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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-11

「阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました」(頂いた質問)

阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました。

インターネットで見つけた冗談で、キリスト教徒の人が、「絶対、神は猫だ」と言っているのを見たことがあります。理由は「いつも祈りは無視されるから」だそうです。

私も似たような気分で、念仏を称えるのがしんどいのであまり称えません。

助からない理由は、

(1)阿弥陀仏があまり親切ではない。

(2)阿弥陀仏がいない。

(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。

のどれかだと思います。

(頂いた質問)

これについては

(1)阿弥陀仏があまり親切ではない

というのはありません。私を救うために五劫思惟されたのですから、「意地悪」や「トラップ」または「試練を与える」ということはありません。また、この五劫思惟は、私に負担をかけないようにされたものです。形はどうあれなにかの「行」を要求する場合、全ての人を救うことはできません。


そのことを、選択本願念仏集に以下のように書かれています。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

http://goo.gl/BR39s

南無阿弥陀仏(念仏)で救うという阿弥陀仏の本願は「一切に通ず」ものです。しかし、それ以外の「行」を救いの条件にすると「諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず」となります。あらゆる人に適応できないものとなります。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

仏像を作ったり、塔を建てたりするのが阿弥陀仏の救いの条件であるのなら、そんなことができる金持ちはとても少なく、そこまでの経済力がない人の方がずっと多いのです。もし「造像起塔」が本願であるならば、多くの人が往生の望みを断たれてしまいます。また、智慧があり才能に恵まれた人を救う本願であるならば、そうでない者の方が多いのでそれらの人は往生の望みを断たれてしまいます。

全ての人を救う為の南無阿弥陀仏となられたので、そういう意味で阿弥陀仏は大変親切な方であす。「あまり親切ではない」ということはありません。


次に

(2)阿弥陀仏がいない。

は、ありません。なぜなら、本願がすでに成就して法蔵菩薩から阿弥陀仏となっておられるからです。その阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となって私に称えさせておられるのですから、ただ今の私が念仏をすること自体が、阿弥陀仏がおられる証拠となります。


最後に

(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。

とある、これが正解です。

阿弥陀仏は私を救うための仏でありますから、「親切ではない」ということがありません。また、すでに本願は成就しているのですから「阿弥陀仏がいない」ということもありません。

では「何かが行き違っている」の「何か」について考えてみます。


その「何か」とは「阿弥陀仏は親切である」「阿弥陀仏はおられる」にもかかわらず「私はなぜ救われないのか」という疑問がについてです。


この「阿弥陀仏が親切である」については、質問者の方が全面的に信用されていないのではないかと思います。必ず救うと呼びかけられる南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。

2013-04-17

私は、後生の一大事に驚きがたっていません・・・というか、それが、どういう状態になったことを指すのかも、よくわかりません・・・。(しかばねさんのコメントより)

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

しかばね 2013/04/15 21:41

(略)

高森先生は「後生の一大事に驚きがたったら、獲信の直前だから、赤飯を炊いていい。」と言っていました。

でも、私は、後生の一大事に驚きがたっていません・・・というか、

それが、どういう状態になったことを指すのかも、よくわかりません・・・。

「夜、眠れなくなる」「ごはんが食べれなくなる」「血の小便が出る」などと言われていましたが、

私には、そういったことは一切ありませんでした。

そもそも、赤飯を炊こうにも(今、自分は、獲信の直前だ。)という自覚自体が、私にはありませんでした。

このことに関して私は、『後生の一大事に“驚きがたつ人も中にはいる”』という捉え方をしているのですが、

その様な考え方でよろしいでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130414/1365888801#c1366029668

「後生の一大事に驚きがたつ」は、私も以前よく聞きました。その内容も、しかばねさんが言われるように「夜、眠れなくなる」「ごはんが食べられなくなる」等々と言った症状があらわれるというものでした。


そこでお訪ねの件ですが、「夜、眠れなくなるなどの症状になる人もある」という意味でいうならいいと思います。しかし、「それら諸症状=後生に驚きが立つ」と定義するのは間違いです。

なぜなら、「夜、眠れなくなるなどの症状」は、「後生に驚きがたった結果」であって、「後生に驚きがたつ」そのものを指した言葉ではないからです。したがって、「夜眠れなくなる症状」などを指して「獲信の直前」というのも間違いです。それを聞いた人は、「獲信」よりも「獲信の直前」にまずなろうと考えてしまうからです。その結果、「まだ夜眠れなくなってないから、自分はまだまだだ」とか、「夜眠れなくなるほど無常をつきつめて見よう」などよくわからない努力に走る人もあります。


では、「後生に驚きがたつ」とは、どういうことかと言いますと、「それぞれの縁によって法を聞こうという心が起きる」ことです。御文章の白骨の章では、人間世界の老少不定の姿がずっと書かれています。その無常のすがたを目の当たりにして、「いつまでも生きてはおられない」「浄土に生まれたい」と思う心のある人は、必ず法を聞こうとします。それを「後生に驚きがたつ」と言います。


御文章でいえば「宿善開発の機」ということになります。反対に、後生に驚きがたっていない人は、「無宿善の機」です。

さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。(御文章3帖目12通_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1158)

http://goo.gl/IA5om

ここで「無宿善の機」と言われているのは、長年門徒となってはいても「法を聞こう」「南無阿弥陀仏を聞こう」「信をえて浄土往生しよう」という心のない人の事です。「宿善開発の機(後生に驚きがたった人)」とは、「法を聞こう」「南無阿弥陀仏を聞こう」「信をえて浄土往生しよう」という心になった人のことです。


その心の強弱は人によりけりです。私個人のことでいえば、信仰のことも含めて「夜眠れなかった」ということはありません。とはいえ、「法を聞こう」という心が全くなかったら、たとえ親鸞会であろうとも入会しようという気持ちにはなりませんでした。


少なくとも、念仏とは何だろう、浄土真宗とはどんな教えだろうと知りたいと思ったり、自分自身の問題としてなんとか浄土往生したいと思う心になり「法を聞こう」と思った人は「後生に驚きが立った人」です。あとは、法を聞けばよいのであって、「驚き方を深める」のは方向違いです。

2011-04-16

「20年や30年では得られない」と言う人は「求道」が目的になっている

前回のエントリーを書いて思ったことを書きます。

「『信楽受持甚以難 難中之難無過斯』とあるから、信楽になるのは難しいだろう。難しいから、ちょっとやそっとの苦労でなれるわけがない。だから、もっと苦労をしなければならない。」

私も以前はこのように考えていました。

「求道とは苦しいものだ」「苦しくなければ求道とはいえない。」「自分は横の線を進んでいるのだから、いつかは救われるだろう」

このように思えばこそ、毎週日曜日、全国で行われていた親鸞会主催の会長の法話に参詣していました。現在会員を続けており、富山に月2回、3回と足を運ぶ人の気持ちも同じだと思います。

