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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-10-19 お題1回目「善をしなければ信仰は進みません」についてコメント結果

「善をしなければ信仰は進まない」について、コメント紹介(抜粋)

お題「善をしなければ信仰は進まない」ってどう思いますかに多くのコメントを頂き有り難うございました。

一つ一つのコメントに、いろいろ知らされることがありました。一つ一つのコメント全てになにかこちらで書くには量が多いので、コメント全文は別のエントリーで公開しております。

是非ご一読下さい。

善をしなければ信仰は進まないの、「信仰が進む」とか「進まない」とかいうことについて、皆さんからコメントを頂きました。コメントを読んで思ったことを、エントリーします。

引用したエントリーは、抜粋したものです。全文は、別のエントリー、またはリンク先のコメント原文をご覧下さい。

私も、以前は以下のこすたんさん、ぴーさんのコメントのようなことはよく耳にしました。

しかし、「精一杯、善をした人にしか分からないことがある」とも聞きました。

財施が勧められる時は、「このご縁で、自分の信心決定に対する気持ちを表すのだ」というように言われていました。

(こすたんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255522235

>ttp://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255525476>

親鸞会では「信仰」と「宿善」はほぼ同義語で使われたと思います。

宿善まかせなのだから、宿善が厚くならなければ救われない。

宿善とは、過去世の善根だから、善をすればするほど厚くなる。

「善をする」→「宿善が厚くなる」=「信仰が進む」

(ぴーさんのコメント)


このように聞きますと、やはり「善をしていけば、いつかは救われる」というように思ってしまいます。または、段階が救われる間にあるのだというように理解してしまいます。

以下、みなさんから頂いたコメントの中からいくつか紹介します。

また「相当時間がかかるだろうと思うだろうが、何年か、何ヶ月か、何週間かは判らない。宿善まかせだから」(顕真より)ともあったので、いつかはわからないが、聴聞、勤行、六度万行をしていけば信心決定までたどりつけるのだろうと思っていました。このしみ込んだ思いが縁に触れては出てきて、なかなか抜けないんですよね・・。

(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255529666

善をして→できないことを知らされて→→→機の深信+自動的に法の深信

という段階を作って、目標を立てて求めやすくしてきました。

なかなか機の深信にならないのは、善をやる力がまだ50だから、あと50やれば・・・という自力が廃らない。

100の力で善をやって、できなければ自力全部廃って=機の深信

こういう考えに基づいて三願転入を聞いてきました。

(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255564193

ここから、信仰が進むとは、

因果の道理をより深く信じていく過程。

廃悪修善の気持ちがより強くなる過程。

自分の姿がより見えてくる過程。

そして、その状態がより縦の線に向かって進んでいるのが、救いに近い人。

(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255630284

「信仰がすすむ」ということについて、このように聞いてきた、聞いたことがあるという意見でした。

実際に私も感じたことですが、「善をしなければ信仰はすすまない」と言う言葉どおりに、善を実行して信仰がすすんだという実感がないということです。

皆が頭に思い描くように、悪が知らされたり、後生に驚きが立てばよいのですが、誰に聞いてもそのような人はありませんでした。

「出来るか出来ないか、実行しない人にはどちらもハッキリしない。」と繰り返すばかりでした。

(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255630569

実感として、そう感じる人は、どれほどおられるのかという疑問には私も同感です。

「信仰は進まない」と、真実信心を求める上で、やはりマラソンのように、長い距離を進んだ先に決勝点があると思うと、「進む」ことがない以上、決してたどり着けないのではないでしょうか。

「進んだらいつかは」といっている以上は、どこまで「進んだ」としても、その先へ「進む」ことになり、いつまでも「救われた世界」には出ることとができないのではないでしょうか。アキレスと亀のパラドックスのようなものです。

阿弥陀仏の本願は「その地点から進んだら助ける」という本願ではありません。そのまま救う、ただ今救うという本願です。

そうすると、親鸞会でよく使われている、「縦の線と横の線」の話と矛盾するように思われると思います。これについては、次回のお題としますが、コメント募集はまた、後日といたします。

「善をしなければ信仰は進まない」ってどう思いますか・コメント結果一覧

第1回お題募集に沢山のコメントを頂き有り難うございました。

大変すばらしいコメントが多く寄せられましたので、一つの独立したエントリーとして公開します。

第2回お題も、そのうち募集いたしますのでよろしくお願いいたします。

以下は、今回よせられた、皆様のコメントです。

ロシュ 2009/10/14 21:08

善をしなければ、わたしたちはうぬぼれているから、善などできるわたしではなかったと知らされない。自分の本当の相が知らされなければ、阿弥陀仏に心が向かうことがなく(20願の念仏にすがることがなく)横の道を進めず、信仰が進まず、救われない。

と思っていました。もっとかんたんにいうと、「やらねば(出来ねば)救われん」と思ってました。

親鸞会への財施が善だとはあまり思っていませんでしたが。

こすたん 2009/10/14 21:10

「善をしなければ信仰は進みません」ということは、何度も徹底されていました。

また、「善をすれば、弥陀に救われる」ということは間違いだとも聞きました。

しかし、「精一杯、善をした人にしか分からないことがある」とも聞きました。

財施が勧められる時は、「このご縁で、自分の信心決定に対する気持ちを表すの

だ」というように言われていました。

 私が弥陀に救われることが、善をすること、信仰が進むことと関係があるかに

ついては、あるとも聞いたことがありますし、ないと聞いたこともあると記憶し

ております。

 ひとまず、このような感じです。

 

ぴー 2009/10/14 22:04

親鸞会では「信仰」と「宿善」はほぼ同義語で使われたと思います。

宿善まかせなのだから、宿善が厚くならなければ救われない。

宿善とは、過去世の善根だから、善をすればするほど厚くなる。

「善をする」→「宿善が厚くなる」=「信仰が進む」

という方程式で教えられていたと思います。


みかみ 2009/10/14 22:24

いつも丁寧な回答、ありがとうございます。

2009-08-27のエントリーの質問に書いた通り、私は親鸞会でよく言われていた「信仰が進む」という表現にひっかかるものを感じていました。

山も山さんからの2009-08-27回答を読んでからは、できるだけ使わないようにしています。

完全に間違いとは言えないまでも、ただ今救いたもう弥陀の本願を誤解させるおそれがある表現は、できるだけ避けるのがいいと思っています。

「(善をしないと)信仰が進まない」とか「(善をしないと)宿善が厚くならない」、あるいは「仏縁を深めていく」「ご縁を求めて参詣しましょう」といったような表現は、使わないのがいいのではと思っています。

