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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-08-27

「自分の心を詮索せず本願に向きなさいと以前からよく聞いておりますが、「本願に向く」ということが漠然としすぎてわかりません。」(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2014/08/26 09:58  

自分の心を詮索せず本願に向きなさいと以前からよく聞いておりますが、「本願に向く」ということが漠然としすぎてわかりません。本願に向くとはどういうことなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140825/1408958644#c1409014715

本願に向くとは、御一代記聞書にある言い方でいうと「その篭を水につけよ」ということです。

(88)

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。(御一代記聞書88_ 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/qx05Cf

アドウチさんのコメントでいう「自分の心を詮索」することは、上記の御一代記聞書では自分の心を篭に例えてその篭の中に水が入らないことを悩んでいるようなものとして言われています。それは、法話を聞いたり、念仏したり、お聖教を拝読するのは一生懸命自分の心という篭に水を注いでいるつもりでいるからです。ですから、本願という水が自分の心という篭にどれだけ入ったかを確認したくなります。もし、篭が水であふれた状態になれば本願を聞いたということにしているのだと思います。だから、自分の心という篭に水がない状態を御一代記聞書の人は悩んでいます。確かに私もそのように思っていた時があります。しかし、それは法をわがものとしようと試みているだけなのであり、法そのものに形がない以上は所有はできません。

法がどれだけ所有できたかと自分の心の詮索をしても、それによっていつの日か心が法で満たされることはありません。


では本願に向かうことを御一代記聞書ではどう言われているかというと「その篭を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」と言われています。

本願に向かうとは、どこか特定の方角を向くことではありません。それは、法は私を取り囲み常に私に向かって働いて下さることを知ることです。なぜなら、阿弥陀仏に向くと言っても、自分の心の中に、あるいは法話の場所に阿弥陀仏を探しても、どこか特定の場所におられる阿弥陀仏ではないからです。


阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となってこの私に向かって常に働いて下さっています。それは私の半径数メートルというようなものではありません。私がどこにいても、いつでも南無阿弥陀仏が働いてくださるのは、この私のいる世界で南無阿弥陀仏のない場所が存在しないからです。

どこかにおられるのではなく、この私のいる世界に遍くそのお働きがあり、しかも私一人にむかってよびかけられている南無阿弥陀仏と聞くということが、「本願に向かう」と言うことです。

2013-09-11

「阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました」(頂いた質問)

阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました。

インターネットで見つけた冗談で、キリスト教徒の人が、「絶対、神は猫だ」と言っているのを見たことがあります。理由は「いつも祈りは無視されるから」だそうです。

私も似たような気分で、念仏を称えるのがしんどいのであまり称えません。

助からない理由は、

(1)阿弥陀仏があまり親切ではない。

(2)阿弥陀仏がいない。

(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。

のどれかだと思います。

(頂いた質問)

これについては

(1)阿弥陀仏があまり親切ではない

というのはありません。私を救うために五劫思惟されたのですから、「意地悪」や「トラップ」または「試練を与える」ということはありません。また、この五劫思惟は、私に負担をかけないようにされたものです。形はどうあれなにかの「行」を要求する場合、全ての人を救うことはできません。


そのことを、選択本願念仏集に以下のように書かれています。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

http://goo.gl/BR39s

南無阿弥陀仏(念仏)で救うという阿弥陀仏の本願は「一切に通ず」ものです。しかし、それ以外の「行」を救いの条件にすると「諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず」となります。あらゆる人に適応できないものとなります。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

仏像を作ったり、塔を建てたりするのが阿弥陀仏の救いの条件であるのなら、そんなことができる金持ちはとても少なく、そこまでの経済力がない人の方がずっと多いのです。もし「造像起塔」が本願であるならば、多くの人が往生の望みを断たれてしまいます。また、智慧があり才能に恵まれた人を救う本願であるならば、そうでない者の方が多いのでそれらの人は往生の望みを断たれてしまいます。

全ての人を救う為の南無阿弥陀仏となられたので、そういう意味で阿弥陀仏は大変親切な方であす。「あまり親切ではない」ということはありません。


次に

(2)阿弥陀仏がいない。

は、ありません。なぜなら、本願がすでに成就して法蔵菩薩から阿弥陀仏となっておられるからです。その阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となって私に称えさせておられるのですから、ただ今の私が念仏をすること自体が、阿弥陀仏がおられる証拠となります。


最後に

(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。

とある、これが正解です。

阿弥陀仏は私を救うための仏でありますから、「親切ではない」ということがありません。また、すでに本願は成就しているのですから「阿弥陀仏がいない」ということもありません。

では「何かが行き違っている」の「何か」について考えてみます。


その「何か」とは「阿弥陀仏は親切である」「阿弥陀仏はおられる」にもかかわらず「私はなぜ救われないのか」という疑問がについてです。


この「阿弥陀仏が親切である」については、質問者の方が全面的に信用されていないのではないかと思います。必ず救うと呼びかけられる南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。

2011-04-06 阿弥陀仏の本願は「縁のある、ほんの一部の人間との約束」ですか?(

阿弥陀仏の本願は「縁のある、ほんの一部の人間との約束」ですか?(リクガメさんのコメント)

リクガメさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

リクガメさんのコメントに、maryさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

いつも拝見しています。阿弥陀仏の救いは「今」なのでしょうか。私の姉は生まれてすぐに死にました。おばあさんも、もう認知症で何もわかりません。また、この度の地震で存命の内に救われた人はどれだけいたのでしょうか。皆、阿弥陀仏の存在さえ知らなかったのではないでしょうか。子供のころ、犬を見て、幸せになって欲しいと思ったことがありました。私のペットのカメも十方衆生に入っているのですよね。十方衆生とは「われわれは人間だから→すべての人」と、どこかで聞いたことがあります。人間だからといっても今生で救われないということは、十方衆生とはいっても、救われずに死んでゆく現実があることから、縁のある、ほんの一部の人間との約束で、ほとんどの人は含まれていないような気がしてなりません(阿弥陀仏がわからないという意味では私も動物と同じで、十方衆生とはいわれてるが、現実的には救われる対象には入っていないような気がします)。死んだ後、遠い遠い未来の「今」の救いの人もあり、いつかは十方衆生は救われるというのなら理解はできますが・・・・。最近こんなことばかり考えています。(リクガメさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110404/1301864832#c1302003975

いくつかお尋ね頂きましたので、順番に書いていきます。

阿弥陀仏の救いは「今」なのでしょうか。」

阿弥陀仏の救いは、いつでも今です。この文章を読まれているときが「今」です。未来のいつか「イマ」という時系列上のポイントがあるのではありません。

次に頂いた「この度の地震で存命の内に救われた人はどれだけいたのでしょうか。」については、それは分かりません。亡くなられた方も、地震と津波で命が助かった方も、何とか阿弥陀仏の本願を聞いて浄土往生して頂きたいと思っています。


「縁のある、ほんの一部の人間との約束で、ほとんどの人は含まれていないような気がしてなりません」

阿弥陀仏の本願は、一部の人間との約束ではありません。なぜなら「無縁の慈悲」をもって起こされた本願だからです。ペットのカメも十方衆生にもちろん入ります。

仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈*1をもつてもろもろの衆生を摂す。(観無量寿経・浄土真宗聖典(註釈版)P102・法蔵館の真宗聖典P146.下段終わりから3行目)

観無量寿経には、仏心とは大慈悲のことだといわれています。大慈悲とは無縁の慈悲のことです。

人間の起こす慈悲は、仏様の大慈悲に対して小慈悲、無縁の慈悲に対して衆生縁の慈悲といわれます。

人間の考える慈悲は、縁のある人に対して起こすものです。身内や知人、今回の震災を報道で知ったとき「同じ人間として」との思いから起こす慈悲です。

それに対して阿弥陀仏の大慈悲は、無縁の慈悲です。知っているとか知っていないとか、善人とか悪人とか、○○だからという差別を一切つけられない慈悲です。人間だから動物だからと言う差別もありません。

私の目線から、人間の慈悲の観点から阿弥陀仏の本願を考えると次のような疑問が起きてきます。

  • なぜ助けて下さるのか分からない
    • 法蔵菩薩となって本願を建てられたときに、私のことを知っておられたのだろうか?
    • 十方衆生といわれても、私のことは知らなかったはずだ。私は阿弥陀仏が仏になられた十劫の昔のことは分からない。
    • 私自身も阿弥陀仏のことを知らなかったのに、どうして阿弥陀仏は助けて下さると呼びかけておられるのか?

