安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

2010-04-01から1ヶ月間の記事一覧

聞こえ方が変わるのでしょうか?(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。 同じご説法を聞いていても、信後と思われる人の中には、泣いて喜んでいる人がいます。 「何が聞こえるんですか?」と尋ねたことがあるのですが、「こころ。」との答えでした。 信後に、特殊な…

特殊な何かが見えるような体験を信心とは言いません(頂いた質問)

信心決定すると何か今まで見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかったものが聞こえるようになるのでしょうか?(頂いた質問) 信心決定の体験という言葉もあるので、何かしら体験するのだろうと思う方があります。お尋ねのように、何か見えない…

信心の沙汰の「信心」について(スニフさんのコメント)

スニフさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。 御文章の1帖12通目に「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、言語道断あさ…

歎異抄9章・唯円房の質問について思うこと(ヘムレンさんのコメント)

山も山さんは、他人の信心は判断できないと言っておられますが、あえてお尋ねしたい事があります。 「歎異抄」第九章での唯円房は、信前だと思うのですが、山も山さんはどう思われますか? 山も山さんの“お味わい”でいいですので、教えていただけないでしょ…

名号不思議の海水に入ってください(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんからコメントを頂きました。有り難うございました。 以前から、よくわからないことがあります。 「信心決定することは、棚から落ちて来るボタモチを自分が食べるんじゃなくて、 自分がボタモチになって、阿弥陀様に食べられるということ。」とい…

十劫安心とは(ぶりままさんのコメントより)

ぶりままさんからコメントを頂きました。有り難うございました。 十劫安心とはどういうものかについて教えて頂きたいと思って質問をしました。(ぶりままさんのコメント) http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421/1271798657#c1271859278 十劫安心について…

仏智を疑うとは、罪福を信じる心(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を疑うのは自力だと聞いています。そうすると、こうやって考えているのも自力と思うので、どうやったら自力がなくなるのか分かりません。(頂いた質問) 考えれば自力という言い方も間違いではありませんが、こういう考え方になると、何も考え…

南無阿弥陀仏に疑いないことと実感について(おしゃまさんのコメント)

「信心決定=成仏」ではないので、私も“平生に仏と同じ智慧を身に付けれる”とは思っていません。 でも獲信した人は皆、口をそろえて「南無阿弥陀仏」を褒めておられますよね。親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておわします。」と仰っておられますし、 蓮…

南無阿弥陀仏を疑う心について(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんからコメントを頂きました。有難うございました。 私の疑う心とは、「南無阿弥陀仏」を疑う心です。 (中略) (この南無阿弥陀仏に泥凡夫を仏にする力が本当にあるんだろうか?)という疑いが出てきます。 でも、阿弥陀仏は「おまえには信じる…

特別な光明はありません(Kさんのコメント)

阿弥陀仏が私を救うとき、「阿弥陀仏が放たれるもの」であり、私が「その中に摂め入れられるもの」であり、「その縁にあわなければ救われないもの」であり、「その縁にもよほされて信心を獲るもの」 であるということと今ひとつつながりません。蓮如上人は救…

強くなる疑いとはどんな心でしょうか?(おしゃまさんのコメント)

(中略) 「僧の国」に入ったばかりの頃の私は、(善知識に出会えた!仏教を聞くことができた!!)と、スキップしたいぐらい法悦があったのですが、最近は疑う心がどんどん強くなってきてしまいました・・・。 だから、私の自力の心は、何だかしつこそうな…

光明について(Kさんのコメント)

「光明」とは何であるかについて教えていただけないでしょうか? 阿弥陀仏が私を救うとき、「阿弥陀仏が放たれるもの」であり、私が「その中に摂め入れられるもの」であり、「その縁にあわなければ救われないもの」であり、「その縁にもよほされて信心を獲る…

自分の力では難しいことですが、「自力疑心の鉄壁」とは?(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。 「貴方、当たってますよ!はやく引き替えして下さい」ということですが、 この「引き替えすること」が、難中の難なのでは・・・と思ってしまいます。 親鸞聖人も「信楽受持甚以難 難中之難無…

阿弥陀仏の本願と富くじ(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。 「獲信は、たまたま富クジが当たるようなものです。」と聞くと、 今生で、自分に富クジが当たらなかったらどうしよう・・・という気持ちが出てきます。 富クジに当たらないまま、十劫も迷い続…

光明について(Kさんのコメントより)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。 蓮如上人が御文章2帖目13通・御袖に、 「光明を放ちて」「光明の中にその人を摂め入れて」「光明の縁に値いたてまつらずば」「光明の縁に催されて」 と言われていますが、この「光明」とはどのよ…

明らかになるのは、阿弥陀如来が助けて下されるということ(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われると、すべてが明らかになり、ハッキリ知らされるのでしょうか?(頂いた質問) すべてが明らかになりというのが、今まで疑問に思っていたこと、不明点がスーッと頭の中で全部分かってしまうようになるということではありません。 「分から…

手助け無用の阿弥陀仏の救い(頂いた質問)

どうしたらと思うのも自力といわれても、自分でどうしたらいいのか分かりません。阿弥陀仏は、どうやって助けようとされているのでしょうか?(頂いた質問) 「どうやったら自力がすてられるかと思うのも自力」なのは、その通りです。 どうやったらと考えて…

昔からといっても、今働いている南無阿弥陀仏(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。 「南無阿弥陀仏が、過去に出来たと言うことではなく、いまの南無阿弥陀仏です。」 と、書かれてありますが、過去と今とを分けて強調されるのは、何かわけがあるのでしょうか?十劫の昔に出来てい…

往生定まる証拠は南無阿弥陀仏の中にあります(頂いた質問)

現在自分は救われていないのだから、未来もやっぱり救われないような気がします。 もし救われたなら、阿弥陀仏の本願はまことだったと思えるのですが。(頂いた質問) 阿弥陀仏の本願は、ただ今救う本願だとは聞いているけれども、現在救われていないとどう…

報恩感謝の元は南無阿弥陀仏(nowhereさんのコメント)

信前と信後を問わず、報恩謝徳は自然に為さしめられるものであり、それは「念仏を称えることも、人に伝えることも、人に伝える寺に寄進することも、また仏法を人に謗らせないように身を慎む」ことなどのいわゆる「善」のカタチとなって表われる、という理解…

御恩報謝について、まず阿弥陀仏に救われる事が報謝(nowhereさんのコメント)

前回のエントリー*1に、nowhereさんからコメントを頂きました。有り難うございました。 親鸞会では、「獲信とよい関係にある」として善の勧め、特に財施と法施を強力に勧めます。そういう考え方は自力を励むことになるから、浄土真宗の教えではない、とする…

真宗凋落の原因は歎異抄の誤読という親鸞会の歴史観について思うこと

http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/group/100zennosusume.htmlという記事を以前読みました。 親鸞会にいたころに、今日の浄土真宗が葬式仏教法事仏教になってしまった理由として、以下のような事を聞いてきました。 明治時代に歎異抄が広まった。 歎異…

合点と真実信心の違い(maryさんのコメント)

合点と真実信心との違い目をお聞きしたいです。(maryさんのコメント) http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100331/1269985080#c1269990976 合点とは、聞いて納得するということです。 真実信心は、阿弥陀仏の本願に疑いない心をいいます。合点と聞くと、よく…