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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-06

「お勤めするときに名号または木像、絵像は必要でしょうか? 今まで時間が無いと言い訳をしお勤めをしなかったのですが最近なぜか無性にしたくなりまして。しかし仏壇を配置する場所もなく困っております。」(退会二年目さんのコメント)

退会二年目 2013/09/05 17:19

どこに質問すれば良いのか分からないのでこのエントリーのコメント欄を借ります。

お勤めするときに名号または木像、絵像は必要でしょうか? 今まで時間が無いと言い訳をしお勤めをしなかったのですが最近なぜか無性にしたくなりまして。しかし仏壇を配置する場所もなく困っております。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130904/1378284678#c1378369166

念仏を称えるということならば、特別この場所、この時間、この姿勢でなければならないということはありません。

名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。(唯信鈔_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1341)

http://goo.gl/oFqiP

唯信鈔に「これ(念仏)をとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず」とあります。


しかし、お勤めをするとなれば、やはりお仏壇なり、ご本尊があった方がよいです。実際に、勤行するにあたって合掌礼拝するにしてもやはりその相手というのがあるほうがよいに違いありません。


お仏壇があるにしても、名号本尊の方がよいと思います。阿弥陀仏の本願は、すでに成就して南無阿弥陀仏となって私に働いてくださいるからです。それについては、前回のエントリーにも紹介した御文章にあります。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。(御文章5帖目8通_五劫思惟_浄土真宗聖典―註釈版P1195)

http://goo.gl/jYxWNA

その本願が成就した南無阿弥陀仏(法)をたのむのを信心といい、その信心一つで浄土往生をさせていただけるのです。また、阿弥陀仏が称えよといわれるのも南無阿弥陀仏だからです。


退会二年目さんは、お仏壇を置く場所もなく困っておられるとのことですが、小さい名号本尊をどこかに掛けて勤行されたらよいのではないかと思います。何もないのとでは、全然違います。


また、退会二年目というハンドルネームからして、退会二年目さんは元親鸞会会員ではないかと思われます。

親鸞会会員の方向けに、以下の脱会ブログのエントリーを書きましたので、ご覧下さい。

親鸞会を脱会して名号本尊(親鸞会で言う正御本尊)を返却して困っている方へ - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

2013-09-04

「救いに必要のない『私』を捨てよと阿弥陀仏は言われていますの言い回しは、たとえば『救いに必要のない「私」は捨てものだと阿弥陀仏は言われています』でないと、誤解のもとになるのではないでしょうか。(ループさんのコメント)

前回のエントリー(「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、「『ただ今救うぞ』という阿弥陀仏の仰せを受け入れること」はできるということでしょうか?(ループさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))へのループさんのコメントです。

ループ 2013/09/03 21:00

お答え頂き有難うございます。

>阿弥陀仏の救いは、私から言えば「助かる」のではなく「助けられる」というのが適当な言い方です

yamamoya様が、

「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れることだけには「できます」とお答えになるのは、「受け入れる」という語が受動的であるからだと、理解いたしました。

しかし、それならば最初に戻って、

>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています

の言い回しは、たとえば『救いに必要のない「私」は捨てものだと阿弥陀仏は言われています』でないと、誤解のもとになるのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130903/1378192200#c1378209655

誤解のもとにはならないと理解しております。

なぜなら御文章には、「雑行をすてて」と何度も書かれているからです。

例として、以下に御文章5帖目8通の最初を紹介します。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。(御文章5帖目8通_五劫思惟_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1195)

http://goo.gl/jYxWNA

「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」は、阿弥陀仏の本願(第十八願)を蓮如上人がかかれたものです。そのように誓われて、南無阿弥陀仏となられたのですから、南無阿弥陀仏の仰せは「雑行をすてよ」「一向一心に弥陀をたのめ」であり「必ず助ける」となります。