その代わりと言ってはなんですが、好んで使いたい表現というものもあるのかなとも思います。

「弥陀の本願に向かう」、「阿弥陀如来の御心を知る、聞く」「南無阿弥陀仏をいただく」「一向専念無量寿仏」などでしょうか。


mary 2009/10/14 23:14

お世話になります。

ぴーさんと同じ解釈でした。15年以上の在籍者は同様の理解が多いと思います。

(宿善まかせ、との説法が何回もありましたから)

虚仮雑毒の善が間に合うのでは無いが、阿弥陀仏が宿善に変えて下さる。

薄い宿善が厚くなって、やがて開発した時が救われるとき。

また「相当時間がかかるだろうと思うだろうが、何年か、何ヶ月か、何週間かは判らない。宿善まかせだから」(顕真より)ともあったので、いつかはわからないが、聴聞、勤行、六度万行をしていけば信心決定までたどりつけるのだろうと思っていました。このしみ込んだ思いが縁に触れては出てきて、なかなか抜けないんですよね・・。


YGM 2009/10/15 08:49

親鸞会の「善の勧め」という観点は、2つあったと思います。

1.三願転入の解釈から

   18願に入る前に、19願・20願に入って出る。

   19願を出るには、一旦入らないと、出れない、のだ!

   だからまず、19願に入れ=善を修めなさい。

   でもいずれ19願は出るのだから、あくまで18願で救われる。

   という意味で善が間に合ったのでないと解釈していました。

   なお、20願の説明が希薄なのは、

   「君たちはまだ19願の入り口にも入っていない」と講師部に言われたことから、

   みんなもまずは19願からだ20願なんてまだだ、という意識でした。


2.「善をする必要がない」に対する場合

   「雑行を捨てて」とは、その「心」を捨てることだ。

   → ?行為自体ではない

   → ?善自体を否定されてはいない

   → ?善自体を否定された根拠があるんですか?そんな根拠無いでしょう。

   → ?だから善は勧められているんだ!

   ??は納得できましたが、

   ?は、・・・誘導尋問でした。

   ?は、A!?じゃぁBだというのか!!という論法でした。


1の説明は、疑問はありましたが、ある意味納得できていました。

しかし2は、もはや浄土往生という目的の抜けてしまった議論でした。

信心決定したい。そのために善は・・・。と考えているのでなく、

本願寺なぜ答えぬの法論で、善の勧めは「ある」となっていることを守るというか、

そういう意識だけだったと思います。

しかしながら、1の考え方にしても、

善をして→できないことを知らされて→→→機の深信+自動的に法の深信

という段階を作って、目標を立てて求めやすくしてきました。

なかなか機の深信にならないのは、善をやる力がまだ50だから、あと50やれば・・・という自力が廃らない。

100の力で善をやって、できなければ自力全部廃って=機の深信

こういう考えに基づいて三願転入を聞いてきました。


maryさんと同じで、この考え方、なかなか抜けきらないです。


かば 2009/10/15 20:52

はじめてコメント致します。

「そのようなお粗末な信仰では云々」と良く聞かされた為、当時の支部長にストレートに質問したことがあります。

「信仰という言葉は浄土真宗ではあまり使われない言葉と思いますが、どういう意味ですか?信心と同じ事ですか?」答えは必殺技の完全無視でした。

1.私の以前の理解です。

信仰が進む=求道が進むを言い換えたもの。

求道と聞くと自分の力で道を進むと誤解をする人が多いので、信仰と言い換えた。

求めているのは自分でも、実は弥陀の本願に押し出されて救いに近づいている。

そうすると調熟の光明に照らされ、より深く自己の姿が知らされる。

つまり求道が進む=深く知らされる(本願の尊さや自己の罪悪)

これが救いに近づく姿である。

そこで本来は「深い」とか「深まる」と使うべき信仰という言葉を当てはめて信仰が(深まる=求道が)進むとした。

結局上の方々とおなじですね。

2.今の思い

実態の無い言葉と理解しています。

善をすると救いに近づくという雰囲気を感じさせるための言い換えだった。

本音は善をしなければ救われないと言いたい。

説法を聞いていると、重視しているのは、弥陀の本願をきくことでは無く、善に励むことだと言う事が伝わってきます。


みかみ 2009/10/15 21:38

親鸞会で聞いてるときは、「善をしなければ信仰は進まない」とは、「19願の願意」を明らかにしたものだと、思っておりました。

親鸞会の公式ホームページには、下記のような説明があります。

阿弥陀仏が十方衆生を十八願の世界まで導くために建てられた十九の願意を開顕するために、釈迦は生涯、因果の道理から「廃悪修善」を説かれている。

「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。

不幸や災難を厭うから悪を慎み(廃悪)、幸福を求め善に励む(修善)ようになるのだ。

 釈尊が八十年の生涯、徹底して教えられた「因果の道理」の結論は「廃悪修善」だから、仏法は「廃悪修善」の四字に収まる。

阿弥陀仏の十九の願意

私には、上記の説明が正しいのかは、いまひとつ、よくわかりません。

阿弥陀仏にただ今救われることが大切なのでしょうが、その目的を達成するための手段として強調しているのだと思います。

はずしてはならない肝心のことが何か抜けているから、誤解したり、わかりにくいのかもしれません。

阿弥陀仏に救われたい、弥陀の浄土に生まれたい、弥陀の御心を知ろう、聞こう」、このような心を持ち続けることが大切なのだろうと今は思っています。


みかみ 2009/10/15 21:56

「悪をおそれて善に向かえ」「光に向かって進みましょう」というフレーズも親鸞会では、よく聞きますが、これも「善をしなければ信仰は進まない」と同じことを言わんとしているのでしょう。

阿弥陀仏のただ今の救い」がまず第一。これが抜けたり、心にかけてないようでは、空回りなのかなというのが、私の今の思いです。

山も山様、家にいながら、このような信心の沙汰ができること、ありがたく思います。


K 2009/10/15 23:54

私はこうだろうと思ってます。。

(0)後生(死)が問題になっていない …因果の道理を勧めて、後生を問題にする縁とする。

 ↓

(1)後生(死)の問題に気付いたなら …(発菩提心 19願の入り口)

