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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-11

「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。(退会二年目さん、酔っぱらいさんののコメントより)

退会二年目 2013/09/10 03:13

(略)

私は信心決定したのですが私の周りの人は信心決定していないどころか仏教を全く知らない人達ばかりです。どうにかお伝えしたいのですが親鸞会に在籍していた頃の失敗を思い出しなかなかお伝えすることができません。そんなとき「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。わかりずらい質問ですみません。

あと余談ですが信心決定してから「信心決定」という言葉を使うことにやや抵抗を感じます。恐らく親鸞会で求道していたときに思い描いていたものと実際のものがかけ離れていたからだと思うのですが。山も山さんはそのようなことはありませんか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378750437

最初の念仏する上で思うことについてですが、特に間違ったものではありません。

なぜなら、御消息に親鸞聖人が以下のように書かれているからです。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。(親鸞聖人御消息(下)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P783)

「往生を不定におぼしめさんひと」というのは、阿弥陀仏にただ今救われていない人のことです。そういう人は、まず救われることを思い念仏しなさい。そして、すでに阿弥陀仏に救われていいるひとは、阿弥陀如来のご恩を思って念仏し、世の中が安穏であるように、仏法がひろまるようにと思いなさいと書かれて有ります。


念仏は祈祷のするための言葉では確かにありません。しかし、私がただ今称えているところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のお働きそのものです。そのお働きである南無阿弥陀仏が、人を救っていくのですから、念仏するときに「どうかあの人が仏法を聞くように」と思われてもおかしなことではありません。


また、仏法を聞く人が周りでいないなかでも、そのようになんとか浄土往生をしてもらいたいと思うことは、まことに有り難いことだと思います。私も、そのように縁のあるいろんな人に対してそのように思っています。とはいえ、なかなかすぐに聞く人ばかりではありませんので、そこは悩ましいところです。南無阿弥陀仏と念仏するときは、そういうなかなか聞かない人のことを思うこともあります。


あと「信心決定」についてですが、私も同じような気持ちはあります。加えて、元会員や現役会員の人と話をする時に「信心決定」という言葉を使うのを少し控えようという気持ちがあります。理由は、退会二年目さんと同じで、「信心決定とはこのようなもの」という固定観念がそうとう強いので、信心や安心の話をしていても「信心決定」という単語を出すと、どうしてもその固定観念から話を聞いてしまうからです。


酔っ払い 2013/09/10 16:12

自分も昔から、会の「信心決定」というニュアンスが違うと主張してました。

それは会(会長)が実際のものを理解しておらず、

聖教にあるような意味使い方でなく一般受けするようなキーワードとして利用しており、言葉の使い方を歪めていることからだと思ってます。

あ、自分は未信なので信用性はどうだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378797173

酔っ払いさんがコメントされていることも同様のことだと思います。「スッキリハッキリ」とか「人生の目的を達成した喜び」とかいろいろと某会では言います。それを聞いた人は「信心決定とはそのようなもの」と思い込まされ、それに向かって一生懸命「進もう」と頑張ります。信心は「求めるもの」で「与えられるものではない」というのが某会では常識になっていますが、それは間違いです。


多くの会員が今でも所属しているので、それらの人が早く阿弥陀仏の本願を本当の意味で聞かれるようにと思い、私も南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏をするものです。

追記

連絡先はこちらをご覧下さい。

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2013-08-29

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)2_自力はどれだけ捨てようとしても自力になる理由

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

信心に対する「疑い」について、前回に引き続き書きます。

疑いについて、別の言葉でよく使われるのが「自力心」または「自力の心」です。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。(教行信証化土巻本_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P395)

http://goo.gl/2tu1PD

自力の心を離れたことを、横超他力といわれています。それは、他力の信心をあらわされたものですから、自力の心は疑いと同義語としてかかれています。

そこで、「自力の心」について親鸞聖人は一念多念証文に以下のように言われています。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)

http://goo.gl/6QqZAv

ここで「自力」といわれているのは「自力の心」と同じ意味です。それは、自分の心をたのみ、自分の力をはげんで、いろいろな善根をあてちからにすることをいわれています。

ここでいわれていることでいえば「自力を捨てようとする」のも、「わがこころをたのみ、わが力をはげみ」と同じことになります。


しかし、よく考えて見ると「自力を捨てようとする私(A)」が「自力の心(B)」を捨てようと一生懸命頑張ったとします。そこで、どうにかこうにか(B)を捨てることができたとしても、以前として(A)は残ります。自力を捨てようという私(自力・A)が、以前として残ってしまうという結果になります。そこでさらに「自力を捨てようとする私(A)」を捨てようと励んだところで、「『自力を捨てようとする私(A)』を捨てようとする私(C)」は残る訳です。結果として、そのような努力はどれだけ続けても「捨てようとする私(自力)」が残る以上は終わりがありません。


このように、自らの力で往生浄土を遂げようという心はすべて自力であり、「疑い」といわれます。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息6_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P746)

ここでいわれていているように、自らの善根をもって浄土往生を遂げようとすることを自力といわれています。どのようにしても自分自身をどうにかして他力になろうというのはゴールがありません。

どれだけ「私」を「めでとうしなして」も自力にかわりはありません。その「私」「自力」を捨てるのは「私」の仕事ではありません。南無阿弥陀仏のお働きにより救われるのですから、救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています。

それを聞いたのが信心です。