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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-02-04

2018-02-03

「長く仏法聴聞しておりますが、いまだに後生に驚きが立ちません。どうすれば救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

「長く仏法聴聞しておりますが、いまだに後生に驚きが立ちません。どうすれば救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

このように後生に驚きが高まると救われるが近い、または後生に驚きが立たないと救われないと思っている人がいます。その意見については、私も以前はそのように考えていた時期がありましたので、お気持ちはよくわかります。


結論から申しますと、そのようなことはありません。このエントリーを読まれている方で「後生に驚きが立っていない」状態でもただ今救うのが、阿弥陀仏の本願力です。


ではなぜそのように考えてしまうのかについて少し考えてみたいと思います。

まず、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、ただ今現在救われないといけないことになります。


しかし、ただ今救われると聞くと、何かものすごい変化が起きるような気がして、その前に1つステップがあるはずだと勝手に考えてしまいます。ちょうど花が咲くのにはタネから芽が出て葉が茂り、大きくなってつぼみができてやっと花開きます。そのようなものを想像してしまいます。以前お会いした方の中には「蓮の花が開くのはポンと開いて時間がかからないでしょうが、そこまで茎や葉が伸びるのには時間がかかるではないですか!」と言われた方もありました。


信心という花か開くには、つぼみの状態や、そろそろ開きそうだという状態になるはずだと考える人があるのは、有る意味自然な発想だと思います。ところが、そうなると今の今までそれこそ何年も話を聞いたり求めてきたのに、ある日突然何の前触れもなく救われると心に決めて、阿弥陀仏の救いの喚び声に対して耳に蓋をしてしまいます。


以前の私はまさにそのような考えで、それこそ棚からぼたもちのようにある日突然救われるなんておかしいと考えていました。


そこで、参考にするのは過去の妙好人と言われる人たちや、いろんな人の獲信体験です。当時私は救われる前になると後生が苦になって夜も眠れないようになってくると言う話を聞いていて、また後生が苦になったら赤飯を炊いて喜ばねばならないのも聞いたことがあります。実際に、後生が苦になって夜も眠れないという人もありますし、そういう人に会ったことがあります。


その頃の私は、そのような夜も眠れなくなる体験もなかったので、これは真剣に求めていないからだとに考えていました。そのため、真剣に求めていけばいつかそのような切羽詰まった心境になるのならと考えています。しかし実際はそうではありません。阿弥陀仏の救いを聞き、言われるにはそのような前段階のステップを踏む必要はなかったのです。


御文章には、そのような造作はいらないのだということを「なにのやうもなく(何の造作もなく、はからいなく)」と言われています。

それ、在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。(御文章5帖目3通 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1190)

https://goo.gl/g5Bj7P

この御文章を御覧になるとわかりますが、「なにのやうもなく」であって、「後生に驚きが立った人限定」ではありません。その証拠に、この御文章の相手は「在家の尼女房」です。今日でも、当時でも家庭をもった女性は忙しいのです。気がつけば一日終わっていたというのは、実生活の感覚としてよくあるものだと思います。


そんな人が救われるということを、言われているのが上記の御文章です。

ただ、「一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへ」とする一つです。阿弥陀仏のただ今助けるの仰せをそのまま聞き入れる一つです。


「後生に驚きが立つ」ステップを踏まなければならないと言う私の考えもいらないということです。


このような考えになってしまうのは、阿弥陀仏の救いを「私個人のこと」とするものなのですが「全人類」に普遍化してしまうところから来る勘違いだと思います。阿弥陀仏の救いは「ただ今」ですが、それは「あなた」を救うのであって、まったく仏教を聞いたこともない人が、ある日突然救われるという話ではありません。

こういうと、「じゃあそんな人は助けないのか」という方もあるかもしれませんが、そういう人は阿弥陀仏の本願の鑑査員なのでしょうか?阿弥陀仏が本願通りにちゃんと働いているかを検査してるのでしょうか?


少し前の国会の森友学園問題で出てきたのが、第三者機関会計検査院です。会計検査院は、あくまで第三者として国有地の売買が適正に行われたかを検査する期間であって当事者ではありません。


このように会計検査院のような心で、阿弥陀仏の本願を精査しているのが、いわゆる「はからい」と言われるものですが、言い替えるならば「当事者性が抜け落ちている」ということになります。阿弥陀仏は「お前を救う」と名指しされているのに対して「他の人はどうなの?」としているところに、「後生に驚きが立たないと救われない」論が出てくる元があります。


阿弥陀仏が「ただ今救う」と言われているのに「後生に驚きが立ってないので、少し待って下さい」という人がいると考えるとおかしくないでしょうか?そういう状態が、「後生に驚きが立たないと救われない」論の人です。

そんな考えは、横に置いてただ今救われて下さい。

2018-01-07

2018-01-02

2017-12-17

2017-12-05

2017-12-03

「自分の心に振り回されてばかりで疲れてしまいました。そんな時にお念仏しようってふと思い出します。でも何もわからないので最初に「南無阿弥陀仏と称えても何もわからない」と質問させてもらいました。」(セリさんのコメントより)

セリさんのコメントについて、多くの方からコメントを頂きました。有り難うございました。

ここ最近風邪を引いておりエントリーを書いておりませんでした。ようやく治ってきましたので、今回エントリーに書きます。

セリ 2017/12/02 01:00

(略)

自分の心に振り回されてばかりで疲れてしまいました。

そんな時にお念仏しようってふと思い出します。

でも何もわからないので最初に「南無阿弥陀仏と称えても何もわからない」と質問させてもらいました。

(略)

皆さんが異次元のことを話しているようにしか聞こえなくて苦手です。

何を言われても全然わからないからです。

以前、ある先生に同じような質問をしたら、

まだまだだね。と回答されたのですが、

初めて決死の覚悟で聞いたのでそれから質問できなくなってしまって。

だからこうして文章で質問させてもらって、見返したりできてとても有難く思っています。

お念仏のことだけお話できる場はあまりないと思います。

くださったコメントを受けて、苦しいと感じることもあります。

でも自分と同じように苦しんだ人もいるんだ、と共感したりもします。

なんと言ったらいいかわからないですが

このような場所があってよかったです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171119/1511037595#c1512144048

セリさんは、これまでのコメントの文面からすると大変生真面目な面のある方なのかなと思います。

このブログは、管理人がある意味適当なので何を書いて頂いても問題はありませんので、書きたいことを書いて頂ければいいと思います。

ここからは、私が座談会などで感じることを一つ書きます。

それは、信心の沙汰や座談会をしていますと、中には面接試験や口頭試験を受けているような気持ちになっておられる方がいますが、そういうものではないということです。なぜなら、信心というのは定義から言えば「仏願の生起本末をききて疑心あることなし」「弥陀をたのむ」ことであって、それ以上の「表現」や「感じたこと」については「人それぞれ」なので「正解」というものはありません。


とかく「私はこう感じるのですが……どうでしょうか?(正解ですか)」みたいな話はよく聞きます。

しかし、そこで「正解!」と私が言ったところで、それで相済みの信心なら知識帰命の異安心になってしまいます。その意味で、信心というのは、阿弥陀仏の本願に疑いなければ、なんだっていいのです。本願まことと聞き入れるところには、「こうでなければならない」というものはありません。いうなれば「信心警察」の出番はないのです。


