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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-04-05 雑行を捨てるというのはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

雑行を捨てるというのはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

御文章を読んでいると、雑行を捨てよとありますが、どうやって捨てればよいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏は第18願に報いて現れた報仏ですから、こちらから加える行はありません。

それについて御文章では以下のように書かれています。

南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。(御文章五帖目八通・五劫思惟

阿弥陀仏は「雑行を捨てて、一向一心に弥陀をたのむ衆生を救う」という第18願を建てられて、南無阿弥陀仏となられました。

f:id:yamamoya:20110405050657p:image:left雑行を捨てるというのは、左図のように阿弥陀仏の本願に欠けている部分を自分で埋めようとする心を捨てるということです。

自分が救われないのは、何かが足りないからだと考えて、その空白を善や念仏を称えた功徳で埋めようとするのが雑行です。

「何かを足さなければならないのではないか」「自分に欠けているものがあるから阿弥陀仏は助けて下さらないのではないか」との考えは間違いです。そして、欠けている部分を一生懸命埋めようとするのも間違いです。

自分で何かを足さないと助けられない本願であったら、本願そのものがそのまま救う本願ではないということになります。

御文章に「南無阿弥陀仏と成りまします」と言われています。五劫思惟の願と行によってすでに南無阿弥陀仏となって下さっているのが阿弥陀仏です。私を助けるために、欠けているものは一つもありません。

欠けている部分を想定し、雑行を加えて何とかしようとしても絶対に、空白は埋まりません。

f:id:yamamoya:20110405050658p:image

なぜなら南無阿弥陀仏に加えるものは何も無いからです。油で一杯になっている器に水を加えようとしても、水は油の中に一滴も入れることはできません。混ざることもありません。

南無阿弥陀仏を油にたとえると、自力の信心、自力の行という水は一滴も入れることは出来ません。それは捨てねばならないので、雑行を捨てよと言われています。

元々欠けていないところに、何かを加えようとするから絶対に入りません。何かを加えようとして出来ないと悩むよりも、早く南無阿弥陀仏を聞いて救われて下さい。

2011-03-12 「そのまま」は「何もしない」ではありません

「そのまま」は「何もしない」ではありません

前回の補足エントリーです。

「そのまま」は「何もしない」ではないんですよね。(でんさんのコメントより)

蓮如上人は、雑行をすてて弥陀をたのめと仰っています。

何もするなと言う言い方はされていません。

夏御文章(げのごぶんしょう)は、蓮如上人が84歳の時にご制作されたものです。

そのいはれをただいま申すべく候ふ。御耳をすまして*1よくよくきこしめし候ふべし。

 それ安心と申すは、もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、今度のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申し候ふなれ。(夏御文章1通・浄土真宗聖典(註釈版)P1211)

「なにかをしたら」「しなかったら」というのは、そのような自らの知恵を持って往生の足しにしようという心です。自らの分別、智慧という「行」をもって、救われようというのですからこれも雑行です。

上記の文章の後に

されば聖人親鸞)の『和讃』(正像末)にも、「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり」(三五)

とご和讃を引用されています。私の智慧や計らいで救われるのではありません。「法蔵願力のなせるなり」です。阿弥陀仏の本願力によって救われるのです。

雑行をすてて、必ず救うという阿弥陀如来の救いにまかせるのが、「後生たすけたまへと申す」ことです。

「雑行を捨てたぞ」「だから助けなさい」というものではありません。

「そのままなんだから、こちらはなにもしないぞ」というのも、それはわがままであって、そのままではありません。

手助けも、条件もいらない南無阿弥陀仏で救われます。

*1:御耳をすまして・・余念をまじえずに。専心に。

2009-07-21 子供が神社の祭りに行かねばならないときはどうするか?(フーテンの

子供が神社の祭りに行かねばならないときはどうするか?(フーテンの虎さんのコメント)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

実はわたしには小学一年の息子がいます。

年一回、地元で神社主催の祭りがあり、それに出なければ友達からいじめにあうかも知れません。どうすればいいでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090719/1248003174#c1248060401

結論からいいますと、行事に参加するかしないかは、自由です。

理由は、平太郎の熊野参りと同じです。

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)

と、親鸞聖人は、熊野へ行くかどうかを訪ねた平太郎にいわれました。

あくまでも私たちが、阿弥陀仏に救われ、浄土に往生するかどうかは、一向専念無量寿仏以外にはありません。外の諸仏や菩薩や諸神の力によって、浄土往生できるのではありません。

小学一年生の息子さんですから、どこまで仏法のことを理解されているかわかりませんが、今回のことをご縁に、阿弥陀仏と、神社の神の違いを話されたらよいのではないかと思います。

