Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-11-04

園児園児 2018/11/04 14:13 山も山様
ネットラジオ拝聴させていただきました。蓮如上人のこの言葉がまさに禅問答のような言葉でずっと謎に思っていました。
今回、お答えいただき大変有り難く思います。

自分なりの解釈を載せます。
<心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。>
を二つに分けて考えました。
「心得たと思ふは心得ぬなり。」
・「心得たと思う」=「自分の心に確かな信心が獲られたと思う」=「自力の信心がある」
・「心得ぬなり」=「他力の信心でない」
「心得ぬと思ふは心得たるなり。」
・「心得ぬと思ふ」=「自分の心に確かな信心が獲られていないと思う」=「自力の信心がない」
・「心得たるなり。」=「他力の信心である」
それぞれの文章で前半の「心得」を「自力の信心」と読み、後半の「心得」を「他力の信心」と読みました。

「他力の信心」を金剛心あるいは浄信といいますから、信心獲得すればキラキラ、ピカピカの心が自分の中に見えて来て「これだ、これだ」と(自己)満足する世界となると思いがちですが、「他力の信心」はそのような具体的な形の心が見えて来る訳ではない。むしろ具体的な形の心などない世界である、と受け取りました。

後半にご紹介のあった法然上人のお歌
「月影の いたらぬ里は なけれども
        眺むる人の 心にぞすむ」
「月を眺める」ということは闇夜で月の姿をあれや、これやと思い浮かべることではなく、実際に出ている月を眺めれば自然と心に宿ることです。阿弥陀仏がおられるからこそ「他力の信心」が獲られるのであるから、自分のあれや、これやの気持ちを差し挟み勝手な信心を作り上げるのではなく、ただ、まっすぐに阿弥陀仏に向かいなさいという事だと思います。

勝手な感想で申し訳ありません。今後もよろしくお願いします。

AbcAbc 2018/11/06 23:03 園児さん

突然の横槍申し訳ございません。
>「他力の信心」はそのような具体的な形の心が見えて来る訳ではない。むしろ具体的な形の心などない世界である、と受け取りました。(園児さん)

さようでございます。『自然法爾のこと』には、以下のようにございます。
『自然法爾の事』(『親鸞聖人御消息』末灯鈔(5) 自然法爾の事)
 「ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。」

とございます。元来から「はかりなきいのち」「はかりなき智慧」を「アミダーユス」「アミダーバ」と申しそれらにお任せする意にて「ナマス」をつけ、「ナマス・アミダーユス・ブッダ」「ナマス・アミダーバー・ブッダ」と称しておりまして、それが震旦(中夏・中国)にはいりますと「南無阿弥陀仏」(もいくは「帰命不可思議光如来」のように各々のおちから(光明)を称した名号)が称えられ、それが日域(日朝、日本)に伝来し、「なむあみだぶつ」「なまいだ」「なんまんだぶ」などなどその土地々々の呼び習わしにて称されてまいりました。

 突然の横槍申し訳ございません。
なもあみだ、なもあみだ
Abc

園児園児 2018/11/07 08:44 Abcf様

>突然の横槍申し訳ございません。
とんでもありません。いつもご教説を有り難く拝見させていたいております。

自然法爾という言葉もとらえどころがなく、なかなか分かりにくかったのですが、今回の話と繋がっていることがわかり、理解が進みました。ありがとうございます。

善知識方のお話が時に逆説的に思えることがあります。代表的なのが歎異抄の悪人正機の話ですが、今回の心得たという話もそうでした。他にも

「易往而無人」
「愚者になりて往生す」
「義なきを義とす」
「人にまけて信をとるべきなり。」
「たすけたまへとたのむ」

…とありますが、頭の中がグルグルとする話です。一つ分かったのは「自分の方が引っくり返っているので、逆説に聞こえてしまうのではないか?」ということでした。今、仏教を教えていただける方々が幸いにも何人もいらっしゃるのですが、みなさまから「仏様の目線で法をみなさい」と教えていただいております。

上のご文もすべて「私の方から何かをして助かるのではない、ひとえに阿弥陀仏が私を助けるのだ」ということを念頭におくと、逆説と感じずに読むことができます。言葉は違っても助からない「自力の信心」ではなく、「他力の信心」の身になりなさいと読めると思います。

善知識の方々が禅問答や言葉遊びで法を説くわけはないので、逆説に感じたり、素直に読めないのはやはり引っくり返っている私の方に原因があると思えます。自分の心を確認しながら毎日、お聖教を拝読しております。

今後もご教示いただければ幸いです。

AbcAbc 2018/11/07 21:44 園児さん

こんばんわ、Abcです。
今もこのようにして仏法の話を解くことができるのは、やはり阿弥陀様のお働きなのかもしれません。有難いことであります。

さて、ご返信にて示していたがいた事柄について微力ではございますが紐解いてまいりましょう。

>「易往而無人」
こちらは蓮如上人が「行きやすく、人なし」と言われている事柄であります。
親鸞聖人『尊号真像銘文』
「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。」

蓮如上人『御文』 二帖目 第七通
 「『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。」
とございます。念仏行という大行は大変行いやすいので「易行道(龍樹大士)」ともあらわされますが、「わたしがわたしが」という自力を棄て去れないために「人なしと」いわれます。

>「愚者になりて往生す」
>「義なきを義とす」
こちらは源空聖人が浄土の教えを修めるものに対してご教授される際にしめされる事柄であります。『末灯鈔(6)』には、
 「故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。」とございます。こちらは「聖道諸宗の方たちは、種々格別の行いを修めての後に、さとりを開かれる」ある種「貴きもの」でありますからそれに対する表現であります。

「義なきを義とす」と言う言葉は「源空聖人の教え」を代表する言葉として「選択本願」とともに挙げられます。またどちらも「弥陀18の願」の言いかえとして用いられます。(「選択本願」、「無義以義の願」)例としまして、「お手紙」を挙げておきます。
『末灯鈔(2)』
 「また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。」


>「人にまけて信をとるべきなり。」
>「たすけたまへとたのむ」

こちら2つは蓮如上人が門徒に宛てて記された『御文』などに挙げられていることであります。
『蓮如上人御一代記聞書』
 「(160) 一 総体、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。」

『御文』 二帖目 第八通
 「この信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。ねんごろにこれをきかんとおもふなり。

 答へていはく、それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。このうへになほこころうべきやうは、一心一向に弥陀に帰命する一念の信心によりて、はや往生治定のうへには、行住坐臥に口に申さんところの称名は、弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる大悲の御恩報尽の念仏なりとこころうべきなり。」

とございます。「はや往生治定のうへには、行住坐臥に口に申さんところの称名は、弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる大悲の御恩報尽の念仏なりとこころうべきなり。」と信後を記されておりますが、私たちが未だ弥陀に任せていない「信前」もまた「弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる大悲を信知すべき機」でありますから、「信後」の「御恩報尽の念仏」はもちろんのこと、「信前」の「阿弥陀様のお働きを聖教などから知る「証知」ということがら」も大切であるし、尊ぶべきことだと私は考えております。
 ですから、よく「すくわれるにはどうしたらいいでしょうか」という問いに対してわたしは「念仏称名励むべし」と答えております。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181104/1541274309