もちろんこう言うと、「そんなことでは駄目ですよ」という方もあり、その意見もよくわかります。もちろん異安心を赦すような言い方は慎まねばなりません。しかし、長い真宗の歴史を振り返ると、異安心騒動などを乗り越えるごとに「信心の定義を厳格にせねば」とするあまり、なにか信心とか救いが市井の人々にとって何か遠いものになり、それこそセリさんのいわれる「異次元のこと」のようになってしまっては、かえって人々を阿弥陀仏の救いから遠ざけることになっているのではないかと思います。こういう私も、日常は個人商店で生鮮食品を販売し、あれやこれやと日を過ごしております。ご縁があればあちらこちらに出掛けて話をしておりますが、そこで感じることは、信心とか救いというのは私の日常を離れたものではないということです。


阿弥陀仏の本願力は、早朝市場に出掛けるときや、日中仕事をしているとき、夕方日が暮れたと思う時、そんな時にも常に私に働いて下さっているものです。一日過ごしていて「ふっ」と何かを考えたり、別のことを考える時はないでしょうか?その時に、南無阿弥陀仏は私に働いて下さっているのです。いわゆる「こんなところにいるはずもないのに」という所におられます。一例を挙げると、私は、早朝車を走らせている時、夜明けに西に沈む月を見る時は南無阿弥陀仏の光と思って有り難く思っています。


でも、考えて見ればそのとき「何かを感じているか」といえば、何も感じてはいません。いわゆる「異次元のなにか」を感じてはいません。いってみれば、南無阿弥陀仏がましますという以外にはなにもありません。それをあれこれ「評価」したり「期待」しないのが、「疑心あることなし」ということです。


本願力にすでにセリさんもあっておられます。しかし、それを評価しないことです。評価とは、すなわちあれやこれやという疑いになってしまい、本願力が働かなくなってしまいます。

(13)

本願力にあひぬれば

 むなしくすぐるひとぞなき

 功徳の宝海みちみちて

 煩悩の濁水へだてなし

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版高僧和讃P580)

https://goo.gl/Z849TJ

本願力にあう人は必ず救われます。

2017-11-19

「「救われる」とはどういうことですか?阿弥陀様から信心をいただくことですか?南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?」(セリさんのコメントより)

セリ 2017/11/16 19:27

「救われる」とはどういうことですか?

阿弥陀様から信心をいただくことですか?

南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171113/1510556193#c1510828055

エントリーが遅くなりすみませんでした。

「救われる」とは、RCさんがコメントに書かれてますが、「成仏」です。そして、生きている間は浄土に往生することに定まった身になることをいいます。

信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことですから、信心というなにか「モノ」を頂くことではありません。

そこで南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の本願が成就したものなので、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことをまた、信心といいます。

その意味で、南無阿弥陀仏を称え聞いても疑いがある人は生死流転します。

ただ、お尋ねの趣旨からすると「南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者」と言われていますが、阿弥陀仏に救われた人と言っても何か智慧が勝れるような人になるものではありません。南無阿弥陀仏が、私を助ける本願そのままであると聞き入れるだけであるので、病気がなおったことに例えられます。といいますのは、私たちは病気にかかって、その病気が医者や薬の力で治ったとしても、ただ「病気がなおった」だけであって外は何もかわりません。病気が治った刹那に病気についての専門的知見が身に付くということもありませんし、なぜ治ったのかという医学的な背景が突然理解出来るということもありません。

ここでいう病気が治ったというのは、生死流転するという病が治り、往生浄土が定まり仏になることをいいます。この南無阿弥陀仏で、生死を続ける病が治ったということは疑い無く聞き入れても、それ以外は何も分かりません。

ただこの南無阿弥陀仏が私を救う法だとただ今聞いていることを信心といいます。

「「救われる」とはどういうことですか?阿弥陀様から信心をいただくことですか?南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?」(セリさんのコメントより)

セリ 2017/11/16 19:27

「救われる」とはどういうことですか?

阿弥陀様から信心をいただくことですか?

南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171113/1510556193#c1510828055

エントリーが遅くなりすみませんでした。

「救われる」とは、RCさんがコメントに書かれてますが、「成仏」です。そして、生きている間は浄土に往生することに定まった身になることをいいます。

信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことですから、信心というなにか「モノ」を頂くことではありません。

そこで南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の本願が成就したものなので、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことをまた、信心といいます。

その意味で、南無阿弥陀仏を称え聞いても疑いがある人は生死流転します。

ただ、お尋ねの趣旨からすると「南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者」と言われていますが、阿弥陀仏に救われた人と言っても何か智慧が勝れるような人になるものではありません。南無阿弥陀仏が、私を助ける本願そのままであると聞き入れるだけであるので、病気がなおったことに例えられます。といいますのは、私たちは病気にかかって、その病気が医者や薬の力で治ったとしても、ただ「病気がなおった」だけであって外は何もかわりません。病気が治った刹那に病気についての専門的知見が身に付くということもありませんし、なぜ治ったのかという医学的な背景が突然理解出来るということもありません。

ここでいう病気が治ったというのは、生死流転するという病が治り、往生浄土が定まり仏になることをいいます。この南無阿弥陀仏で、生死を続ける病が治ったということは疑い無く聞き入れても、それ以外は何も分かりません。

ただこの南無阿弥陀仏が私を救う法だとただ今聞いていることを信心といいます。

「「救われる」とはどういうことですか?阿弥陀様から信心をいただくことですか?南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?」(セリさんのコメントより)

セリ 2017/11/16 19:27

「救われる」とはどういうことですか?

阿弥陀様から信心をいただくことですか?

南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者は、今回の回答にあるように生死流転をするのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171113/1510556193#c1510828055

エントリーが遅くなりすみませんでした。

「救われる」とは、RCさんがコメントに書かれてますが、「成仏」です。そして、生きている間は浄土に往生することに定まった身になることをいいます。

信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことですから、信心というなにか「モノ」を頂くことではありません。

そこで南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の本願が成就したものなので、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことをまた、信心といいます。

その意味で、南無阿弥陀仏を称え聞いても疑いがある人は生死流転します。

ただ、お尋ねの趣旨からすると「南無阿弥陀仏と称えていても何もわからない者」と言われていますが、阿弥陀仏に救われた人と言っても何か智慧が勝れるような人になるものではありません。南無阿弥陀仏が、私を助ける本願そのままであると聞き入れるだけであるので、病気がなおったことに例えられます。といいますのは、私たちは病気にかかって、その病気が医者や薬の力で治ったとしても、ただ「病気がなおった」だけであって外は何もかわりません。病気が治った刹那に病気についての専門的知見が身に付くということもありませんし、なぜ治ったのかという医学的な背景が突然理解出来るということもありません。

ここでいう病気が治ったというのは、生死流転するという病が治り、往生浄土が定まり仏になることをいいます。この南無阿弥陀仏で、生死を続ける病が治ったということは疑い無く聞き入れても、それ以外は何も分かりません。

ただこの南無阿弥陀仏が私を救う法だとただ今聞いていることを信心といいます。

2017-11-15

2017-11-13

「救われないまま死んでしまったら、今まで聞いてきたことは無意味になってしまうのでしょうか?だとしたら私が仏教に出会ったことに何の意味があるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2017/11/06 17:54

結局救われなかったものは何処へ行くのでしょうか?

救われないまま死んでしまったら、今まで聞いてきたことは無意味になってしまうのでしょうか?

だとしたら私が仏教に出会ったことに何の意味があるのでしょうか?