問題は心のことです。体が一度でも、地元の祭りに参加したら阿弥陀仏に救われる事はないというのであれば、仏法とご縁がある前に地元の祭りで御輿を担いだり、初詣で神社に賽銭を投げたことのある人は二度と助からないということになります。

地元の子供がみな参加する行事ならば、その地域の子供はみな今後も阿弥陀仏に救われる事はないということになります。しかし、そういうことは阿弥陀仏の救いには関係ありません。

助ける力が阿弥陀仏以外にない、ということと、阿弥陀仏以外に向いたことの有る者を阿弥陀仏は助けてくれないということとは違います。

自身も知人も、ご利益があるから神社へ行け、諸仏に参ってこいと勧めているのではありません。神社や、諸仏に参拝することは、阿弥陀仏の救いと無関係なので、積極的に勧める必要はありません。

阿弥陀仏の救いの足しにしようという心で、祭りに出たり、賽銭をなげるということならば、これは雑行でありますから、やってはならないことです。

私たちを助ける働きがあるのは、阿弥陀仏以外にないのですから、一向専念無量寿仏は往生の肝腑であることを、親子で話をするご縁にすればよいのではないかと思います。

体が神社の祭りに参加したら、息子さんが阿弥陀仏に助けてもらえなくなると思われての心配ならご無用です。そんな阿弥陀仏なら、十方衆生は救えませんし、親鸞聖人も平太郎に熊野行きを許可されません。

大事なのは心です。一向専念無量寿仏が親鸞聖人の教えですから、阿弥陀仏一仏に向かって下さい。

2009-05-24 メールで頂いた質問と、maryさんのコメントに回答しました

菩提心とはどんなものか(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。

質問お願いします。

(1)上記『何とか弥陀の浄土に生まれたいという最初の心を菩提心ともいわれ』とありますが、本人にはっきり「今菩提心が起きた(最初の、と書かれているので)」と自覚が起きるということでしょうか?

(2)『何とか弥陀の浄土に生まれたいという心』の起きた人は、そのとき「ここ一つ聞き抜かねば」とのど真剣な心も起きるということでしょうか?

そういう心が起きたつもりであって、実際は起きていないという場合もあるのでしょうか?

(3)『何とか弥陀の浄土に生まれたいという心』の起きた人でないと、今救っていただく事はできないのでしょうか?(そういう心が起きた人が救われるのでしょうか?)(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1243005329

回答いたします。

(1)(2)については、「菩提心」の定義について、もう少し詳しく解説をすると分かっていただけるのではないかと思います。

「何とか弥陀の浄土に生まれたいという心」のことを菩提心といいましたが、広い意味で、親鸞聖人の教えを聞き、続けて聞法している方にはこの心はあると思います。

抑、当流勧化の趣をくわしく知りて、極楽に往生せんと思わん人は、まず他力の信心ということを存知すべきなり。(御文章5帖目22通・当流勧化)

このようにいわれる「極楽往生せんと思わん人」とは、浄土真宗の教えを知って、「どうしたら救われるのか?」という心の起きた人のことです。その人に対して「他力の信心と言うことを存知すべきなり」といわれています。別の言葉で言えば、他力の信心を獲得しなさいと言うことなのです。

この「どうしたら救われるのか?」と、真剣になる人には、雑行雑修自力の心が問題になってきます。

ですから、菩提心とは、「どうすれば雑行雑修自力の心が捨てられるか」と問題になるということです。問題になると言うことは、「雑行が何かわからない」ということはありません。

問題になれば、自覚がないということはありませんし、起きたつもりで起きていないということはありません。

(3)については、「雑行雑修自力の心がなくならないと、助からないのでしょうか?」という意味の質問でしたら、その通りです。

問題は、菩提心を起こそうとするのでもなく、雑行を見つけようとするでもなく、阿弥陀仏にただ今救われるかすくわれないかを問題にするということです。

2009-05-23 雑行と諸善万行の関係と信仰のバロメーターについて(花さんのコメン

雑行と諸善万行の関係と信仰のバロメーターについて(花さんのコメント)

花さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ご回答有難うございました。私がどうしたら救われるかが大事だと教えて頂きました。私が救われるには雑行をすてなければなりませんが,五雑行は捨てています、しかし諸善万行はどう捨てればよいのでしょうか?諸善万行を捨てるということは善を捨てると言うことだと理解していますが、善をどうすてればよいでしょうか?(花さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242899191#c1242947084

私はS会で長年求道してきましたが、求道のバロメーターとして深信因果を教えられ、廃悪修善の気持ちが強いほど求道が進んでいる。つまり善果がきた時は感謝し、努力する。悪果がきた時は懺悔し、こんな結果が二度と来ないよう努力する、感謝と懺悔の気持ちが強い人ほど求道が進んでいる。と聞かせていただきましたが、求道が進んでいるかどうかの判断は何によってきまるのでしょうか・・?(花さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242899191#c1242947860