ちょっと考えて見ると、仏様に向かって言えるような立派な善も、菩提心も起こしたことがない私に対してどうして本願を起こされたのかが分からなくなると思います。

そこで「ほんの一部の人間との約束」ではないかと疑問を起こされるのも、当然だと思います。

私から見れば、阿弥陀仏は縁もゆかりもない方です。しかし、どうしてだか分からないけれども慈悲を起こされて救って下さるので阿弥陀仏の大慈悲は「無縁の慈悲」なのです。

仏法を聞いている人は縁があり、仏法聞いていない人は縁がないと、人間の目から見た縁の有無で助かるとか助からないというのは、間違いです。

人間の目で見てわかる縁の有無で慈悲があったり無かったりするのは、小慈悲であり衆生縁の慈悲です。

「全く知らない、顔も見たことがない」「助けて欲しいとも思わない」と私が考えていたとしても、「汝を助ける」と大慈悲を起こして下さるのが阿弥陀仏の大慈悲です。無縁の慈悲です。

人間世界では、縁がないと助けられないことが多いです。しかし、阿弥陀仏の大慈悲は無縁の慈悲です。私の方からみて縁がないとしか思えなくても、法蔵菩薩として願を起こされるときから大慈悲をかけて下さっているのです。

まとめ

この無縁の慈悲が大慈悲心ですから、「もう少し縁が深まってから助かる」ということはありません。「縁のある一部の人を助ける本願」ではありません。

実感として、阿弥陀仏がどれだけ遠くに感じられても、南無阿弥陀仏が他の人に向かっているように感じられても、今の私をただ今救って下さるのが南無阿弥陀仏です。

*1:無縁の慈・・平等にして無差別な仏の大慈悲

2011-04-04 阿弥陀仏は本願に報いてあらわれた報仏(前回の補足)

阿弥陀仏は本願に報いてあらわれた報仏(前回の補足)

前回のエントリー(「仏さまなんていない」という人にどう話をしたらよいでしょうか?(畑さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))の補足です。

阿弥陀仏という仏様は、私を助けるために名告られた仏様です。そのため、阿弥陀仏のことを善導大師は「報仏」といわれ、親鸞聖人も教行信証に引文されています。

西方の安楽阿弥陀仏は、これ報仏報土なり(教行信証真仏土巻より・善導大師「玄義分」引文・浄土真宗聖典(註釈版)P364/法蔵館の真宗聖典P429

報仏とは、報身の仏と言うことです。報身の「報」は酬報のことです。酬報とは、菩薩の位の時に(因位)建てた願と、その願に応じて行った修行に報いたということです。因願酬報といいます。その菩薩の時に建てた願と行に報いて現れた仏を報身といいます。

阿弥陀仏は、法蔵菩薩が私を何とかして助けたいと五劫思惟の願を建てられ、兆載永劫の行をされた結果、願行に報いて現れた仏様です。

そのことを、上記の文章のあとにこういわれています。

いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身*1なり。(同上)

ですから「阿弥陀仏」は、私を救う仏様であって、私と無関係な仏様ではありません。私がなにかしなければ近づけない仏様でもありません。私が何かしない限り救って下さらない仏様でもありません。

往生のためには何も出来るものを持ち合わせていない私を助けるための本願を建てられて、行をされた結果として阿弥陀仏となられました。もし、阿弥陀仏が何かをしないと助けてくれない仏様だという人がいたら、もとの本願が違うということになります。

設計図が右とあるのに、できあがったものが左ということはありません。そのまま救う本願だから、そのまま救う仏様となって現れて下さったのが阿弥陀仏です。

苦しむ私をほおって置かれるはずはありませんし、救うために何か条件をつけられることは絶対にありません。

追記 19願の報身仏や、20願の報身仏はいない 2011/04/04 10:26更新

今日のエントリーに追記で書いておきます。

今日のエントリーで

いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身なり。(同上)

のご文を引用しました。

酬因とは、因願酬報ということで、法蔵菩薩の起こされた48願をまとめておさめれた第18願に報いてあらわれた仏身のことです。

「善をしなければ助からない」という第19願の報仏である阿弥陀仏や、「念仏を称えたら助ける」という第20願の報仏である阿弥陀仏はおられないということです。

*1:酬因の身・・四十八願を総摂した第十八願にむくいてあらわれた仏身。

2011-04-03

「仏さまなんていない」という人にどう話をしたらよいでしょうか?(畑さんのコメントより)

畑さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「地震で苦しむ人々がいるのをみて仏さまがいるのなら、こんな人こそ救ってくださるのが当然じゃないの。

あんなに苦しんで死んでいく人がいるのは、仏さまなんていない証拠」という人がいます。

このような人に阿弥陀さまのことをなんと話したらよいものでしょうか。(畑さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110402/1301692003#c1301746778

「仏さまなどいない」と考えておられる方に、どう話をするかということで考えて見ました。

今回の地震で亡くなられた方や、家族を亡くされた方、家を失った方、不便な生活を続けられている方を報道で見ると、私も大変心が痛みます。相手の方が地震被害の当事者かどうかはわかりませんが、そういう状況に対して、自分が何も出来ないことを悲しまれているのかも知れません。

「自分でも何かしようと思うのだから、救う力のある仏さまなら何かしてくれるはずだ、何もしてくれないのは仏さまがいない証拠だ」という主張だと思います。


何の話をするかと言えば、阿弥陀仏とはどういう仏様なのかを話をするのがよいかと思います。仏法の話をすると言っても、それ以外に話をすることはありません。

阿弥陀仏は、私を助けるために現れて下さった仏様です。「阿弥陀」という名前は、「あなたを助けます」と名告られた名前です。

その「あなたを助けます」という名告りは、どこから来たかと言えば、大慈悲の本願からでてきたものです。仏様の目からご覧になると、私は母に対する一人子のように、常に可愛く苦しんでいるとなれば何とか救ってやりたいという存在なのです。

二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。ゆゑにわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。(教行信証行巻より・源信僧都『往生要集』引文【64】浄土真宗聖典(註釈版)P184

阿弥陀仏が私をご覧になるのは「一子のごとし」です。「極大慈悲母」と阿弥陀仏のことを言われています。


大慈悲があるからこそ、「あなたを助けます」という願いをもたれ、願っただけでなく実際に私を助けるために働いておられます。それは、目には見えませんが、常に「南無阿弥陀仏」と名告られて私の口から出て下さっています。

仏様はいないのではなく、私の目に見えないだけです。

常に働いて私を救って下さる証拠が、この南無阿弥陀仏です。

「一子のごとし」ですから、一人一人に阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。」と呼びかけておられます。特別な人だけでなく、一人一人に呼びかけておられます。

畑さんに、また畑さんの相手の方にも呼びかけておられる証拠が南無阿弥陀仏です。

相手の方がこの話を聞いてどう思われるかは分かりませんが、私が畑さんと同じ立場であったならばどう話すかを考えて見ました。

2010-09-26 私が救われたことを一番喜ばれるのは阿弥陀仏です(ねこさんのコメン

私が救われたことを一番喜ばれるのは阿弥陀仏です(ねこさんのコメント)

ねこさんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。

親鸞聖人は「獲信見敬大慶喜」(正信偈)とか、 「ここを以て、極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり」(教行信証信巻)とか、 「無上の信心を獲れば、すなわち大慶喜を得」(文類聚鈔) と仰っていますが、信心を頂くと大きな喜びの心が起きるのではないでしょうか。(ねこさんのコメント)

喜びはおきます。ただ、喜べるような尊い菩薩になるのではありません。

凡夫の身の上からは、阿弥陀仏に助けていただく浄土を生きている間に間の当たりにすることはできません。見るような知恵がないからです。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり(歎異抄9章)

救われても喜ばないような凡夫と知られた上で、喜ばない凡夫のまま助けてくださる阿弥陀仏の本願を喜んでいるのです。

大きな喜びとは、「何かを得た」喜びではなく、阿弥陀仏の本願のかたじけなさよという喜びです。阿弥陀仏の大慈悲心が有難いという心です。

また、私が浄土往生する身に救われて、一番喜ばれるのは、私ではなく阿弥陀仏なのです。私が「本願が有難いな」と喜んでいるよりも、ずっとずっと大きく喜ばれるのが阿弥陀仏です。

2010-09-16 阿弥陀仏に救われないと駄目でしょうか?(WTさんのコメント)

阿弥陀仏に救われないと駄目でしょうか?(WTさんのコメント)

WTさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

そもそも人は生まれてきたからには、阿弥陀仏に救われないと駄目なのでしょうか。

阿弥陀仏の本願を知らずに死んでいくことは、いけないことなのでしょうか。

かわいそうなことなのでしょうか。

救われている人と救われていない人は、天と地ほどの差があることになるのでしょうか。

0点か100点かとも言えるのでしょうか。(WTさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100915/1284543361#c1284608818

質問が複数になっているので、段落を分けて書きます。

阿弥陀仏に救われないことは、ダメなこと?いけないこと?について

阿弥陀仏の本願に救われないとか、知らずに死んで行くことは、ダメとか、いけないことというものではありません。もったいないことです。折角阿弥陀仏が本願を建てられ、私を救おうとされているのですから、救われないことは実にもったいないことです。



救われている人と救われていない人は、天と地ほどの差がある?