何をどう考えても私には助かる縁手掛かりがあるようには思えません。

阿弥陀仏の本願を聞いてもただの「お話し」としか受け取れません。信心と呼ばれるものが欠片ほども沸き起こって来ません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20171025/1508873398#c1509958493

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

エントリーにするのが遅くなり申し訳ございませんでした。

コメント欄に短く書いたので、それに付け加える形で書いていきます。

最初の、「結局救われなかったものは何処へ行くのでしょうか?」については、生死を離れることが出来ないので、浄土往生はできません。いわゆる生死の世界のどこかにまた生まれていくことになります。

次の

「救われないまま死んでしまったら、今まで聞いてきたことは無意味になってしまうのでしょうか?

だとしたら私が仏教に出会ったことに何の意味があるのでしょうか?」

については、意味があるとかないということについては、そういう話ではないというのが答えになります。

今仏法を聞いていることに意味があるとか、ないという話になると、それは救いにとってより有利になるかならないかという問題になってしまいます。今日の私たちの使う言葉で「それって何か意味有るんですか?」「それでは無意味ですね」という時の「意味」というのは「メリット」という意味合いで使われることが多いかと思います。恐らくみそみそさんもそういう意味合いで使われているのではないかと思います。別の言い方をすると、最近よく使われる言い方では「コスパがいい」「コスパが悪い」という感じでしょうか。コスパとは、コストパフォーマンスのことで自分の労力などの投資に対してどれだけリターンがあるかということです。


私が受験生だったころにも、言葉こそないものこのような考えたかは普通になっていました。いかに少ない勉強時間で最大限の効果をあげるのかとみな考えていました。それが大学に行くと、いかに少ない労力で単位を取得するかを多くの学生は考えていました。ですから、出席しなくても単位に影響しない授業に真面目に全部出席するのは「コスパが悪い」ということで、授業の履修者に対して、出席率が非常に低かったことを覚えています。そのように、全てのことを限られた労力に対してどれだけ多くのリターンを獲られるのかということは、今では多くの人が考えている考えだと思います。

しかし、この考え方は大学教育の場ではなじまないと教育現場の方はよくいわれます。なぜなら大学とは文字通り「学ぶ」ところであって「単位取得」「大学卒業証明書」をただ受け取る場ではないからです。それにも関わらず、「単位取得」「大学卒業」が目的化すると、コスパを重要視した結果、いかに授業に出ずに、いかに勉強せずに単位取得をするか、またそうする人の方がスマートなやり方だと考えるようになってしまいます。私が学生時代のころは今ほど就職が厳しくなかったので、いかに「単位取得」するかだけが問題でしたが、今日は就職が厳しいので「いかに就職に有利かどうか」が目的で、同様に授業にどれだけ出るかというコスパを考えて行動する学生が多いとのことです。


同じく、この「コスパ」という考えがあわないのが浄土真宗の救いであり、聞法です。なぜならば、私の労

力が救いとそもそも関係ないからです。いわば私が救われるにあたって私は何も投資をしないので、「投資にみあった救い」というものが存在しません。


ですから、これだけ助かるのに善いだろうと思ってやったことも、往生の手助けともならず、助かるのに不利になるだろうと思っていることも、往生の妨げにはなりません。

口伝鈔にはこのようにあります。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ(口伝鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P878)

https://goo.gl/wLYRh2

お尋ねの内容からすると、救われる為にと思っていままで聞いてこられたことは無意味にはなりません。しかし、足しにもならないということです。

何をどう考えても私には助かる縁手掛かりがあるようには思えません。(みそみそさんのコメントより)

とのことですが、私の方には何も手掛かりは元々ありません。阿弥陀仏の本願は、そういう手掛かりがないものの為に建てられているのですから、私の方を探しても何も出てきません。なぜなら、ないものはどれだけ探してもないからです。

阿弥陀仏の本願は、ただのお話しとしか聞けないとのことですが、必ず助ける本願ですから必ず助かるということがあります。

ただ今南無阿弥陀仏を聞いてただ今救われて下さい。

2017-11-03

2017-10-25

「阿弥陀仏の救いに私が入っていないような気がします」(頂いた質問)

何年も真宗のお話しを聞かせて頂いております。しかし、なかなか「阿弥陀仏に救われた」という心境にはいたっておりません。あれやこれやと考えていると、自分は阿弥陀仏の本願には入っていないのではないか。反対に、救われたと言っている人は、自分とは何かが違うのではないかと考えてしまいます。(頂いた質問)

何年も聞き続けても、何も変わらないと感じるとそのように思われる気持ちもよく分かります。

しかし、阿弥陀仏の救いに質問された貴方は必ず入っています。

それについて、理由を以下に書いていきます。

阿弥陀仏の本願は、そもそも私を救う為に建てられたものです。

そのことを曇鸞大師は浄土論註にこのように書かれています。

仏本(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。(浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P57)

https://goo.gl/i8hrmc

阿弥陀仏が、本願を起こし私を救おうとされたその理由は、私の姿をごらんになると、「ホント」ということが全くなく、しかもそれを際限なく続けて果てしがないことは、尺取り虫が同じところをグルグル回るようであり、蚕が自分の口から糸を吐いて繭をつくりそこから出られなくなるようなものでした。それをあわれに思われて、嘘偽りのない、二度と迷わない世界に生まれさようと思われてのことでした。

そうして建てられた本願でありますから、私が入らない道理はありません。

例えとして、阿弥陀仏を医者、私を病人として、その病気を治す薬を南無阿弥陀仏とするものがあります。これは昔から例えとして使われていますが、現代的に言いますと、私の病気というのは「ウイルス」による病気であり、南無阿弥陀仏は「ワクチン」ということになります。

ワクチンは、それが発見される以前の薬と違うところは、「(ウイルスよる)病気にしか効かないが、それには確実に効く」という点です。例えば、昔から日本にあり有名な薬として「ラッパのマークの正露丸」があります。

f:id:yamamoya:20171024153321p:image

その効能は多岐にわたります。

効 能

軟便、下痢、食あたり、水あたり、はき下し、くだり腹、消化不良による下痢、むし歯痛

https://www.seirogan.co.jp/products/seirogan/

お腹の不具合から、虫歯の痛みにまで効くというかなりの守備範囲を持っています。

それに対して、ウイルス性の病気に対するワクチンはどうでしょうか?

例えば、天然痘ワクチンは、天然痘にしか効きません。それも、発症する前に打たなければなりません。

阿弥陀仏の本願による救いは、このワクチンのように、いよいよ後生と踏み出す前に受け入れればそれによって生死を繰り返す結果を引き起こすことはありません。しかし、そのワクチンは「無窮に輪転する」ことからの救い以外に、特段病気にならなくなるとか、人間関係を修復してくれるものではありません。

ただ、今回大事なことは、ワクチンウイルスからつくられると言う点です。そのため、ワクチンは該当するウイルスにしか効き目がありません。天然痘ワクチンを打っても、むし歯痛には全く効きません。そのため、ウイルスには確実に効きます。

阿弥陀仏の本願は、私が感染するウイルスに対して生まれたワクチンですから、私に効かない筈はありません。もし、効かない人がいたらその人は、最初から「これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相」ではなかった人だということになります。もし、そんな人がいたら、特段後生の心配は必要ありません。もう迷わない人だということになります。

しかし、そうでないならば、その後生の心配も有る意味無用です。その私の「これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相」に対して、つくられたワクチンがあるからです。そのワクチンは、私を迷わせるウイルスからつくられたものですから、確実に効きます。