回答します。

最初の、雑行をすてるとは、善をすてる(しない)とは違います。

それ、弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころを懸けず(御文章2帖目2通・すべて承引)

このようにいわれています。「諸善・万行にこころを懸けず」のであって、「諸善万行をせず」ではありません。

逆にいいますと「諸善・万行にこころを懸ける」上でする諸善が雑行であって、諸善そのものをさしていわれているのではありません。

「諸善・万行にこころを懸ける」とは、自力の心です。

身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。(末灯鈔)

自力とは、親鸞聖人がいわれるように、体、口、心の乱れを整えて、立派にしてそのことによって浄土に往生出来るだろう、浄土往生の足しになるだろうと思う心を自力といいます。

「諸善・万行にこころをかける」とは、自分のする諸善が往生の足しになる、早く助かるためになにか役に立つと思う心です。その心を捨てよといわれるのが、「諸善・万行にこころをかけず」といわれているところです。

私がただ今阿弥陀仏に救われるのは、全く阿弥陀仏の力によるのですから、私たちのやる善が往生の足しになるのではありません。

「諸善万行をすてよ」ではなく、「諸善・万行にこころをかけず」です。それを「雑行を捨てて」といわれているのです。どうすれば捨てられますかということについては、御文章にあるように「弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて」なのです。

次に、求道が進んでいるかどうかは、浄土真宗では問題になりません。

阿弥陀仏の本願は、ただ今南無阿弥陀仏を与えて死ねば往生浄土させるというお約束であって、「求道を進ませる」という本願ではありません。

親鸞聖人も、蓮如上人も「一日も片時も急いで信心決定せよ」とはいわれても、求道が進むようにしなさいとはいわれていません。

「廃悪修善の気持ちの強弱」を問題にして、「どれだけ善をするようになったか、どれだけ悪をしないようになったか」を問題にするのは「罪の有る無しの沙汰」と蓮如上人がいわれるものです。

罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。(御一代記聞書)

罪悪(善悪)がどれだけあるかを問題にするより、信心獲得したかどうか、ただ今弥陀に救われるかどうかを問題にしなさい、沙汰しなさいといわれています。

このようにいわれるのも、親鸞聖人がこのようにいわれているからです。

罪福ふかく信じつつ

善本修習するひとは

疑心の善人なるゆへに

方便化土にとまるなり(正像末和讃

罪福深く信ずるとは、花さんの質問の言葉で言えば因果の道理を深く信じて、罪を恐れ、罪を作らないようにしよう、福をもとめて、善いことをしようとする人のことです。そういう人は、「善悪が往生と関係有る」という心が離れないので、その上で念仏称えていても、疑心の善人であり、疑情(自力)がなくなっていませんから、浄土には生まれることはできないのだといわれています。

仮に深信因果で、廃悪修善に励む人があったとしても、その善根で浄土には生まれることは出来ません。浄土に生まれることはできないということは、信心獲得できないということであり、ただ今弥陀に救われることはないということです。

阿弥陀仏も、お釈迦様も、親鸞聖人も、蓮如上人も、「化土へ生まれよ」とはいわれていません。「弥陀の浄土へ往生せよ」「信心獲得せよ」といわれています。

もちろん因果の道理を深く信じ、廃悪修善につとめることはとても大事なことです。それは信前信後通して大事なことなのです。

ただ、信心獲得と、廃悪修善の心の強弱を関係づけることはできません。求道が進むかどうかではありません。ただ今阿弥陀仏に救われるかどうかが問題なのですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-05-17

雑行をすてて弥陀をたのむのが信心です

Kさんよりコメントを頂きました。

しかし、今、今、といいながら月日が流れてしまっています。知らされることは色々ありますが、それを積み重ねて救われるのでもないですし、やはりまだ何か足りないのではないかとか今はまだ無理とかの思いがどうしても出てきてしまいます。それは今の救いではないからとそういう思いは抑えるようにしてはいるのですが、これを続けていくしかないのでしょうか?

(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090515/1242351016#c1242399189

回答します。

弥陀の救いに対しての心は、「ただ今の救いだからただ今救われる」という以外にはありません。

「どうしたら」という質問に対してこたえられた御文章には、「雑行をすてよ」「弥陀をたのめ」と繰り返しおしえておられます。

一番よく読まれているのは聖人一流の章です。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。(御文章5帖目10通・聖人一流)

親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏より賜る真実信心一つで救われる教えです。それは、もろもろの雑行を投げ捨てて、一心となり阿弥陀仏に救われれば、阿弥陀仏の願力によって、浄土往生が定まるのだといわれています。

雑行を棄てるかどうかが問題になれば、それからが求道の終わりの始まりです。

正雑二行の沙汰をする(御文章3帖目12通・宿善有無)