「自分は横の線を進んでいる」とか「軌道に乗っている」と安心し、ただ今の救いを求めないのは、目的が求道になっているからです。

仏教の目的は、仏になることです。そのため、龍樹菩薩や天親菩薩のような自力で悟りを開かれた方も、修行を捨てて阿弥陀仏の本願に向かわれました。


親鸞会で言う「必堕無間」ではない、初地という不退転の悟りを開かれたのが龍樹菩薩や天親菩薩です。

親鸞会で言う「後生の一大事の解決」が、「必堕無間から脱すること」「壊れない幸せの身になる」ならば、龍樹菩薩は「後生の一大事の解決」をされたことになります。

実際に、「地獄におちたくないから会員を続けている」「後生の一大事ですから」と言って会員を続けている方は多いと思います。

なぜ初地の悟りを開かれた龍樹菩薩や天親菩薩は阿弥陀仏の本願を求められたのか。それについて教行信証に曇鸞大師の浄土論註を引文されています。

以下、現在親鸞会で会員を続けている人にあてはめて解説します。

 問うていはく、もしすなはち等しからずは、またなんぞ菩薩といふことを得ん。ただ初地に登れば、もつてやうやく増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。なんぞ仮に上地の菩薩と等しといふやと。(教行信証証巻・浄土真宗聖典(註釈版)P315)・法蔵館の真宗聖典P397.8行目より)

前後のことも含めて大まかな意味で書きます。初地になれば不退転なのだから、あとは修行を続ければいつかは仏になることが出来る。どうして、阿弥陀仏の本願の力によって仏の悟りを開こうとするのですか?という問いです。


親鸞会会員の気持ちに当てはめると、「横の線を進んでいるのだからいつかは後生の一大事の解決ができるのに、どうしてただ今の救いを求めるのですか?」「親鸞会で会長の話を聞いていれば間違いないのに、どうして他の場所で話を聞くのですか?」といったところです。

それに対しての答えは、以下の通りです。結論からいうと、阿弥陀仏の本願力によった方が早く仏になれるからです。

 答へていはく、菩薩、七地のなかにして*1大寂滅*2を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際*3を証せんと欲す。そのときにもし十方諸仏の神力加勧*4を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなはちこの難*5なけん。このゆゑにすべからく畢竟平等といふべし。(同上)

初地までさとった人が、そのまま修行を続けて七地までいくと、大寂滅という境地に至り仏の悟りを求めることも衆生済度することも辞めてしまうという七地沈空の難に陥ります。

とはいっても、七地の位までさとっているので地獄へ堕ちることはありません。


「地獄にだけは堕ちたくない」という人ならそれでもいいではないかと思われるかも知れません。しかし、この七地沈空の難に陥ったら、諸仏方の厳しいお勧めによらねばそこから出ることはできません。いろいろな仏様に叱られ励まされ、ようやくそこを出て仏の悟りを再び目指すようになります。

しかし、阿弥陀仏の本願力によって仏になる人にはこの七地沈空の難がありません。早く仏のさとりを開くことが出来るのです。

七地沈空の難を避けるために、龍樹菩薩や天親菩薩のような方は、阿弥陀仏の本願を求められ、阿弥陀仏の本願力によって救われ、人にも勧められました。


親鸞会会員の気持ちにあてはめると、「横の線にのっていれば間違いないと安心し、ただ今の救いを求める心がなくなる」という難に陥っている状態です。お釈迦様や七高僧方、親鸞聖人の厳しいお勧めによらねばそこから離れることはできません。

「○○だから大丈夫」という難は、内容はどうあれただ今救うという本願とは逆の心です。ただ今ではない以上遠回りになります。

龍樹菩薩や天親菩薩が、阿弥陀仏の本願を求められたのは、修行が目的ではなく、仏の悟りをひらくことが目的だったからです。同じ仏のさとりをひらくなら、早い方がいいのです。

親鸞会会員の気持ちで言えば「横の線を進む」のが目的ではありません、ただ今阿弥陀仏の本願に救われ、往生定まる身となり、浄土に往生し即仏の悟りを開くことが目的です。

「求道」が仏法を聞く目的ではありません。ただ今救う本願ですから、ただ今阿弥陀仏の本願を疑い無く聞いて救われて下さい。

*1:菩薩、七地のなかに〜・・菩薩の陥る七地沈空の難をいう。

*2:大寂滅・・一切の法は本来空寂であるという空理。

*3:実際・・真実の際限という意で涅槃の異名。ここでは身心ともに完全に無に帰する小乗の無余涅槃(灰身滅智)のこと。空理に入ったが、かえってその空にとらわれて有の差別相をみることができない。

*4:神力加勧・・諸仏が不可思議な力を加えて菩薩をすすめはげますこと。

*5:七地沈空の難。

2011-03-21 早く獲信したいと思っても手の打ちようがないのですが(アドウチさん

早く獲信したいと思っても手の打ちようがないのですが(アドウチさんのコメント)

アドウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

蓮如上人は「片時も急いで信を獲れ」と御文章に書いておられますが

他力全託では私の方でいくら早く獲信したいと思っても手の打ち様が

ないのです。

 私が阿弥陀仏に救われないのは、私の責任または私に非があるから

なのでしょうか?(アドウチさんのコメント)

結論から言えば、非はあります。本願を疑い、他力全託となっていないからです。ただしそれは、「救われないのは自分が悪いからなのだ」という自己責任の話ではありません。そんな話になってしまえば、助けようと働いておられる阿弥陀仏が不在の話になってしまいます。

阿弥陀仏の救いを自因自果の道理に基づいて考えているからだと思います。阿弥陀仏に救われて現生正定聚の身になることは、私の努力の結果ではありません。また、救われないのも「過去に私が何かをしてきた結果」ではありません。「過去に何かをしてこなかった結果」でもありません。

阿弥陀仏に救われるには、阿弥陀仏の本願力一つであって、それ以外の何かによって引き起こされるのではありません。

南無阿弥陀仏は、聞く一つで救うというお働きです。聞くためには何かが必要だろうかと考えるのが、自因自果の道理の考え方です。

今救われていないとはいっても、実際は「今まで救われてこなかったのは、今まで何かが悪かったのだろう」と原因を自分の中に探しているではないでしょうか?「今まで何が悪かったのか」と考えると「これからはどうしよう」と考えるようになり、どっちにしても「ただ今」の話では無くなってしまいます。

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P224

と、阿弥陀仏は常に呼び続けておられます。

「ただちに来たれ」との仰せですから、「今まで○○をしてきた」「してこなかった」は問題にされていません。「どこが悪かったから改善しなさい」とか「責任をとれ」ともいわれていません。南無阿弥陀仏の仰せは、「ただちに来たれ」以外にはありません。言葉をかえれば「何も言うな」「何も要らない」「だからただちに来たれ」なのです。手の打ちようがないならなおさら「ただちに来たれ」の仰せを聞いて、ただ今救われてください。

2009-11-26 もっと○○したらではなく、ただ今救われます(Kさんのコメント)

もっと○○したらではなく、ただ今救われます(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

そうすると「これが信仰が進んでいることで、この心がもっと深まって行って、どこかで何か方向転換が起きて救われるのかな」というように思ってしまいますが、違うのですよね?