そのなかの「雑行をすてよ」から「救いに必要のない『私』を捨てよと阿弥陀仏は言われています」と以前のエントリーで書きました。


「雑行を捨てよ」や「救いに必要のない『私』を捨てよ」と聞いて、「何かをせよと阿弥陀仏は言われているのか?」と思うのは間違いです。ただ、それは読んだ人が前述の文章をどう読むかという読解力という話ではありません。阿弥陀仏の本願が成就したということが、私の力が必要ないということであるということがよく理解されていないからだと思います。(違っていたらすみません)


先に紹介した御文章でも、阿弥陀仏の本願はすでに成就して「南無阿弥陀仏と成りまします」と書かれています。そこで、「成就」とはどういうことかについて、親鸞聖人教行信証行巻に、曇鸞大師の浄土論註を引文されています。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻_一乗海釈_論註引文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P198)

http://goo.gl/wWXZMK

阿弥陀仏の本願は、それによって力を成り立たせている。その力は本願にもとづいて本願に誓われた通りの力である。阿弥陀仏の本願は、ただの願いだけでおわるような空しいものではなく、また本願力は空しく空転することがない。本願力(南無阿弥陀仏のお働き)と本願はぴったり合致してまったく違いがないので成就というと言われています。


阿弥陀仏が本願を建てるにあたって、そもそも私に何か「手助け」を必要とされませんでした。それは、どんな人でも助けるために五劫思惟された結果のことです。ですから、阿弥陀仏の本願は「私に何かをしなさい(その行為を手助けに助けます)」と誓われたものではありません。その本願通りに働いておられる本願力である「南無阿弥陀仏」の仰せは、また「私に何かを要求する」ということはありません。本願には初めから「私」は必要ないことをそのまま言われているだけです。


南無阿弥陀仏は「ただ今助ける」の仰せです。それを聞いて「ただ今助かる」と助けられてください。

2011-03-27 信心決定はとてつもない体験でしょうか?(頂いた質問)

信心決定はとてつもない体験でしょうか?(頂いた質問)

信心決定というのは、やはり何かとてつもない体験であると思ってしまいますが、そうではないとも聞きますがどうでしょうか?(頂いた質問)

信心決定するということは、「とてつもない体験」ではありません。ありがとウサギがグレートありがとウサギになるようなものではありません。

参考動画:グレートありがとウサギ

D

こんなようなものだと私も以前は思っていました。親鸞会で聞いていた話と、「アニメ映画:世界の光親鸞聖人シリーズ」を見ていた影響でした。

しかし、蓮如上人はそういう「とてつもない体験」ではないと言われています。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通・浄土真宗聖典(註釈版)P1192

阿弥陀仏の本願、第18願を心得ることであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることです。

第18願を心得るとは、ただ今救う本願をそのまま聞いたことです。南無阿弥陀仏の仰せを疑い無く聞いたことです。南無阿弥陀仏がそのまま私に働いているのが信心です。

何か凄い体験が信心ならば、その体験は何かによって崩れてしまいます。

何を思っても、何が起きても、常に南無阿弥陀仏と働いてくださる、常に直ちに来たれと呼びかけてくださっていることは、変わりません。そういう喜びは調子が良いときも悪いときも変わらずあります。とてつもない体験によらないのが、信心です。

ただ今救う本願をただ今聞いて下さい。

2009-03-27

助からなかったらどうする?という心はどういう心か(カナダ人さんのコメントより)

カナダ人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

1「後ろ髪を引かれるような思い」とか 2「私の心を引き留めて進ませない」というのは、どういう心でしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090325/1237971690

という質問に対して、コメントを二つ頂きました

1.ただ今救う本願に向かってただ今救われたいと飛び込もうとするとき、先が全く見えない(分からない)から、そこへ飛び込もうとしても怖れと不安の心で飛び込めなくなってしまう状態、の思いや感じのことです。