何も差はありません。

阿弥陀仏に救われる前も凡夫なら、救われた後も凡夫です。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文・註釈版聖典P693

欲も多く、怒り、はらだち、そねみ、ねたむこころが多くひまないのは、信前も信後も変わりません。「水火二河のたとへにあらはれたり」とありますように、二河白道の譬えで、阿弥陀仏の呼び声を聞いて、旅人が本願の白道を歩むようになっても、水の河、火の河は何もかわりません。同じように煩悩は何も変わりません。変わらないと言うことは、凡夫という点では何も変わっていないということです。

偉くなったわけでも、賢くなったわけでもありません。

ですから「どうだ!」と威張る必要もないのです。



0点か100点かとも言える?

0点とか100点といったテストの点数のような評価があるのではありません。

未信の人は、ダメな人(0点)で、救われた人は偉い人(100点)ということはありません。

救われても、救われていなくても、私という者は0点なのです。

ただ、そんなものを0点だからダメ、100点にしてやろうという阿弥陀仏ではありません。0点なら0点のまま救ってみせるというのが阿弥陀仏の本願です。

自分に自信がもてようが、もてまいが、阿弥陀仏はそんなことを気にされません。ただただ私を浄土に往生させてやりたいの願いしか有りません。

尊いとか、素晴らしいという言葉は、私につくのではなく、阿弥陀仏に向けられる言葉です。私はただ、助けられる側であって、偉いとかダメという価値判断はそこでは関係ありません。衆生かわいい、衆生かわいいが阿弥陀仏の願心です。

ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2010-09-14 阿弥陀仏の大きな声が私に常に呼びかけられている(RMさんのコメント

阿弥陀仏の大きな声が私に常に呼びかけられている(RMさんのコメントより)

RMさんより、コメントを頂きました。有り難うございました。

「私を助けようとされている南無阿弥陀仏の大きな大きな声が、私に常に呼びかかけておられる」と、表現してもいのでしょうか。(RMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100913/1284363836#c1284429684

そのように表現されてもよいと思います。

親鸞聖人ご和讃にも、呼びかけておられると表現されているところがあります。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ

 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃53・註釈版聖典P609

大願の船に乗られて、阿弥陀仏が生死の海に浮かびつつ、私を呼び続けて乗せて下さると仰っています。

大きな声という言い方で言えば、その大きな声はずっとずっと昔から、現在ただ今も絶え間なく呼び続けておられると言うことです。

呼び声を待つのではなく、すでに呼び続けられている「ただちに来たれ」の呼び声を疑いなく聞いて下さい。必ずただ今救われます。

2010-08-31 そのまま聞くといっても雲をつかむようです(山本さんのコメント)

そのまま聞くといっても雲をつかむようです(山本さんのコメント)

山本さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

エントリーが遅くなり申し訳ございませんでした。

そのまま素直に受け取るとは、雲をつかむような感じです。(山本さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100825/1282728048#c1282875372

雲をつかむような感じというのは、私もそのように思っておりましたのでよく分かります。

阿弥陀仏とか、信心とか、称名と聞いても、私の側には何か実感できる確かなものがないからです。

それは、私が浄土往生する働きが最初から、最後まで阿弥陀仏のお仕事だからです。

「是名正定之業順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、仏の願にしたがふがゆゑにと申す文なり。(一念多念証文)

その阿弥陀仏の本願ひとつに私を浄土往生させる働きがあります。それに私の方で自力の計らいを差し挟むと、その働きが私の上に現れないのです。そのため、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるといわれています。往生浄土を決定する因・働きのことを正定の業と言われています。

信心といっても、阿弥陀仏の本願のお働きを聞いて疑いないことですから、私の働きはどこにもありません。

雲をつかむように思われるのは、実体があるはずなのにという思いが強いからではないかと思います。私の側には、最初からなにもありません。有りませんので、阿弥陀仏のお力一つでただ今救われるのです。

2010-08-14 わたしを、わがひとり子とみられるのが阿弥陀仏(でんさんのコメント

わたしを、わがひとり子とみられるのが阿弥陀仏(でんさんのコメントより)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

平生業成と聞くと「今生(一生の間)をかけて」と思いがちですが、即ち、現在の一念なのですね。

何としても私達を救いたいから、一念で救う願を成就されたのですね。

この私はいつでも救いの対象であるわけですね。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100812/1281613227#c1281650541

仰るとおりで、平生の救いというのは、一生かけてどうにかできれば万々歳というものではありません。現在ただ今の私を救う本願です。

仏様の目から見れば、現在ただ今の私が救うべき状態の者だと言うことです。

私は阿弥陀仏からみれば、救うべき相手ですが、一般にいう医者と患者のようの関係とは違います。多くの人にとっての一人の救い主ではなく、一人にとっての一人の救い主です。

阿弥陀仏の大慈悲を、一子地と親鸞聖人はいわれています。

平等心をうるときを 一子地となづけたり

 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし(浄土和讃92・註釈版聖典P573

一子地については、左訓として

三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本)

と仰っています。

ひとり子といえば、一般では「自分の血肉をわけた我が子」とか「わが命」という人ももあります。

阿弥陀仏にしてみれば、私は、阿弥陀仏の命であり、自分の血肉を分けたもののように見ておられると言うことです。

だからこそ、なにかの手段を講じることができる人や、ある一定基準を満たした人でないと救わないというような本願ではありません。

阿弥陀仏にとって、私こそが本当のお慈悲のお目当てなのです。育てて立派にしたり、成長してから救うような能力は私にはありません。だから、ただ今そのまま救って下さるのです。

2010-08-12 ただ今救う本願(平生業成)の根拠(YYさんのコメント)

ただ今救う本願(平生業成)の根拠(YYさんのコメント)

YYさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏は現在ただ今救って下さる」といつもお聞きして

おりますが、「ただ今救う」という御聖教上の根拠を知りたいのですが。

本願文の設我得仏十法衆生〜だけでは、解らないのです。(YYさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100811/1281513141#c1281536917

阿弥陀仏はただ今救って下されるというのは、別の言葉で言えば平生業成ということです。

よく読まれている御文章では以下の部分になります。

さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(御文章1帖目2通・出家発心・註釈版聖典P1085)

経典上では、本願成就文の即得往生住不退転がそれにあたります。また、曇鸞大師の往生論註では「一念発起入正定之聚」ともいわれています。

いずれも、臨終ではなく、平生の一念に往生が定まり不退転に住すると言われています。

親鸞聖人ご自身のお言葉では、「平生」というお言葉はありませんが、臨終に対して尋常というお言葉を使われて教えられています。

「願力摂得往生」といふは、大願業力摂取して往生を得しむといへるこころなり。すでに尋常のとき信楽をえたる人といふなり、臨終のときはじめて信楽決定して摂取にあづかるものにはあらず。ひごろ、かの心光に摂護せられまゐらせたるゆゑに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆゑに、臨終のときにあらず、かねて尋常のときよりつねに摂護して捨てたまはざれば摂得往生と申すなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P657

阿弥陀仏の18願の救いは、臨終の救いではありません。臨終ではなく尋常の時(平生の時)信楽をえて、正定聚に住するものです。

一生涯の善根の積み重ねで往生が決まるというのは、臨終業成であって、阿弥陀仏の18願の救いではありません。

平生と言っても、私が生きているただ今のことであり、昨日のことでも明日のことでもありません。現在ただ今が平生です。

私が今と思えるただ今が平生です。過去でも未来でもなく、ただ今呼びかけられる阿弥陀仏の仰せを聞いて救われるのですから、ただ今救われます。

2010-06-08 どちらが悪いかではなく、順番の問題です(shinjiさんのコメント)