そのワクチンこそ、南無阿弥陀仏であり、その南無阿弥陀仏を成就した本願のあらわれです。

現在後生が不安な人、自分は一体なんなのかと思いつつ生きている人に、阿弥陀仏の本願は建てられています。ただ今救う本願にただ今救われて下さい。

2017-10-22

2017-10-17

「もう救われる方法にこだわるのは辞めよう。「私を救ってくれる」「どんなときも見捨てないでいてくれる」そんな存在がいると言うだけで充分じゃないか。そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中は空っぽになります。(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2017/09/27 21:05

有難うございます。

しかし、もう救われる方法にこだわるのは辞めよう。「私を救ってくれる」「どんなときも見捨てないでいてくれる」そんな存在がいると言うだけで充分じゃないか。

そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中は空っぽになります。

阿弥陀佛の大悲を全く感じることが出来ません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170926/1506410986#c1506513907

みそみそさんの言われることもよく分かります。

阿弥陀仏の大悲を全く感じることが出来ません」というのは、現在または過去に感じたことのない何かをもって「阿弥陀仏の大悲」と思われているのではないかと思います。私もかつてはそのように思っていました。

しかし、振り返ってみると、阿弥陀仏の大悲というのは救われる前からすでに私に降り注いでいたものだったのだというのが、後から思うことです。人によっては「そんなの分かる訳ないやん」というものかも知れません。

今まで当たり前に見てきたことが、そういわれて見れば阿弥陀仏の大慈悲であったのかと言うのが実際です。

みそみそさんが「心の中が空っぼになります」と言われるのは、ご自身が想像しているところの「今まで見たこともないなにか」にあえないからなのだと思います。


しかし、考えて見ると私が日ごろ接しているいろいろなもののなかで「あって当然」なものは何もありません。それでも、私は最初からあるものに関しては、忘れてしまいます。例えばこの記事を読んでいる瞬間にも呼吸をしている「空気」もあって当たり前になると、その存在は忘れてしまい(または始めから認識しないまま終わり)ます。


例えば、「親」がいる人は「親がいる」ことに「有り難い」と思う人は多くはないかもしれません。また、子供のいる人にしてみれば「子供が生きている。成長している」ことに「有り難い」と思う人は大多数ではないかもしれません。そのいづれも、現在起きているいろいろなことを「当たり前」と思っているからではないかと思います。しかし、それらの目の前にあるものは、ある時に無くなってしまうものばかりです。そういうことからすれば、目の前にあるさまざまなものがあるということは一般的な言葉で言えば奇跡としかいいようがありません。

阿弥陀仏の本願のお働きに関しては、その通りと疑い無く聞き入れるか入れないかの違いはあっても、常に私に働いておられるものです。南無阿弥陀仏の念仏も、すでに称え聞いておられると思います。ただ、その南無阿弥陀仏が「往生の業」と聞いてもそうとは思えない、疑っているだけです。

ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。(親鸞聖人 御消息23 末灯鈔9)

「とかく御はからひあるべからず」と言われています。あれこれと疑うのも計らいですが、「きっとこんなことが実感されるようになるだろう」「今まであったこともないものにあえるのだろう」というのも計らいです。

今まで聞いてこられた阿弥陀仏の救いや仏願の生起本末も、「こういうものだろう」という計らいはあると思います。しかし、そういうはからいは必要ありません。ただ今救う法をただ今救う法と聞いて下さい。

2017-10-06

2017-09-30

「ただ、このバカ(自分です)は永久に、「はい。わかりました」とは絶対に言わないと思います。「わからない」ことは「わかりましたと」は言えません。

口で言うのは簡単なんですけどね・・。○○の事を思うと心配で夜も眠れない・・・。ということは、思わなければ問題ないということです。問題など最初からどこにもないのです。」(タケシさんのコメントより抜粋)

タケシ 2017/09/29 23:03

己のつまらない人生の憂さ晴らしをしているならず者にまで、ご回答くださってありがとうございます。

ただ、このバカ(自分です)は永久に、「はい。わかりました」とは絶対に言わないと思います。

「わからない」ことは「わかりましたと」は言えません。

口で言うのは簡単なんですけどね・・。


○○の事を思うと心配で夜も眠れない・・・。ということは、思わなければ問題ないということです。問題など最初からどこにもないのです。

浄土行きは、死んでからでよいです。そうなる筈です。

・問題も

・問題視する自分も

・この世界も

丸ごと消えます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170928/1506579129#c1506693789

タケシさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

タケシさんは、ご自分で自身を見捨てておられるように感じます。どこかで見限られたというようにいうのが適当なのかも知れません。

問題としては、「自分がどうか」なのではありません。前回のエントリーで、猫のことを例えましたが、言いたかったことは、「相手の言うことが分かる」ということではありません。いい変えると、阿弥陀仏にしろ、例えでいった猫にしろ相手が考えていることの詳細は絶対に分かりません。実の親子でさえも分からないのですから、阿弥陀仏や猫の心が分からないのは当然です。

ただ分かるとすれば、阿弥陀仏が私を疑い無く信じている事です。猫で言えば、猫が私を疑い無く信じていることです。タケシさんがどういう人なのか、どんな考えをお持ちなのか正直私はわかりません。また、私がわかったふりをしたとしても意味がないでしょう。


しかし、阿弥陀仏がタケシさんを信じていることだけは、聞き入れて下さい。タケシさんは、「何を根拠に私を信じているのか?」と思われるかもしれません。それでも、「阿弥陀仏がタケシさんを信じていること」は聞き入れられるのではないでしょうか?

ただ今救う法を聞いて、ただ今救われて下さい。

2017-09-28

「極めてごく一部の人にしか恩恵がない法のようです。残念です。信心決定・獲得とか妙好人とか、悟りを拓いた人など、出あったことがありません。よほど感性が鋭い人でないと気づきは起らないものと思っています。800年経ってもこのありさまです。」(タケシさんのコメントより)

タケシ 2017/09/26 00:51

結局さっぱわかりません。

極めてごく一部の人にしか恩恵がない法のようです。残念です。

信心決定・獲得とか妙好人とか、悟りを拓いた人など、出あったことがありません。よほど感性が鋭い人でないと気づきは起らないものと思っています。

800年経ってもこのありさまです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170918/1505688465#c1506354703

タケシさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

少なくとも私が出会ったことのある範囲の話ですが、阿弥陀仏に救われた人と言うのは、特別に感性が鋭い人に限った話ではありません。いろんな方がおられますが、その「いろんな」というのは日常に出会う人の「いろんな」とそんなに変わらないというのが正直な印象です。人並みはずれた感性の鋭い人ばかりというイメージは、信心獲得したという人に出会われたことがないからではないかと思います。

阿弥陀仏の救いは、そのうような感性の鋭さといった個人の資質に影響されないところが有り難いところです。その点があるからこそ、私もそうですが、これまでに現れられた念仏者は人にも勧めてこられました。もし、個人の資質と救いが関係あるのならば、親鸞聖人は以下のようには言われません。

しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。(教行信証総序)

(現代語版)

このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも生きやすい近道なのである。釈尊が説かれた全ての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。