2.1で書きました通り、先が全く見えない(分からない)ところへ飛び込もうとするときの怖れや不安の心が気がかりになって、進めないということです。

(カナダ人さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090325/1237971690#c

飛び込んで、ほんまに助けてくれはるんやろか?もしほんまに助けてくれはらへんかったらどないすんねん?絶対助けるいうても自分だけ願力届かなんだらどうすんねん?ただ今救う言われて賺されたらえらいこっちゃ。阿弥陀仏はほんまにいやはるんやろか?阿弥陀仏はほんまのほんまに助けてくれはるんやろか?ほんまに絶対助けてくれはるんやろな。

と、いざ飛び込もうとする私の心は、恐怖と不安のため本願から逃げたくなります。矢のようなご催促に遇うと追い詰められ逃げ場がなくなり苦しいです。本願に向かう苦しさから逃れるため思わず安楽椅子を作って腰を降ろして落ち着こうとしてしまいます。

(カナダ人さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090325/1237971690#c

心を打ち出すと言うことを何度もして頂いて、非常によく分かるようになりました。自分の言葉で語ると言うことは本当に大事なことです。

「阿弥陀仏は本当に助けて下さるのか?」という疑いは、どこからくるのか?ということについて回答をいたします。

今回は、敢えてばっさり書きますと、助かる自分だと思うからそういう不安が起きるのです。

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

蓮如上人は、十悪五逆罪の罪人も、五障・三従の女人も、過去現在未来の大宇宙の諸仏が一度は助けようとされたけれども、助けることはどうにも出来ないと見捨ててしまわれたのが、私たち凡夫なのだと言われています。

助かる縁が少しでもあるものなら、三世の諸仏は決して見捨てたりしません。諸仏においては、過去にも現在にも未来にも助ける力がないということです。仏様が見捨てるのですから、凡夫の力なにか思ったから、こういうことをしたから、中には助かるように変化していくというようなものがらは、カナダ人さんにはないのです。

阿弥陀仏の本願48願の中の18願と、その18願成就文にはともに

唯除五逆誹謗正法

と誓われていることは、このことなのです。

五逆罪と謗法罪の者は唯除くといわれています。本願にも除かれている、助からないといわれているではありませんか。

それでも、そんなものを阿弥陀仏は助けて下されるのではないかと、自分の姿を良い者のように思うのが、「憍慢」といわれるものです。

邪見憍慢悪衆生

信楽受持甚以難

難中之難無過斯(正信偈)

親鸞聖人が言われているように、邪見憍慢の悪衆生は、阿弥陀仏に救われる事は大変難しい、これ以上難しいことはないと言われているのはそのことです。難しいという字が、2行の中に3回も出てきます。それもただ難しいではないのです。「甚だ以て難しい」とか「斯に過ぎたる難は無し」とまでいわれているのです。

飛び込んだら助けてくれるだろうと、飛び込むような殊勝な心になっ「たら」とか、助けてくれなかっ「たら」というのは、阿弥陀仏に対して取引を持ちかけ、苦情をいう心です。それは、客が店員にいう言葉でしょう。

「この商品、お金振り込んだらちゃんと届けてくれるでしょうね」とか「もし、この商品が動かなかったら、保証してくれるのでしょうね」という言葉は日常使われます。

この消費社会のなかでは、消費者は会社よりも強い立場になっています。消費者が商品を買わねば、企業は成り立たないからです。

しかし、阿弥陀仏はどうでしょうか。十方衆生を助けなくても、阿弥陀仏は何も困らないのです。それでも本願を建てられましから、超世の大願といわれるのです。

阿弥陀仏は「若不生者不取正覚」と本願を建てておられますが、それは阿弥陀仏のことです。だからといって私が、それに乗っかって「正覚までかけたのだから早く助けてくれるだろう」と阿弥陀仏の頭の上に立っているから「唯除五逆誹謗正法」の八文字が目に止まらないのです。

「どうせ助けてくれるだろう」と思う邪見憍慢の親玉は、すでに本願から除かれているのです。

回答は途中になりますが、ここまで読まれてカナダ人さんはどういう心がおきるでしょうか?

