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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-03-31

信心決定の一念は驚天動地の体験ではないのですね?(aさんのコメント)

aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)口伝抄に、(涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき報土得生の定聚の位に住す、注釈版875ページ)、とあってびっくりしました。わずかにきざすのが信心決定の一念なら、とても驚天動地の体験ではないですね。私のこの理解でよろしいのでしょうか? 親鸞聖人、蓮如上人と違わないんでしょうか?(aさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110328/1301290051#c1301393896

aさんの言われるとおり、信の一念は驚天動地の体験ではありません。

口伝鈔に書かれた部分は、信の一念について書かれた部分です。

「報土得生の定聚の位に住す」のが「涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき」だと言われています。

ですから「涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき」は、信楽開発の時剋の極促といわれた、信心が私の上に開けおきた最初の時です。

信楽開発の時剋の極促」に「驚天動地の体験」があるという考えは、南無阿弥陀仏が「喜びの固まり」のように思うからではないかと思います。

私は以前そのように考えていました。

不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり*1」(正像末和讃31)とか、「無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり*2」(御文章5帖目13通)と聞いて、何かとてつもない功徳が私の体の中に入ってくるようにイメージしていました。とてつもない功徳を頂いた喜びが、信楽開発の喜びだから、この世のどんな宝をもらったよりも凄い喜びが起きるのだろうと思っていました。


しかし、それは間違いです。

「不可称不可説不可思議の功徳」も「無上甚深の功徳利益」も南無阿弥陀仏のお働きです。南無阿弥陀仏が私の上に働いて下さっているのが信心であり、実際に私の上に信心となって働いて下さった最初の時を信の一念といいます。

私をただ今往生定まる身、現生正定聚の身にして下さるお働きであり、浄土往生すれば即成仏させるお働きです。この世の宝を頂いた喜びと「桁が違う」のではなく、「ものがら」が違うのです。

ただちに踊り上がって喜ぶことがあれば、前もってそれを期待している時です。前もってその価値がわかる時です。

宝くじが当たったり、選挙に当選して喜ぶのは、「当選金」や「当選した事実」の価値が分かっているからです。

私には、正定聚とか往生即成仏といわれてもそれがわかる智慧はありませんので、それを理解できた上で喜ぶ心は信一念に起きません。分かるといっても、南無阿弥陀仏が「直ちに来たれ」と呼び続けておられることぐらいです。


仮に信の一念に大きな喜びが起きるとして、「信心=踊り上がって喜ぶこと」とするならば、救われた最初の時が喜びの頂点であとは横ばいということになります。信心は死ぬまで相続するのですから、喜びも横ばいに相続するということになります。


実際に有り難いとか尊いと喜ぶ心は、信一念のあと時間がたつほど大きくなっていくものです。年を取るほど有り難いと言われていた方もありました。救われたあとに阿弥陀仏のお育てに預かって、いろいろと知らせて頂くからです。

喜ぶ心は、信の一念にまとめて頂くものではありません。阿弥陀仏の本願を聞かせて頂くことで、だんだんと知らされ喜ばせて頂くものです。それは「喜び」の部分であって、往生定まったことが変化するのではありません。現生正定聚の身になったことは、信の一念から死ぬまで変わることも、壊れることもありません。

そのような身にして頂いたことを喜ぶ心が、阿弥陀仏のお育てによって大きくなっていくのです。

*1:五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり・浄土真宗聖典(註釈版)P605

*2:それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。浄土真宗聖典(註釈版)P1200

2010-04-09 明らかになるのは、阿弥陀如来が助けて下されるということ(頂いた質

明らかになるのは、阿弥陀如来が助けて下されるということ(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われると、すべてが明らかになり、ハッキリ知らされるのでしょうか?(頂いた質問)

すべてが明らかになりというのが、今まで疑問に思っていたこと、不明点がスーッと頭の中で全部分かってしまうようになるということではありません。

「分からん、分からんと分からんまんま聞いていくと、分かったーとなる」というものでもありません。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章5帖目12通

行者の起こすところの信心ではなく、阿弥陀如来の他力の大信心ということが知らされるのであって、それ以外のことまで全部ひっくるめて疑問が解消されるということではありません。

「分からん、分からん」というのも、大体は話をする人の話自体がよく分からないという場合に使われています。そのような意味がよく分からない話は、やっぱり意味がよく分からない話だと知らされることはあっても、非常に分かりやすい話に転じるということではありません。

明らかになるのは、南無阿弥陀仏のお働き一つであり、私のおこす信心ではない、阿弥陀如来が私を助けようとおこされた信心であるということです。

2010-03-19 一念は私の驚天動地の体験ではありません(頂いた質問)

一念は私の驚天動地の体験ではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは一念の救いとお聞きし,そこに驚天動地の体験があるように勝手に思い込んでいましたが,そんなものではなかったということでしょうか。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは一念の救いです。しかし、「一念=驚天動地の体験」ではありません。