今は、「もっと無常を観じてこのままだと救われずに死んでしまうぞと自分に言い聞かせたほうがいいか」とか「絶対救われないということをもっと深く実感できないか」とか「もっと阿弥陀仏に向かうべきか」とか「でもそれも自力だからやめておこう」とか「あ、これも自力じゃないか」とか思ったりしています。それほど深刻な心境でもなく、何を質問していいかも分からないのですが、すみません、山も山さん何か思われることなどありましたら教えていただきたいです。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091123/1258932745#c1259072959

回答します。

「この心がもっと深まって、どこかで何か方向転換が起きて救われる」ということではありません。もしそうなら、自分の心を変化させていったら救われることになりますが、それは阿弥陀仏の救いではありません。

「もっと無常が」とか「もっと深く実感」とか「もっと阿弥陀仏に」とか、「もっと○○になったら(したら)」救われるのでは、ただ今救われることはありません。

阿弥陀仏の回向される法が、あるところまでしか届かず、もっと○○したところまで行かねば救われないのではありません。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃38

阿弥陀仏の本願は、私たちに回向されるものです。取りに来いという本願ではありません。

あれやこれやと準備をしてから、こうなってからでは、本願力回向の法ではありません。

現在ただ今、救いの法は差し向けられています。ただ今救われるのは、回向されている法だからです。こうしなければならないという思いは、他力回向を疑う心から起きます。

もっと○○したらではなく、ただ今救われます。

2009-10-22 「求道」とは、「過程を求める」ではなく「白道を求める」こと(通り

「求道」とは、「過程を求める」ではなく「白道を求める」こと(通りすがりさんのコメント)

通りすがりさんのコメント

阿弥陀仏に救われようと、阿弥陀仏に向かおうと取り組み、もがく過程を求道というなら、信仰が進む、進まない、という表現はあまり違和感を感じないのですが、実際に救われた人から見ると、違和感ある表現なのでしょうか?(通りすがりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091021/1256129656#c1256179830

回答します。

通りすがりさんのコメントについて複数コメントを頂きまして、有り難うございました。

「もがく過程を求道」とはいいません。

求道という言葉の定義は人によっていろいろあるとは思いますが、一般に聖道仏教の道を求めたり、ある道を究める過程を指して使われている言葉です。

しかし、阿弥陀仏の救いを求めることを、求道と言う場合は、善導大師の二河白道の譬えにでてくる「白道を求める」という意味と聞くのが適当だと思います。

また<中間の白道>といふは、すなはち、貧瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず(浄土文類聚鈔

中間の白道とは欲や怒りの煩悩の中に阿弥陀仏から差し向けてくださる信心を獲得することに例えられたものです。お釈迦様のお勧めと、阿弥陀仏の呼び声によって、水の河と火の河を顧みず、阿弥陀仏の本願力の道に乗ることだと言われています。

如来回向の真実信心を求めると言うことを、「求道」と言った場合は、「求める過程」ではなく、「信心獲得する」ことです。「ただ今阿弥陀仏に救われる」ことです。

一般にいう「求道」とは「死ぬまで求道」では有りませんが、求める過程という意味で使われることが多いですが、「白道を求める」という意味でいえば、「白道を一歩踏み出す」ことであり、「阿弥陀仏に救われる」ことです。

違和感というよりは、言葉の定義の違いだと思います。

2009-10-20 早く救われる人と、そうでない人違いを考えると言うこと(Rudelさん

早く救われる人と、そうでない人違いを考えると言うこと(Rudelさんのコメント)

一生懸命善根功徳をつんで宿善を厚くして、救われる・・・という教えではなく、

ただ今の無条件のそのままの救いと、いつも教えていただきます。

ですが早く救われる方もいればそうでない方もおられるのはなぜでしょうか。

過去世の行いや今生での聞き方が人それぞれ、まちまちだからでしょうか。

それとも、全く阿弥陀仏のお計らいで、私たち人間(凡夫)には全くわからないのでしょうか。

ただ今僕を救って下されるのが阿弥陀様の御心と、頭ではわかっていますが、

一刻も早く救われたいのに、なかなか救いにあずかれないのは、なぜだろう、どうしたら・・・という気持ちがいつもあります。

「どうしたら」ではないと教えていただきますが、困っています。

自分の心(機)を相手にするというか、こうした考えをしてはやはりダメなのでしょうか。』

(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255874318

回答します。

早く救われるひともいれば、そうでない人もいるというのは、どういう事かについてですが。求道が、複数人数での競争のように思われているからではないかと思います。

マラソンならば、早くゴールする人もあれば、遅くゴールする人もあります。しかし、競技にたとえるならば、求道は競争ではなく、一対一の相撲のようなものです。

100人の人がいれば、100人で一斉にスタートを切るマラソンではなく、100の土俵でそれぞれ相撲をとっているようなものです。土俵で私と組んでいるのは阿弥陀仏です。

御一代記聞書の「宿善も遅速あり」といわれているのは、マラソンのようにゴールタイムに早い人と遅い人が、1番から100番まであるということではありません。

100の土俵で、早く勝負がつくところもあれば、遅く勝負がつくところがあるということです。

一、陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。(御一代記聞書

ここでいう「宿善」とは、「信心決定」のことです。

(大意)陽気の花は早く花が開く、日陰の花は遅く咲く。信心決定するにも、遅速がある。だから、已今当の往生がある。阿弥陀仏の光明にあいて、早く開く人もあり、遅く開くひともある。とにかく、信心獲得した人も、そうでない人も仏法を心に入れて聴聞しなさい。

信心決定するのに遅速があるということを、花が咲くことに例えておられます。花が咲くといっても、場所も違えば、種類によって、早さはそれぞれ違います。

夏に咲く花だといって、ひまわりと、朝顔が互いにどちらが先に咲くかという競争はしません。同じひまわり同士でも、花と花がどちらが先に咲くかという競争はしません。それぞれの花は、自分の花を咲かせるために一生懸命で、他と比べて早いか遅いかを気にはしないのです。