どちらが悪いかではなく、順番の問題です(shinjiさんのコメント)

shinjiさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今の自分の心は、

阿弥陀仏を慕う気持ちで聞かせていただいていますが、目に見えないし耳に聞こえないから救われるまでわからないな・・・という気持ち

・今日とも知れない命なので急がなければならない、早く救われたいという気持ち

・何年も某会で聞いていましたが、周りの人に褒められたいという気持ちしかなく、今まで阿弥陀仏のことをおろそかしてきて申し訳ない気持ち

(shinjiさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100529/1275094944#c1275887139

ご自分の心を打ち出して頂き有り難うございました。

阿弥陀仏は、確かに目には見えません。しかし、耳で今まで本願の心については聞いて来られたと思います。また、文字で書かれたものを目にしてこられたと思います。

文字にすれば、「必ずただ今救うぞ」というものです。

それ以外の何か、人間の声ではない不思議な声がこの耳に聞こえてくるのではありません。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。(一念多念証文

本願をききて疑う心がないことを「聞」といわれますが、最初の「本願をききて」という部分について、ここで何か不思議な音が聞こえるということではありません。

そういうものを聞いたことがないので「聞いていない」と言われるのでしたら違います。

お釈迦様が説かれ、また歴代の善知識方が伝えてゆかれた本願は、お釈迦様や善知識方の言葉であらわされています。その言葉を聞いて疑いないのが「聞」ですから、すでに耳で「きいて」おられると思います。ただ、疑う心があるということです。

疑う心があるという点で「聞」ではないといういみで「聞いて」いないのです。

今日とも知れない命と思う心や、阿弥陀仏の事をおろそかにしてきて申し訳ない気持ちはとても大事な心です。

阿弥陀仏は、おろそかにしてきたことに腹を立てておられるのではありません。それよりも、無常の身ですから、早く弥陀をたのめと願っておられるのです。

悩んでいるのは、shinjiさんだけではありません。阿弥陀仏もなんとかと願っておられます。

どっちが悪いかではなく、どっちが先かという問題です。

阿弥陀仏が願われているのが先なのです。「助かりたい」の自分の都合は後回しです。先に阿弥陀仏のただ今救うぞの願いを聞いて下さい。

必ずただ今救われます。

2010-03-12 阿弥陀仏は来られるのではなく、おられるのです(頂いた質問)

阿弥陀仏は来られるのではなく、おられるのです(頂いた質問)

阿弥陀仏が飛び込んできて下されると思っていますが、なかなか飛び込んで来てくださいません。(頂いた質問)

阿弥陀仏が飛び込んで来て下されるというのは、振り返ってそのように表現される方があっても、絵像や木像に描かれたような阿弥陀仏が、目の前にドーンと現れられることもなければ、そのような仏様が私の体内にドーンと入って来られるということではありません。

阿弥陀仏という仏様について、親鸞聖人は、「この如来は光明なり」といわれています。

この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。(一念多念証文

この如来というのは、阿弥陀如来のことですが、阿弥陀如来は光明であるといわれています。それは、阿弥陀仏という仏様から光明がピカーッと放たれているということでは有りません。阿弥陀如来は光明そのものであるということです。

私を助けようという智恵の働きそのものが、阿弥陀如来であり、南無阿弥陀仏なのです。

ですから、絵像や木像のような形をした阿弥陀仏が、十方微塵世界をものすごいスピードで駆け回っておられるのではありません。光の国から僕らのためにやってきたあのヒーロー*1とは違うのです。(分からない方は参照先をご覧下さい)

光明が、十方微塵世界にみちみちているから、無辺光仏ともいわれています。そのことを、天親菩薩は尽十方無礙光如来ともいわれているのです。

遙か、かなたからドーンとやってこられるのではなく、現在働いておられる光明が、阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏です。

来られるのではなく、おられるのが南無阿弥陀仏であり、阿弥陀仏です。

だからこそ、どこにいても、私がどんな心であっても、ただ今救われます。

*1 D

2010-03-02 真実の証は、阿弥陀仏の行と信からあらわれたもの(さとるさんのコメ

真実の証は、阿弥陀仏の行と信からあらわれたもの(さとるさんのコメント)

さとるさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。エントリーが遅くなりすみませんでした。

では親鸞聖人は、

「利他円満の妙位」に即いていたわけではなく、

「無上涅槃の極果」のさとりを得られていたのでもない、

ということでしょうか?

御己証(自証)の「証」は、教行信証の証巻とは別のことなのでしょうか?(さとるさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100222/1266844508#c1267415842

親鸞聖人ご自身は、教行信証を書かれている時点、生きておられるときに「利他円満の名位」についておられたわけでも、「無上涅槃の極果」のさとりをえられていたのでもありません。

お尋ねにあった教行信証証巻は、真実の証を書かれたもので、親鸞聖人の体験記ではありません。真実の証とは、阿弥陀仏の証のことです。阿弥陀仏の行と信を因として、得られた結果としての証のことを書かれています。

お尋ねの通り「自証」と「真実の証」は、誰の証か?という点で異なります。

証の証というところの、仏の証は、巻末にかかれているように

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。(教行信証証巻の末)

願力の回向によるものです。そのなか11願の解説をされたものです。

その結果こうなった私について書かれた者では無く、そのようにして下さる願力の回向について書かれたものです。

2010-02-03 「まだ」救われないのか?は阿弥陀仏の本願を後手にしているから(B

「まだ」救われないのか?は阿弥陀仏の本願を後手にしているから(Bさんのコメント)

Bさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「私は」どうして救われないのか?という質問だと「救われます」と答えられそうですので、私はどうして「まだ」救われないのか?と言い換えます。(Bさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100202/1265115798#c1265163185

回答します。

結論から言いますと、先手の阿弥陀仏の本願を聞いておられないからです。

阿弥陀仏の本願を、「まだ」という言葉であらわすのは、自分はすでに救われようと思っている、救いを請求しているのに返事が「まだ」来ないという言葉です。

阿弥陀仏の本願は、先手の本願であり、私は後手になるのです。

「まだ」という言葉は、阿弥陀仏の本願に先立って、私が先手を打ち、救いを祈願請求する心です。

人から物を貰おうとするときは、「(まだ貰えないが)どうしたら貰えるだろうか?」「(まだ手に入らないが)どうしたら手に入るだろうか」と、自分が先になり、それにはどうしたらよいだろうか?と「か?」が後に必ずつきます。

その場合は、相手の返事を聞くまでは安心ができません。お金の貸し借りでも、どうしても人から借りなければならないときは、金融機関でも個人でも「どうかお金を貸してくれませんか?」と、いう願い頼みは、相手が「貸します」と返事しない限り、「貸してくれるだろうか?」の疑いが晴れません。

阿弥陀仏の救いは、「祈願請求」するものではありません。「まだか、まだか」というのは、阿弥陀仏の救いを祈願請求するものだと思われているのではないかと思います。

阿弥陀仏の救いは、祈願請求するものではなく、「投託信用」ともいわれますが、あてたよりにし、南無阿弥陀仏の仰せにしたがい、南無阿弥陀仏にまかせるものです。

自分が先手で祈願請求する場合は、相手の返事があるまでは疑いが晴れません。

それに対して、相手にまかせる場合は、相手が先手になります。

例えば、相手から何かお土産を頂くような場合は、相手が先手で「これは○○へ行ったお土産です、どうぞ食べて下さい」と差し出します。あげましょうが先手の時は、「どうかもらえないでしょうか?」という疑いはありません。

あげましょうの先手が聞こえたときが、頂きますと相手の申し出に従うのです。

阿弥陀仏の本願も、「ただ今救うぞ」の先手が聞こえたときが「聞即信の一念」です。助けられるばかりなりと、南無阿弥陀仏があてになるのです。

これは、先手後手ということのたとえですが、阿弥陀仏の本願と私はどちらが先手かということが、今回の質問の答えになります。

先手の本願と聞けば、「まだですか?」ということはないという回答になります。

私が先手と聞けば、「まだですか?」と、阿弥陀仏の返事を待ち続けても疑いは晴れません。「経巻口なし木像もの云わず」といった人もありますが、私を先手にして返事を待って疑いを晴らそうというのでは、いつまでも疑いは晴れません。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ

 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃53

阿弥陀仏の方から、生死の海に沈んでいる私にむかって、「ただ今救うぞ」と先手で呼びかけて弥陀の大願の船に乗せて下されるのです。

呼びかけて下さる本願が、先手ですから、まだですか?と願い求め、向こうの返事を聞いてからそれから定まる往生ではありません。

ただ今救うと先手ではたらかれる南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われて下さい。

2010-01-22 救われると言い聞かせなくても、救われます(頂いた質問)