 ↓

(2)どんなことをしてでも何とかしたい…(修諸功徳 19願)

 ↓

(3)色々やるが解決できずに行き詰る …(19願、20願)

 ↓

(4)阿弥陀仏が助けてくだされる   …(18願)

この順に進むことを「信仰が進む」と言っているように感じます。

実際のところ(0)の人がほとんどなので、何とか(1)に進ませるためにと因果の道理、善の勧めが強調されるのでしょう。(0)は19願を広げたイメージです。お釈迦様もそこにご苦労されたのではないでしょうか。お釈迦様が生涯かかって御苦労されたことですからそう簡単にできることではないと思います。しかし親鸞聖人は(4)の18願についてばかり強調して教えられています。お釈迦様とは教えられ方が違う(教えは違わない)のはなぜなのでしょうか?


最後の学徒 2009/10/16 03:11

○信仰が進むについて、聞いてきた事、理解してた事。

ごちゃごちゃになりました。問われるのは難しいものでした。

まず、信仰が進むについて、どのように言われているかですが、

「実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進ま

ないのである。」

などの表現が新聞などにもあります。

合点だけでは、信仰が進まない、ということについて、

「答えが分かったら答案用紙に答えを書く」

「分かったら必ず実行になる。」

「実行しないのは分かっていないからだ」

「実行しなければ(玩具の)木馬に乗っているようなもので信仰は進まない」

「因果の道理がどれだけ知らされているかが信仰のバロメーター」

「どれだけ信仰が進んでいるかを知りたければ、どれだけ廃悪修善の気持ちがあるかで分かる」

「この道を進む」と横の線をなぞっていって、

「ここが一念で、決勝点」と縦の線を示しておられたと思います。

19願、20願(横の線上に書かれた)を「この道」昨年の教学講義で聞きました。

そして、この道を「軌道」とも教えられます。

阿弥陀仏が目的を果たす為の手段とも教えられました。

三願転入を「道程」と表現されます。

一念で選択の願海に転入するまでの、万人共通の「信仰の道程」とお聞きします。

「なぜ答えぬ」でも、155Pに

「19、20の方便2願は、18願に転入する、十方衆生の道程」

とあります。

つまるところ、横の線を縦の線に向かって近づくことを、信仰が進むと表現されていると思います。

さて、信仰がどれだけ進んだかどうかは、そのバロメーターとして

「因果の道理がどれだけ知らされているか」

「廃悪修善の気持ちがどれだけあるか」

「そういう気持ちの少ない人は、まだそれだけ信仰が進んでいない人」

というようなことも聞いたことがあります。

全然、廃悪修善の気持ちがない人は、

「コンマ以下」

「始まっていない」

黒板の端をさされて「まだこの軌道にも乗っていない」

また、真実の自己のお話しでは、

「自分の姿がまったく分からない人は、鏡から遠いところにいる」

「鏡に近づけば近づくほど自分の本当の姿が見えて来る」

と、やはり横の線と縦の線を使い話されます。

ここから、信仰が進むとは、

因果の道理をより深く信じていく過程。

廃悪修善の気持ちがより強くなる過程。

自分の姿がより見えてくる過程。

そして、その状態がより縦の線に向かって進んでいるのが、救いに近い人。

横の線をこの辺の人もいる、この辺の人もいると指されたこともあります。

また、ただじゃそうなの信仰の幼稚園児から、

「だいぶ信仰が進んだ人は」ただがわからんと、なる。そして、ここが、ただのただもいらんただじゃったと一切経を読み破ったただ、なども聞いたことがあります。

また、「信仰が進むと念仏は称えずにはおられなくなるもの」ということも何回もお聞きしました。

信仰が進めば、三業としては、罪悪感や、廃悪修善の気持ちや、因果の道理を信じる気持ち、として現われると考えられていると思います。

また、

「後生の一大事が問題になっていないのだから、雑行が問題になるはずもない」人のことを、信仰がそこまで進んでいない、とも言うようです。

後生が問題になる為には因果の道理→罪悪が知らされる→後生の一大事というように信仰が進んで、更に後生の一大事を解決しようと諸善をして、雑行が問題になる。

因果の道理が教えられていないから、後生が問題にならず、信仰がそこまで進まないということも言われるようです。

三世因果の道理を教える

因果の道理が分かれば廃悪修善の実行になる

罪悪観

後生の一大事

後生助かろうと諸善万行をする。

善の出来ない、悪しか出来ない自分と知らされ

名号に目がいく。(念仏を称えずにおれなくなってくる)(ただがわからん)

念仏も称えられない自分。

一念の救い(ただじゃった)