相撲にたとえるなら、同じ土俵に100人が上がって誰が一番先に勝つかという競争ではなく、一人一人が別々の土俵で、勝つか負けるかの勝負をしているのです。

花でいえば、隣の花より早く咲くかどうかよりも、自分の花をさかせるかどうかが問題です。

相撲ならば、となりの土俵より早く終わるかどうかではなく、自分の土俵の勝負がつくかどうかが問題になります。

なぜ早い遅いかの違いがあるかといえば、土俵が違うからです。

早く決着のついた土俵があっても、それは私ではありませんし、現に自分は自分の土俵にあがっているので、考えて原因がわかったとしても、意味のないことです。

また、まだ土俵に上がる前ならば、過去の取り組みを研究することも意味が多少あるかもしれませんが、すでに取り組みが始まって相手と組み合っているときには、目の前の相手にぶつかるしか有りません。

過去の自分の三業をあれこれ考えても、すでに行事の軍配が上がっているのですから、目の前の阿弥陀仏にぶつかるしかないのです。また、相手を見ずに、自分の手足や体調のことを考えていては相撲になりません。

救われない原因を探し始めるのは、目の前の阿弥陀仏に向かっていないからです。

相撲で謂えば、土俵に上がる前のように思っておられるかも知れませんが、すでに行司の軍配は上がり、阿弥陀仏とぶつかりあっているのです。

だから、御一代記聞書の後半に「とにかく仏法を心に入れて聴聞せよ」と書かれているのです。

となりの土俵の様子を気にするのではなく、自分の土俵で相撲をとれと言われているのです。あなたが聞く相手は、すでに救われた人でもなく、自分自身でもなく、阿弥陀仏です。

2009-10-13 阿弥陀仏に向かうとは(みかみさんのコメント)

阿弥陀仏に向かうとは(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏に向かい、ただ今阿弥陀仏に救われる」ことが、大切なのはわかるのですが、どう向かえばいいのかが、わからないまま、ただ日が過ぎていっております。

目をつぶり合掌して阿弥陀さまのことを念じて、「なんまんだぶつ なんまんだぶつ」と念仏をとなえることぐらいしかできないのですが、このようなことでいいのでしょうか。(みかみさんのコメント)

このコメントについては、林遊さんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

回答します。

みかみさんは、おそらく日常生活の中で、阿弥陀仏に向かうということもよく分からないので、どうしたらよいでしょうか?ということでお尋ねになられたのだと思います。

どう向かうかというのは、私の方から言えば、「何をするか」という具体的な行為のことではなく、阿弥陀仏の御心を知るということです。

法座に、とにかく足を運びさえすれば、心はどうあっても阿弥陀仏に向かっていることになるかというとそうではありません。

また、心が散り乱れていても良いから体だけでも良い行いをしようと考えて、法話に足を運んだり、勤行をする人が有ります。行為そのものの善し悪しからいえば、法話に足を運ぶこと、勤行をすることは善いことに違いありません。

問題は、心です。自分の行を問題にして、善い行いをしなければならないと思えば、阿弥陀仏に向かっていることになりません。

そこで、南無阿弥陀仏と念仏を称えることしかできないとコメントにありましたのは、おそらく以下の御文章のお言葉からでてきた考えだと思います。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(御文章5帖目11通・御正忌

こちらでいわれているように、「阿弥陀仏にむかうといってもわからず念仏を称えている」のは、「なにの分別もなくただ称名ばかりをとなえへ」ていることと同じではないかと思われているのだと思います。

ここでいわれている「人間に流布してみな人の心得たるとおり」とは、阿弥陀仏の御心を知らなくても、呪文のように「なむあみだぶつ」と称えたらよいと思っているということです。

本来は、他力の信心を獲得するということと、「南無阿弥陀仏の六字のこころをよくしる」ということは同じ事です。

念仏を称えるといっても、南無阿弥陀仏の六字の心をよくしるということです。

なむあみだぶつと称えるぐらいと思われるかも知れませんが、阿弥陀仏の働きにより称えさせられているのですから、大変尊いことなのです。

そして、念仏称えさせて下される、南無阿弥陀仏の六字の心を知るというのが、阿弥陀仏に向かうということです。「六つの字のこころ」といわれるように、「こころ」を知るということです。

平たくいえば、ただ今救うぞという心であり、「直ちに来たれ」と呼ばれているということです。

阿弥陀仏の方からいえば、既にこちらを向いて常に念じておられるのですから、その心を感じて、知るということです。

2009-10-10

阿弥陀仏は私のために願を建てられた(ロシュさんのコメント)

ロシュさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

自分のこころをどれだけ見てもそこにまことはないのだから、阿弥陀仏を仰いでくださいということをよく言われますが、どうしても自分の心にばかりとらわれてしまいます。また、自分の存在に対する苦しみと阿弥陀仏の救いというのが自分の中であまりにもかけ離れている感じもなくならず、どうしていけばいいのか分かりません。(ロシュさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295#c1255002363

回答します。

どうしても自分の心にとらわれるというのは、人間であるからこそ、そうなります。阿弥陀仏の方に、私を助ける南無阿弥陀仏が完成し、私に差し向けて下さっていると聞いても、自分の心を問題にしてしまいます。

それは、コメントして下さっているように、阿弥陀仏の救いと私がかけ離れているというように思われているからでしょう。

かけ離れているどころか、阿弥陀仏の救いといっても、私を助けるための本願ですから、私がいなければ、本願もないのです。私という言葉を使うなら、私のためだけに本願を建てて下されたのです。

如来の作願をたづぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまひて

大悲心をば成就せり(正像末和讃38

阿弥陀如来がなぜ願を建てられたのかという御心をよくよく考えて見ますと、苦しみ悩む私を見捨てられずに、なんとか助けるために、南無阿弥陀仏を完成されたのです。

かけ離れているのではなく、当事者です。本願の正客という言い方もありますが、まさに私目当てに建てられた本願ですから、必ず救われる事があります。


「救い」とはどういうことか?(はてな?さんのコメント)

はてな?さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

ただ今救うという本願に、ただ今救われて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295

この「救い」とは、具体的にどういった内容のことなのでしょうか?

これまでのエントリーを拝見していて、ハッキリしませんでしたので、教えて下さい。

毎日の生活など、いろいろの苦しみがありますが、それとの関係で、おっしゃる「救い」はどのように関わってくるのでしょうか?