救われると言い聞かせなくても、救われます(頂いた質問)

前回のエントリーの補足です。元S会会員さんコメント有り難うございました。

(自分は助からないのではないかという)不安に目を向けない様にして本願の言葉を言い聞かせるしかないでしょうか?(頂いた質問)

救われないのではないかという不安は、誰しもあると思いますが、「救われないのではないかと思った」という心の行いで救われなくなるのではありません。

「救われると思って」も「思わなく」ても、心で思ったことが私を救う力があるのではなく、阿弥陀仏の本願に私を救う働きがあるのです。

阿弥陀仏の本願は、私を救う本願であるという点については「言い聞かせる」ものではありません。自分に言い聞かせるのではなく、阿弥陀仏の仰せを聞くと言うことです。

自分に言い聞かせるというと仮に図にしますと

阿弥陀仏「救うぞ」→自分A「救うぞ」→自分B「本当かしら?」

という感じになります。

こうなりますと、自分Aが自分Bに「必ず救う」と説法していることになります。

「必ず救う」は阿弥陀仏が私に言われることです、阿弥陀仏の説法を代わりに自分がしていると言うことになります。必ず救うという本願に、そのまま救われますので、「わかりました」と納得せねば救われないということはありません。

信じられない心を納得させたのが信心ではなく、必ず救うの本願をそのまま聞いたのが信心です。別のことばでいえば「私が信じた」のが信心ではなく、阿弥陀仏に救われたことを信心といいます。

まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。(御文章1帖目3通・猟漁

信じられない心を押さえつけよとか、止めよというのが浄土真宗の信心ではありません。阿弥陀仏にただ今救われたことを信心といいます。

2010-01-21 本願は建てられる時から私を助けるためのものです(頂いた質問)

本願は建てられる時から私を助けるためのものです(頂いた質問)

「自分は救われないのではないか」という不安がどうしても出てきて、気にしないように見ないように「必ず助ける」本願が成就しているのだから、と心に言い聞かせているのですが、時々不安でいっぱいになってしまいます。不安に目を向けないようにして本願の言葉を言い聞かせるしかないでしょうか?(頂いた質問)

回答します。

阿弥陀仏の本願は、私を救うための本願でありますから、阿弥陀仏の本願に私が救われると言うことはすでに組み込まれているということです。

阿弥陀仏を医者に喩え、私を病人、名号を薬に喩える話がありますが、「病気を治す薬がある」という言い方をする際にはいいのですが、譬えだけにあわないところがあります。

薬は、大勢いる病人(または病気)の為に作られますが、阿弥陀仏の本願は私一人のために建てられたものです。

まず、全ての人を救うという本願を建てられてから、私にそれを適応されたのではありません。法蔵菩薩が誓願を建てられるその時から、すでに私を助けるために願いを起こされたのです。ですから「私が救われないのではないか」というのは、本願が先にあり、自分はそこに合わせなければ救われないということになってしまいます。

先手の本願というのは、私を救うぞということをすでに誓われてる本願だということです。阿弥陀仏という仏がましますと言うことは、そのお姿が私を助ける仏がましますということです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

私を摂取して捨てられない仏だから、阿弥陀仏という仏がおられるのです。

往生に関しては、私が心配することではありません。

私が何かをしないと助けられない本願ではなく、最初から私を助けるためだけに建てられた本願ですから、私の方から何かをしなさいと要求はされません。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄後序

阿弥陀仏があり、本願を建てられて、名号ができた後に、それを私が信じて救われるのではなく、私がいるから五劫思惟された、本願を建てられた、名号になって下されたと言うことです。

救われないのではないかという心配はいりませんから、ただ今救われるのです。

2010-01-15

「こうしたらいいよ」は他人事になってしまいますの追記(こすたんさんのコメント)

こすたんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「他人事になってしまう」とおっしゃっているのは阿弥陀仏に目が向かないというか、阿弥陀仏の救いを我が事と思わないということでしょうか。

阿弥陀仏の救いを我が事と思える人ほど、早く救われるということでしょうか。(こすたんさんのコメント)

回答します。

2010-1-13のエントリーについてのおたずねです。

「こうしたらいいよ、というアドバイスは他人事になってしまいます。」と書いたことについて、追記として書きます。

こう書いたのは、阿弥陀仏と私の間柄は、決して他人同士の関係ではないと言いたかったからです。苦しみ悩む人に、こうしたらよいよとアドバイスを送るだけではなく、私の苦しみは、阿弥陀仏の苦しみであり、自分の苦しみとなれば、自分が苦しむのと同じように悩んで下されるということです。

そして、共に悩むだけではなく、その苦しみを救って下されると言うことです。

マラソンや駅伝の声援で「頑張れー」というのは、代わりに走ることができないから、声を送るしかないからです。いわゆる、身代わりになれないことには、そうするより他ありません。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分

岸で溺れる私をみて、「可哀想だが、自分でなんとかしてもらうより他はないのだ」と思われれば、助けにこられません。往生に関しては、マラソンのように自分で走って

いくことができないのが私です。

岸で溺れる人をみて、まず飛び込んで助けようとされるのは、私に泳いで岸に渡る力が無いからです。加えて、苦しむ私は、阿弥陀仏にとって他人ではなく我が事なのです。

溺れる私を飛び込んで助けて下されると言うことは、私の代わりに泳いで下されるということです。

「往生は一人一人のしのぎ」と聞くと、何か孤独なことで、自分でなんとかしなければならないのではないかと思う人もありますが、一人一人に阿弥陀仏はよりそって、なんとか助けようと働きかけておられます。それは、横で見ているから自分でなんとかしなさいということではありません。お前に代わってかならず浄土へ連れて行くぞとのよびかけが、南無阿弥陀仏なのです。

2010-01-12 阿弥陀仏は摂取して捨てられない働きそのものです(頂いた質問)

阿弥陀仏は摂取して捨てられない働きそのものです(頂いた質問)

阿弥陀仏が実際にはたらいておられるということがよくわかりません(頂いた質問)

回答します。

阿弥陀仏の本願は、現在ただ今私を助けようという阿弥陀仏の願いでありお働きです。それが実際にそのように思えないという人の中には、阿弥陀仏の本願を思想のように思っている人もあります。しかし、現実に働かれる阿弥陀仏の救いは、思想のような一つの体系的にまとまった考えとは全くことなるものです。

観無量寿経の中で、お釈迦様が韋提希夫人に対して「苦悩を除く法を分別し解脱すべし」と仰ったときに、その声に応じて阿弥陀仏が現れられました。これは、阿弥陀仏が「苦悩を除く法」そのものであるということの現れです。

阿弥陀仏」という仏様は、仏のさとりをひらかれた方というだけではなく、「ただ今救うぞ」とまた「摂取して捨てず」と招喚し続けておられる、働き続けておられるお働きそのものです。

それを親鸞聖人はご和讃にこのように言われています。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

阿弥陀というお名前がそのものが「おさめ、たすけ、すくう」という阿弥陀仏の働きかけそのものです。働いておられるらしいではなく、実際に働いておられるのが阿弥陀仏ですからただ今救われます。

2010-01-11 「かなしむな」「なげかざれ」の教えなので、機をみて嘆くのではあり

「かなしむな」「なげかざれ」の教えなので、機をみて嘆くのではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏の働き一つで救われるのであれば、

「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」と自分の機をみて嘆いてもよいように思います。

よくないとはどういうことなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100110/1263128142#c1263134159

回答します。

よくないというのは、人にもよりますが機をみて嘆いているとだんだん法に目がむかなくなるからです。

仰るとおり南無阿弥陀仏の働き一つで救われるので、自分の機をどれだけ嘆いていても、それが原因で救われないということはありません。やはり、法に目がむかなくなってしまいがちであるということころが問題です。

親鸞聖人も、「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」という人に対して、南無阿弥陀仏がありますよとご和讃で教えておられます。

無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな

 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ(正像末和讃36

無明長夜の灯炬について、親鸞聖人は「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ」と教えておられます。

智慧の眼がくらいと悲しんでいるのは、自分の機をみて「こんな心では助からない」と嘆いているのです。

「こんな阿弥陀仏が思えないことでは」「こんな続かない心では」「こんな弱い心では」と思いますが、阿弥陀仏の本願は私を常に照らす大きなともしびなのです。また、灯炬が私を照らし、救って下さるのです。自分の目で見てくらいくらいと悲しむ必要はありません。