とは、雑行が問題になりそれを捨てるか捨てないかという沙汰です。それを信心を取りたるか取らざるかの沙汰といいます。

自今已後は、かたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり。(御文章1帖目12通・年来超勝寺)

信心の沙汰をしなさいといわれていますが、こちらにメールやコメントでも思うところを書いていただければお答えいたします。

2008-11-16 なぜ雑行がわからないのか。

なぜ雑行がわからないのか。

迷う旅人さんへからコメントを頂き有り難うございました。

もう少し時間が欲しいと言うことでしたので、迷う旅人さんからのコメントについては、明日以降また書かせていただきます。

なにか気持ちの整理ができて、思われることがあれば、またコメントをお願いいたします。

雑行雑修自力の心について、何度か書いていますが、雑行がなかなか分からないということは、今まで私も耳にしてきました。

今回はその理由について、書きます。

親鸞聖人

「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦雑行を棄てて本願に帰す」(教行信証)

と言われるとおり、雑行を棄てねば、本願に帰することはできません。

それほど大事な雑行が、なぜ分からないのでしょうか。

何回も聞いたけど、今ひとつピンとこないと言う方も多いと思います。

雑行と言っても、これは概念上のなにかの定義ではなく、自分自身がもっているものですから、自分自身感じられるかどうかが、第一歩です。

三平方の定理を実感することはないでしょうが、雑行は実感するものです。

では、なぜ実感をすることがないのかといいますと、阿弥陀仏の救いに心がかからないからです。

「自分は真剣に求めている」という人も多いでしょうが、現在、ただ今救われるという弥陀の本願に心がかからないということは、現在救われると思っていないと言うことです。

阿弥陀仏に救われる、信心決定すると言うことは確かに、昿劫多生の大問題です。

大問題だからこそ、現在解決しなければ、解決するときはありません。

大問題であると言うことと、時間がかかるということは、全く異なります。

これが世の中で言う「大事業」と、「往生の一大事」「後生の一大事」の全く異なるところです。

「後生の一大事」「往生浄土の一大事」は、一念で解決されるものです。

一念とは「信楽開発の時尅の極促」と親鸞聖人が言われるように、言葉にかからない、短い時間の極まりを言います。

ですから、一念で解決できると言うことは、信心決定するのに時間はかからないと言うことです。

それなのに、「信心決定するには、「まず真剣に聞かねば」」と思う人がおおくあります。

真剣に聞くことは大事です。しかし、「まず真剣に聞かねば」助からないのではありません。これは、時間の長さでいっています。

「まず真剣に聞く」という時間の経過があって、そのあと救われるのではないということです。これは、一念の救いに、時間的な幅を自ら規定する心です。

その心は、どういう心かというと、「昿劫多生の大問題が、そんな一念で解決できるはずはない」という心です。

その心と向き合わないから、「まず真剣に聞いてから」「まず○○できるようになってから」と、弥陀の救いに自分で時間的幅をつくっていることにも気がつかないのです。

その一念の救いを否定する心を、雑行とか雑修とか、自力の心と言われるのです。

真剣に弥陀の救いを求めると言うことは、一念の救いを求めると言うことであり、それは、そのまま、いま現在救われるということがあると思う心なのです。

「どうせ、そんなにすぐ救われない」という心を凝視することが大事です。

2008-08-18 善とはこういうものだと決めてませんか?

善とはこういうものだと決めてませんか?(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。

(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080816

お忙しい中、雑行についてコメントいただきましたので、思うところを解答いたします。

雑行の話しという以前に、善悪の話しを書かねば鳴らないと感じました。

その前に雑行についてですが、

したがって、「雑行をすてよ」というのは文字通り、「後生の一大事を解決しようとして行う善そのものを捨てよ」と言うことと解釈すべきです。

と解答していただきました。

「自力の心を捨てよ」や「心を捨てよ」と書かれた根拠はどのように、解釈されているのでしょうか?

「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。」(領解文)

「雑行・雑修・自力の心」は、別物ですか?

人間は五十年・百年のうちの楽なり、後生こそ一大事なり』と思いて、もろもろの雑行をこのむ心を捨て、或はまた、物の忌わしく思う心をも捨て、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて(御文章1帖目10通 吉崎)

ここに「雑行をこのむ心を捨て」とありますが、これは何を捨てよと言われているのでしょうか?

一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、深くたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心を捨て(御文章2帖目1通 御浚え)

「雑行を修する心を捨て」と言われていますが、これは何を捨てるのでしょうか?


無常迅速・罪悪深重の私たちは一刻も早く雑行をすてる必要があります。いくら「雑行をすてよ」と言われても捨てられないのが私たちです。

そこで、「雑行=善」と思っておられる、貴殿は、「善」とは何をさして言われているのでしょうか?