救いが得られても、毎日の苦しみは何も変わらない、ということでしょうか?(はてな?さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295#c1255081420

回答します。

救いというのは、具体的にいいますと、阿弥陀仏が差し向けてくださる南無阿弥陀仏の働きで、現在に正定聚の位に入り、死ねば弥陀の浄土へ往生し仏のさとりをひらくことを言います。

真実信心うるひとは

すなはち定聚のかずにいる

不退のくらゐにいりぬれば

かならず滅度にいたらしむ(浄土和讃

親鸞聖人のご和讃には、このように言われています。南無阿弥陀仏の働きで救われた真実信心うる人は、そのとき正定聚の数に入り、必ず死ねば弥陀の浄土へ生まれて仏のさとりをひらくといわれています。

毎日の生活の苦しみと、救いそのものは、全く関係がありません。

病気で苦しむ人の病気が治るわけでもありませんし、景気が悪くて苦しんでいる人の景気が良くなるわけでもありません。人間関係で苦しんでいる人の、人間関係が劇的に改善するわけでもありません。

それらの苦しみが、往生の障りにならなくなるだけです。

毎日の苦しみは変わりませんが、往生一定の身にさせていただけるということです。

煩悩具足の凡夫自体は何もかわりません。南無阿弥陀仏の法をうけとったという点で変わります。

決して「○○している者は助かる、○○しない者は助からない」という本願ではありません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295

「念仏衆生摂取不捨」と説かれていますが、

『念仏している者は助かる、念仏しない者は助からない』という本願ではないのでしょうか?(はてな?さんのコメント)

これについては、「念仏する」と親鸞聖人が言われる場合は、阿弥陀仏によって称えさせられるものだと教えられています。

一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。(歎異抄8章

○○している者は、助かるたすからないと言った場合の、「○○」は、「我が計らいにて作る行や善」を指して言います。

阿弥陀仏のお力で念仏させられるので、「念仏する者を救う」とは、言い方を変えると「救ったものは念仏称えさせる」と言っても同じ事です。その意味で、念仏とは、私のする行でも善でもないので、「○○している者は助かる、助からない」という「○○」には入りません。

「わが計らいで称えた念仏」で、往生するということではありません。

本願に誓われている念仏とは、阿弥陀仏の方から見れば、私たちを救うための大功徳の南無阿弥陀仏であり、私がそれを受け取った姿から言えば信心といわれます。

「本願を信じ、念仏するものを、浄土に往生させる」というのが、阿弥陀仏の本願です。

2009-09-28 真剣に求める心になるにはどうしたらよいか?について(みかみさんの

真剣に求める心になるにはどうしたらよいか?について(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

質問させていただきます。

「真剣に求める心」になかなかならない者が、真剣になるためには、どうすればいいのでしょうか。

真剣になる心を起こさせてくださるのも阿弥陀仏の本願の働きによるのでしょうが…。

私も弥陀の本願を何年も頭で聞いていはいますが、熱く気持ちの高ぶっているときとそうでないときと、感情の波があるので情けないのです。

常時、真剣に弥陀に向かう心になっていなので、情けないです。

年々、いや、日に日に、弥陀に対して真剣さが増していくのが信仰の理想形と考えてしまう私の考えは、どう思われますでしょうか。(みかみさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080724/1216899280#c1253971450

回答します。

「日に日に真剣さが増していくのが信仰の理想」というのは、間違いです。

実際に救われた方や、妙好人といわれる方の言行録の中にはそういう方もあるでしょうが、それを自分に当てはめるのは間違いです。

将棋に例えますと、ある対局で「このような駒の進め方をした」という記録を見ていても、現在自分が将棋を指すときに、全く同じ駒の進め方をすることができないのと同じ事です。全く同じ棋譜が存在しないように、まったく同じ心の動きをする人はありません。

ある場面では同じ事があっても、最初から最後まで同じという人は、信仰を求める場合にはありません。

他人の体験談が、実際に信仰を求める人にとって功罪があるのはこの点です。

よい面は、その人と全く同じ悩みに対する一つの答えになることがある点です。

罪の面は、その体験をもって、自分の求道にあてはめてしまうことです。将棋でいえば、過去の棋譜通りに将棋を指して勝とうとするのです。しかし、将棋でも相手が必ず棋譜通りにならないように、私の心自体が過去に信仰を求めた人と全く同じようになるのではないということです。

実際に阿弥陀仏と対峙するのは、私です。阿弥陀仏という法の鏡に映し出される、私の心の姿は、顔が一人一人違うように、一人一人異なります。

気持ちに波があるといわれますが、信仰を求める間にはいろんな形で波があるものです。

不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく

一者信心あつからず 若存若亡するゆゑに(高僧和讃)

決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり

念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり(高僧和讃)

「これは」と思うことがあっても、続かないのが、若存若亡の心です。このまま行けば助かるのではと思うこともあれば、自分の姿をみれば現実助かっていないことに、気落ちすることがあります。

自分の心を、誠の心にしようと一生懸命見つめていても、決定の信がないからその思いも相続しません。

如何に真剣になるかではなく、阿弥陀仏の本願に向かい、ただ今救われることが大事です。

2009-09-24 助けられるか助けられないかということについて(Kさんのコメント)

助けられるか助けられないかということについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「助けられるか助けられないか」とはどういうことかもう少し詳しくお願いします。

助けることができないかもしれないしできるかもしれないということなのでしょうか?阿弥陀仏からすれば「必ず助ける」で定まっているのではないのでしょうか?

回答します。hiromiさんからもコメントを頂きましたが、いいたいことは同じ事です。

Kさんのコメントにもあるように、阿弥陀仏の本願は、必ず助ける本願です。しかし、現実問題として、私がその通り救われているかどうかが問題だということです。

阿弥陀仏の側から見れば、常に助けようとしておられるのですから、現在ただ今が、助けられるか助けられないかのまっただ中です。今後助けることができないかもしれないし、できるかも知れないと言うことではありません。

どうしたら救うことができるかという手段については、阿弥陀仏が五劫思惟されています。兆載永劫の修行によって南無阿弥陀仏となって完成しています。すでに「どうやったら助けられるか」という方法については解決がついている阿弥陀仏からすると、それから問題になるのは「助けられるかどうか」なのです。

南無阿弥陀仏が、与えられるかどうかということです。

言葉を換えますと、すでに救われる手立てについて、五劫思惟されたことを、もう一度考え直そうという心が、自分中心の考え方です。

そうかといって、もうすでに手段は考えて頂いたのだから、救ってくれるのは阿弥陀仏の仕事だからと阿弥陀仏の慈悲に乗っかるのは、法体づのりになります。

一、思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば仏に成るべし、同心とて別になし、機法一体の道理なりと。(御一代記聞書)

阿弥陀仏の五劫思惟の通りに同心すれば仏になる。同心といっても、機法一体の道理のほかにはないと、御一代記聞書にあります。

「どうすれば、どうなったら」という手段については、こちらの考えることではありません。阿弥陀仏の五劫思惟の本願に同心するということは、「助けられるか助けられないか」を自分のこととして考えるということです。