「先が見えない」、「いつ救われるのか」と暗い夜道を一人ゆくような寂しさを感じている人に言われているのです。先が見えない不安は、自分の目で予想が立たないことから来る不安です。どれだけ目をこらしても、暗い夜道は自分ではわかりません。南無阿弥陀仏の灯炬が照らして下されるのです。

阿弥陀仏の事が思えない浅ましい者とか、毎日毎日仏法のこと以外に心がかかる日暮らしをしていると悲しむ必要はありません。罪障はどれほど重くとも必ず救う力が阿弥陀仏の本願にあるのですから、生死大海を渡して下されるのです。

罪障が重いと嘆くのは、自分の心をみて、これでは浄土へわたれないと思う心です。本願の船は、重さは関係ありません。人間の背中に乗るならば、自分の重さは何キロで、相手の体格からするとちょっとこれは重いのではないかと計らいますが、大きな船にのるときに自分の重さを気にする人はありません。

重さを気にする人は、自分で泳いで渡るつもりのひとです。

常に法を仰ぎ、阿弥陀仏の本願力にただ今救われます。

大事なのは、機をみて嘆くことではなく法を仰ぐことです。

2010-01-05 自己否定は、大慈悲に目が向かなくなります(bottom_lineさんのコメ

自己否定は、大慈悲に目が向かなくなります(bottom_lineさんのコメント)

年が変わり初のエントリーです。今年もよろしくお願いいたします。

bottom_lineさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

それは、ふつうの人がふつうに生きていくために人として自然な欲求であるお金・恋愛・結婚・仕事…、それらを彼は「相対の幸福」と命名し、「やがて自分を裏切るもの」と、それらを求める人や求める行為を否定した。

(中略)

そして自分で自分を悪しかできない最低の者と「自分で思い込もうと激しく努力した」

自己否定、自己否定、自己否定。

(中略)

どこで

私は

間違えたのか?

教えてください。(bottom_lineさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091230/1262179898#c1262530401

コメントを頂き、私も同じように思った時期があったことを思い出しました。そういう意味で、bottom_lineさんは、かつての私であり、私がbottom_lineさんと同じ立場になっても何の不思議も無かったと思います。

親鸞会で苦しんだことのある多くの方が苦しんだ原因は、bottom_lineさんが言われる理屈によって自己否定をしたことによるものだと思います。

どこで間違ったかと一言で言えば「煩悩を否定(または抑制)しなければ救われない」という親鸞会の間違った教義によるものです。

言葉を換えれば「善をしなければ信仰はすすまない」の犠牲になったということです。

これはKさんのコメントにいわれたような、部分と重なるところになりますが、こういうと「煩悩を否定しなければ救われない」とは親鸞会は言っていないと言うところだと思います。(これに関してはまた別エントリーで書きます)

またbottom_lineさんのような意見を親鸞会に言えば、聞き間違いだと言われるのだと思います。

阿弥陀仏の本願は、煩悩を否定しなければ救わないという本願ではありません。

生活上の普通に私たちが必要とするもの、食べたり、お金を求める欲望を抑えようにも抑えられないのが凡夫です。抑えるどころか常に燃えさかっているのが凡夫です。

煩悩を抑制することができる人は、聖道門の仏教で修行をされればよいのですが、私はそうではありません。

生きていく上では、罪も造り、煩悩もあるのが私です。それを否定していては、阿弥陀仏の慈悲がなくなってしまいます。煩悩具足の凡夫である私に、阿弥陀仏の大慈悲はかかっているのです。

煩悩具足の自己を否定すると言うことは、阿弥陀仏の大慈悲を否定することになります。「こんな自分はダメである」と言い続けることは、結果として「そんな自分を哀れに思われている大慈悲に目が向かなく」なります。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。(歎異抄1章

阿弥陀仏の本願は、老少善悪の人を差別されない本願です。弥陀をたのむ真実信心一つの救いです。それはなぜかといえば、罪悪深重、煩悩が燃えさかっているものを助けようとする願であるからです。

自己否定をするではなく、かりにダメな自分だと思っても自己にかけられた阿弥陀仏の大慈悲にどうか目を向けて下さい。自己を否定しても阿弥陀仏の救いとは何の関係もありません。bottom_lineさんを救おうという阿弥陀仏の大慈悲は現在働いていますから、まったく自分を否定する必要はありません。

煩悩熾盛の衆生を、哀れに思われただ今救うのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今救われて下さい。

2009-12-19 阿弥陀仏の本願は「待つわ」ではない理由(maryさんのコメント)

阿弥陀仏の本願は「待つわ」ではない理由(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(1)阿弥陀仏は大変御苦労されて極楽浄土を建立され、またそこへ迎え入れる為に、私の往生の業である名号を完成して下され、正覚をかけて私に届けようと働き続けていると教えて頂きます。

また、自分の行いは救いには一切関係ないともお聞きします。

そうするとやはり「今も届くかもしれない。」とスタンバイして待っているしかないように思います。

待つのも計らいであると言われますが、待つのがどうしてよくないのか分かりません。どういけないのか教えて下さい。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091218/1261092307#c1261148972

待つのがどうして間違いかということについてのお尋ねです。

阿弥陀仏の救いを待つと言うことについて、「待つ」という言葉の意味からしますと、阿弥陀仏の救いが来るのを予想して、用意して備えることか、阿弥陀仏の反応や態度がわかるまで静観するということになります。

いずれにしろ、阿弥陀仏が現在ただ今は救うということではなく、今ではない少し未来に救うという考えです。または、阿弥陀仏は救って下されるのですが、現在は余所に向いておられるという心です。

待つということで思い出したのは、1982年に発売された「待つわ」(あみんのデビュー曲)という曲です。

曲の一節にこのような部分があります。

私 待つわ いつまでも待つわ

たとえあなたが 振り向いてくれなくても(待つわ より)

阿弥陀仏の救いを「待つわ」というと、私から念じないと阿弥陀仏は動いて下されない。または、阿弥陀仏が今は自分の方を向いて下さらないから待つということになります。

人で言えば、目の前にいるひとを待つということはありませんし、自分の方を向いている人に対して「たとえあなたが振り向いてくれなくても」とはいいません。

自分で準備をして待ち構えるという気持ちの「待つわ」ということになると、「自分で準備をするものがある」または「すでに必要な準備は自分ですませた」ということになります。

過去にも、現在にも、私の方で準備するものはありません。全て阿弥陀仏のお働きですから、本願力回向の救いです。

まとめますと、「待つ」というと、阿弥陀仏が私の方を向いておられない、または、自分ですでに救われる為の準備はそろえたということになるという点で間違いです。

阿弥陀仏は現在働いておられますので、待つのではなくて救われると言うことです。

もう一つ質問をいただいておりますが、次のエントリーで回答します。

参考

D

2009-12-14 先手の本願は、先手の一手で勝負あり(Kさんのコメント)

先手の本願は、先手の一手で勝負あり(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました、有り難うございました。

南無阿弥陀仏はどこにどのように在るのだろうと探したりしてしまいます。

あるいはどのようにして与えられ自分のものになるのだろうかと想像したりします。

先手の阿弥陀仏の御慈悲です。それを聞きたいと思います。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091206/1260053386#c1260717461

質問ではありませんが、先手のお慈悲ということについて、思うところを書きます。

阿弥陀仏の大慈悲心は、私の要請や、救助信号に応じて起こされたものではありません。

先手という言葉は、将棋で、先に指すのが先手、後から指すのが後手です。

将棋では、先手があり、次に後手があり、何手も勧めていくうちに、やがて勝負がつくわけですが、阿弥陀仏のお慈悲は、先手の一手で勝負がついてしまうところです。

先手を打たれたならば、あとは、勝負あったなのです。すでに勝負あった状態で、「まだ負けていない」「まだ打つ手はある」とか、「どうしたら負けられるんですか?」とあれこれ、自分で考えたり人に聞いたりするのが、阿弥陀仏の大慈悲を疑う心です。

先手の本願でもありますし、一手の本願です(一手の本願という言い方があるかどうかは知りません)

2009-12-10 阿弥陀仏は石像でも木像でもありません(頂いた質問)

阿弥陀仏は石像でも木像でもありません(頂いた質問)

2009-11-12

分かるか分からないかで救いをはかるのが、仏智の不思議を疑うこと(頂いた質問)

問答

いつまでたっても助からないと,「自分だけ本願から除かれているのではないか」「私は助からないのではないか」「弥陀の本願,本当なのだろうか」という心が出てきますが,これらは疑情でしょうか。法に対する疑い,機に対する疑いでしょうか。「仏智疑う罪深し」の疑いでしょうか。(頂いた質問)

回答します。

お尋ねのように阿弥陀仏の救いに向かっていろいろとでてくる心は、ひろい意味で疑情といえます。

しかし、いろいろ出てくる心を、あれこれ詮索することは、それ自体が法に向かっていないので、「それは疑情だぞ」ということはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091112/1258033900

法に向かっていないとは?