どうも善悪の定義が、自分自身のなかでがんとしてあるようにお見受けします。

そもそも、「善をしなければ善因善果でよい結果が来ませんよ」と言うのには聞いてあきます。親鸞会で言うところの最高の善であるはずの財施や破邪顕正を一生懸命やっている専任講師や会員さんほど貧乏になり、病気がちになり、精神的にも病んできているではないですか。

これも

「財施」=善、

「貧乏」=悪、

「病気がち」=悪、

「精神的に病む」=悪 と決めつけて書いています。

貧乏=悪ならば、経済的に恵まれていない人に失礼です。

病気がち=悪 ならば、体の弱い人に失礼です。そんな単純に割り切れるものでしょうか。

自分で「これは善」「これは悪」と、固く信じているものがあるのではないでしょうか?

「雑行=善」というなら、その「善」が何か、分かっているのでしょうか?

人間の知恵では、善悪と言ったところで相対的にしかとらえられません。

人間が「これこそ善」と思えるものは、立場をかえると変わっていくものです。

「善悪の二つ総じてもって存知せざるなり」(歎異鈔)

親鸞聖人がいわれているのも、その為です。

仏さまではないのですから、善悪はわかりません。

別の言葉で言えば、貴殿が「これが善」「これが悪」と思っているような善悪はないのです。

それなのに、非常に雑行や善といわれるものについて、簡単にというか、簡略化して理解をしているのではないと思います。

「(自分で思っている)善で助かるのではない」

「(自分で思っている)善で助かろうとするのではない」

上記のような理解ではないかと思いました。

財施をしたら貧乏になるのではありません。間違った財施に結果的になっているから、経済的に困窮するのです。

財施には、(貴殿が思っておられるような)善も悪もありません。

2008-08-16

教え(弥陀の救い)は知識が指し示す先にある(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有り難うございました。

「高森先生が如何にうそつきかを列挙せよ」とのリクエストがあればそうしますので教えてください。

何度も申しましたが、教えというのは属人性のものではありません。教義は、あくまで親鸞聖人の書かれたものにあり、本願は阿弥陀仏の建てられたものです。

特定個人の言動をとらえたとしても、元自称福徳会員さんのいう「うそつき」というのは、信仰のことなのか、それとも経営判断のことなのか、あるいはその両方を混同して言っているのではないかと思います。

「高森先生がうそつき」だから、親鸞聖人の明らかにされた真実信心、弥陀の救いがウソになるんでしょうか。

貴殿はそのように思われたから、そう思っているのでしょう。そういうものを善知識だのみといわれるのです。

「あいつはウソをついたから、真実信心であるはずがない」というのは、

「三業」で「信心の有無」を判断していることになるのですが、どうでしょうか?

「三業」と「真実信心」は全く関係ありません。

ただ、その当事者が三業で行ったことが、現在の法律に照らし合わせて、違法行為が罪に問われないという意味でないことは当然のことです。

『「善の勧め」は、これは、因果の道理が根幹にある仏教では大前提の話です。』とありますが、貴殿の言われているのはこの世の幸福を求めてのことなのか弥陀の救いを求めてのことなのか不明です。

「弥陀の救い(弥陀に救われるかどうか)」と「善」は関係ないと何度も書いています。

「あなたが善と思っているもの」を行えば、それに応じた結果が返ってきます。

弥陀の救いと結びつけるものではありません。

この世の幸福と言われますが、それがなければ生きてはいけません。

ですが、「この世の幸福」=「弥陀の救い」でないことは、元自称福徳会員さんが言われるとおりです。

救われるために教えなければならない教えであるならばなぜ、両聖人は教えられなかったのでしょうか?

弥陀に救われ、振り返れば分かることと何度も書いています。

視点を変えてください。

特に親鸞聖人の著作に関して言えば、信後の立場から書かれているものがほとんどです。教行信証の御文も、信後(縦の線の左側)から言われていることがほとんどです。

「救われるために」(私がやらねばならないこと)は、一切ないから、他力信心というのではないですか。だから教えられていないのです。

信後の立場から言えばそれは当然です。

そこにこだわるのは、何かしなければならないという思いが貴殿にあるからではないでしょうか。それを自力の心というのです。

じゃあなぜ、信仰求める人が必死に求めているのか?

信後振り返れば、それは「阿弥陀仏が」十九願力で誘導してくださったのだなと知らされるところです。


『「教えをねじ曲げてでも」というのは、どうでしょうか。親鸞会発行の書籍にそうあったら教えて下さい。』とリクエストがありました。清森問答の親鸞会教義の相対化をご覧ください。

あらためて読んでみましたが、「善をしたら救われる」とはどこにもないようですが、私の読み間違えでしょうか?