阿弥陀仏は、誰を助けるために五劫思惟されたのかといえば、私を助けるためです。当事者の私が、「どういう手段を講じれば助かるか」と考えるのは、阿弥陀仏の御心にあわないのです。同心していないということになります。

阿弥陀仏側の視点から、私を見ることが大事です。

2009-09-08 「今救われなければ、未来永遠救われる時はない」について(maryさん

「今救われなければ、未来永遠救われる時はない」について(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「今救われなければ、未来永遠に救われる時はない」と書かれてありました。

何となくわかるのですが、すっきりはっきりと「その通り!」とまではなりません。

そのところをもう少し詳しく聞かせてください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252278986

回答します。

「今救われなければ、未来永遠に救われる時はない」については、「今より先、未来に救われようと思うのは間違いであり、今より未来に救われることはない」ということです。

たとえ、どれだけ「今の今救われるとは思えない」といったところで、実際に救われるのは、その人にとって今だということです。

たとえて言えば、「明日」という日はあっても、明日になればその人にとっては今日なので、「明日に生きる」ことはできません。

同様に、「明日救われる」ということがあっても、明日になれば、その人にとっては今日なので、「今日救われる」のであって「明日救われる」のではありません。

ただ今救う本願に対して、「ただ今ではなく、いつか」と思う心が、救いを自分で遠ざけているのです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

このように、短命の根機をお目当てに建てられた本願ですから、ただ今の一念でなければ、本願に救われる時はありません。

「○○となったら」という思いは、ただ今の救いを先延ばししている心です。

「○○となっていないから」という思いは、ただ今の救いに条件をつける心です。

これらの心が、救いを自ら遠ざけている心です。

思ってから救われるのではなく、ただ今の救いです。ただ今の阿弥陀仏の救いに向かうから、追い詰められて逃げていく心になるのです。

前回のエントリーの関係で書きますと、何が善巧方便かという是非を論じている間に、ただ今救われることが大事なのです。

何かの方便の、そのまた先に阿弥陀仏の救いをおいていれば、「阿弥陀仏の救いは先にあるのが当たり前」になり、逃げる心も、先延ばしする心も何もありません。

何も分からないまま、無常が来るまで疑問も起きないかもしれません。

「今救われない大前提」を乗り越えるのは、分かっていてもなかなか難しく思われるかも知れません。しかし、ただ今救われるのが阿弥陀仏の本願です。

2009-09-07 ただ今救われなさいが、釈尊、親鸞聖人の勧めです(Kさんのコメント

ただ今救われなさいが、釈尊、親鸞聖人の勧めです(Kさんのコメント)

この安心問答について親鸞会講師の方から

「あれは、善巧方便ということが分かっていない人の書いた文章」だと言われました。

善巧方便とはどういうことか教えていただきたく思います。よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252248830

回答します。前回のエントリー*1のコメントです。

善巧方便とは、仏様が、巧みに善くてだて(方便)をめぐらして衆生を利益することをいいます。

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。(教行信証信巻)

釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し

われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃)

真実信心を獲得させていただけるのは、阿弥陀仏、お釈迦様の善巧方便があったからだといわれています。

親鸞会講師の方が、どのように前回のエントリーをよまれて「善巧方便がわかっていない」といったのかは、このコメントだけではハッキリとはわかりません。

以下は、私の予測として書きます。違っていたら、またコメントをいただければ有り難く思います。

親鸞会講師のいう善巧方便とは、「全力で参詣せよ」ということだと思います。

全力で参詣していけば、そのうち知らされることがあり、やがて救われるということを言っているのだと思います。

また「全力で善をせよ」「善をすれば何かが知らされて救われる」ということなのだと思います。

全力で参詣する前に、何を聞くのかが大事ではないでしょうか?と前回のエントリーでは書きました。

足を運ぶのは、「仏の御名を聞く」ことであり、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜り、ただ今弥陀に救われることなのです。

参考までに、親鸞会では何を聞けと言っているのかということを、親鸞会公式サイトから引用します。ブログで指摘されて一部訂正されてた後なので、親鸞会内ではこれが正式な見解ということだと理解します。

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。

 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。

「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)

「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。

「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。

 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。(以下略)

 (聞法の決勝点

仏願の生起本末を聞けという親鸞聖人のお言葉を出して有りますが、全文を見ても、「生起」はあっても「本末」はどこにも書かれていません。

文末にはこう結んであります。

「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」

「自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す」と機の深信が立つと同時に、その逆謗を生かす「若不生者」の誓いに疑いが晴れるのだ。

 そこまで聞き抜け、と聖人は仰せなのである。(同上) 

聞法の決勝点

要約しますと、「絶対助からぬ自分と知れ、そうしたら助かる」ということです。

または「自己の姿を徹底して見つめなさい、そうしたら助かる」ということです。

「助かる縁の無いもの」と見抜いて本願を建てられたのは、仏願の「生起」です。では、どうしたら、救うことができるのかと、五劫思惟され、兆載永劫のご修行をされて、与える一つで往生させる南無阿弥陀仏を完成されたというのが「本末」です。


「苦しくなければ求道ではない」?

「とにかく参詣せよ」といわれ、「助からない私」とひたすら聞くのが、親鸞会講師の方がいう、善巧方便のようです。聞けば聞くほど、ある意味苦しくなるので「これが求道」と思われるのでしょうか。

「求道は苦しくなければならない、苦しくなければ求道とは言えない」という固定観念が有るようです。

おそらく、「無理をしなければ財施にならない」という親鸞会内で繰り返しつかわれるフレーズから連想しているのだと思います。しかし、その連想から、肉体的精神的に苦しめば苦しむほどよいというように思う人も出てきます。指導する方も、「それが善巧方便」と思って勧めているのでしょうか?

「助からぬ自己を知るために、全力で富山に足を運び、精一杯財施をし、倒れるまで活動するように勧める」のが、善巧方便なのでしょうか?

その勧め通りに実行し、実際に肉体的精神的に倒れていく会員に対しては「縁がなかった」ですませてよいのでしょうか?そして、「倒れた法友の屍を乗り越えて行け」と勧めるのが善巧方便なのでしょうか?