一念の救いという言葉は、信心一つの救いと読みますと、「一念=信心=驚天動地の体験」とはなりません。

「信心」=「驚天動地の体験」=「三業」とはならないからです。

阿弥陀仏の本願で誓われている信心とは、その体は至心です。

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(教行信証信巻

この至心は、南無阿弥陀仏を体とするといわれています。

信心のそのものがらは一体何かと言えば、驚天動地の体験ではなく、南無阿弥陀仏であるということです。

驚天動地の体験が、信心のものがらとしますと、信心は私たちの喜びや、懴悔からできあがったものだということです。あるいは、私たちを喜ばせたり、涙を流させるようなものから出来ているということになります。

もしそういうものであるならば、信心決定した人は、驚天動地の体験をしつづけるということになります。ただ、普通に考えるのならば、驚天動地の体験がつねに続けば、それは日常の体験となります。

SF作品では、主人公がある日異世界にまぎれこむというものがよくあります。思いついたのは「戦国自衛隊」*1という映画です。これは、自衛隊がある日訓練中に400年前の戦国時代にタイムスリップするというものです。こんなことがもしあれば、まさに「驚天動地の体験」です。最初は戸惑う隊員も、やがて戦国時代の戦いに参加していきます。

どんな体験も、続けばそれは日常になります。

信心のものがらが、「驚天動地の体験」とすると、その信心は相続しないものになってしまいます。

一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(御文章4帖目8通・八箇条

信心の体は南無阿弥陀仏なので、このように蓮如上人はいわれています。

私の胸の内を探してみつかるものは、煩悩です。信心のものがらは、南無阿弥陀仏ですから、驚天動地の体験ではありません。

*1 D

2010-02-09 本願を聞いたのと助かるのは同じこと(ZhengQingさんのコメント)

本願を聞いたのと助かるのは同じこと(ZhengQingさんのコメント)

ZhengQingさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)

「今救われたいという思い」は他力の信心のことなのだろうか。今ここがわかりません。(ZhengQingさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100205/1265378979#c1265625890

今救われたいという思いは、他力の信心ではありません。

他力の信心は、ただ今救うの弥陀の仰せを聞いたことです。

「今救われたいという思い」は、阿弥陀仏の願力によって起こされた聞法心です。

(略)

「往生はまかせよ弥陀をたのめ、必ず往生させる」と聞いて往生をまかせ弥陀をたのむ心が起きた時に救われる、ということでしょうか。(ZhengQingさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100205/1265378979#c1265636225

弥陀をたのむ心が起きた時に救われると聞くと、たのむ心が起きた後に救われると、私には読めます。ZhengQingさんがそういう意味で書かれたのではないかも知れませんが、「弥陀をたのむ心が起きた後に救われる」のではなくて、救われると、弥陀をたのむ心が起きるのは同時です。「弥陀をたのむ心」と「救われる」は同じことだからです。

同様の表現を御文章から引用します。

その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。(御文章5帖目22通・当流勧化

何のようもなく、阿弥陀如来を一心にたのむ一念に、阿弥陀仏が摂取の光明を放っておさめ取って下さるのです。

本願を聞いたのも、弥陀をたのむ心も、救われるも同じ事です。

阿弥陀仏の本願を聞いて、ただ今救われて下さい。

2009-09-16

「一念」と「広大難思の慶心を彰す」の関係について(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「一念」と「広大難思の慶心を彰す」とはどのような関係でしょうか?一念のときに喜びの心が起きるという意味を含んでいるように思えますがどうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090915/1253009738#c1253022218

回答します。

結論から言いますと、救われた一念の「とき」に正定聚の数に入り、往生定まるので、広大難思の慶心がその「一念」のうちにあらわされているということです。一念は、その「とき」だけではなく、その後もずっと相続する一念です。

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(教行信証信巻)

上記の親鸞聖人のお言葉についてお尋ねです。

(大意)

真実の信楽をについて考えてみると、信楽に一念がある。「一念」とは、真実信心が開発する極めて早い時間という意味であり、広大難思の慶心という意味がうちにあらわされている。


このように解説しましたのは、「顕し」と「彰す」の意味が異なるからです。

「時尅の極促を顕し」の「顕し」とは、文字通りの意味をあらわすと言うことです。

一方、「広大難思の慶心を彰すなり」の「彰す」は、隠れた意味を目立たせるという意味があります。

救われていない人が、救われた一念も時尅の極促ですが、その一念がずっと続くのです。救われたその時は嬉しいけれど、あとは続かないという信心ではありません。

阿弥陀仏から常にただ今救われている信心ですから、一念の信心は、死ぬまで続くのです。こうして生きている、ただ今常に南無阿弥陀仏が聞こえて下さる信心です。一念とは、現生正定聚に入れて頂き、往生浄土の身になることです。現在ただ今が、初めて救われた一念と同様に、続いているのです。

一念が続くということは、常に初めて救われているので、赤尾の道宗にこんな言葉があります。

つねに初事と聞くのは、一念が相続するから

一、道宗は、ただ一つ御詞をいつも聴聞申すが初めたるやうにありがたきよし申され候ふ。(御一代記聞書)

聴聞して、常に初事、はつごとと聞くのは、阿弥陀仏の御心をつねにただ今聞いているからです。

阿弥陀仏の方からいいますと、一念で南無阿弥陀仏を与えることができ、往生定まる身に救うことができるわけですから、阿弥陀仏が慶ばれているのが、広大難思の慶心なのです。

五劫思惟の願も、兆載永劫の行も、私を往生させるためにです。それが定まった一念ですから、阿弥陀仏が慶ばれるのです。常にその一念が相続しますから、常に慶ばれるのです。

このような意味で一念は、「広大難思の慶心を彰す」といわれています。

2009-09-14

救われた自覚の有無というより、名号を聞いたか聞いていないか(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

では阿弥陀仏に救われた後、他力の信心を獲得しているという自覚があるのはどうしてでしょうか?