また打ち出して見て下さい。

2008-07-02

「なんとように心をも持ち」と「なんのようもなく」の関係について(元自称福徳会員さんのコメントより)

「なんのようもなく」について

元自称福徳会員さんのコメントより

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080701/1214903570#c1214983237

コメント頂き有り難うございました。

ただは唯一の唯、Onlyの意味しかありません。歎異抄に「ただ念仏」とある場合のそのときの念仏が他力の念仏を現しているだけです。念仏が自力か他力かの判断は文の前後で判断するしかありません。ただがついているかいないかは判断基準になりません。たとえば「ただ念仏しているだけでは助かりませんよ」と言った場合、ただは付いていますが自力の念仏のことになります。

歎異抄の「ただ念仏」「ただ信心をもって要とせられたり」の部分を指していったのです。

蓮如上人が、「世の中に人のあまねく心得おきたるとおりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば」といわれた、「ただ」とは、意味が違います。

歎異抄では「ただ念仏して、弥陀に助けられ」とありますから、「弥陀に助けられ」た、「ただ」です。

「ただ念仏」の「ただ」が、唯一とした場合でも

「ただ念仏」とは、「念仏のみ」

「念仏のみ」とは、「(他力の)念仏のみ」

「他力の念仏のみ」とは、「他力による」ということですから、意味に不自然なところはないと思います。

次に御文章についてですが

さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまいらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。

ねんごろにそれをきかんとおもふなり。

 答へていはく、それ当流親鸞聖人のをしへたまふところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、(二帖目第八通)

「なにのやうもなく」に対応している言葉として『「なにとやうに」こころをももちて、「なにとやうに」その信心とやらんをこころうべきや』がありますが、「なにとやうに」はどのように解釈すべきでしょうか?

「なにとように」ですから、「どのように」という意味です。

前段の問いの部分は、

「弥陀に救われるには、どのような心で、どのように信心を決定すればいいのでしょうか?」ということです。

平たく言えば「どうすれば弥陀に救われますか?」と聞かれています

その答えとして、蓮如上人は、「なんのようもなく」と答えられています。

「なんのようもなく」「弥陀如来を一心一向にたのみ」とあります。

「弥陀を一心一向にたのむ」とは、阿弥陀仏に救われるということですから、「弥陀に救われる」には、「なんのようもなく」なのだと言われています。

弥陀に救われるとは、前のエントリーにも書いていますが「雑行雑修自力の心が廃った」ことでから、

「雑行雑修自力の心が廃る」には、「なんのようもなく」であるといわれているのです。

このような御文章を出されたと言うことは、方便の勧めと関連して出てきた質問だと思います。確かに、財施や顕正などの善をすれば廃るとは、書かれていません。

「なんのようもなく」を、「なにもしなくていい」と解釈する人もありますが、とても聞き誤りやすい表現になってしまいます。

前のエントリーでも書きましたが、無常に驚き、どうすれば弥陀に救われるのかと真剣に悩む人が、この部分を読んだときには、「なんのようもなく」=「なにもしなくていい」のだから、じっと座って弥陀の救いを待とうか、というように悠長に構えてはおれません。

「なにもしなくていい」のなら、もう助かってもいいはずだ、何かが足りないはずだ、何が足りなくて助からないのだろう、「なにのようもなく」とは一体どういうことだと、「財施などの善は往生の一段には不要」=「なにのようもなく」と御文章を読んでも、何かをせずにおれません。