釈尊、親鸞聖人の教えからいって、それが善巧方便ではありません。

求道はある意味苦しいものです。楽して求められる真実信心ではありません。

しかし、苦しくなければ求道ではないというのは間違いです。獲信するのが求道です。

聞法とは、「ただ今救う本願を、ただ今救うと聞く」ことです。「助からない自分だと知るために聞く」のではありません。

善巧方便といわれるのなら、阿弥陀仏は「そのまま来たれ」といわれ、お釈迦様は「阿弥陀仏に向かえ」と勧めておられます。「助からぬ自分と知れ」とは、勧めておられません。

救う法を聞くことがないから、「聞いていればいつか、助かる縁の無いものと知らされると同時に救われるのだ」と思うしかないのかも知れません。

「雑行をすてて、弥陀をたのめ」と繰り返し書かれている御文章をよくよく拝読されたらよいのではないかと思います。

ただ今救われる本願ですから、ただ今救われなさいと、釈尊、親鸞聖人は勧めておられます。

2009-09-06 求道という言葉も意味について考える(頂いた質問)

求道という言葉も意味について考える(頂いた質問)

求道とはどういうことをいうのでしょうか?生活即求道という言葉を聞いたことがありますが、どういうことでしょうか?(頂いた質問)

求道とは、文字通り道を求めることです。真実信心を求めているのですから、真実信心を求めることです。道を歩くことが、求道ではなく、求めるべきものを文字通り求めることです。

「毎月3回富山に行くだけで精一杯で、とにかく参詣しなければという気持ちで、毎日をすごしていました。」という話を何度か伺いました。

富山に限らず、法座に足手を運ぶという行為が目的化しては、ただ足を運んだ、聞いてきたということで終わってしまえば、「求道=足を運ぶこと」だけになってしまいます。

足を運ぶのは手段であって、目的ではありません。

これによりて、今月二十八日の御正忌七日の報恩講中において、わろき心中のとほりを改悔懺悔して、おのおの正義におもむかずは、たとひこの七日の報恩講中において、足手をはこび、人まねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもってなにの所詮もあるべからざるものなり。されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ。(御文章3帖目11通)

(大意)

今月28日の7日間報恩講期間中に、わるい心中を改め懺悔し、それぞれが真実信心を獲得しなければ、たとえ報恩講に足を運び、形ばかり御恩報謝といっていても、なんの意味もないことだ。阿弥陀仏の願力によって真実信心を獲得した人にこそ、仏恩報謝とも、師徳報謝と言うこともあるのだ。

蓮如上人も、足手を運んだだけではなく、真実信心を獲得せよといわれています。

勿論仏法は聴聞に極まるですから、聴聞が大事です。

しかし、この聴聞とは

たとい大千世界に

みてらん火ををもすぎゆきて

仏の御名を聞くひとは

ながく不退にかなうなり(浄土和讃)

といわれる、「仏の御名」を聞き、「ながく不退にかなう」ことです。

つまり、真実信心を獲得することです。

火の中分けて、足を運べといわれてはいません。「南無阿弥陀仏を聞き、ながく不退にかなう」身になれといわれています。

足を運ぶのは何のためかと言えば、阿弥陀仏に救われるためです。参詣するためではありません。

実際に、月に3回たとえば富山に東京や、大阪から行こうと思えば大変なことです。日曜日に法座があれば、家に帰れば0時前後となります。そこで翌日から仕事となり、平日も仕事を終えて会合に足を運び、疲れもとれぬまま、また土曜日に移動をして、日曜日に富山へと足を運ぶ。

交通費もかかりますし、時間のやりくりも必要です。体調の管理もふくめて、あらゆることを富山に月3回行くために調整しなければ、とても足を運ぶことはできません。

ワークライフバランスという言葉が最近よく耳にします。ワーク(仕事)とライフ(生活)バランスを考えて、仕事も生活も充実させようというものです。

しかし、月3回富山に行くという生活になると、ワークも交通費等々を稼ぐためとなり、ライフもそのために調整するようになります。

日常生活が、そのまま、月3回富山に行くための手段となりますので、「生活即参詣」となります。そのうえ、「信心獲得せよ」ではなく「とにかく参詣せよ」と言われれば、「求道=参詣」となるのも仕方のないことです。

「とにかく参詣することが大事だ」といっても、それこそ体力的に、経済的に厳しい中なんとかなんとかと足を運ばれる方には、回答にならないのです。

「もうこれ以上頑張れない」と思っている人に「もっと頑張れ」では、答えにならないのです。

常に、ただ今の救いを忘れず、ただ今救う本願に、ただ今救われようとする人は、その心がけを忘れなければ、生活のままが求道(救いを求める)ことになるのです。

足を運ぶのが悪いのではありません。信前信後聞法は大変大事な事なのです。

しかし、目的を忘れ、足を運ぶ形ばかりを問題にするのは、求道ではありません。

2009-01-16 「真剣になる」ことが目的ではありません。「信心決定」が目的(モグ

「真剣になる」ことが目的ではありません。「信心決定」が目的(モグタンさんの質問より)

モグタンさんより、メールで質問をいただきました。有り難うございます。

質問の内容は、いくつかありますので一つ一つ回答をいたします。

「今助かりたい、どうすれば」と思う人が真剣になって求めるものだ、と理解しているのですが、救われたいという心が私にないのではないか、と思っています。

(略)

そもそも死にたいと思いつつ、本当にその時になったら「大命将に終らんとして悔懼交至る」という心境になるのだろうなあ、恐ろしいなあ、後悔したくないなあ、と思っています。

信心決定したいか、と聞かれればもちろん信心決定したいです。

これは、そのように思っている人は多いのではないかと思います。私もそのように思っていましたので、気持ちはよくわかります。

「真剣にならねばならない」と思うあまり、「真剣になること」が目的になってしまいます。

「どうしたら真剣になれるのか?」という疑問や悩みは、当事者としては非常にまじめな悩みであり、信心決定に向かっていることに違いはないのですが、方角が違っています。

「現在ただ今の弥陀の救いにあう」ことが目的であって、「真剣になる」ことが目的ではありません。「真剣になる」というのは、「現在ただ今弥陀の救いにあう」という目的に向かった人に、結果としてあわられてくる心なのです。

平生で信心決定するには「まず真剣にならねば」という心はすてものです。

「まず真剣になって」いる間を待っていては、一念の救いにはなりませんし、「命一刹那につづまる無常迅速の」私が、救われるのに「真剣になってから」といっていたら、「多念をもって」本願を建てられたということになってしまいます。

「真剣になる」ことが条件のように思うので、「臨終になったら」「今死ぬと本当になったら」と、大無量寿経のお言葉をそこへ持ってきて、そこで「真剣になって→救われる」というようなところにすがろうとします。

「臨終になったら」という心は、平生一念の救いから逃げている心です。阿弥陀仏の本願から逃げている心です。なにも臨終を待たなくてもいいのです。

されば聖人の仰には、『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚に住す、正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし』といえり。この御言をもって心得べきものなり(御文章1帖目4通・自問自答)