その自覚そのものは信心ではないと思います。しかし自覚したものしか私たちにはわからないのではないでしょうか?

分かるというのであれば、救われた信の一念のときから分かることになると思います。

この「分かる」「わからない」という言葉も曖昧なのですが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090912/1252758586#c1252845774

回答します。

今回のお尋ねに回答する上では、Kさんのいわれるように「わかる」「わからない」という言葉は、回答を曖昧にしてしまうと思います。そこで、今回は、「分かる」「分からない」という言葉を使わずに、別の言葉で説明をします。

親鸞聖人が、阿弥陀仏に救われたことを、「聞く」と言われているところがあります。その言葉を使って、回答します。

最初のお尋ねは、「他力の信心を獲得しているという自覚があるのはどうしてでしょうか?」です。

この回答は、他力の信心を獲得することは、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を聞かせていただくということです。それは、阿弥陀仏からの呼び声を聞いたことです。常に阿弥陀仏の呼び声を聞いているから、それを自覚があるという言葉で言いました。

「聞く」という言葉を使われた親鸞聖人のお言葉を紹介します。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。(教行信証総序)

(大意)ここに親鸞は、よろこばしいことに、インド、中国、日本の高僧・知識方の教えに、あいがたくして今あうことができた、聞き難くして聞くことができた。阿弥陀仏の本願の教行証を、信じ敬って、特に如来の恩徳の深いことを知らされました。ここをもって、聞かせていただいたことを喜び、与えていただいた南無阿弥陀仏を褒め称えるのです。

「聞其名号」と本願成就文でいわれるように、「その名号を聞いた」のが、阿弥陀仏に救われたということです。別の言葉で言いますと、「ただ今救う」あるいは、「直ちに来たれ」の阿弥陀仏の呼び声を聞いたことです。

Kさんのいわれる、「自覚」というのは、私たちの三業のことだと思います。

確かに、(私の)三業=信心(南無阿弥陀仏)ではありません。

しかし、南無阿弥陀仏を頂いて、「本願や行者、行者や本願」という身になった上には、常に南無阿弥陀仏が聞こえて下さるのです。それを「分かった」と書きました。「自覚」といっても、南無阿弥陀仏が、私の三業に映ったもので、凡夫の三業では阿弥陀仏を見ることも、聞くこともできません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通)

信心獲得といっても、阿弥陀仏に救われるといっても、その中身は、第18願をこころうることです。第18願をこころうることを、南無阿弥陀仏のすがたをこころうると言われています。

南無阿弥陀仏のすがたをこころうるとは、先ほど書いた「聞其名号」のことです。

南無阿弥陀仏を聞いたことです。ただ今救う本願を、ただ今救うと聞いたことです。私が分かった、分からないかというと意味が曖昧になるかと思います。

「南無阿弥陀仏を聞いたか、聞かないか」が信心獲得したか、しないかの水際です。「私の三業でわかったか、わからなかったか」ではありません。

ここでいう「聞いた」とは、「何か外で音が聞こえた」という私の耳での身業のことではありません。南無阿弥陀仏を聞いたことです。別の言葉で言えば南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂いたことです。

お尋ねの問いを、今までの書いたことを踏まえて

「救われた後なぜ南無阿弥陀仏が聞こえるのですか?」

と変えますと、回答は

南無阿弥陀仏を頂いているから、聞かせていただけるのですいうことになります。

2009-09-12 信一念が知覚できるか、できないかと、ただ今救われている自覚は異な

信一念が知覚できるか、できないかと、ただ今救われている自覚は異なります(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

質問です。

では何もハッキリしないのでしょうか?ハッキリするなら何がハッキリするのでしょうか?

ハッキリするかしないかは救いを求めている人にとっては重要なことです。

何もハッキリしないのであれば救われたことにならないと思います。それではその救いを求めようという気持ちも起きてきません。

弥陀に救いとられた人は、普通はハッキリするが、何らかの理由でハッキリしない場合もあるということであって、ハッキリしないのが普通というわけではないと思いますがいかがでしょうか?