阿弥陀仏の救いは、「極く一部の人にしか恩恵がない法」ではありません。逆に、「自分のような者は恩恵がない法だと思っている人」の為の法なのです。自分にとっては関係のない救いと思えば、疑いも出てくるでしょうが、唯一つ阿弥陀仏がタケシさんが救われることを信じていることを知っておいて下さい、これは期待しているではなく、「必ず浄土に往生する」と疑い無く信じておられるということです。これは、世の中によくいう「自分を信じろ」ということではありません。そんな風に自分を信じられるのならば、多くの人はあらゆる場面で悩んだり苦しんだりしません。阿弥陀仏は、「自分を信じるな、私(阿弥陀仏)が大丈夫だと信じる自分(ここではタケシさん)を信じろ」と言われています。


そのように阿弥陀仏が「間違いなく私の浄土往生を信じられている」ことを聞いて疑い無いのが信心です。それには、特別鋭い感性も必要ありませんし、年齢も性別も関係ありません。それまでの人生経験も関係ありません。全く純粋に信じられる阿弥陀仏に対しては、私の疑いなどは最早意味のないものになり捨てるしかありません。


例えて言えば、猫が好きな人限定ですが、道端であるいは友人の紹介で生まれたばかりの子猫にであったとして、その子猫が「この人は自分を護ってくれるに違いない」と疑い無くまっすぐな目で見られたら、心が少しは動かないでしょうか。全ての人とはいいませんが、ある割合で子猫が信じた通りに「子猫を護る人」になる人はあると思います。では、その人は特別勝れた人だったのでしょうか?感性が鋭いと回りからも言われているような人だったのでしょうか?


その人を「子猫を護る人」にしたのは、「子猫が私を信じる心」ということになります。私の感性の鋭さではありません。


私が信じる信心ならば、いろいろな資質も必要でしょうが、阿弥陀仏が信じられているという信心は私の資質は必要ありません。

ただ今救う法を聞いて、ただ今救われて下さい。

2017-09-26

「助かる・助からないの結果は後からついてくる、もっと言うなら阿弥陀様が勝手にやってくれることなので、結果にこだわるのは止めよう。そんなことより、この身がある限りこの法を聞かせていただこう。これだけを心に生きていこうと思います。これで良いでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2017/09/24 19:06

お返事いただきありがとうございます。

もうどうやったら助かるのか、どうすれば助かるのか腐心し悩むのは止めようと思います。

だだ、「何があっても絶対に助けるぞ」と私に呼びかけてくれる、そんな存在があるというだけで充分だと思います。

助かる・助からないの結果は後からついてくる、もっと言うなら阿弥陀様が勝手にやってくれることなので、結果にこだわるのは止めよう。

そんなことより、この身がある限りこの法を聞かせていただこう。これだけを心に生きていこうと思います。

これで良いでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170918/1505688465#c1506247616

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「どうすれば助かるのか」という手立てをあれこれ悩むのは止めようとのことですが、それはよいことだと思います。なぜなら、あれこれ悩んだところで「助かる手段」というものがないので、ないものを探しても見つからないからです。

以前は、それでも何かあるはずだと思われて、「あるはずなのに見つからない」ということで悩んでおられたんだと思いますが、止めるにこしたことはありません。

ただ、「助かる・助からないの結果は後からついてくる」に関しては、そうではありません。「助かる」というのを結果とすると、その結果はいまあるものです。後からついてくるものではありません。悩むのをやめた結果が、お助けであり、その結果は後からついてくるというのものではありません。

御文章の聖人一流章でいうと、

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ(御文章五帖目十通)

https://goo.gl/aA478m

ということです。もろもろの雑行をなげすててというのは、コメントの言葉でいうと「どうすれば助かるのか腐心し悩むのは止め」ることです。そうしてそのうち、一心に弥陀に帰命するのではありません。常に阿弥陀仏は助けると働いておられますので、あれこれ悩むのをやめるということは、そのまま一心に弥陀に帰命することになります。また、「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」のも、そのうちにあることではなく、一心に弥陀に帰命するままが、阿弥陀仏の方から浄土往生をただ今定めてくださいます。


お助けも、お救いも、後からついくるのではなくただ今のことです。自分で助かる手段について悩むのをやめられたのでしたら、お助けは目の前にすでに働いておられます。南無阿弥陀仏をただ今助ける法だと聞いて、ただ今救われてください。

2017-09-20

2017-09-18

ただ今聞く法をただ今聞くと言われてもどうしたらいいのかわかりません。何度ただ今救う法を聞かせていただいても、ただいま聞いたという状態になりません。ただ右から左へ聞いたことが流れていくだけで何も自分には残りません。どうしたら良いですか?(頂いた質問)

ただ今聞く法をただ今聞くと言われてもどうしたらいいのかわかりません。

何度ただ今救う法を聞かせていただいても、ただいま聞いたという状態になりません。

ただ右から左へ聞いたことが流れていくだけで何も自分には残りません。

どうしたら良いですか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、ただ今救う法には違いありません。それを聞いて疑い無いことを信心といいます。

そこで、親鸞聖人

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P677)

https://goo.gl/HuJqBH

と言われています。

本願の名号である、南無阿弥陀仏を聞くことが聞いたということです。また、ただ今救う本願だと聞いて疑い無いことを「聞いた」といいます。

そこで、お尋ねでは「聞いたものの自分には何も残らない」と言われています。言い替えると「ただ今救う法とはこういうことだったのか」というものが残らなかったということかと思います。あるいは、涙がでるような感動が起こらなかったということかとも思います。

まず、前者の「こういうことだったのか」というものが残らなかったについて書きます。

「本願をききて疑ふこころなき」とは、「本願とは○○ということであった」と言い替えたり、「本願とはつまりこういうようなことですよね」と概念化や例えられるようになることではありません。南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞き、ただ今助けるは「ただ今助ける」と聞いているのが「疑ふこころなき」ということです。こちらであれこれ本願について注文や解説を加えないことをいいます。


あれこれ注文をつけるというのはどういうことかと言えば「ただ今助けるとはどういうことか?」「例えるならばどういうことか?」「それってつまりこういうことですか?」と何か言葉を付け加えたり、例えを用いないと分からないという状態をいいます。しかし、そういう言葉を足さなくても「ただ今助ける」は「ただ今助ける」以外にはなにもありません。丁度食べ物の味は、別のもので例えてもその味そのものをあらわさないのと同じです。


ですから、「本願をききて疑ふこころなき」といっても、今まで聞いてきた本願が全く別物に聞こえるようになるわけではありません。今まで聞いて何も残らなかった本願が、心の中に何か残る本願に変質するというわけでもありません。「本願」を「本願まこと」と聞いているだけで、本願そのものは何も変わりません。

では、ただ今聞いたという状態になったら何が変わるのかというと、「右から左へ聞いたことが流れていく」という意味では変わりません。ただ、その聞いているままが、そのまま「ただ今助ける法」そのまま聞いているのです。それ以前は、「ただ今助ける」以外の何かがあるという前提で聞いています。それは、本願に注文をつけているのです。ただ今助けるには、それ以外には何もありません。ただ今助けるとの仰せだから、それを聞いているままが、ただ今助かるという信心となります。


次に、後者の涙が出るような感動が起こらなかったについては、そのように感動する人もあるでしょうし、そうでない人もあります。ただどちらにしても、南無阿弥陀仏を自分の所有物として所有できたというような感動はありません。そういうものならば、信心とはいいません。なぜなら、南無阿弥陀仏は、特定の場所や大きさに収まるようなものではないからです。南無阿弥陀仏は助ける法ですが、法の働くところはこの世の全てで働いていない空白地はありません。どこかにあったり、所有できる南無阿弥陀仏ではなく、助ける法が助けると働き、それによって助かるというのは有り難いことです。


しかし、元々ある法のお働きに救われ、聞いてきた法を聞き入れるのですから、「初めて聞いた」「初めて知った」というものはありません。ただ、聞いてはいたけれど、自分であれこれ付け足してまたは概念化していただけで、それは本来の本願を聞いていなかっただけなのです。

ただ今救う法を、ただ今聞いて救われて下さい。

2017-09-12

「真宗において求道、善知識とはどのようなものでしょうか?」(頂いた質問)

二つ質問があります。

1つめは、仏法を聞いてから求道は始まるものですか?