臨終に助かろうというのは、臨終来迎といって諸行往生といいます。よく聞かれる言い方で言えば「死んだらお助け」です。浄土真宗は「死んだらお助け」ではありません。現在阿弥陀仏に摂取不捨の利益に救われ、正定聚に入るという教えです。現在正定聚に入った人は、必ず弥陀の浄土に生まれることができますから、臨終を待つことも、来迎をあて力にする必要もないのです。

本当にその時になったら「大命将に終らんとして悔懼交至る」という心境になるのだろうなあ

というのは、後悔するだろうと思う一方、そうなったら救われるのではという思いのあらわれです。「臨終待つ」心です。蓮如上人言われるように「臨終待つことなし」が親鸞聖人の教えです。

求めるべきは「平生の救い」であって、断じて臨終の救いではありません。

言葉をかえれば「臨終にならなければ救われない」教えでもありません。

「真剣になろう」と真剣になるのではなく、「現在弥陀に救われよう」と真剣になってください。

同じメールでいただいた質問は、また明日回答エントリーいたしますので、しばらくお待ちください。

2009-01-11 「わが心にぞ訪ね入りぬる」のは何のためか?(orimaさんのコメントよ

「わが心にぞ訪ね入りぬる」のは何のためか?(orimaさんのコメントより)

orimaさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

心を見つめるとよくお聞きするのですが、何となく感情や知識をもてあそんでいるだけになってしまっているような気がしています。

それは、自分の思いで自分の心を見ているから、ということが原因なのでしょうか?

只今救う本願に向かった時の、自分の心を「深く」「細かく」見つめるとはどのようなことなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081226/1230294854#c1231597687

とても大事な質問だと思います。

心を見つめると言いますとなにか、哲学者が自分自身を内省するようなものを想像するかもしれません。あるいは、なにか失敗をしたことを振り返って反省することのように思われるかもしれません。

orimaさんの言われるように「感情や知識をもてあそぶ」状態は、心を見つめるとはいいません。

そこで大事なのは、何のために心を見つめるかという目的です。

浄土真宗の信仰を求めると言うことは、真実信心獲得すると言うことが目的です。真実信心は、阿弥陀仏から賜る信心でありますが、それを妨げているのはほかならぬ自分自身の心だからです。

真実信心である南無阿弥陀仏は、私たちに与えるために阿弥陀仏が成就されたものです。

それを蓮如上人は、

善導のいわく、「南無というは帰命、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行」といえり。(御文章5帖目11通・御正忌)

と善導大師の六字釈をたびたび御文章に引用されています。

「発願廻向」といいますのは、「廻向(与える・差し向ける)」ために願をおこされたという意味です。

阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏を私に与えるために作られました。その阿弥陀仏の御心から言いますと、いつでも私に南無阿弥陀仏を与えようとされているのです。

一方私の方は、その南無阿弥陀仏を早く獲得したいと思っています。

それなのに、なぜ現在真実信心獲得の身になっていないのか?それは、阿弥陀仏が与えるのを渋っているからではありません。私の心が、阿弥陀仏をはねつけているからです。

そのはねつけている心がある間は、真実信心獲得の身にはなれません。その心を「雑行雑修自力の心」と御文章にたびたび言われています。南無阿弥陀仏をいただくときは、その雑行がすたる時なのです。

先ほどの御文章には続けて

「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(同上)

と言われているとおりです。

心を見つめるというのは、この「雑行雑修自力の心」を知ることです。知らねば、その心が廃ったと言うことはありませんから、非常に大事になってくるのです。

「自分の思いで自分の心を見る」と言うことではなく、あくまで本願に向かったときに出てくる、または見えてくる心が雑行雑修自力の心ですから、本願に向くと言うことが大事です。

自分の心を「深く」「細かく」見つめるとはどのようなことなのでしょうか?

これは、弥陀の救いを現在求めようとしたときに、種々起きてくる自分の心の動きに敏感になると言うことです。実に信心の沙汰というのは、そういう心の動きを人に言うことで、また人から教えてもらうことで、自分の心を深く細かく知ることなのです。

そういうご縁がないときや、また聞法しているときは、本願にむかったときどんな心が実際起きてくるか、なぜそんな心がおきてくるか注意深くみて、深く自分の心の中を見てもらいたいと思います。「下の心」とも言われるように、日頃はなかなか見えない心ですから。

また、このエントリーを読まれた時の心でも結構ですから、またコメントいただければいいと思います。よろしくお願いいたします。

2008-12-27 「助かる者」だと思うことについて(orimaさんのコメントより)

「助かる者」だと思うことについて(orimaさんのコメントより)

orimaさんより、コメントを頂きました。有難うございました。

『「仏法が心にかかったら助かる」ような者なのでしょうか。「真剣になれないだけ」「真剣になったら救われる」という心は、「自分は助かる者だ」という考えです。』

のお言葉については、すみません、よく分かりませんでした。

一体、何をどのようにして求めていったらいいのか、具体的に自分はどうしたらいいのか、と思ってしまうのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081222/1229947925#c1230303789

おたずねの件について、お答え致します。

これは、それ以前のエントリーとは、少し角度を変えて書いたものです。

阿弥陀仏の本願には、「唯除五逆誹謗正法」と教えてあり、平たい言葉で言えば、「助からぬ者」と、阿弥陀仏は見抜いて本願を建てておられます。

そのことを御文章には

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

と教えておられるのです。

十方諸仏三世の諸仏が棄てた者が、私というものなのです。

この姿は、信前信後、弥陀に救われる前も、救われた後も変わりません。

私たちの姿から言えば、「救われないもの」が「救われる者」に変化して、やがて救われると言うことではありません。

それを「真剣になったら救われる」という表現をしました。

その根底にあるのは、自分自身は、現時点では助からない者でも、やがて助かるようになるというところから、「結局自分は助かる者だ」と思う心です。

「助からぬ者」と見抜いて弥陀は本願を建てておられるのに、その本願の相手である私が「助かる者だ」と思っていれば、本願と私が相応しません。願に不相応ということですから、助かりません。

「願に相応する」のが、真実信心獲得するということなのです。

願に相応しない自分を、願に相応させようと計らって、ああしたらこうしたらと思う心を自力の心というのです。

「明如来本誓応機(正信偈)」

親鸞聖人が言われるように、阿弥陀如来の本願は、機に応じて下されるものなのです。それを、あれこれ自分で作った型に本願を相応させようとするから、三世の諸仏も見捨てるのです。

阿弥陀仏の上に立つ心といわれるのはそのためなのです。

具体的にどうすれば、いいのですかということですが、「具体的に現在助かろう」と思って、現在の救いを求めて下さい。

「どうする」という手段の前に、大事なのは目的地です。

どこに出かけてもせわしない時期になってきました。無常はもっと迅速です。

それより早いのが、一念の弥陀の救いなのです。