ハッキリするという言葉自体が曖昧なのでわかりにくいのかも知れませんが。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090911/1252665912#c1252711899

回答します。

確かにハッキリするという言葉自体に、曖昧なところがありますので、別の言葉で置き換えながら回答します。

結論から言います。

信一念は、人間に知覚できません。時尅の極促だからです。

阿弥陀仏に救われて、他力の信心を獲得しているという自覚はあります。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆえに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章2帖目13通)

御文章に有りますが、「他力の信心ということをば今既にえたり」とか、「弥陀如来他力の大信心と言うことは、今こそ明らかに知られたり」というのは、これは、救われた方が、現在の信心はどうなのかということです。

御文章を書かれた当時の蓮如上人が、「他力の信心を今既に獲得している」、「現在明らかに知らされている」ということをいわれているのです。

救われた信の一念を、知覚したということではありません。

救われた信の一念の体験の有無を問題にすると「その時の体験の真偽」が問題になってしまいます。

「あのとき泣けたのがそうだったのか?」

「あのとき喜べたのがそうだったのか?」

どんな体験をしたにしろ、それは過去ことであって、問題は、現在ただ今救われているかどうかです。その体験の真偽が判定されなければ、自分が救われているかどうかが決まらないというような信心は、真実信心ではありません。

弥陀他力回向の信心ですから、正信偈には

往還回向由他力(往還の回向は他力による)

といわれています。

聖人一流の章には、このように言われています。

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通)

阿弥陀仏の方から、往生を定めて頂くのであって、私が決める信心ではありません。

ハッキリするかしないかではなく、ただ今救われているかどうかが問題です。また、必ずただ今救われるのが阿弥陀仏の本願です。

2009-09-11 一念でハッキリ救われた!と実体験させられるか?(手品師さんの質問

一念でハッキリ救われた!と実体験させられるか?(手品師さんの質問)

手品師さんから、メールで質問を頂きました。

信心決定は阿弥陀仏から一念で賜り、ハッキリ救われた!と実体験させられると聞

いています。

その体験は、個々人によって違うのでしょうか?

(例)

  • 火箸に触った以上にハッキリ知らされる、仏教書を読んでいたら、自分が救われていることを知らされた等
  • 親鸞会のアニメ1部で親鸞聖人が救われるシーンのような救われ方
  • いつとはなしに救われる(手品師さんからの質問)

回答します。

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜るのは一念ですが、その一念がハッキリと知らされることはありません。

自覚でき(知覚した)たときは、救われた後です。

主語を阿弥陀仏に変えて言い換えますと

「阿弥陀仏が私に、南無阿弥陀仏を与えるのは一念です」

「それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証信巻)

それを私が知覚するのは、「信楽開発の時尅の極促」である一念の後です。

ですから、「自覚した体験(知覚できた体験)」は、「阿弥陀仏が私に南無阿弥陀仏を与えた一念」の体験ではありません。

「時剋の極促」の一念は、不可思議であり、あまりの早さに知覚はできないということです。

一方、救われた後に自覚するのは、一人一人異なります。

「阿弥陀仏が私に南無阿弥陀仏を与えた一念」の○秒後、○分後、○時間後にどんな人も必ず知覚するというように決まったものではありません。

知覚する時間が変われば、場所も変わります。獲信の体験記が一人一人異なるのはそのためです。

この「救われる」という言葉は、イコール「知覚」の問題ではありません。阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を一念で賜ったことを、救われると言います。

仮に、臨終に南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から一念で賜った人が、その直後に亡くなられた場合は、知覚(自覚)できたかどうかもわかりません。では、喜ぶ心や、報謝の心が知覚として現れていなかったから、往生浄土できないのか?といえば、そうではありません。

南無阿弥陀仏を一念で阿弥陀仏から賜ったのが、信心ですから、信心一つで往生浄土させていただけるのです。

質問にあったような、「火にさわったよりもハッキリした」「アニメ第1部の最後のように「ハッと」なった」「いつとはなしに」というのは、いずれも三業の上に現れた知覚の問題です。

そのような知覚(自覚)は、信心獲得の一念の後です。

よって、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いた後に、火にさわったよりもハッキリしたという体験をされる方もあるでしょう。阿弥陀仏に救われた後に、いつとは無しにという人もあるでしょう。

しかし、いずれも、どんな体験をしたと言っても、その体験を知覚したその時が、救われたときではありません。

ですから、「何か凄い体験=獲信の一念」と思うのは間違いです。どんな体験をされるかは、人によっては異なるでしょうが、それは、獲信の一念、時尅の極促の後の話です。同じではありません。

ハッキリするかしないかは、救われた後の事なので、それほど問題にすることではありません。

それよりも、ただ今阿弥陀仏に救われるか、救われないかが問題です。助かるか、助からないかが問題です。

南無阿弥陀仏を頂いて、信心獲得の身に救われなければ、往生浄土はできません。私がどんな体験を、その後にするかどうかは、往生とは関係の無いことです。

2009-06-20 一念の信心とはなにがわかるのか(S会会員さんのコメント)

一念の信心とはなにがわかるのか(S会会員さんのコメント)

S会会員さんよりコメントを頂きました。

有り難うございました。エントリーが遅くなり申し訳ございません。

獲信した一念に、なんでもかんでもすぐに一瞬でスッキリハッ

キリ、一切経が脳にダウンロードされるがごとくわかるという

ことではないのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189

これに関して質問があります、信心決定したといわれる人の体験等(K会とか)を読んでみると、段々自分の罪悪が知らされてきた(阿弥陀仏に救われたあとに)とか書いてありますが、(一念の信心はイコール二種深心であり、ずっと変わらないのではないかとおもっていました)

一念で真実信心を頂いてはいるが、その他力の信心を自分が認識するのにその人の知恵や才覚で時間がかかったりするのでしょうか?