信仰が進むという事は、こういう道程を進んでいくという過程で、その根拠として19願、20願、18願で教えられている気がします。

このような図式で示された事はありませんが、

実際こういうこととしか思えません。

聞き誤りです、と叱られるかもしれません。

この道程、計画は善の実行が貫いています。

善をしなければ、どうにも進まない計画ですから、実行しなければ計画通りに信仰は進まないのでしょう。



最後の学徒 2009/10/16 03:16

信仰が進む、という言い方は定義が曖昧ですので、何にでも転用可能な言葉ですので、とても難しく思いました。

○善をしなければ信仰が進まないについて思うところ。

私は仮に、「信仰が進む」と言い方を使うのなら、

南無阿弥陀仏によって救われようという心が起きるまで、ですかね。

善をしなければ進まない信仰というものから、阿弥陀如来の作られた其の名号を聞く一つで救われたいと弥陀の救いに向かった時。

それまでは善悪で助からないと思っていたのが、弥陀の名号を頂いていない一つで、助かっていないことを合点した時。

信疑しか問題になりませんから、進むとかあまり関係なくなるのではないでしょうか。

そこからは使うとしたら、お育てとか、照育されるとか、あるいは転入するとか。すべて、弥陀のお力ですから、あまり進むとか使わない感じです。

善をして信仰が進むというのは、浄土真宗に入っていない方にとってはまことに適切かと思います。この浄土真宗とは、真実信心の事ではありません。

少し、人の事になりますが、

「善をしなければ信仰は進まない」と口では言えど、何も知らされていない人ばかりでした。

皆が頭に思い描くように、悪が知らされたり、後生に驚きが立てばよいのですが、誰に聞いてもそのような人はありませんでした。

「出来るか出来ないか、実行しない人にはどちらもハッキリしない。」と繰り返すばかりでした。

実行してないから、どちらもハッキリしていないのだと思いました。

「善をすれば、信仰が進む」を仮に100%事実のものがらとしましょう。

ところが教えられているようには誰も信仰が進んでおられないと見受けられました。誰も何も知らされていないのは善を実行していないのだろうと思いました。

仏縁は分からないといいますが、

「信仰は進む」は何々が分かるとか、問題になる、とか、実行になる、という言い方で語られてますので、何も語れない事は、何も知らされていないと判断しました。

私は分かりました。

善をいくら励んでも、それによって何も変わらない。分からない。知る智慧がない。

こういう自分の行いで何かを知らされるのは、私には千年たっても無理だと。

そんな私を助ける為の願であるから、受け取る一つで助ける名号を成就して下さったと分かりました。

それは、むしろ、弥陀の救いを求める中で受け止めていくことで、訳も分からず、財施、法施すれば分かるという感覚ではなかったです。

善一つにしても、親鸞聖人は「このように善をしたとしても、無量光明土には生まれられない」と教えられている、その教えを真面目に聞けば、救われる為の善に対して、絶望しかないのです。善らしき事をして、進むとか、因縁になるとか、そういう安心感はあまりないですね。

正直、そこからは、救われる因縁として諸善を励むという合点はないんです。

極善無上の名号に向かわせる権仮方便であったと拝されます。

ただ、残念な事に、それは、善の否定とか、合点で通ろうとしているとか、三願転入の破壊とか、善をしたくない、方便を軽視する、自惚れだ、謗法だ、土蔵秘事だ、体験談だ、騙されている、腕をかち折っとる、となってしまう方がおられるので、少し、意味が分からないのです。少し心配な状況です。

19願から、20願に進むと、会でも教えていたはずですが、実際、善悪は関係なく名号を頂く一つで助かると言えば、総攻撃を受けかねません。

どうも他力を無力と違いが分かっておられないのか、方便と真実が分からないのか、それとも分かってて、あえて言っておられるのか、弥陀の救いは名号を受け取る一つで、善悪は関係なく、平等に頂けます。それが、どうして善を否定してるとか、善をしたくないと思われるのか、そういう方々は、所謂「信仰が進んでおられない」と思います。

少し親鸞聖人の教えを学んで、信仰を進めて頂きたいのが実感です。

「善をしなければ信仰はすすまない」といいながら、

「南無阿弥陀仏によって救われようと信仰が進むと困るのでは?」と疑うことも度々でした。


結論として、

「信仰が進む」

「信仰が進んだ同行」

とか、多くを踏まえた上で使うのならば、私も使いたい言葉です。

しかしながら、

親鸞聖人が使われていない言葉ですから、教義の大切な所に多用するのは、問題も多い場合があるのかもしれません。

「善をしなければ、信仰は進まない」は、「みな善が間に合う」と聞く。と分かっておられるのに、何故使われているのかは、よく分かりません。

そして、弥陀の救いは、信仰が進むも、進まないも関係なく助ける本願と思います。

「修行の久近を論ぜず」

「自身の組み立てた信仰」というものがが救いと何かよい関係があると思っているのですから、弥陀泣かせの心です。この心を回心懺悔させて頂きたいと思っています。

今、私のこのままで救われる本願です。

kさんのコメントを読みまして、

直近の新聞でも因果の道理から後生が問題なって雑行が〜と書いてあることを人から聞きましたが、

今の苦しみを、今助かりたい。弥陀の本願は難度海を明るく楽しく渡す大船と聞いた、その船に乗りたい、どうすれば。

人生の目的を果たさせるのが弥陀の本願と知った。人生の目的を果たしたい。

人間に生まれてよかった!という身になりたい。どうすれば。

弥陀の浄土に生まれたい。どうすれば。

こういう方々の場合は、雑行どうなるのかなと思いました。

Kさん、親鸞聖人が教えられたのは浄土仏教だからではないでしょうか?

竪出とは難行道之教なり、

厭離を以て本と為す、自力の心なるが故なり。

横出とは易行道之教なり、

欣求を以て本と為す、何を以ての故に、願力に由りて、生死を厭捨せしむる之故也。

愚禿鈔



K 2009/10/16 23:16

最後の学徒さん

コメント有難うございます。

>こういう方々の場合は、雑行どうなるのかなと思いました。

私の個人的見解ですが、言葉は似たようでも目的が違っているような印象を受けます。「人生の目的」という言葉がなんとなく不浄な感じがするんです。「生死を厭捨」から遠いと言ったら伝わりますでしょうか?

>Kさん、親鸞聖人が教えられたのは浄土仏教だからではないでしょうか?

では親鸞聖人はなぜ浄土仏教を教えられたのでしょうか?お釈迦様は聖道仏教も教えられたのに、親鸞聖人浄土仏教のみを教えられたのはなぜでしょうか?ということになります。聖道仏教を教え勧められなかった理由は、助からない教えと親鸞聖人は見られたからですね。

そうしますと、聖道仏教を教え勧めてはいけないのでしょうか?必要ないのでしょうか?お釈迦様は生涯のほとんどをそれを説かれるのに費やされている(と思われる)のに。

聖道他宗を誹謗してはならないとは教えられていますね。



ひろし 2009/10/17 08:13

信仰が進む=求道が進む=宿善が厚くなる、と親鸞会の会員は思っていると思います。

私も以前はその様に思っていたと思います。

今は、信仰が進む=阿弥陀仏に救われたいと思う様になる、と思っています。

また親鸞会では、信仰が進む=聴聞・活動・財施を頑張る、と思っている人が多いのではないでしょうか?