これが本当の「せずにおれない」心です。

またこの心こそ「自力の心」なのです。

「財施などの善をすれば信仰が進むだろう」と思う心とは、救いを求めているという点では言葉上似ていますが、その心は相当違います。

蓮如上人のこの「なんのようもなく」お言葉は、次にでてた御文章2帖目14通も、ほぼ同じ事ですが、

『「なにとやうに」こころをももちて』

『なにの要ぞといへば』と問いかけてきた人に言われているお言葉です。

「ただ念仏」の「ただ」にもいろいろあるように、

「なにとように」こころをも持ちて、にもいろいろあるのです。

真剣に弥陀の救いを、体にかけて求める人が問いかける、命がけの問いが『「なにとように」こころをももちて』なのです。

そんな人に答えられている「なんのようもなく」です。

単に、「なにしなくていい」と、体にかけて求めたことのない人が思い描く意味とは全くことなるのです。

ひまわりひまわりさん、コメント有り難うございました。

「なにとやうに」はどのように解釈すべきでしょうか?←親鸞会では、財施、法施活動を指すんでないでしょうか?信心といっても、他に考えられません。

このコメントを読んで思いましたが、繰り返し「どうしたらという真剣な問い」とお答えしましたように、これは、よく聞かれる、後生に驚きが立つ前の、聞法求道をしていく上での心がけを聞いた言葉ではないのです。

ですから、他の場面での「聞法の心構え」のような場面にあてはめるとあいません。

2008-06-10

御文章4帖目3通(当時世上)の解釈について2(元自称福徳会員さんのコメントより)

重ねてコメントを頂き有り難うございました。

お尋ねの点について、必ずしも御門徒のこと対象に書かれていないところもあるのではないかというご指摘ですが、記述として、「聖道の学者」に向けて書かれたものも確かにあります。

そういう点では、ご指摘の通りと思います。

私が、御門徒の方に向けて御文章を書かれたといったのは、手紙である以上、そのお手紙の宛先は誰になっているのかという意味に取っていただければと思います。

「毎月両度講中へ」と書かれたりありますように、「聖道門の学者」に宛てて書かれた御文章は、5帖の中にはありません。みな、当時の御門徒宛に出されたお手紙だという意味で書きました。

その中に、他の人について触れている部分はないと言うことです。

お尋ねの部分についてです。

さて、「いかなる菩提・涅槃を願う」についてですが、親鸞聖人・蓮如上人が「どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心」と解釈したところがあるでしょうか?私は『「菩提・涅槃」というのは覚り(正定衆を含む)や浄土のことのみを言う』と認識しています。 (清森問答  投稿−元自称福徳会員さんのコメントより)

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment520

確かに、「菩提・涅槃」というのは、覚りや浄土のことをいいます。

「早く助かりたい人」にとって、「なんでもいいから体験したい」「何でもいいから安心したい」といった場合、その「安心」とは、正定聚の身になりたいということであり、浄土往生間違いない身になりたいという意味です。

そこから、「これで助かったのだ」「これで正定聚の身になったのだ」と、安心できる安楽椅子を探し始めます。千万の化城といわれるものです。

そういう意味では、みんな何かの安楽椅子を持っています。別の言葉で言えば、自力の信心を持っています。

別に後生に驚きが立っていなくても、焦る気持ちがなくても、すでに何かの安楽椅子に座っています。だからこそ、後生に驚きが立たないともいえます。

自分の座っている椅子がたたき壊されて初めて、自分の信仰に不安を覚え、前に進まずに折れなくなります。


ただ、そう説明をすると、元自称福徳会員さんのコメントにあるように

また、蓮如上人は「願う事なり」とか「願うものなり」とは書かれずに、「願うべき事なり」、つまり、願いなさい、とおっしゃっています。貴殿の解釈の「いかなる善根功徳をも修し」と「いかなる菩提・涅槃を願う」をつなげると蓮如上人はここで『「弥陀の救いにつながると自分で思うものを、ひたすら求め」「どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心」を願いなさい、起こしなさい。』とおっしゃったことになるのではないのでしょうか?まるで化城の安心を勧めているようなことにならないのでしょうか?