それとも阿弥陀仏への疑情だけ先に晴れて、後で真実の真実の自己に対する疑いだけ段々晴れてくるということがあるのでしょうか?

又、往生間違いなしの身といっても、極楽が見えたりするわけではないでしょうから(どこへなりとも弥陀まかせっていうんですかね?)厳密にいうと後生は暗い(わからない)といってもいいんでしょうか?そうだとすると浄土で仏覚をうるため修行するかもしれないと考える余地はありますか。(聖人以前の浄土思想によるとそうらしいので)(S会会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189#c1245282430

回答します。

一念の信心とは、二種深信のことです。二種深信とは、機法二種一具の深信です。機(私)と法(本願)の二つについて深信(疑いなく知らされる)というものです。

深信とは、機と法について「疑心あること無し」と深信することです。この「疑心あること無し」が、一念の信心です。

『一念』と言うは、信心二心無きが故に『一念』と曰う(教行信証信巻)

この二心無いというのが「疑心あること無し」といわれる部分です。

一念の信心については、親鸞聖人は別の所では、

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(教行信証信巻)

この信楽とは、「疑心あること無し」の信心です。この疑心有ること無し(信心二心無き)の信心が、一念の信心であり、時剋の極促で私たちに与えられる信心なのです。

この一念とは、信心のことです。阿弥陀仏が私たちに南無阿弥陀仏を与える信心の方からいわれる言い方です。私の方で「今、頂いた」とその「瞬間」が分かるとすれば、頂いたその時に煩悩が変化したということになります。

煩悩が変化するならば、煩悩具足の凡夫をそのまま救うという本願にはなりません。

たとえて言いますと、一休と蓮如上人が阿弥陀仏の慈悲についてやりとりされた時に詠まれたといわれるお歌に、以下のものがあると聞いています。

阿弥陀にはへだつるこころはなけれども 蓋ある水に月はやどらじ(蓮如上人)

蓋というのは、疑いの心であり、自力の心です。自力の心が蓋をしているので、蓋がある間は水に月が宿らない。水とは私たちの煩悩以外にない心(凡心)をいいます。水に月が宿るというのは、信心決定の姿です。凡心に、月が映ると、仏凡一体となります。

しかし、水に月が映ったからといって、水面が波立つわけでもありません。水の味や温度が変わるわけでもありません。何も変わらないのです。

煩悩具足の私たちが「分かる」というのは、水面の波であったり、水の味や温度の変化なのです。水面に月が映るというのは、そういう変化ではありませんから、一般に「わかる」というものとは違います。

何が違うかと言えば「蓋がない」(疑心有ること無し)であり、「水に月がやどる」という違いです。

真実信心とは、煩悩は何も変わらないままで、それが往生のさわりにならないということです。

煩悩は何も変化しませんが、出離の縁あることない自分に疑心あることなしと深信させられます。同時に、煩悩は変わらないまま、往生定まることに疑心有ること無しと深信させられるのが信心です。

そのことからS会会員さんの質問に答えますと

一念で真実信心を頂いてはいるが、その他力の信心を自分が認識するのにその人の知恵や才覚で時間がかかったりするのでしょうか?(S会会員さんのコメント)

信心を頂くということは、二種深信が立つということです。疑心有ること無しはわかりますが、それ以外のこと(経典や論釈に詳しく解説されていること)は聴聞や教学をして知らされていくものです。

それとも阿弥陀仏への疑情だけ先に晴れて、後で真実の真実の自己に対する疑いだけ段々晴れてくるということがあるのでしょうか?(同上)

疑情とは、機と法に対するものですから、晴れるときは同時に晴れます。

又、往生間違いなしの身といっても、極楽が見えたりするわけではないでしょうから(どこへなりとも弥陀まかせっていうんですかね?)厳密にいうと後生は暗い(わからない)といってもいいんでしょうか?そうだとすると浄土で仏覚をうるため修行するかもしれないと考える余地はありますか。(同上)

「後生がくらい」という言葉の定義が曖昧ですから、「不安である」ということだとすれば違います。

「どんな心が起きても、どんな姿が見えても往生にさわりなし」という意味では、後生は明るいのです。

浄土で仏のさとりを得るために修行というのは、言われるとおり親鸞聖人以前の仏教には言われたことですが、親鸞聖人は厳然と現在正定聚になれるのだと教えていかれました。

救われたら、雷が落ちるような「もの凄い事件」が起きるというのは一念覚知といわれる間違った信心です。

疑いや疑情や自力といっても、苦しんだことの無い人にとっては、雲をつかむような話かもしれませんが、自力の心が晴れれば、自力がないのはわかります。

しかし、真実信心の内容そのものは、「無上甚深の功徳利益の広大なること更にきわまりなし」と蓮如上人がいわれるように、人間の知恵で全部はかれるものではありません。

「功徳の大宝海」と親鸞聖人がいわれるように、あまりに広い海は、どれだけ広さがあり、どんな形をしているのかは、私たちにははかりがたいものなのです。

教行信証六巻をあらわされても「仏意はかりがたし」「不可称不可説不可思議」といわれたという点で、一瞬で脳にダウンロードされるようになんでもかんでもわかるものではないと以前のエントリーには書きました。