顕正新聞の幹部の声は根拠にならないと思います。

「財施を勧める=悪いこと」という主張だと受け取りましたが、善悪をつける心を自力というのです。

弥陀の救いということからいえば、関係ないからです。


会計報告と言えば親鸞会はこれだけ批判があがってきているにもかかわらず、いまだに会員さんに開示していないようですね。よほどひどい、内容なのだと思います。表向きは廃悪修善を謳っている団体が会計報告もまともにできないことについて貴殿はどのように思われるでしょうか?

経営判断についての苦情ですね。

以前のエントリーで、経営判断上のことは苦情が出れば直ちに改めるべきでしょう。

教義に明るいから、経営に明るいのではありません。法律に明るいのでもありません。

スポーツの世界でも、名選手と言われる人が、経営者になれないのと理屈は同じです。

「善が救いと関係あるはずがない」と力むのもまた自力だということを、追記しておきます。

2008-08-14

関係ないこととはどういうことか(元自称福得会員さんのコメントより)

元自称福得会員さんへ

コメント有難うございました。

(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080813/1218623901#c1218637910

真実信心と、経営判断の関係について理解していただけた部分もあれば、やはり混同されている部分もあるようなので、補足してエントリーします。

『「善ができると思う心があればやってみなさい」と19願に教えている』とか『19願の軌道に乗せる』とか「未信のものは方便が分からない」とかあたかも善の勧めと教義とが関係があるような説明をされ、しかも、反論させていただくたびに答えがコロコロ変わるので理解できずにいました。

ここでいう「教義」とは、「弥陀の救い」のことでしょうか?

「善の勧め」は、これは、因果の道理が根幹にある仏教では大前提の話です。

「弥陀の救い(それで救われるかどうかが決まる決定的要因)」とは関係ないです。

しかし、「教義(因果の道理)」とは、関係があります。というか、教義から出ているのが善の勧め(廃悪修善)です。

何度もいいますが、19願は、「阿弥陀仏」の願です。「私たち」の願ではありません。

「善ができると思う心があればやってみなさい」とやらせるのも阿弥陀仏なら、「19願の軌道に乗せる」のも阿弥陀仏です。

「如来の諸智を疑惑して

 信ぜずながら なをもまた

 罪福深く信ぜしめ

 善本修習すぐれたり」(正像末和讃

と、親鸞聖人「罪福深く信ぜしめ」と言われているとおりです。阿弥陀仏の19願、20願の願力によるのです。

阿弥陀仏の願力によって、「させられていた」と「振り返って」知らされることなのです。

だから

「未信のものは方便がわからない」と言ったのです。

それを、関係があるように思ったのは、元自称福得会員さんであって、上記の改めて書いた文章をよくお読みになって、それでも「善の勧め」と「弥陀の救い」は関係あると言われるでしょうか?

そんなつもりで書いたことはただの一度もありません。関係づけようという心があるから、そのようにしか読めないのです。それを自力の心と言われているのであって、それを捨てよと言われているのです。

弥陀の救いに何か必要なものがあると思っておられないでしょうか?あったら、本願に誓われています。


親鸞会は高森一族とその側近の繁栄のために聖人の教えを捻じ曲げてでも人集め・金集めをするという経営方針であることを理解しました。

「教えをねじ曲げてでも」というのは、どうでしょうか。

親鸞会発行の書籍にそうあったら教えて下さい。以前のエントリーに書きましたが、構成員がこういった、あぁ言ったというのは、教義の根拠にはなりませんし、教義はそももそ親鸞聖人のかかれたものにあるのですから。


高森先生の御説法や親鸞会の信心の沙汰とは迫力、レベルが全く違います。信心の沙汰においては私は全く太刀打ちできませんでした。大リーグの試合と少年野球の違いのようです。親鸞会ではうその中傷を流すくらいしか対抗手段がないのだと納得しました。

その団体を構成している人が、親鸞会と傾向が反対だからそう思われたのかもしれませんね。

極端に書くと、親鸞会にいるひとには、教義安心の人が多いです。いわゆる「わかったのが信心」という人たちです。

一方、元自称福得会員さんが行かれた場所は、「体験安心」の人が多いです。いわゆる「なにか体験したのが信心」という人たちです。

どっちも、真実信心になっていなければ、その人自体は未だ親鸞聖人と一味の安心ではないのです。

どちらで求められようと、教義は親鸞聖人の書かれたものにあり、真実の信心はあくまで弥陀より賜るものであることをよくよく知っていただきたいと思います。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故は、もろもろの雑行を投げ捨てて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として仏の方より、往生は治定せしめたもう。(聖人一流の章)