また、この文章で言えば「信心」について「どのように心をもち、阿弥陀仏を何とようにたのむのか」ということについての答えです。

「どうすれば救われるのか」ということであって、「どうすれば自力が分かりますか」ということではありません。

自力の心の概念の定義づけにとらわれると、阿弥陀仏に救われる為なのか、自力を知るためなのか、混同してしまいます。

この部分がさっぱりわかりません(頂いた質問)

回答します。

法に向かっていないというのは、何に助けて頂くかと言えば、阿弥陀仏の本願力であるのに、阿弥陀仏の本願のこころに向かわず、自分のこころにばかり目が向いていることを書きました。

お尋ねのように、「これは疑情でしょうか?」という問いに対して、答えていないのではないかと感じられたのだと思います。

いろいろと出てこられた心について、これは疑情でしょうか?という問いは、大事な事ですが、それにとらわれると、「阿弥陀仏に救われるため」から、「自力がわかるため」に変わってしまいます。お尋ねのように混同してしまいます。

阿弥陀仏にすくわれるには、まず自力がわからねばならない」

「どうすれば自力がわかるのだろう」

「私の心にあるはずだ」

このように自分のこころの姿ばかり問題にするのは、大前提として、阿弥陀仏が動いて下されない仏だと思っているということになります。

例えていいますと、「大魔神」のような阿弥陀仏だと思われているのではないかと思います。

「大魔神」とは、1966年公開の特撮時代劇映画ですが、簡単なストーリーを紹介しますと

舞台設定を戦国時代におき、悪人が陰謀をたくらみ、民衆が虐げられると、穏やかな表情の石像だった大魔神が劇中で復活・巨大化して動き出し、クライマックスで破壊的な力を発揮(wikipedia-大魔神)

(純粋な乙女の涙で大魔神は動き出します)

というものです。

この大魔神のように、ものすごい力はあっても、なにか助けて欲しいという願いを出したり、なにかきっかけがないとその力が発揮されないように思われているのだと思います。

阿弥陀仏は、本願を建てられてより、ずっと動きずくめです。私を助けようと働いておられる大慈悲心の仏です。

その阿弥陀仏を、石像にしてしまって、

「自力がわかれば、石像から生きた阿弥陀仏に復活して助けて下される」

「罪悪観が問い詰まれば(以下略)」

「もっと真剣になれば(以下略)」

「もっと善に励んだら(以下略)」

「もっと○○したら(以下略)」

と思うのは、反対です。

阿弥陀仏がなんとかと働いていおられるのに、私が石像のように反応せず動かないのです。

自力を探すのは、それが「わかった」ということを阿弥陀仏に差し出して、勝手に動かないと思っている阿弥陀仏を動かそうという心です。

阿弥陀仏は、現在も動いて、生きて働いておられますから、その阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

参考資料

D

2009-12-06 本願通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい(Kさんの

本願通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏の本願どおりになる人」というところをもう少しお聞きしたいです。よろしくお願いします。

「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」私であり、

そういうものをこそ助ける阿弥陀仏の大慈悲であると

そう聞きますと、そうかそうなんだと思うのですが、その通り本願の通りになりません。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091203/1259792157#c1260022364

回答します。

阿弥陀仏の本願どおりになる人」と書きましたのは、「阿弥陀仏が願われているとおりに救われた人」ということです。

しかし、これは、阿弥陀仏が願われたとおりになろうとしてなった人ではありません。阿弥陀仏は、「このような人になれ」と願っておられる仏ではないからです。阿弥陀仏は、「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」私を、何とか阿弥陀仏の浄土に生まれさせてやりたいと願っておられるのです。

阿弥陀仏は要求をしておられません。阿弥陀仏に救われる為に、「阿弥陀仏は大変なご苦労をされてきたのだから、それにお応えしなければ申し訳ない」という心は、何も要求されたり交換条件がない本願を、何か出すのが当然だと計らっているのです。

ただ救うという大慈悲心のままに救って下されるのが、阿弥陀仏の本願です。実際に働き、実際に救おうという大慈悲心ですから、ただの働きではありません。

どこかの慈悲のある方ということではなく、私自身に大慈悲をかけられているのです。

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば(教行信証行巻

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を大悲の願船といわれました。船というのは、私を浄土に渡して下される働きを喩えられたものですが、普通の船には心はありません。しかし、大悲の願船といわれるように、「大悲の願」そのものが船なのです。大慈悲心があり、私を助けようと願っている船ですから、私を助けて下されるのです。

色々な方が私にこころをかけて下さっているようで有り難いのですが、

申し訳ないことに私の方は一向に救われず、焦っているようでもあり逃げているようでもあります。

もう何を書いていいかよくわからないですし、書いてもどれだけ伝わるのか、またそれ以前に、書いたことが実際の心のどれだけを表せているかという疑問もあるのですが、がんばって書いています。口でだともっと言葉が少なくなってしまいますし。力が入らなくなってきた手で、何とかしがみ付き続けているような感じでしょうか。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091203/1259792157#c1260022364

言葉というのは全部を表せませんが、言葉にしなければわかりません。言葉にしていこうということが、自分の心を見つめ、打ち出すことになりますので、こうしてコメントをされたと言うことは、大変よいことだと思います。

本願の通りになろうなろうというのは、手でなんとかつかもうとするのとおなじです。

本願の通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい。

阿弥陀仏の大慈悲は、待ち構えているのではなく、私に向かって届いているのですから。

2009-12-04 阿弥陀仏の大慈悲は、自己犠牲の精神ではありません(maryさんのコメ

阿弥陀仏の大慈悲は、自己犠牲の精神ではありません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございます。

(中略)

自分が楽して生きれるならば、そこには誰か(自分を支えてくれている人、親や兄弟や友人や地域の人や先生や上司や部下や諸々の・・)の犠牲(御恩)があるのだと思います。

ただ助けたいというありがたいお話、そんな結構なお話は信じられない事です。

実際救われなければどうしようもないです。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

回答します。

阿弥陀仏の大慈悲とは、犠牲の心ではありません。

犠牲とは、有る目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげることをいいます。

阿弥陀仏の大慈悲心からすれば、大切なことは、私を助けることであって、それ以外のことはありません。犠牲と言うことであれば、阿弥陀仏にとって私を助けること以外に大事な事があるけれど、私を助けるためにそれを失って(犠牲にして)五劫思惟され、兆載永劫の修行をされたということになります。

ただ衆生を助けたいより他にないのが、仏心ですから。「仏心とは大慈悲これなり」といわれます。そんなことは世の中にないから「超世の悲願」と親鸞聖人もいわれるのです。

私を助けるための大変なご苦労をされたのが阿弥陀仏ですが、何かを犠牲にされた上のご苦労ではありません。私を助けるためのご苦労は、ご苦労とは思われないから大慈悲心なのです。なんとか浄土往生させてやりたい以外にありません。

この世の事でも、本当に心配するなら必ず行動となって表れるし、実行のない心配は嘘だと思います。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

阿弥陀仏が私を助けたいという願いは、ただの願いではありません。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻・往生論註引文

願いに基づく力があり、力をなりたたせる願が成就している。阿弥陀仏の本願は、実際の力(行動)とならずに無駄に終わるものでもなく、その力(行動)は私を助けることのないもの(虚設)でもありません。私を助けるという願いと力がまったく違いなく一致したところに成就したものが願力であり、他力なのです。これを願力成就といいます。

ですから、間違いなく私を救ってくだされるのです。阿弥陀仏の願力は、所信表明や、未来に向けての宣言ではありません。願いと働きが成就しているものです。

阿弥陀様が、本当にずっとずっと昔から心配して下さっているのなら、そして救う力があるのならば、私は救われるでしょう。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

はい、必ず救われます。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

摂取してすてずといわれたのは、逃げるものを追いかけて救い取られるということです。阿弥陀仏の救いを信じられないものを、決して見捨てられません。どこどこまでもそういうものを追いかけて救われるのです。

「摂取してすてられない」ことを、阿弥陀仏という名前のいわれであるといわれています。阿弥陀仏は、ずっと働き続けておられます。うそはありませんから、摂取不捨の真言ともいわれます。

実際にはたらいておられるから実際に救われます。

2009-12-03 阿弥陀仏が救うと願われるから救われるということ(Kさんのコメント

阿弥陀仏が救うと願われるから救われるということ(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私が出発点になるとか阿弥陀仏が出発点になるというのは

「自分が思う・思わない」ということとは別に何か違いがあるのでしょうか?