救われたら分かるの「わかる」は、「疑心有ること無し」がわかるのです。

救われるのはただ今のことです。何か分からなかったことが分かったのが阿弥陀仏の救いではありません。

ただ今阿弥陀仏に救われる事があります。ただ今弥陀に救われて下さい。

2009-05-13 罪悪深重を自覚してから助かるのではありません(メールより)

罪悪深重を自覚してから助かるのではありません(メールより)

やはり罪悪深重の姿を知らされて、堕ちる者だと自覚した人でないと、計らいをなくす事はできないと思うし、そういう気持ちになる人は宿善が熟した人だから、そう思えない私はやはり宿善というものが足りなくて、まだ名号は頂けないのだ、と思うのです。(頂いたメールより)

一念の救いですが、あえて前後関係をかくならば「自力を捨てて阿弥陀仏に救われた人は、阿弥陀仏の光明によって、罪悪深重の姿も知らされ、堕ちるものと知らされる」のです。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

善導大師のお言葉ですが、「曠劫から流転して、出離の縁有ること無し」と明らかに知らされるのは、機の深信といいますが、これは真実信心のせかいであり、救われて知らされることなのです。

罪悪深重の姿を知らされ→堕ちる者と自覚して→計らい(自力)が無くなる という順番はそこに存在しません。順番(前後)があれば、一念にはなりません。

また、別の言葉で言うと、

機の深信が立って→自力が無くなる 

ということになってしまいます。

時剋の極促の一念でいうなら、順番を踏んでいる時点で一念にはならないのです。

宿善は足りないというものではありません。足りないなら、増やすこともできるということになります。宿善とは、聞法心のことであり、なんとかただ今阿弥陀仏に救われようという心のことです。

メールで尊い気持ちを書かれているのですから、それは間違いなく聞法心であり、宿善という言葉をつかうなら、宿善のある方です。

宿善が足りなくて、名号がいただけないのではありません。

「私はまだいただけないはず」という計らいが邪魔をしているのです。

阿弥陀仏の救いには、資格を取得する必要ありません。ただ今救われるのが阿弥陀仏の救いなのです。

2009-05-08 言葉にできないと、心も言葉もたえたの違い(メールでの質問)

言葉にできないと、心も言葉もたえたの違い(メールでの質問)

メールで頂いた質問ですが、大事なところなので、ブログにもエントリーいたします。

信心決定の一念の時には、暗い心が一瞬でパッと明るい心に切り替わる様に感じる(ちょうど暗い部屋で電気をパッと付けたイメージ)のだと考えていたのですが、このイメージは間違いという事なのでしょうか?黒い紙と白い紙位にハッキリ変わり目が自覚でき、また黒と白位私の心が違った感じになるのかと想像していたのですが…。(メールでの質問)

お尋ねの件について回答いたします。

信心決定の一念に、ぱっと明るい心に切り替わるというのは、自覚の上ではないことです。

自覚の上ではないというのは、言葉上説明しますと、自覚できたときは救われた後のことで、救われた一念が自覚できるものではありません。

自覚できるのなら、「不可思議の信楽」ではなく「可思議の信楽」になります。

ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(教行信証信巻)

(意訳)阿弥陀仏に救われた世界は、想像することも、称えることも、説くことも出来ない信心である。

自利利他円満して

帰命方便巧荘厳

こころもことばもたえたれば

不可思議尊を帰命せよ(浄土和讃)

そのため、親鸞聖人は、心も言葉も絶えたと言われています。

心も言葉も絶えたというのは、日常生活の体験と同じような自覚があるけれども説明が出来ないということではありません。熱かったのでも、寒かったのでも、うれしかったのでも、悲しかったのでもありません。

「こころもことばもたえたれば」や「不可思議不可称不可説の信楽」というお言葉は、私たちが日常想像する「言葉にできない」とは違うのです。

生命保険のCMで有名なオフコースの「言葉にできない」から抜粋しますと

あなたに会えて ほんとうによかった

嬉しく嬉しくて 言葉にできない

La la la la la la(略)

言葉にできない(小田和正作詞作曲・言葉にできない より)

こういうものとは違います。これは心では自覚がありますが、言葉にすることが出来ないというので、親鸞聖人のお言葉を使いますと、上記の歌は「可思議不可説」といったとこころです。「不可思議不可称不可説」ではありません。

真実信心は、私たちの煩悩(三業)と無関係の信心だから、信心決定の一念は自覚されないのです。

阿弥陀にはへだつるこころはなけれども 蓋ある水に月は宿らじ

という蓮如上人が詠まれたとされるがあります。

(意訳)

阿弥陀仏には、○○できる人だけ助けるという差別をつける心は無いけれど、蓋のある水には月は宿らないように、自力の心の蓋がある人には真実信心が宿ることはないのだ、

このたとえ話でいいますと、「自覚がある」ということは水面に変化が生じるということなのです。水面に喩えたのは、私たちの心のことですから、水面の波の動きは、自覚できる心の動きです。

ふたがとれて、水面に月の光が映ったそのときに水面が波立ったり、波がなくなったりするでしょうか?