例えば、毎回聴聞に行っている人は1年に数回しか聴聞に行かない人よりも信仰が進んでいる、という考えです。

だから、上司は聴聞・活動・財施を頑張っている人を見て「仏縁の厚い人だ」と言います。

心は重要視しません。

私も毎回聴聞に行き、活動・財施を頑張ってきましたが、心の中を覗けば信仰が全く進んでいない事しかわかりませんでした。

聞き始めと全く変わっていないからです。

毎回聴聞に行っている私よりも大変な環境の中で求道している人の方が信仰が進んでいるかも知れない、という思いがありました。

親鸞会では「求道が進むと苦しみが増えてくる」と言われます。

親鸞会で言われる「苦しみ」とは、周囲の反対・体力・時間・金銭的苦しみを指していると思われます。

しかしその様な「苦しみ」は、何も仏教を求める事に限りません。

おかる同行や山口善太郎さんが言われる「苦しみ」とは、そんな「苦しみ」とは思えません。

阿弥陀仏に心が向いて「何故私は救われないのか」「どうすれば救われるのか」という「苦しみ」と思っています。



林遊@なんまんだぶつ 2009/10/17 17:29

etcかな

信巻深心釈に唯信仏語として、

「また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。」

現代語:

また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧みず、疑いなく仏の説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかない事である。

http://wikidharma.org/4ad46c1241493

と、あります。

ここでは、造毒の廃悪修善を捨て、仏の選択した念仏を行じ、悪しき教えを説く者に近づいてはならないと仰せですね。

この事は親鸞聖人の至誠心釈をみればよく判りますね。

http://wikidharma.org/4ad9472ba6c92

なお、法然聖人の『三心料簡および御法語』を見てもその意がよく判ります。

http://wikidharma.org/4ac98697be304

ちなみに親鸞聖人の『願海真仮論』を紹介しておきますが、あくまで十九・二十願は廃する為に説かれたものであって、これによっていよいよ十八願の真実性が引き立つのですね。

http://wikidharma.org/4ad1d01b2c987

したがって、善をしなければ信仰は進まない、などという妄言は浄土真宗にはありません。

悪も障りにはならず、善も足しにはならない、という善悪平等の救いが浄土真宗というご法義です。

林遊@なんまんだぶつ 2009/10/17 17:31

なお、真宗門徒でも他力という言葉を誤解している人が多いのですが、仏が他を利益する利他力を他力というのですね。

http://wikidharma.org/4ad97d68a903c


最後の学徒 2009/10/17 23:53

Kさん、こんばんは。やはり長くなりました。覚悟して下さい(^^)

皆様、すいません。場をお借りします。

聖道仏教について思うところです。

種々の法門みな解脱します。

末法五濁の衆生は、聖道の修行せしむとも一人もさとりを得ないのです。

末法の衆生には、心も言葉も及びません。

修すべき有情がない、と仰せです。

御伝鈔には「聖教万差なり、何れも機に相応すれば巨益あり。但し末法の今の時、聖道門の修行に於いては成ずべからず」

と教えられています。

親鸞聖人が聖道仏教を教えられなかったのは、釈迦の本意が弥陀の本願を説くことにあったことを、法然上人によって知られたからでしょう。

如来所以興出世、唯説弥陀本願海と教えられています。

では聖道仏教とは何なのか。、

親鸞聖人は、聖道権仮の方便、と和讃に仰っておられます。

弥陀の本願真実に入れさせる為の仮の教え、手立てという事です。

仏の仮とは、ウソとは違いますから、「衆て錯失なし」です。

そういうわけで誹謗することはあってはなりません。

親鸞聖人が聖道仏教の修行をしなさいと教えずに、浄土仏教を教えておられるのは、

釈迦の出世本懐だからでしょう。

また、浄土三部経の観無量寿経に聖道仏教で教えられた諸善はすべて顕されています。

釈迦が直ちに観無量寿経を説かられずに聖道仏教を説かれたのは、弥陀の本願を説く機縁が熟するのを待っておられたのだと思います。

釈迦は聖道仏教の諸善をことごとく観無量寿経に顕されました。

至心発願して行う諸善は、浄土仏教の方便の善になります。

聖道仏教の人を浄土仏教に導く要門と言われます。

親鸞聖人は、教行信証に以下のように善導大師のお言葉を引かれました。

○定は観を顕す縁なり。

○散は行を顕す縁なり。

浄土の要逢い難し。

散善は称名念仏を顕す縁である、ということでしょう。

観無量寿経に釈迦の教えられた諸善はことごとく顕されている、

その諸善、廃悪修善は念仏を顕す縁として説かれているということでしょう。

称名念仏について、法然上人は、選択集で諸行と比較し、勝易の二の義を立てられました。

功徳が諸行より勝れ、修し易いことを明らかにされました。

私たちはそういう念仏でなければ救われないと教えられました。

「諸行は廃するが故に説く、念仏は立せるが為に説く」

と仰せです。

教行信証には、

要門を明らかにされているまとまりでは「種々の法門みな解脱す」

真門を明らかにされているまとまりでは「種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし」

のお言葉を使っておられます。

どうも、比較して真実を顕らかにされておられるようです。

いくらほしいかと聞かれても困りますが、

100円と1万円を出してどちらがほしいかと問われれば、1万円を選ぶような感じかもしれません。

あるいは、「こういう服もある、こういう服もある、どちらがいいですか、こちらがよりあなたには合うと思いますよ。なぜならあなたの体系はこうで、こちらの服の方があなたの体系がよく合います」のような。変な喩えになりましたが、このようなことかなと勝手に理解してみました。今後、理解が進むかもしれません。