2つめは、善知識についてです。善知識は、自分から求めるものですか?それともすでに出会っているのでしょうか?

また、救われたあとに自分にとっての善知識が誰であったのか知らされるのでしょうか?

どのような人物や書物が自分にとっての善知識になるかは違うのでしょうか?

人から法を聞くのと、弥陀の願心説かれている本を読むのと、もし差があるのでしたら、どういう点が違うのでしょうか?

私は、自分の疑問が言えて、それに答えて頂けるという点で、書物よりも人から聞かせて頂く方が良いのだろうと思っています。人から聞いてもテレビをみるように一方通行であるならば、人から聞く意味があるのかな、というふうにも思ってしまいます。(頂いた質問)

最初に求道について書きます。

一般に、求道はどういう意味で使われているかというと以下のようなものです。

ぐどう【求道】

道とは菩提の意訳。さとりを求めること、あるいはさとりに至るために道を求めること。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

言葉の意味から「修行前提」が求道の定義です。その意味では真宗は「修行で証をひらく」教えではないので、そもそも馴染みません。聞法はいわれますが、その聞法をイコール求道というと意味合いが異なってきます。もちろん、なんとか阿弥陀仏の救いにあおうと思って法座に足を運ばれるわけですから、気持ちとしては「求道」となるのはとてもよく分かります。しかし、「この求道の先に救いがある」と考えると、法を聞き入れるはずが、取りに行くという形になり方向が変わってしまいます。

最初の「仏法を聞いてから求道は始まるものですか」については、最初に法を聞く機会に恵まれて、それを信じて教えの通りに進んでいこうというのが求道ですから、その通りです。しかし、先ほど書いた通りで真宗では求道という言葉は使わず、聞法といっています。

次の善知識についてですが、言葉の定義は、以下のようになっています。

ぜんぢ(ち)しき 【善知識】

悪知識に対する語。巧みな教化者。教えを説いて、仏道に入らしめる者。正しい道に導く者。また仏道に入らせる縁を結ばせる者や、ともに仏道を励む者をいう。善親友・善友・親友・勝友ともいう。浄土真宗では、とくに念仏の教えを勧め導く者をいう。(同上)

念仏の教えを勧めて下さる方とすでに会われているのであればいなければ探すしかありません。すでに出会っているかに関しては、すでに念仏の教えを聞かれているのですから、会っているということになります。

救われた後に自分にとっての善知識が誰であったのか知らされるのか?については、その人その人にとって、思い当たる人はいると思います。たほうがよいです。また、どのような人や書物が自分にとっての善知識になるかというのも、一人一人違ってくると思います。特定の人しか善知識になれない、といものではありません。また、特定の本でしか阿弥陀仏の救いは知らされない、ということもありません。

人から聞くのと、本を読むのことの違いについては「情報量の違い」はあります。文字情報しかないのが本でが、人から聞くとそれに加えていろいろなものが伝わってきます。法話に限らず、同じ人ならば本よりは直接聞いたほうが受け取るものは多いです。また、直接聞くことがあればお互いに思ったように言い合えるのが一番よいとおもいます。本では、読んで分からないことを著者に尋ねることはなかなかできないことも多いですが、話ならば話した人に尋ねることができます。

一方通行ならば、人から聞く意味があるのかなとのことですが、本を読む以上に話す人が伝えたいことは伝わってきますのでとても大事なことです。

その一方で本のよいところは時間と場所に制限されず、法を聞くことができる点です。親鸞聖人の書かれたものも、蓮如上人が書かれたものも、書かれた方に直接会って話を聞くことはできません。しかし、文章で書いて下さったことによって今日の私でも文字を通して聞かせて頂くことができます。また、種々の事情でなかなか法座に足を運ぶことができない時は、文字で法を聞くということもできます。

形はいろいろありますが、南無阿弥陀仏を助ける法だと聞かせていただく場に身をおき、重ねて聴聞することが大事です。

2017-09-03

2017-08-23

浄土真宗の入門書について考えてみる。(その1)

以前、浄土真宗の入門書を書いて見ませんかとお誘いを受けました。その時は、いつかは書いて見たいと返事はしたものの、手付かずのまま今日に至りました。

現在、全く浄土真宗と関係のない人に向けた本は書店にあるのですが、私の個人的な印象としては、それらの本を読んだ人が次に読む本がないというのが正直なところです。入門書を除くと、いきなり専門的な内容の本が殆どなのではないかというのが現状です。

そうはいっても、私に何かいいアイデアがあるわけでもないのですが、その中間を埋めるような本が1万年堂出版から出ている状況はなんともいえない状況でした。

そう思っていた頃、こんな本を読みました。

その前書きにあった内容が、なんとなく私が感じていたことを文字化されていたので紹介します。

だいたい東洋哲学者なんて、理屈や根拠をほとんど述べず結論だけをズバッと断定的に主張する連中ばかりである。だから、結局のところは「偉大な○○様がこんな素晴らしいことをおっしゃっています。どうですか? (あなたが現実の社会生活でそれを実践できるとは一ミリも思いませんが)そういう物の見方もあるんだと思うと、ふっと心が軽くなりませんか?」とお茶を濁した「人生訓」や「生きるヒント」みたいなものとしてしか彼らの哲学を紹介できない。で、そんなふうに書き進めてみると、やっぱりどうしてもどこかで見たような「生きるヒントがたくさん詰まったありがた〜い定番の入門書」になってしまう。

いや、それではダメ。せっかく書く機会を得たのだから、東洋哲学の「真髄」「本質」「核心」がガツンと伝わるような「史上最強の東洋哲学入門書」を目指して書くべきではないか?

では、どうすればいい。今までの東洋哲学入門書には何が足りなかったのだろうか? その答えを求め、菩提樹の下でひたすら黙想を続けたある日のこと、突如、悟りにも似た天啓のようなひらめきが脳を突き刺す。そうだ! 『バキ』分が足りなかったのだ。(史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち)

この本は、東洋哲学の入門書ですが、上記の文章の「東洋哲学(又は哲学)」を「浄土真宗の教え」と置き換えれば、そのまま浄土真宗の入門書の現状になります。

この本は、格闘漫画「バキ」の文脈から説明をしています。その意味で、とても分かりやすい本でした。また、浄土真宗の教えを知っていただく上で、とても多くの学びがあったと感じています。


そこで、「人生訓」でも「生きるヒント」でもない文脈で、浄土真宗の教えをそれまで聞いたことのない人に伝えるにはどうしたらよいのかを考えて見ると、現代人の苦しみはどこにあるのかということをベースにしなければならないと思います。


そこで、「現代人の苦しみ」とはなんでしょうか?浄土真宗は「救い」を説きます。その「救い」が「現代人の苦しみ」と無関係ならば、聞いて見ようという人はいないでしょう。