波が立ったり、波がなくなるというのなら、私たちが自覚できると言うことです。煩悩と関係がある信心ということになります。

水面に月が映ると言うことは、水面の波の動きと無関係なのですが、水面に月が映っているのはあきらかです。それは月を仰ぐと水に映るのがわかるように、法を仰げば弥陀の願力も、他力の信心も知らされてくるのです。知らされるというのも、真実信心の分からないものが、真実信心を知る智恵を身につけたと言うことではありません。

南無阿弥陀仏のはたらきによって知らされるということなのです。

阿弥陀様からご覧になれば、救われる前後の水際の一念は分かられるでしょうが、凡夫の自覚の上ではわからないから一念の信心を不可称不可説不可思議の信楽といわれるのです。

大慶喜といわれる心も、「今宵は身にもあまる」といわれる心も、法を仰いで言われていることなのです。信心が三業にあらわれたのであって、信心=三業の変化したものではありません。あくまでも真実信心と、三業(煩悩)は無関係なのです。

2009-02-26 信心決定は、一念ですか?十念ですか?(姥さんのコメントより)

信心決定は、一念ですか?十念ですか?(姥さんのコメントより)

姥さんよりコメントを頂きました。

一念のただ今の救いになっていなければ救われないと言われますが.阿弥陀如来様の18願念仏往生の願は(設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法)何故十念の者と言われるんですか?信心決定は一念ですか、十念でしょうか、教えて下さい。

(姥さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090225/1235512283#c1235554544

maryさんのコメントも頂いておりますので、こちらもご覧下さい。

私からも回答をいたします。

姥さんより、頂いた質問は、阿弥陀仏の本願に十念とありますが、阿弥陀仏の救いは、信心決定は、一念ですか、十念ですか?というお尋ねです。

結論から言いますと、信心決定するのは一念のことです。十念とは、救われたお礼の念仏です。それについて、蓮如上人は以下のように教えておられます。

一念をもっては往生治定の時刻とさだめて、その時の命のぶれば自然と多念に及ぶ道理なり。

これによりて、平生のとき一念往生治定の上の仏恩報尽の多念の称名とならうところなり。然れば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす。(御文章2帖目3通・神明三箇条)

一念というのは、往生治定(信心決定)の時剋のことで、その上で命がある間はお礼の念仏を称えさせてみせるという阿弥陀仏の本願によって、命のある間は、10回でも100回でも、千回でも御恩報謝の念仏を称える(多念)になるのです。

これによって、現在ただ今の一念に阿弥陀仏に救われ弥陀の浄土に往生間違いない身になって(信心決定して)、御恩報謝の念仏は命のある限り称える身になるのである。だから、親鸞聖人のみ教えのもっとも大事なことは、このただ信心一つに限るのだ、これを知らないのを浄土の他門といい、これを知るのを浄土真宗というのだといわれています。

阿弥陀仏の本願に、十念の念仏が誓われていますが、これは御恩報謝の念仏のことですから、信心決定した上でのことです。だから、十念の念仏の前には、必ず真実信心決定がありますから、親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのです。

一念という時剋の極促で、阿弥陀仏から賜る信心ですから、どんな人も救われるのです。

反対に言えば、一念で救う本願でなければ、どんな人も助けると言うことはできないのです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(覚如上人・口伝鈔)

阿弥陀仏の本願は、命が大変短い我々を目的として建てられたものです。もし、救うのに時間がかかる本願ならば、命があと少しでなくなる臨終の人は、どうやって本願に救われる事があるでしょうか。だから、阿弥陀仏の本願は、一念で救われるというのがもっとも大事なところなのであり、浄土真宗の肝要なのですと、覚如上人も言われています。

信心一つが要ですから、一念で救われると言うことがもっとも大事になってくるのです。

私は求道したいのではなくて、信心決定したいです。一念のただ今の救いに向かって行きたいと思います。

(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090225/1235512283#c1235562332

よこやりさんからコメントを頂きました。有り難うございます。

ただ今救われると言うことが目的ですから

庄松同行が背を向けたのは、(庄松同行のいう通りにすれば救われるだろう)と安心しようとする心を捨てて、

ひたすら阿弥陀仏に向かっていけ、ということでしょうか・・?