「方便を悪しということあるまじきなり、方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。」

と蓮如上人は仰せです。

親鸞聖人は、

「専らこの行に奉え、唯この信を崇めよ」

「悲願の一乗帰命せよ」

との仰せです。

「自力を捨てて他力に帰せよ」

親鸞聖人のお言葉に従い早く浄土真宗に帰依すべきでしょう。

人生の目的云々はまた。



最後の学徒 2009/10/18 00:00

いつも長い文章で本当に申し訳ありません。

ちょっと、こういう文章をみました。

浄土真宗親鸞会の講師の方のブログのようです。勝手に引用します。


〜〜〜〜〜〜〜〜

因果の道理を100パーセント受け入れることの中に、三世を100パーセント受け入れるということも収まるのです。

こうなって初めて、後生(死んだ後)が我が事として問題になってきます。

すなわち、私の後生、行く先はどうなっているのか?と。

そこからです。仏法が始まるのは。

〜〜〜〜〜〜〜〜

因果の道理を100パーセント受け入れるという無理難題を成し遂げて、初めて仏法が始まるようです。こういう方は聖道仏教で悟れるのかもしれません。

ちょっとこの文章はまずい気がします。


信仰の進む道程として、(因果の道理→自己が知らされる→後生の一大事)のように→で進む道を送って説明してくれた会の方もありました。

大方、みんなこういう理解ですね。この講師もそうだと思います。

「後生の一大事を分からせる為に釈迦は45年間因果の道理を説かれた、後生の一大事が分からねば仏教が始まらない」ということがよく聞かれます。

釈迦が弥陀の願意にしたがってまず一切経ほぼ全巻を費やし教えたのが因果の道理、ということらしいですが、

もっともらしいのですが、こういう事は根拠を出しながら語って頂かないと親鸞学徒としては、少し困ります。

一切経のほとんどを因果の道理を説かれた、という事が固く信じられていますが、そう言えるのか、根拠がよく分からないです。

ここから、廃悪修善、後生が問題になる、仏教が始まる、助かろうと善をする、雑行が問題になる、と教えられますから、実は私は何もかも分からないのです。

前に長々と聖道仏教について書いてみたのも、後生を問題にさせるする為に一切経のほとんどを因果の道理を説かれたという前提に疑いがあるからです。

因果の道理が深く信じられることが信仰のバロメーターと言われますが、すると、因果の道理を深く信じられる人を早く救う本願のように思います。

また因果の道理が信じられなければ救われないと思います。

本願を疑う一つで救われないことを教えるのが真の知識と思いますが、これでは誤解を生じる人が多いでしょう。

みなさん、「まず」とよく使われます。

「まず」諸善、「まず」後生の一大事を問題になるまで因果の道理をよく理解して。

「まず」教えをよく理解して。

その「まず」が何年も続いて、多くの人が亡くなりました。残念です。

この「まず」はまずい「まず」と思います。すでに弥陀の本願に誤解を生じていると思います。

前述のブログの言葉の、

「そこからです。仏教が始まるのは。」の「そこから」は永遠に来ないのではないでしょうか。「因果の道理を100パーセント受け入れることの中に」本当にびっくりです。

まず善をすれば、信仰が進んで、そうなれるのでしょうか。

私はなれないと思います。

そういうと善をしたくないんだと悪意に取る方がいます。

それと善をしない、するという事とはまったく違います。

普通生きている時にはよい結果が来るように生きるのですから。

どうも、現役の親鸞会員の方や、先生が500年に一度の善知識と信じる方、会内で遺弟だと認定されている方などの理解も聞きたかったのです。

それと、口伝鈔も拝読致しました。

「たとい万行諸善の法財を修し蓄えるというとも、進道の資糧となるべからず、故は六賊知聞して、侵奪するが故に。」

道を進む、とありましたので目にとまりました。

また、改邪鈔の

「かの経の深信因果の文は三福業の随一なり。彼の三福の業はまた人天有漏の業なり。なかんずくに深信因果の道理によらば、豈凡夫往生の望みを遂げんや」以下、気になります。



最後の学徒 2009/10/18 02:46

長くて要領を得ないコメントで本当に申し訳ありません。せっかくのお題ですから思うままに書かせて頂きますので、よろしくお願い致します。


ちょっと確認出来ないのですが、世界の光、親鸞聖人のアニメの完結編に、

信楽房が出て行った場面で、

「我らが仏縁に恵まれ、聞法精進するのも、阿弥陀如来に救われるのも、これみな阿弥陀如来の本願力なのだ」

というような台詞があったと思います。

これはとても有り難い場面でした。

末灯鈔などを拝読すると、「釈迦弥陀の方便」「釈迦弥陀の慈悲」と多く書かれています。

釈迦弥陀のご方便に催されて、今弥陀の誓いを聞きはじめておわします身にて候なり」

とか、親鸞聖人は常に釈迦弥陀に主語をおいておられると拝されます。

すべて弥陀の願力、光明の働きなのだと感謝します。

山口善太郎でしたか、

「少しも聞く気がない奴に、不思議に聞く気がおこりそめ」

と告白していますが、味わい深い言葉です。

光明のお育てだから不思議に聞く気がおきたのだと思います。

信仰が進むという事が、不思議に聞く気がおこりそめ、

とか、無き疑いがおこり出し、

とかそういうをさして言われているのなら結構なことかもしれません。

聞く、疑い、もともに今の弥陀の救いに向かっている姿に思えるからです。

弥陀に救われていないのは疑情一つですから、浄土真宗で信仰が進む、本当の求道が始まるというのなら、自力をどうすれば、名号を頂こうと必死になることだと思います。

弥陀の救いを聞かせて頂けば問題は信疑だけと知らされますので、自分の信仰が進むとか進まないとか問題ではないと知らされます。

問題は救われているか、救われていないかだけです。それ以外は何も足りないものはありませんが、自力の機執は大変です。そこに泣いている状態を、信仰の進んだ人だというのなら、これは分かります。弥陀の救いに向かい合っているのですから。

