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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-03-30 獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント)

さくらもちさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私の周囲の獲信者は、『機の深信』が立っているのだけは自分でハッキリわかるようです。

「こんな大きな後生の問題、自分の力ではどうすることもできない・・・という事だけはわかった。」と言う人や、

「自分は地獄に行く・・・それは間違いない。」と言った人もいます。

それに対して『法の深信』に関しては(?????)という感じで、ハッキリしないようです。

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110327/1301176303#c1301384980

「機の深信だけはハッキリする」ということはありません。機法二種一具の深信ですから、片方だけというような独立したものではありません。

捨自帰他という言葉を使うと、「捨自はあるけど、帰他はない」といえないのと同じ事です。自力を捨てたということは、他力に帰したことになるからです。

二種深信は、善導大師が仰ったこと*1ですが、教行信証には以下の部分で引文されています。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218

機の深信とはなにかといえば、「罪悪生死の凡夫」とハッキリ自覚することではありません。またそれだけではご文の一部分だけになってしまいます。

大事な部分は「出離の縁あることなし」です。

自らには生死を離れるだけの善根をもちあわせていないので(出離の縁有ることなし)、自らの善根をたのむ自力の心を捨てたというのが機の深信です。

なぜ「出離の縁有ることなし」なのかといえば、自ら生死を離れるほどの善根を持ち合わせていないからです。罪悪生死の凡夫だから生死を離れるほどの善根を現在持ち合わせていませんし、また未来もそんな善根を持つことはありませんが、「罪悪生死の凡夫」を自覚するだけでは、機の深信とはいえません。


善導大師は別のところでは「罪悪生死の凡夫」の部分を「善根薄少*2」と言われています。

「罪悪生死の凡夫」も「善根薄少」も私の姿です。しかし、そう自覚するだけでは罪悪観です。

「罪悪生死の凡夫」であり「善根薄少」だから「出離の縁有ることなし」「三界に流転して火宅を出でず」なのが私です。そうなると、生死を離れるために自らの善根を往生の足しにしようとか、自らの考えをたのみにする自力の心を捨てるということです。

このように自分の持ち合わせている善根(罪悪生死の凡夫ならなおさらありませんが)では生死を離れることが出来ないと、自らの善根をたのむ心(自力の心)を捨てたことを機の深信といいます。


「地獄行き間違いない自己の自覚」が機の深信ではありません。

自らをたのむ自力の心を捨てたということは、阿弥陀仏の本願力に乗って往生定まる身になったことですから、他力に帰したということです。これを法の深信といいます。本願力によって往生定まった(法の深信)ということは、自力の心を捨てた(機の深信)ということです。

私も親鸞会にいるときは、大体以下のような話を聞き、最初はそういうものだと思っていました。

「『機の深信は地獄行き間違いない自己だとハッキリ自覚すること』『法の深信は極楽行き間違いない自己だとハッキリ自覚すること』これは絶対矛盾だが、それが矛盾無く知らされるのが救われた不思議な世界であり、二種深信だ。」

しかし、これは間違いです。二種深信は矛盾ではないからです。二種深信は、真実信心を表されたお言葉ですから、真実信心をあらわされた他の表現を使えば捨自帰他ともいいます。

二種深信が矛盾した表現というなら、捨自帰他も矛盾した表現にならねばなりません。

二種深信が矛盾した表現というのならば、他力の信心を表現されたお言葉は全部矛盾した表現とならなければなりません。

捨自帰他は、捨自即帰他です。自力を捨てるままが他力に帰したということです。他力に帰したということは、自力を捨てたということです。自力の心がないということは、他力の信心ということです。

矛盾した表現ではありません。

お尋ねのなかにでてくる方が実際どのような気持ちでいっておられるかはわかりません。

「自分は地獄に行く・・・それは間違いない。」は、「地獄行き間違いないと自覚すること=機の深信」と理解して言われている言葉の定義の問題だと思います。発言された方がそう思われているのか、さくらもちさんがそのように思われているのかまではわかりません。