そのように解釈できてしまいます。

改めていいますと、「一般の人向けに読めば」という前提でいえば、「老少不定と聞いたなら、どんな功徳をも行い、菩提・涅槃を願いなさい」という意味になり、それで十分意味は通ります。ご指摘の通りと思います。

私に向けて書かれたものだと思えば

『「早く、後生に驚きがたつ身になりなさい」

「いかなる功徳善根をも修し、菩提・涅槃を願うくらい信心決定を早く求めようという気持ちになる」身になりなさい。

そこまでいかないのは、まだ信仰が進んでいないのだ』といわれているように、私は読ませていただきます。

ここまでいくと「私釈」といわれてしまうかも知れませんが、「19願の入り口にも入っていない」発言のことと併せて考えますと、そのように私は読まずにおれません。

どこに後生に驚きが立っている人があるでしょうか、

どこに、早く弥陀に救われたいと思い、いかなる善根功徳をも修している人があるでしょうか。

どこに、どんな椅子でも安心したいとまで、獲信を焦る行者(宿善の機)がいるでしょうか。

「これで自分は間違いない」「このまま聞いておれば安心だ」「これだけ善に励んでいるもの」

だから、「いつかそのうち助かるだろう」と安楽椅子にどっかり腰をかけ、呑気に聞法している人がほとんどではないでしょうか。

涙を流して仏法を聞いている人はあっても、感情の高ぶりで流す人は多くあっても、我が身の後生に驚いたり、弥陀に救われて懺悔の涙を流す人にはなかなかお目にかかれません。

「無宿善の機にいたりては力及ばす」(御文章)

とは、蓮如上人どんなお気持ちで書かれたのでしょうか。

一方御遺言には

「まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くもやむことなし」

といわれています。『宿善まかせとは「いいながら」』なのです。

無常に驚いたこともない人は、確かに信心の世界には遠いのです。宿善の機でなければ、弥陀の本願は徹底しません。

確かにそれが教えとは、「いいながら」、「述懐のこころ暫くもやむことなし」と御遺言された蓮如上人のお言葉を讃題で聞かせていただく度に、「みなみな信心決定あれかし」の善知識方の、心の叫びと思わずにおれません。

またまた長くなってしまいましたが、質問の2の方は、また後日コメントさせていただきます。

最後に、

。「貴殿を打ち負かしてやろう」と言う気持ちはさらさらありません。貴殿とのやり取りで本当の親鸞聖人のみ教えを理解したいのです。残念ながら、親鸞会在籍中はこのような深いやり取りをするご縁はありませんでした。

貴方のこの最後の言葉を読み私も、蓮如上人ではありませんが、「述懐のこころ暫くもやむことなし」です。

名前も知りませんが、きっと同じ会場で聴聞をしてきたことなのでしょう。

そのときご縁がなかったというのは悲しいことですね。

心を打ち出して、沙汰ができればよかったのですが。ネット上でこうやって沙汰をするのもまたご縁と思います。

2008-06-09

御文章4帖目3通(当時世上)の解釈について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより

本文が長いので、全文を読みたい方は、リンク先をご覧下さい。

御文章の意味についてのご質問について、回答を書かせて頂きます。

この部分の引用は不適切かと思います。私の解釈の誤りをご指摘していただくか、「後生に驚きのたった人は、諸善についてどのように向かうのか」を、再度、別の表現でご教示いただけましたら幸いです。

(清森問答  投稿−元自称福徳会員さんのコメント)

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment511

と言うことです。

該当する御文章について、先のエントリーでは以下のように書きました。

「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章)」

自力が妨げになると聞かされても、どうしたら捨てられるだろうかと、求めるのが「いかなる功徳・善根をも修し」です。当然この中には、財施も破邪顕正も念仏も信前の聞法も入ります。