阿弥陀仏が出発点で回向される南無阿弥陀仏なのだから、だからどうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091201/1259623570#c1259682026

回答します。

「自分が思う・思わない」が、救いと関係有るとしますと、「自分が思う・思わない」を阿弥陀仏に回向して、その引き替えに阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向して下されるということになります。

こうなりますと、99%は阿弥陀仏の力ですが、あとの1%は、私が「思う・思わない」を足さないと、阿弥陀仏の願いが、願い通りに成らないということになります。

浄土往生の費用を、阿弥陀仏がほとんど出されるのですが、あと10円だけは私が出さねばならない、と言っているようなものです。

阿弥陀仏が出発点というのは、私があと10円出す必要はありません、ということです。阿弥陀仏は、あと10円出すだけで良いように本願を建てられたのではありません。往生については全部受け持ちますから救われて下さいという願です。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄3章

煩悩具足の私たちは、どのような行を自分で行ったとしても生死を離れることはできません。そこを哀れに思われ願いを起こされた阿弥陀仏の本当のお心は、私を仏にさせるためですから、阿弥陀仏の本願どおりになる人は、必ず往生することができると言われています。

無いものを出せとは言われません。「他力をたのめ」といわれるのです。

どうしても出さねば気が済まぬという方は、自信教人信の活動で大いに発揮されたらいいのです。阿弥陀仏の大慈悲は「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」私にかかっているのです。

その大慈悲心によって起こされたのが、「そのまま救う」という願いです。

「そのまま救うけど、少しだけ手助けして下さい」という願ではありません。

善人ぶる必要も、悪人ぶる必要もありません。賢人ぶる必要も、愚人ぶる必要もありません。

善人(悪人)のふりをした張り子の部分に阿弥陀仏の慈悲がかかっているのではありません。「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」所に阿弥陀仏の慈悲はかかっています。

阿弥陀仏が救うと願われて、働かれるから、救われるというのが、阿弥陀仏が出発点ということです。必ず、救われますから、ただ今救われて下さい。

2009-11-19 「まず○○しなさい」の本願ではありません(Kさんのコメント)

「まず○○しなさい」の本願ではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>救われない原因を私にもってくるというのは、ある意味あっています

どのような意味であっているのでしょうか?

阿弥陀仏に向かうと何とか救われようとしてしまいますが、すべて阿弥陀仏のお力だからと思い直し救われようが救われまいが阿弥陀仏のされることに手出ししないようにしようとします。ですがこれですと、救われなくても阿弥陀仏次第となってそうかなとも思うのですが、ただ今の救いになりません。”必ずただ今”なのですよね?

やはり、阿弥陀仏の側だけではない何かがあるように思えてなりません。

往生浄土のために私がすべきできることは何もないのはよく分かります。しかし、ただ今の救いに遇えるかどうかはまた別なのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091118/1258505394#c1258556917

回答します。

救われない原因はどこにあるのか?という問いについては、自分が造った業が原因だと言えばそれは間違いになります。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず(教行信証信巻

「造罪の多少を論ぜず、修行の久近を論ぜず」ですから、私の善業・悪業そのものは関係有りません。

しかし、「救われなくても阿弥陀仏次第」となりますと、「自分が何もしないことによって救われよう」という考えになってしまいますので、それは間違いです。

阿弥陀仏の救いに手出しをするというのは、阿弥陀仏の必ず救うぞという仰せに対して先回りをしたり、救いに関して自分の持ち分を勝手に作り上げることを指していっています。

前提となっているのは、阿弥陀仏は常に私を救おうと働き続けておられると言うことです。現在ただ今も、私を助けようと喚びつづけておられるからただ今救われるのです。

何か原因があるのではというのは、コメントの内容からお答えしますと、「手出しさえしなければ良いだろう」と「手出しをしない」ことをしようとしているからです。それでは、私が先で、阿弥陀仏が回向されるのはその後になってしまいます。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃38

阿弥陀仏の本願は、苦しみ悩む私を助けるために、回向することを第一として名号を完成されたのです。

「まず与える」「まず差し向ける」「まず救う」のが、阿弥陀仏の御心です。

「まず○○しなさい」ではありません。

「まず与える」といわれるが、何を先にしておいたらよいか?というのが、阿弥陀仏の救いに先回りをしているのです。

行政の防災対策パンフレットに以前、「グラッときたら!まず火の始末」というのがありました。

「まず」とは、「第一に」という意味です。阿弥陀仏の救いには、「まず回向」というのが「回向を首としたまいて」ということです。

阿弥陀仏からの本願力回向以外に、何もないのです。

2009-11-18 「私が○○だから救われない」のではありません(五十嵐さん、maryさ

「私が○○だから救われない」のではありません(五十嵐さん、maryさんのコメントより)

五十嵐さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯なのですね。(五十嵐さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091117/1258409017#c1258474994

阿弥陀仏は何のために成仏されてより常に働き続けなのかといえば、私一人を助けんがためです。

コメントを読んで、思ったことを、maryさんのコメントを通してエントリーします。

生きている間に本願を信じて後生をおまかせできるものなら、したいと願っています。

縁は十分に揃えて頂いているので、私が疑い深くて救われがたいという事なんだと思います。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091115/1258243358#c1258380507

救われない原因を私にもってくるというのは、ある意味あっていますが、ある意味間違ってしまいます。

と言いますのは、私が救われると言うことについては、全部阿弥陀仏のお力によるものだからです。

「私が悪いから」「私が自分の心を正しさえすれば」「私が疑い深いから救われないのだ」となりますと、「私が疑いを晴らせば救われるのだ」となってしまいます。

聖人一流の章には、もろもろの雑行を投げすてて、一心に弥陀に帰命しなさいといわれています。

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通・聖人一流

「雑行をすてて」だけではなく、「一心に弥陀に帰命」といわれ、さらに往生浄土が定まるのは「不可思議の願力として、仏のかたより」であると言われています。

私が疑いを晴らしたら、その条件として往生が定まるのならば、「仏のかたより」ではなく、「私のかたより」ということになってしまいます。

「私が疑いを晴らさない限り救われないのだから、ここは私が頑張らねばならないところだ」と、なりますと、「不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定」と反対の方向にいってしまいます。

ここは私の持ち分というのは、往生浄土に関しては一つもありません。持ち分としてかかえこんでいるものが何一つないから、「仏のかたより往生は治定」といわれるのです。

自分だけを責めずに、一心に弥陀に帰命して下さい。阿弥陀仏は私のことだけにかかりきりなのですから、必ず阿弥陀仏にただ今救われます。

2009-07-17 私から弥陀をたのむではありません2

私から弥陀をたのむではありません2

前回のエントリーの追記の形でエントリーをします。

「弥陀をたのめ」ということについて、別の形でエントリーをします。

阿弥陀仏の方から、「弥陀をたのめ」といわれるのだということを前回かきました。私がお願いしてから、阿弥陀仏が助けて下さるのではありません。

発願廻向というは、如来すでに発願して衆生の行を廻施したまうの心なり(教行信証行巻)

親鸞聖人はいわれています。

発願廻向というのは、阿弥陀如来が先に私たちを助けようという願をおこされて、その上で衆生の為に行を与えて下されるということです。

御文章に「たすけたまえ」とありますので、やはり自分でまず「助けて下さい」とお願いしなければならないのではないか?と思われる方もあるので、それについて続いて解説します。

一念に弥陀如来今度の後生たすけたまえとたのみもうさん人は(御文章5帖目2通・八万の法蔵)

これは、「たすけて下さい」と阿弥陀如来にお願いしている人はという意味ではありません。

先に書きましたように、「助ける」というのは、阿弥陀仏が先に思われることです。「阿弥陀仏が助けさせて下さい」とお願いしておられるのを受けて、「どうぞ助けて下さい」という意味です。

たとえて言うと、セールスマンがあまりに「この商品を置いて下さいお願いします」と熱心にたのむのだから、根負けした店の主人が「じゃあ、その商品おいていって下さい」というようなものです。

出発点は、阿弥陀仏の本願ですから「先手のご本願」ともいわれます。