「こんな大きな後生の問題、自分の力ではどうすることもできない・・・という事だけはわかった。」については、自力を離れたというお気持ちでいわれているのかも知れません。ただ自力は離れたけど、他力に帰してはいないというのであれば、二種深信や捨自帰他とはいえません。

どちらにしても、阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われることが大事です。

地獄行きの自分を探すのでも、極楽行きになった安心を求めるのでもありません。ただ今救うという本願を聞くことが大事です。

*1観無量寿経疏・散善義浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P457

*2:二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。・浄土真宗聖典(註釈版)P228

2011-02-04 阿弥陀仏に救われるに踏まねばならないステップはありません(メンデ

阿弥陀仏に救われるに踏まねばならないステップはありません(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

罪悪も無常も感じられないとか、真剣になれないとか、あれこれ思う煩わしさから解放されて、楽だと感じたのと、死んだあとのことは自分には分からないので考えても無駄だとわかってすっきりしたということでした。でも、今は、有り難く感じていた念仏を何度唱えても阿弥陀仏に救われる足しにならないと思うと空しく、帰命できない私は阿弥陀仏には救われないのだと悲しく感じます。かたや、白々しく、そんなことにはまったく動じない平気な心もあります。

変な安心感が気になり自分でも少し調べていたら、たまたま藤澤桂珠和上法話集に信罪福心は自力の心だと書いてありました。自分の罪の深さが知らされてその悪果を恐れて阿弥陀仏に救われようと善をする人でなければ自力の心は起きてこないと。ならば、阿弥陀仏が本願をたてられた私の姿をよくよく聴聞させていただいて罪悪観がふかまらないと自力の心も起きてこないと思い、私のする善そのものや感情は阿弥陀様の救いと関係ないけれど、罪悪観は関係あるのではと思いはじめたら、楽な気持ちがなくなってしまいました。自分でもよく分からない心のことですから、やはりもう少し様子をみてから質問するべきでした。(メンデルさんのコメント)

自分の心は関係ないというのは、「自分の心の善し悪しで、信か不信かを論じることはできない」ということです。

もう一つの関係ないとは、メンデルさんがいわれるように「罪悪も無常も感じられないとか、真剣になれない」といった、「自分の心に条件付け」をして「こうなったら信心決定できる」または「近づける」と思うことをいいました。

それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。(御文章3帖目5通・諸仏悲願・浄土真宗聖典(註釈版)P1143

蓮如上人が「わが身の罪のふかきには目をかけずして」と言われています。

これは「聴聞して罪悪観が深まらない」からただ今助からないとか「罪悪が深い私は助からない」と言っている人対して言われたお言葉です。

信罪福心は、自力の心です。ただ、メンデルさんの言われるコメントの言葉を借りますと、「罪悪観がふかまらないと自力の心も起きてこないと思い」というように、「救いの前にいろいろとステップがあるはず」と考えるのも信罪福心です。

もちろん、罪悪観も大事な問題ではありますが、今までそれを気にしておられたメンデルさんにとっては、阿弥陀仏に向かうことの方が大事です。

救われるに踏まねばならないステップはありません。阿弥陀仏の浄土バリアフリーです。ただ今救う本願です。

最後に質問するのに、「こうなってから」ということはありませんので、思ったことを気軽に仰って下さればいいと思います。


追記

メンデルさんがコメントに書かれた藤澤桂珠和上の本というのは、「藤澤桂珠和上法話集第二集」でしょうか?

p57 「信罪福の信心と他力信心」にあった記述のことかと思いましたので、追加でお尋ねします。

己の罪の深さが知れるとどうなるかいうたら、こりゃあ地獄行きじゃという事になるんです。

地獄行きじゃという事になると、こりゃ何とかせにゃいけんという計らいが起こってくるんです。(藤澤桂珠和上法話集第二集P57より)