やはり浄土真宗の信仰は、ひたすら弥陀の救いを聞き抜く道だと思います。

そこに気がつかされたのが信仰が進むということなら大変な結構なことです。

兎に角も弥陀の救いを聞かせて頂き、照育される道なのではないでしょうか。


〜〜〜〜

こういう言葉があります。

「後生を案じ往生の間に合うと励む(自力)諸善を雑行というのだが、どだい

後生が問題になっていないのだから雑行が問題になるはずもない。信仰がそ

こまで進んでいないのだ。」

浄土真宗の門徒が、後生が問題となって諸善をしないのは、三世因果の道理が教えられていないから」

「先ず、釈迦が因果の道理を説かれ、廃悪修善を徹底されたのはそのためだ。」


〜〜〜〜〜〜

ここから直近の論説抜粋

人間の実相を釈迦はこう説破される。

「心常念悪〜」

一生造悪の自己を徹見すれば後生に恐ろしい結果が惹起することは必定だ。

この一大事に驚けば必ず悪を止めようと廃悪修善の心がおきる。

ここで初めて雑行がでてくるのだ。

釈迦の雄弁をもってしてもここまで導くのは並大抵ではなかった。

信仰が進んで後生が問題になった人でなければ自力も雑行もわからず雑行が廃って助かることもあるはずがない。

捨てよと言われる雑行をしるにはまず後生の一大事を知らねばならないのだ。これが仏法の出発点である。


1、信仰が進むと後生の一大事(悪道に行く一大事の意味と思います)が問題になる。

2、後生が問題になった人でなければ自力も雑行もわからず雑行が廃って助かることもあるはずがない。

3、雑行をしるにはまず後生の一大事を知らねばならない。

4、これが仏教の出発点である。

ということで、

後生の一大事が問題になるのは信仰が進んだということのようですね。

弥陀はどこで出てくるのかはよく分かりません。

後生の一大事問題になって、その解決を求め、聖道仏教の門を叩いて自力難行道で生死を離れようとされる方も出てこられるかもしれません。

「悪を止めようと廃悪修善の心が起きる」=「雑行が出てくる」と言われていますが、弥陀の浄土に生まれようとの願いがなければ、聖道仏教との違いが分かりません。

信仰をどこに向かって深めるのか、弥陀なのか、罪悪なのか。

罪悪観を深めてから、弥陀なのか。

弥陀に向かうままが、照らされるのか。

まず罪悪観を深めてから、迷いの根本を罪悪とみてますから、聖道仏教と思います。

弥陀に向かうままが、罪悪が照らされるのが真宗の気がします。



Rudel 2009/10/18 13:15

当時は、とにかく聴聞、お勤め、六度万行で、宿善つんで横の線を進むしかないと、

進めば進むだけ心が変わって必死の求道になると、

その結果で、いつか一念の、縦の線で自力が廃る(阿弥陀仏に自力を切り落としていただく)と、考えていました。

聖道門とは違うとか、聞くひとつとか、ただ今救われる、といわれるているのは、まあ別時意みたいなものだろう、と理解しておりました。



林遊@なんまんだぶつ 2009/10/18 14:24

信心について。

親鸞会では「信」を強調するあまりに、信心が目的になってしまって、会員の方は本来の仏教の目的が判らなくなっているのでしょうか。

仏教の目的は成仏であって悟りを得る事です。

仏教とは、

仏説教(仏が説く教え)

仏教(仏を説く教え)

仏教(仏に成る教え)

まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えです。

通常の仏教では「信解行証」といって、信は仏教に入る一番最初の段階を信といいます。

仏の説いた法を、信じて解(理解)して、その解した行(戒・定・慧)を行じて証(さとり)へ至るというプロセスが当たり前の仏教の考え方。

このような立場を「善をしなければ信仰は進まない」と言えるかもしれません。

この努力して目的に至るプロセスという概念は誰にでも判り受け容れられるから「易信」(信じやすい)といい、しかし行は行じ難いから「難行」という。いわゆる「易信難行」というのが聖道門の論理です。

此土入聖というこの世で悟りを得ようというのが聖道門。

これに対して、浄土門では「易行難信」といって、行は南無阿弥陀仏を称えるという「易行」だが、信ずる事が難しいから「難信」という。

無量寿経の流通分で釈尊が、

「諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」

http://wikidharma.org/4ada97d64e3c8

と、「難中之難無過此難」と仰り、阿弥陀経でも「難信之法」と、お前に信じる事はできないぞ、と仰せです。

何故信じる事が出来ないかと言えば、他力だからです。仏が行じて仏が仕上げた仏の不可思議の本願であるから信じる事が難しいと仰るのです。

しかし、浄土真宗では「信心正因」といって、信心が成仏の因であるという。

これって、おかしいですね。

なぜ信が正因であるかといえば信は真実であるからというのが御開山の解釈です。

信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり」。

http://wikidharma.org/4ada9b663f394

では、その真実が我々にあるかといえば全く無い。

貪欲(とんよく)むさぼり、瞋恚(しんに)いかり、愚痴(ぐち)おろかさ、の三毒煩悩に苦悩しているのが、人が生きるという事の実体です。

この煩悩は死ぬまで無くならないし、死ななければ無くならない煩悩の中に、お前は仏に成るのだという阿弥陀如来の信心(真実)の言葉を聞いていくのが、浄土真宗でいう信でしょう。

利井鮮妙和上が、歎異抄の一条を、

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」

で切って読め、と仰ったそうですが、この言葉が信心の中身だからでしょう。

「と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

本願によって浄土へ生まれさせて下さる事を、信じて(受け容れて)お念仏しよう、と思い立った時に摂取不捨の身にさせて頂くのです。

本願文に、

至心 信楽 欲生我国 乃至十念

本当に(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれると欲って(欲生我国)、たとえ十声でもお念仏を称えてくれ(乃至十念)、とあります。

どのように考えても死ぬとしか思えないことを、我が国に生まれるんだと欲(おも)え、というのですから信じられる訳がありません。

しかし、生と死を超えていく術(すべ)もない私が、阿弥陀さまの仰る事は解かりませんが、阿弥陀さまの仰る事に間違いはない、と受け取らせて頂きますというのが他力の信心です。

この信心は、阿弥陀如来の信心です。

「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。」

http://wikidharma.org/4ad12a1bd5d4a

現代語訳

この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の信心というのである。

阿弥陀如来の信心であるからこそ、往生成仏の正因であるというのが「信心正因」というのです。

昔から、大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心数しれず、という言葉がありますが、自らの拵えた「行に迷ひ信に惑」うよりも、阿弥陀仏に向かって本願のお言葉を拝聴することこそが肝要ですね。