それについて、以下のようにご質問頂きました。

私の解釈は以下のとおりです。

「この頃は世が乱れ、霊験あらたかな寺社に参詣する人は稀である。人間は老少不定と教えていただいたなら、急いでいかなる功徳善根(聖道仏教の修行を含む)をも修して、いかなる菩提涅槃(自力の覚り・諸仏の浄土往生を含む。もちろん、弥陀の浄土往生や化土往生を含む)をも願うべきである。けれども、今の世は末法濁乱の時機とはいいながら阿弥陀如来の他力本願は今の時節にはいよ〜不可思議に盛んなのである。(だから阿弥陀如来の他力本願を求めるべきなのである。)」

私の解釈では貴殿の引用された御文章の箇所は18願の救いを求めて自力が妨げになっている人にではなく、むしろ未だ浄土門に入っていない人に対しておっしゃられたお言葉ということになります。

(元自称福徳会員さんのコメントより)

私が、上記の部分について、前述のような説明をしたのは、あくまでも蓮如上人がご門徒の皆さんに書かれたもの、親鸞聖人の教えを聞いている人に向けて書かれたもの、弥陀の救いを求めている人に書かれたものということで、そのように書きました。

事実、「当時世上」の御文章は、上述の部分の最後からは、早く一念の信心を決定せよと書かれています。

されば、この広大の悲願にすがりて、在家止住の輩に於いては、一念の信心を捕りて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもって宝の山にいりて、手を空しくして帰らん似たるものか。(御文章4帖目3通)

そういうことから言って、私は蓮如上人の「これにつけても、人間は〜」の部分は、そのように書かれているとしか読めません。なので、先に別の言い方であらためて説明を致します。

弥陀の救いを求めている人が

「老少不定と聞くとき」=「無常を知らされる」=「後生に驚きがたつ」ときは、

当然、「早く弥陀の救いにあいたい」「早く弥陀の救いにあって安心したい」というこころが起きます。

そうなると、弥陀の救いにつながると自分で思うものを、ひたすら求め始めます。

それを「いかなる善根功徳をも修し」と言われています。

追加で言えば、「いかなる菩提・涅槃を願う」というのは、どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心を言います。

親鸞聖人の教えをよくよく聞いていれば、もちろん救われるかどうかは、他力の信心一つであり、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂いた時であり、自力が廃った時であり、18願に相応した時です。

その教えから言えば、善が間に合って救われるのではありません。そうは聞いて知ってはいても、どうしても善(自分が善だとおもっているもの)にしがみつくのが人間の自性です。

だから、財施の多いとか少ないとかで救われるかどうかが決まるのではないと、知ってはいても、財施をせずにおれなくなってきます。御文章など、親鸞聖人、蓮如上人の書かれたものを読まずにおれなくなってきます。念仏となえずにおれなくなってきます。仏法聞かずにおれなくなってくるのです。

そういった、私たちの行為の善し悪しで救いが決まるのではないと、どれだけ聞かされてもせずにおれなくなるのが、「いかなる善根・功徳をも修し」と言われているところなのです。

そういう意味で、19願で善を勧められるのも、全く、知らないものに対しては、19願を出す以外の方法がないからなんです。

当然、19願でいわれるところのいろいろな善と救いは関係ないんです。

問題は、気づくのか、気づかないのか、の一点で気づかない人が、圧倒的、すべてと言っていいんです。

そこに気づく人は、稀有なんです。しからば、やってごらんなさい、と言うしかないんです。

王舎城の悲劇で、釈尊が韋提希夫人に定善・散善を勧められているのはその御心です。

弥陀の浄土に往生できる結果が得られるほどの、善ができるはずはないのですが、親鸞聖人が身をもって、と言われても、そこまで、強いうぬぼれが、敗れないんですよ。

どうしても自分が判断している善にしがみつくのが、自性なんですから、ぴんともかんとも、こない人に、釈尊を始め、善知識がたは、なんと言いますか、じゃあやってみろと言う以外、方法がないんです。