(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090224/1235434008#c1235560621

庄松同行が、このようにしたのも、ただ今救われろ、自力のその心をただ今捨てなさいと言うことです。「向かっていけ」では、一念の救いではありません。

「こうしていけば」は、信心一つ、一念往生に反する心です。それを捨てよといわれているのが、「自力の心をふりすてて」なのです。

姥さんより質問を頂きましたが、ただ今救われる事が必ずあります。

2008-11-22 ハッキリするとは、なにがどうはっきりするのか?(かぺたさんのコメ

ハッキリするとは、なにがどうはっきりするのか?(かぺたさんのコメントより)

かぺたさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081121/1227269318#c1227275653

質問を頂いております。

半年ほど前からずっと疑問に思っていた事ですが、信を獲たかどうかの判定基準は二種深心に限られると言われますが

・本当に2つの事が一念同時にはっきりと知らされるのでしょうか。

一念同時にハッキリ知らされるのは、本当です。

機法二種一具の深信ですから。

・はっきりと知らされるとは本当にツユチリの疑いもなく知らされるのでしょうか?

・信後でも『本当に助かったのだろうか』とチラッとでも思うことはないのでしょうか?

ここは誤解の多いところなので、お答えします。「はっきり」という言葉の持つ意味合いが、信前と信後では違うと言うことです。

ハッキリするのだというのは、言葉上確かに間違いないことなのですが、信前に「こういうようにハッキリするのだろう」と思うような、ハッキリの仕方ではないと言うことです。

かぺたさんが、はっきりすると聞くとどのようなものを想像されるでしょうか?

「そのままじゃーっと声なき声が全身をつらぬくようなもの」と思われるでしょうか?

「なにかカミナリに打たれたように、ピカーっと目の前が明るく開ける」ようなものでしょうか?

「火にさわったような」ハッキリでしょうか。

「火にさわったように」はっきりわかる ということと、「火にさわったようなはっきりの仕方である」というのは、言葉は似ていますが全く異なります。

「火にさわったようなハッキリの仕方」ですと、いわゆる痛覚ですね。触覚です。そういうような、なにか五感でわかるような分かり方ではないということです。

つゆちりも無くなる疑心は、疑情であり、自力の心ですから、それは全くなくなってしまいます。

信後でも「本当に助かったのだろうか」ということは、自覚としてある人もあるだろうと思われます。

ただこれも、言葉の上では、土蔵秘事の人が言う「本当にたすかったのだろうか」とは、言葉は同じでも全く意味が違うのです。そこは誤解のないようにしていただきたいと思います。

有名な歎異抄9章の唯円と親鸞聖人の問答は、その象徴的な話の一つです。

「弥陀に救われて、念仏称える身になっても、踊躍歓喜の心がおきないのはどういうわけでしょうか?」という質問は、短い言葉で言いますと「これでいいのかしら?」ということです。信心決定した人がそんなことを言うのかしら?とおもっていると、親鸞聖人が「親鸞もそうなんだ」と答えられています。

時間の関係で、このことはまた日を改めてかきます。

今日は、蓮如上人のお言葉を紹介します。

他力の信心ということをば、今既に獲たり。これしかしながら、弥陀如来の御方より、授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり。(御文章2帖目13通 御袖)

「他力の信心を今既に獲たぞ」といわれたあとに、「弥陀如来の御方より、授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり」と書かれています。

「今既に獲た」というのが、本当なら、「やがてあらわに知られたり」となぜ蓮如上人は書かれているのでしょうか。

これは、一念で救われたときに、何が分かるのか、何が知らされるのかと言うことと深い関係があります。

救われた一念に、弥陀如来の五劫思惟のご苦労も、知らされ、阿弥陀仏の本願36字や、教行信証に書かれたことが、一文不知の尼入道でも、巨大なデータが脳内にダウンロードされるように、一度に全部知らされるというものではないのです。

「自力が廃った」という自覚は確実にあります。しかし、これも他力によってなさしめられた体験なので、自分で「どうだ、捨てたぞ!」と誇るようなものでもありません。すべて阿弥陀仏のお力なのですから。

救われた本当の一念、時尅の一念は、一念であるがゆえに、凡夫の意識で「そのとき」と知覚できる速さではないからです。知覚できたら一念ではないのです。夢が覚めた時をいつとはいえませんが、夢が覚めたと言うことは夢が覚めたときにわかります。「あのときは夢を見ていたのか」というのは、夢が覚めれば「やがてあらわに知られたり」であります。

これもたとえですから、全くそのままという訳ではありません。

土蔵秘事のような「これで助かったのだろうか」は、そもそも自力の心で苦しんだことのない人ですから、まったく話が違います。

本当に自力の心がどうしたら廃るかと求道に苦しんでいる人は、人の言葉や、感情の揺さぶりでは全く満足するということはありません。

人の言葉や、自分の感情の動静とまったく関係ない自力の心が、苦しみの根元と知らされているからです。

それ以外の、以下の質問については、時間の都合で後日お答えいたします。

・救われたのに『どなたに救われたかわからないがとにかく救われたことははっきりしている』

 などということがあるのでしょうか?

・救われたら煩悩即菩提で苦しみは全て喜びに全て転じ変わるというのは本当でしょうか?

今日は時間の都合で、申し訳ございませんが、全部の質問にお答えできませんでした。

後日必ずお答えしますので、宜しくお願いいたします。