師匠をかえたら、団体をかえたら、信心が得られると思われてのことならば、それは心得違いです。

求道において戦うべきは、あくまで、曠劫から迷わせ続けた自力の心であり、阿弥陀仏を泣かせ続けた疑情であり、無明の闇なのです。

組織でもなければ、わたし山も山でもありません。

求道は、自力の心が廃るか、無常が先かの競争です。一日も片時も急いで、信心決定の身になられることを念じます。

私自身は、名もなき念仏者であって、親鸞会という団体の利益の代弁者ではないということを、最後に追記しておきます。

現在の所属によらず、親鸞会の会員でも、元会員でも、別の団体に入っている人でも、浄土真宗の教義安心で、不明な点、信仰上の解決しない問題があれば、いつでもコメントをいただければお答えいたします。

2008-08-13

教義(真実信心)と、経営判断の関係について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント遅くなりすみませんでした。

お尋ねの件について回答いたします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080811/1218449277#c

1.18願の救いを求めている真宗門徒に対し、18願に救われるために善の勧めはあるのかないのか?あるのであれば聖人のお言葉をお示しください。

以前もお答えしましたが、「救われるために」する善はありません、よって勧めもありません。

間に合うような善はありませんから、

「いづれの行も及び難き身」と歎異抄に書かれているのです。

2.最近の清森問答での清森さんの証言にあるように(そうでなくてもある程度のレベルの会員さんは当然ご存知のことです)、親鸞会の講師は破邪顕正・財施の厳しい目標が与えられ、それが、一般会員にも降りてきます。目標を決めるのは当然会のトップである高森先生です(少なくとも私はよく「会長先生から与えられた目標」と言う言葉をよく聞きました。)。したがって、厳しい目標を課しているのは構成員ではなく、教団のトップです。さて、このような厳しい目標を課す目的はどのような教義からなのでしょうか?また、それが高森教の教義ではないと言うのであればそれを正当化する親鸞聖人のお言葉をお示しください。

教義と、経営は別物です。

別の言葉で言えば、「真実信心」と「教団の運営方針」は、必ず一致するものではありません。

組織を作られなかった親鸞聖人、組織を作られた蓮如上人

巨大な道場は建てられなかった親鸞聖人、巨大な道場を建てられた蓮如上人

権力者を徹底的に嫌われた親鸞聖人、四女を足利義政に差し出しその妾にした蓮如上人

浄土真宗の人ならば、誰もが善知識と仰ぐ親鸞聖人と蓮如上人は、その布教方法や性格は、大変異なっていました。

では、このお二方の信心は違っていたのかというと、同じです。

阿弥陀如来から賜る信心ですから、どんな人でも一味になります。

今日で言えば、自称福徳会員さんが行かれたという、華光会と親鸞会では、その運営の仕方は異なります。

もし、自称福徳会員さんが、華光会の代表者の信心が、真実信心と思われるとして、それを団体の運営と関係づけておられるのならそれは違います。

いわば、その個人の分かりやすく言えば「性格」です。あるいは「嗜好」と言ってもいいでしょう。

目標設定というのは、これは「教義」ではなく、「運営上の経営判断」の問題です。それが優れているかどうかはまた別の話で、「真実信心を獲た(と思われる)人の、発言、判断」は、すべて真実信心のなせる技なのでしょうか?

説法、布教、あるいは教義上の質問に対する答えならば、「さすが真実信心を獲た人だ」と思うようなこともあるでしょうが、教義上の間違いはただの一度も犯さないということはありません。

親鸞聖人でさえ「我あやまてり」と仰有っています。

目標を設定するということがいいのか、悪いのか、それは、それを受け取った人によって、判断は分かれるところでしょう。教義のことではありませんから、是非を論じても終わりはありません。

ただ、「そういう経営判断」だということです。

その経営判断が、いいか悪いか、どんな企業のトップでも、間違いは犯します。

また時代によっても、その判断は、いろいろと変わっていくものです。

教義はあくまで、お聖教の中にあるものだと前のエントリーで書きました。

その教義の通り弥陀に救われた体験のある人でも、布教する手段も方針もみな異なると言うことです。

親鸞会のすること、考えを、代表者の信仰となにかと結びつけるのは、真実信心を、超能力かなにかと勘違いをしておられるからではないでしょうか。

「有漏の穢身はかわらねど こころは浄土に遊ぶなり」

親鸞聖人言われるとおりで、弥陀に救われたといっても「有漏の穢身」は何も変わりません。

ということは、「性格」も「嗜好」も何も変わらないのです。

「お金が好き」な人は、お金が好きなまま変わりません。

「人から褒められるのが好き」な人は、そのまま変わりません。

「盗みをはたらく」人は、そのまま変わりません。(法然上人時代の耳四郎がそうでした)