浄土真宗の教えを聞いている人によっては「それは後生の一大事だ!」という人もあります。もちろんそれはそうなのですが、浄土真宗と縁がなかった人にとっては、なかなか伝わりにくいところだと思います。

そこで、現在の私が感じる現代人の苦しみとは、一言で言えば「世界から拒絶されている感覚」または「世界に対する違和感」ではないかと思います。こういうといかにも大上段な言い方になってしまいますが、日常の感覚でいうと「居心地の悪さ」といったような感覚でしょうか。

例えば、会社、ご近所、学校、家庭といった環境にいて、その場所と私に「違和感」はないでしょうか?私が、以前親鸞会という新興宗教団体に入ったのは、その「違和感」によるものでした。しばらくは、居心地がよいと感じましたが、それは最初の「違和感」に対する誤魔化しであったことはあとで知らされました。

そんな世の中でも、「ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄親鸞聖人は言われています。

世界との違和感を解消し、居心地の悪かった世界が、そのまま南無阿弥陀仏であったと聞き受けるのが浄土真宗でいう救いです。

そういうことを柱に書いて行こうかと考えています。今後不定期にブログに文章を書いていきます。

ご意見のある方は、ぜひコメント欄にお願いします。

2017-08-17

「今」というのは(短命の根機を含んだ)無条件と理解して良いでしょうか?「今」、と言われても「急がねば、真剣にならねば」とプレッシャーに感じる必要はないのでしょうか?(スナオさんの質問)

「今の救い」の「今」について質問します。

今までの私の理解では、

「今の救い」=「短命の根機」

だから、「焦りなさい」「真剣になりなさい」だと思っていました。でも、「○○しなさい」だと「条件つき」で「無条件」の阿弥陀さまの本願とは違います。

そして、真剣に「なれる」「なれない」などは、「私の心」であって、救いには関係ない、と理解もしています。

「今」というのは(短命の根機を含んだ)無条件と理解して良いでしょうか?

「今」、と言われても「急がねば、真剣にならねば」とプレッシャーに感じる必要はないのでしょうか?

(焦りも真剣も、なかなか起きず、しかも起きても続きません)

「今」に対しての向き合い方(正しい理解)を教えて頂ければと思います。(スナオさんの質問)

スナオさんより質問を頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏の救いはただ今の救いという説明を聞かれてのお尋ねだと思います。スナオさんが以前理解されていたという「今しかないから焦りなさい、真剣になりなさい」という意味だと私も思っていた時はありました。

確かにお聖教には阿弥陀仏の本願は短命の根機を目当てに建てられたとかかれています。

そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。 (口伝鈔)

これは、いつ命が終わるか分からない私を救うには長い時間がかかっていては救えないといわれてのことです。確かに、今日しか本当に命がないのならば「今日しか助ける時はない」となりますが、「今日真剣にならないと救わない」とは言われていません。


今助けるというのは、言われている通り準備は必要ないということです。これこれした上で今助けるという「今」ならば、無条件とはいわれません。「今とはどういうことか」を理解した上で助けるということでもありません。

ですから、「急がねば、真剣にならねば」とプレッシャーに感じる必要はないはありません。

しかし、とかく「ただ今」助けると聞くと、「ただ今」の意味に拘りますし、「無条件の救い」と聞くと「無条件」の意味に拘るのが私という人間の性分です。

そういうことをあれこれ考えているうちに、命はどんどん縮まっていきます。明日という日は、いつもあるのではなく必ず終わりが来ます。どうなった今か、どうなったら無条件かということは、本願文にはありません。つまり、ないはずの条件を自分で作っているに過ぎません。そういう拘りは、うち捨てて南無阿弥陀仏に救われて下さいと勧められたのが、親鸞聖人を始めとする浄土真宗の先人の皆さんです。

間違った理解は訂正しなければなりません。ただ、阿弥陀仏の救いにあう人は「正しい理解ができた人」という条件はありません。ただ今救うの仰せをただ今聞いて下さい。

2017-08-05

2017-07-27

2017-07-17

「阿弥陀仏の本願を聞いて、確かにそうだと思ってもなかなか『そうでございます』と受け取れません。どう聞いたらいいでしょうか?」という人に見ていただきたいNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」

「阿弥陀仏の本願を聞いて、確かにそうだと思ってもなかなか「そうでございます」と受け取れません。どう聞いたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

このように尋ねられる方は決して少数派ではありません。私も以前は「理屈ではそうだろうと思うけれども、なかなか納得はしきれない」と思っていました。このような考えの前提としてあるのは、「納得できないものは信じない」という態度です。確かに現代社会では情報が溢れ、またフェイクニュースなるものが出てくるご時世ですから、少ない情報を鵜呑みにするわけにはいかないという態度は日常生活では大事なことと思います。ただし、これはあくまで私たちの日常生活上のことならば当てはまることですが、阿弥陀仏の本願にはあてはまりません。なぜなら、とある政治に関するニュースを目にした時、それが正しいのかフェイクニュースなのかは、一次情報を探せばそれを確かめることができます。また、それを見て納得することもできます。それに対して、阿弥陀仏の本願は、いわゆる「五劫思惟の願」でありますから、私たちがちょっとやそっと考えたくらいで「納得」することは難しいものです。


こういう話は、私も人に尋ねられて説明もしてきましたが、それを聞いてすぐに「そうですか」と思って頂ける場合は決して多くはありませんでした。なぜなら、これまでの私たちの日常生活で「人間が納得(理解)できないけれども、それが正解」という場面はあまり出会うことはなかったからです。


しかし、今日その「人間が納得(理解)できないけれども、それが正解」いわゆる人智を越えたことを奇跡ではなく目の当たりにすることができるようになりました。それが人工知能の発達です。


それを分かりやすく解説したNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」の録画を最近みました。その内容は、かなり衝撃的なものでした。

この番組では、近年の人工知能が実際の産業でどのように生かされているのかを紹介するとともに、日本の将棋佐藤天彦名人が、人工知能ボナンザと対戦する「電王戦」の様子と、それらを羽生善治三冠がコメントするという構成でした。


この番組で、実例としてあげられているのが以下のものです。

人間の知性を越える人工知能が、すでに現実社会に進出している。名古屋のタクシー会社では、客がいる場所を指示する人工知能を導入、客の数を大きく伸ばした。人工知能が、人間を評価するという事態も起こっている。シンガポールのバス会社では、事故を起こす危険性の高い運転手を人工知能が見つけ出す。アメリカでは、過去の膨大な裁判記録を学んだ人工知能が、被告の再犯リスクを予測し、刑期の決定などに関わっている。日本のある企業でも、退職の予兆がある人を、人工知能が事前に察知するというシステムを導入した。

NHKスペシャル | 人工知能 天使か悪魔か 2017

この番組ではなぜ人工知能将棋に強くなったのかについて、人工知能が過去のタイトル戦の棋譜5万局を読み込むことを挙げています。その上で、人工知能将棋ソフト同士が対局をしています。その対局数は700万、人間が仮に1年間に3000局打ったとしても2000年以上かかる数です。


初日では3八金を打ったボナンザに(普通は歩を動かす)、佐藤名人は頭を抱えます。しかし、結果は人工知能の勝利に終わりました。

二日目は更に、人工知能は先手でいきなり玉を動かします。それをみてまたしても佐藤名人は頭を抱えます。私は将棋は殆ど素人ですが、さすがにこの初手に玉を動かすというのはちょっとあり得ない手だと思いました。それでも結果を見ると、人工知能の勝利に終わりました。