親鸞聖人が、出来なかったといわれているのに、自分は善悪が分かる、自分がやる善は往生に絶対関係あると親鸞聖人の頭に立ってるので、

「信楽を受持することは、甚だもって難し、難中の難、これに過ぎたる難はなし」と言われるのです。

そこをつかまえて、お金集めの手段だと、いい始める人もありますが、教えとは違います。

ただし、19願で、その行いで助かる、とは、親鸞聖人も、蓮如上人も言われていません。私も高森先生のご説法をお聞きして、聞いたことありません。

どこにも言って無いんですが、勝手に、思い込んだ人が聞き間違えたということです。

それが、専任講師なのか、会員なのかは、ここでは言及しません。

善悪の判断がつくと、いまだにうぬぼれて、信心とは程遠い世界です。

ここまでは、別の言い方で書いたものです。

では、元自称福徳会員さんの解釈から(コメントより)

一向専念 無量寿佛が真宗の教えであるにもかかわらず、なぜ、蓮如上人は一見、聖道仏教の修行や自力の覚り・諸仏の浄土往生を願うことを勧められるようなことを書かれたのでしょうか?以下の理由が考えられます。どちらか一方ということではなく、両方の理由からだと思います。

1. 当時、比叡等の聖道仏教からの弾圧が激しく、真宗の道俗が生命の危険にさらされていたため、弾圧を和らげるためのスタンス。

2. 「浄土門の教えは宿善深厚の人しか聞くことができない教えであり、そうでない人にいくら聞かせても納得させることはできない。聖道仏教では凡夫は救われない教えではあるが、外道に走ったり、欲にまみれた生活をするよりはましである。彼らにとっては浄土門に入るには今生ではまずは聖道仏教を求めることが必要なのであろう。」という御心。

しかしながら、一見、聖道仏教の修行や自力の覚り・諸仏の浄土往生を願うことを勧められるようなことを書かれた上で、阿弥陀如来の他力本願を求めるべきことを書かれて、目釘を打っておられます。

あくまでも、この部分は、一般的な真宗門徒以外の人のことをさして言われているのであるという解釈をされるのであれば、私はそれでも間違ってはいないと思います。

仏法は対機説法と言われますように、この御文章が全国紙のどこかの1コーナーになっているのなら、元自称福徳会員さんのように解釈できると思いますが、御文章の対象は、あくまで当時のご門徒の皆さんです。

翻って、私に書いてくださったと思った時は

「人間は老少不定」と言われた時の、「人間」とは「私」のことです。

「老少不定」なのは「私」なんです。

そうなった時に、どんな気持ちが起きるかということです。仏法は自らの心に問いかけるものです。

「当時世上」の御文章の後半には、王舎城の悲劇についても書かれています。

アニメ王舎城の悲劇で「外ばかり向いていた、韋提希夫人の目が初めて自らの心にむいた」とありますように、自分の内側になかなか心は向きません。しかし、向かなかったら、「宝の山に入りて、手を空しくして帰る」ことになっては、もったいないことです。

せっかく生まれがたい人間に生まれてきたのは、その宝(南無阿弥陀仏)を頂く為です。

一つのことについてかくのもなかなか長くなってしまい、済みません。

もう一つのコメントについては、また後日書かせて頂きます。

※追記

・「霊仏霊社参詣」と諸仏や権仮の神への参詣について述べてられていること。

・「いかなる菩提涅槃」には自力の覚り・諸仏の浄土往生が含まれると考えられること。

・「いかなる菩提涅槃」の因となる「功徳善根」には諸仏や権仮の神へつかえる五雑行が含まれると考えられること。

・貴殿の引用されたの箇所は阿弥陀如来の本願の言及の前に述べられていること

上記がコメントに追加されていたことを見落としておりました

これについても、一般人の人対象、または、一般の人が読めばそういう解釈でも、意味は十分通ります。

前述しましたが、「蓮如上人」が「ご門徒」に書かれたのが、御文章であり、また読む人も、蓮如上人から、直のご説法だと思ってこの御文章を拝読したなら、私のように読めるはずですし、私はいつもそのように蓮如上人のお言葉を頂いております。