有縁友情 2009/10/18 16:01

三世因果の道理から自己の罪悪にきずかせてもらえば、後生は大変なことになるから、

私にたすけさせてほしいと阿弥陀佛のほうからたのんでくださって信心を与えてくれる。

それにしても難しいのは善について経にあるように言われても、できないことばかり

なので、所詮は無理な話を想像でいうのみで自ら行った者はいない。飢えた獣に自分の

体をあげたことのある人はいないでしょう?蚊に血液をあげるのもかゆくなるからといって

殺すわれわれがそんな善について想いをめぐらせてみることはできても行うことは不可能

です。よって唯知作悪というのでしょう、さらに三世因果の道理からみれば殺す蚊も前世から

の因縁によって結ばれている相手にほかならない、ただ自分に不快感を与えたからころしたので

あるが、蚊も血が欲しくなってそばによってくる縁があったのでそばにきてそして殺されたので

この因縁は来世でまた殺した私に向かってくるのは間違いのないことであると仏説にある。

自因自果、私の殺した蚊は私を殺すことでしょう。われわれは、殺す因縁をたくさん持って

生きています。そして来生では殺される因縁をたくさん作っているのです。これはつながって

いますので、いま殺すことから逃げることができなければ、来世でもころされることから

逃げることはかなわないでしょう。そして唯知作悪のわれわれが知ることができるのは、字句の

とおり、悪をつくることのみ知ることができるのです。ゆえに、善悪について語ることはよいです

が、リアルに感じとることができるのは、悪を作る側ですね。殺生なんかは最もわかりやすい

ですが、仏典にあるような善行はとてもじゃないができる代物ではないです。積極的に悪いこと

をする必要はないです。常日ごろの生活そのものをよく観察してみると、人間の都合のいい

ルールの中で生きているわれわれは、総じて因果の道理に照らされれば、全て堕地獄は免れない。

さらに善をもって悪を消すことは物理的にも不可能です。釈尊のように悟りを開かなければ、

地獄にいきますぞ。さらにその上に邪見驕慢悪衆生信楽受持甚以難難中之難無過此難

要は頼む気持ちは私には持てません、なぜなら邪見で驕慢で悪いから、しようと思っても

それは不可能です。ちょうど先ほどの獣に肉をやる方法でどうしたらいいのかと想い悩む

ようなことです。もともとすることはできないけど、やってみようかとか、できるとおもって

いろいろ思考錯誤して、できたような気になって浮かれるのがせきのやまです。五逆罪と

正法を誹謗するわれわれは、因果なんてない、後生もない、仏もいないというわれわれは

除かれているのでありますぞ。よくそういう現実をみて無常のこの世界に生きるわれわれは

真剣に仏法を求めないと大変なことになりますので、ぜひ真剣にお互いに求めてまいりましょう。

南無阿弥陀仏。

Rudel 2009/10/18 22:58

山も山様

この場を借りて質問させてください。

一生懸命善根功徳をつんで宿善を厚くして、救われる・・・という教えではなく、

ただ今の無条件のそのままの救いと、いつも教えていただきます。

ですが早く救われる方もいればそうでない方もおられるのはなぜでしょうか。

過去世の行いや今生での聞き方が人それぞれ、まちまちだからでしょうか。

それとも、全く阿弥陀仏のお計らいで、私たち人間(凡夫)には全くわからないのでしょうか。

ただ今僕を救って下されるのが阿弥陀様の御心と、頭ではわかっていますが、

一刻も早く救われたいのに、なかなか救いにあずかれないのは、なぜだろう、どうしたら・・・という気持ちが

いつもあります。

「どうしたら」ではないと教えていただきますが、困っています。

自分の心(機)を相手にするというか、こうした考えをしてはやはりダメなのでしょうか。

2009-10-14 「善をしなければ信仰は進まない」ってどう思いますか?コメント募集

「善をしなければ信仰は進まない」ってどう思いますか?コメント募集

今回のエントリーはいつもと趣向を変えて、みなさんのご意見をコメントで募集したいと思います。

「お題」とタグをつけましたが、不定期にみなさんがこのことにどう思われているか「お題」を出して、コメントを公募いたします。このブログはコメント承認制ではありませんので、どんなコメントでも、表示されます。

今回のお題は「善をしなければ信仰は進まない」ってどういう意味?とします。

最近何度か耳にした質問です。複数の方から頂いたものをまとめると以下のようなものです。

「善をしなければ信仰は進まない」と聞いて、善をしなければ助からないと思うのは、聞き間違いだと聞きました。

また、親鸞会では縦の線と横の線を書いて、横の線を進んで、縦の線で救われるという話をされます。横の線を進むのは時間がかかるけれど、縦の線は一念だから、その一念の救いまでは時間がかかるのだという説明も聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか?(頂いた質問)

この「善をしなければ信仰は進まない」というのは、親鸞会館での行事、親鸞会の機関紙「顕真」によく出てくる言葉です。支部活動の現場でもよく使われています。

この言い方も一つの、固定したやりとりの中で使われるものです。

「善をしなければ信仰は進まない」の用例

  1. A「善をしなければ信仰はすすまない」
  2. B「では、進んだらどうなるんですか」
  3. A「進めばわかります。だから進みましょう」「実行しない人には何もわかりません」
  4. B「では、どうすれば進むのでしょうか?」
  5. A「それには、聴聞、勤行、六度万行の実践です。まずは、実践です。がんばりましょう。善をしなければ信仰は進みませんからね」(→2へ戻る)

大まかにいえば、このように使われることが多いとおもいます。

上記の例で、大きな疑問が残る部分があります。それは「信仰が進むとは何か?」ということです。

その疑問が解消されないまま「どうしたら進むか」「善のものがらは何か」に問題がスライドしてしまっています。

「信仰が進んだら救われるのではない、それでは自力で救われることになる」とはいいますが、とにかく「信仰が進む=絶対善いこと」という大前提から出発をしています。そもそも「信仰が進むとは何か?」という問いを起こす人は無いのではないでしょうか?

「善をしなければ信仰は進まない」の「善は何か」よりも、「信仰が進むとは何か」の方が大事な問題ではないかと思います。

反対に、「悪ばかりをしていたら信仰は後退(停滞)する」のでしょうか?

そうなると、「信仰が後退(停滞)する」とはどういうことかという疑問が起きます。

募集コメントの例

今回は、「信仰が進む」について、ブログを読まれた方の意見をコメントで募集します。

コメント欄に、思われることを自由に書いていただきたいとおもいます。

(コメントの例)

  • 「信仰が進む」についてこう思っている、または、過去こう思っていた
  • 「信仰が進む」について、こういう質問をしたら、こう聞いたことがある
  • 「信仰が進む」は、自分が阿弥陀仏に救われる事と関係がある、または、ない
  • ………
  • etc

コメントを承認制にしている親鸞会関係者の方のコメントも歓迎します。

コメントの流れをみて、ある程度意見がでたところで、まとめのエントリーを書きますので、よろしくお願いいたします。

もう一つの、「横の線は時間がかかるが、縦の線は一念」問題については、次回のお題にしようと考えています。