自称福徳会員さんのいわれる「高森教」という批判には、「教義」も「信仰」も「性格」も、いろいろと混ざっているので話しがわかりにくくなっている感じがします。

「教義」「信仰」と「性格」「嗜好」「判断」は別物です。

救われたら、性格が変わる、嗜好が変わる、判断が優れるようになるという教えが浄土真宗の教えではありません。

「経営判断がおかしい」=「信仰がおかしい」「教義がおかしい」とは言えないのです。

もし言えるのなら

「経営判断が正しい」=「真実の信仰」「教義が正しい」

ということになります。

ただ、教義の分からない人が、教義と結びつけて、教えまでおかしいと思うのは、とても残念なことです。

2008-08-11

教義は、お聖教にあるもの(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメントを頂き有難うございました。

(全文はこちら 

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080809/1218236880#c1218282737

日本に帰ってこられたとのことで、お帰りなさい。

以上のことから以下に結論付けさせていただきました。

・「高森教のために人集め・金集めをすれば、やがて19願の軌道に乗せていただける」と言うのは親鸞聖人のみ教えにはなく、あくまで高森教の教義である。

もちろんそんなことを言えば、浄土真宗の教えではありません。

そんなことを言う人もあるようですが、日頃の御法話等では、そのように聞いたことはありません。

親鸞聖人

「諸善万行ことごとく

 至心発願せるゆえに

 往生浄土の方便の

 善とならぬはなかりけり(浄土和讃)」

と教えておられます。

「往生浄土の方便の善」となるのは、「至心発願せるゆえに」とあるとおりで、あくまでも阿弥陀仏の願力のはたらきによるもので、「人集め、金集めをすれば、19願の軌道に乗せていただける」といわれているのではありません。

ただ、そう思っていない人の存在までは否定しません。

親鸞聖人のみ教えと高森教のGapを聖人のお言葉で埋めることができないので、本来は別の意味で書かれた「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」のお言葉を根拠とし、「未信のものは方便は分からない」と高森教では教えている。

そのように思われるかたもあるでしょうが、真実わかってこその方便です。

以上の結論に対し山も山さんの反論(あるいはその他の方のご意見・反論)を待ちます

反論といいますか、「高森教」というものは、私は本来あってはならないという立場です。

親鸞聖人のみ教えと、違っていたら「浄土真宗」親鸞会という看板は下ろさねばなりません。

財施や破邪顕正を、救いと関連づけて、「○○したら、早く救われる」という説き方は、親鸞聖人も蓮如上人も言われていないことです。

元自称福得会員さんの、納得できるような言い方をするならば

「善を捨てよ」(もちろん、悪にほこれば救われるという意味ではありません。念のため)

歎異抄のお言葉で言えば

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」

と言われているとおりです。

上記のようなお言葉から、浄土真宗は悪人製造の教えといわれてきました。

誤解を正すと言うことは、「悪人製造の教えでない」と強調することになりますが、それが結果として「善往生」が親鸞聖人の教えだと、誤解する人が出てくることもまた事実です。

教義と、その団体にいる人間との間にあるギャップというのは、歴史が長くなればなるほど大きくなる傾向があります。

かの本願寺にしてみても、「念仏唱えたら助かる」と本気で思っている勧学はいないでしょう。

しかし、全国にあるたくさんの末寺や、末寺の住職がご門徒の皆さんに言う言葉には、「念仏唱えたら死んだら極楽」と言う人が現実問題としています。また、兼業の住職の中には、そういう人も多いです。

そういった構成員の言動をもってすべてを判断することはできません。

「末寺の住職の教えの理解」=「本願寺の学者の理解」ではないからです。

教義とは、あくまで親鸞聖人の書かれたものにあるものが、教えであって、「構成員の言動=教義」なのではありません。

そういう意味から言うと、「高森教」といって高森先生が説かれたことはありませんが、「高森教の信者」というべき思考形態をとっている人がいないとはいいません。

ただ、そういう人の言動をとらえて「高森教」というものがあるかのようにいわれるのもわかりますが、実際そういう教えがあるわけではありません。

最初の、「金集めをすれば、19願に乗れる」という教えがあるのかということでいいますと、そういうことがテーマで書かれている「本願寺なぜ答えぬ」をあらためて読んでみると。

どうすれば、晴れるのか。どうなったら、満足できるかと、前進せずにおれないままが、誘引されてる、相である。

 やがて、弥陀の狙いの十八願、無碍の一道まで、誘導されるのだ。(本願寺なぜ答えぬ)

とあります。

願力に誘引されてのことで、私が何か特別なことをした結果が、救われるのではありません。

布教形式や、説き方には、常に功罪があるのは確かです。

ただ、何がよかったかということについては、現状ではなんとも判断しかねます。

ただ、こういった議論は大いにやらねばならないことですし、その目的は、相手を打ち負かすことではなく、一人一人の信心決定の上で大事な問題を含んでいるからです。

私個人としては、間違ったところは教えていただければ有り難いですし、元自称福徳会員さんには、早く弥陀の救いにあっていただきたいと思います。