と問われたら、「私の方ではなにもしめすことができない」ですが、「仏のかたより往生は治定せしめたまう」ともいわれている「第十八の願」であります。

「第十八の願」は、

・寿命に限りがなく、また智慧にも限りがない とされます。
これは「十三の願」「十二の願」にしるされており、脇時としていらっしゃる「観音菩薩」「勢至菩薩」としていらっしゃいます。

・自らが何か働きかけなければならないものではない お誓いです。
これはだいぶ前に記しました「自然法爾(不回向の行願)」にも記させていただきましたが、今回でいうところの「仏のかたより往生は治定せしめたまう」です。

・「誰でも救う」とされておりますが、「それでも女人は・・・」と疑われる方に「女人は男子に変えてすくう」とされております。
これは「女人成仏の願」といわれる「三十五の願」です。みなみなお念仏にてすくわれるのです。

・「二尊の召しに従って、仏名を称えてはいるが、自分の力で往生したい」という人には、「七宝の獄」という場所を阿弥陀様は用意されております。
これは、「第十九・二十の願(諸行往生)」でありますが、こちらが仏の本意ではありません。仏は「みなひと、わが浄土へ」と呼ばれておいでであります。その仰せに「ふたごころなく」召し従い念仏を称えさせていただき「第十八の願(念仏往生)」とならせていただくのです。

「ふたごころなく」という言葉は「少々砕いた表現方法」でありまして、聖人の御聖教には「専ら」「偏に」などとございます。(そういう意味でご覧いただきますと「偏帰安養勧一切」「円満徳号勧専称」と何度も「もっぱら帰せよ!」といわれていることが見つけられるかと思います。)

等など です。

 このように「説き尽すことができない教え」というのが「南無阿弥陀仏(帰命尽十方無碍光如来)」という「名号」に備わっております。(上述はしませんでしたが、仏像で「金色の仏像」が多いかとは思いますが、それは「第三の願」(または『観経』にてイダイケの前に化現された姿)からきております。)

なもあみだ、なもあみだ
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