この番組中で、人工知能プログラマーが「プログラムをしたのは自分だけれども、書いている本人にも(なぜ強いかは)実は完全には分かっていない」と述べていました。


また、番組で羽生善治三冠は、こう語っていました。

私たち棋士の直面している違和感は人工知能の思考がブラックボックスになっていることです。膨大な情報をどのように処理して、その結論に至ったのかは分かりません。

それと佐藤名人はこう語っています。

人間同士で打っていると気がつかないうちに、将棋の中のある一つの銀河系にしか住んでいないような感じになっていくんですね。ただもっと広い視点で見れば、いろんな惑星があるかもしれないですし、そうすると今まで気がついていなかった自分自身の持っている面も気がつかされてたのかなという気持ちもあります

いづれも人間で考えることには及ばないことが現実に起きていることに直面している方の発言です。


このように人間の知性を超えるものが出てきた現実をみると、阿弥陀仏の本願のいわれも、「お経の話でしょ」とか「方便なんですよね」とは言えなくなってきたといえます。


大無量寿経には、法蔵菩薩が浄土を建立するにあたって210億の諸仏の浄土を見られてそこから勝れたものを選び取られたと説かれています。

ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。(大無量寿経)

また、その浄土に往生する行として念仏を選び取られました。それも、あらゆる行を見られた上で念仏を選び取られたのですが、その詳細な経緯については、いろいろな経文上には根拠はあるものの、その根拠はなぜそういわれるのかといわれれば、とどのつまりは「ブラックボックス」になっています。

また、210億の浄土のを調べて見ろと私に言われた所で、一日

年に10の浄土を見ても21億年かかります。一年100の浄土でも2億1千万年かかります。こうなると、将棋人工知能どころではなく、どう考えても「理解出来ない」のが阿弥陀仏の本願です。こうなると「理解できないけれども、それが正解」ということは、阿弥陀仏の本願にそのままあてはまるのではないでしょうか?

将棋人工知能ソフトに勝てるくらいの人なら、阿弥陀仏の本願のいわれを納得するまで考えて見てもいいかもしれません。ただそれでも結果は変わらないのではないでしょうか?

一 思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。

現代文

「思案のきわまりというべきは、五劫の間思いをめぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、これを超えるものはない。

弥陀如来のこのご思案のおもむきを心に受け取れば、どんな人でも必ず仏になるのである。

心に受け取るといっても他でもない。

「われにまかせよ、必ず救う」という機法一体の名号のいわれを疑いなく信じることである」と仰せになりました。

https://goo.gl/heTHP9

この思案の頂上である阿弥陀仏の本願に同心するかしないかです。どうか、阿弥陀仏の本願をただ今聞いてただ今救われて下さい。

参照

NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「人工知能 天使か悪魔か 2017」

2017-07-15

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

ご自身が地獄に堕ちるか堕ちないかということを、自分の心で決めているのであれば、「自分は地獄へ堕ちない」とどれだけかたく信じていてもそれは後生とは関係がありません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。

(略)

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

と執持鈔にあります。

後生のことは、ただ阿弥陀如来にまかせるだけであって、自分の方から「私は浄土へ参れるだろう」「地獄へ堕ちるだろう」と決めることではありません。

ご自身の心の上では本来は「地獄へ堕ちると思う」のが普通であって、そう思えなくなったことに対する不審からではないかと思います。ここで大事なことは、自分の心がどうであるかということに拘り、その心の善し悪しで一喜一憂することはよいことではありません。


例えば九州行きの新幹線に乗った人は、「自分が九州に行けると思えるかどうか」を問題にしません。なぜなら、乗った人がどう思ったところで、九州に行けるかどうかは新幹線の力によるからです。もっと身近なことで言えば、最近は携帯電話にも入っている電卓ですが、それで 三桁のかけ算と割り算を実施してその結果が合っていると「思えるかどうか」を問題にする人はありません。なぜなら、その結果が「合っていると思えるかどうか」は、計算結果に関係がないからです。計算の結果は、計算機の力によるものであって、私の「思い」とは関係がありません。


後生のことは、阿弥陀仏にまかせるだけであって、その上で私がどう思ったところで結果が変わるわけではありません。「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」です。自分の心が定まってから阿弥陀仏にまかせるのではなく、ただ阿弥陀仏の仰せのとおりに弥陀にまかせて下さい。

2017-07-11

「端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。(wmさんのコメントより)

wm 2017/07/11 08:09

端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170425/1493108159#c1499728172

有の見(常見)については、浄土真宗辞典から引くと以下のように説明があります。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

じょうけん 常見

断見に対する語。有見ともいう。因縁によって生じるものは消滅変化して少しの間もとどまらないということをさとれず、自己と世界を常住不変と見て執着する見解。仏教において断見とともに、縁起の正理に背く邪見として退けられる。

常見というのは、上記にあるように、自分も世界も常に変わらないという考え方でそれは間違った考えであると仏教で言われているものです。


そこでお尋ねの、「常見と浄土往生は同じように思われます」について、以下書いていきます。

私が、このお尋ねの文章から考えたことは、「浄土は無常の世界ではないと聞いているから、それは常見ではないのか」と思われたのではないかということです。(間違っていたらご指摘下さい)


そこで、浄土は無常の世界ではない常住であるならば、それは常見ではないかということについて説明をしていきます。

まず、「常住」について、また浄土真宗辞典から引用します。

じょうじゅう 常住

無常に対する語。常ともいう。生滅変化なく、永久に存在すること。『涅槃経』では「如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ」(真仏土巻引文・註348)、「有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり」(化身土巻引文・註408)などといい、如来や涅槃の異名ともされる。

この文章を見ると「生滅変化なく」とあるので、これから浄土(往生)は常見ではないのかと思われる人もあるかと思います。

結論からいいますと、そうはなりません。

なぜならば、まず浄土に「生滅変化がない」というのは、救われる対象によって変化したり、また無くなったりしないという意味です。正信偈に「如衆水入海一味」とありますが、救われた世界は一味であって救われる対象によって違いはありません。また、浄土往生も「救われた人によって異なる」ということはありません。例えば、極悪人なら低い浄土で、善人や戒律を守った人は高い浄土と言うことは有りません。

阿弥陀仏の浄土は、私が考えるようなものではありません。無くなるということはありませんが、常に衆生済度に働いておられるので「変化がない」ということはありません。たとえば、どこかの大仏や絵像の仏のように動かない(変化がない)仏ではありません。

常に「AでなければB、BでなければC」と常に私を救う為に変化し続けるのが、南無阿弥陀仏です。その目的は変わらないという意味で「生滅変化なし」であります。

仮に南無阿弥陀仏(救う法)や、浄土往生が「生滅変化なし」だとすれば、その「消滅変化なし」の基準に合わない人は救われないことになってしまいます。しかし、それでは全ての人を救う本願にはなりません。

あからさまにいえば、私たち凡夫は阿弥陀仏に救って頂くことに対して、それほど感謝の気持ちも持ち合わせていないものです。それでも、阿弥陀仏は私を救って下さいます。それはまさに「種々に善巧方便」された結果であって、帽子に合わせて頭を削れと言われたものではありません。実態は、私に応じて南無阿弥陀仏が「変化」をされています。




そういう意味で南無阿弥陀仏は「変化」をされているという意味では「常見」ではありません。しかし、「すべての人を救う」という意味では「常住」です。この「常見」ではないけれども「常住」であるのというのが、wmさんの回答になるかと思います。

2017-07-04