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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-04

「救いに必要のない『私』を捨てよと阿弥陀仏は言われていますの言い回しは、たとえば『救いに必要のない「私」は捨てものだと阿弥陀仏は言われています』でないと、誤解のもとになるのではないでしょうか。(ループさんのコメント)

前回のエントリー(「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、「『ただ今救うぞ』という阿弥陀仏の仰せを受け入れること」はできるということでしょうか?(ループさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))へのループさんのコメントです。

ループ 2013/09/03 21:00

お答え頂き有難うございます。

阿弥陀仏の救いは、私から言えば「助かる」のではなく「助けられる」というのが適当な言い方です

yamamoya様が、

「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れることだけには「できます」とお答えになるのは、「受け入れる」という語が受動的であるからだと、理解いたしました。

しかし、それならば最初に戻って、

>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています

の言い回しは、たとえば『救いに必要のない「私」は捨てものだと阿弥陀仏は言われています』でないと、誤解のもとになるのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130903/1378192200#c1378209655

誤解のもとにはならないと理解しております。

なぜなら御文章には、「雑行をすてて」と何度も書かれているからです。

例として、以下に御文章5帖目8通の最初を紹介します。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。(御文章5帖目8通_五劫思惟_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1195)

http://goo.gl/jYxWNA

「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」は、阿弥陀仏の本願(第十八願)を蓮如上人がかかれたものです。そのように誓われて、南無阿弥陀仏となられたのですから、南無阿弥陀仏の仰せは「雑行をすてよ」「一向一心に弥陀をたのめ」であり「必ず助ける」となります。

そのなかの「雑行をすてよ」から「救いに必要のない『私』を捨てよと阿弥陀仏は言われています」と以前のエントリーで書きました。


「雑行を捨てよ」や「救いに必要のない『私』を捨てよ」と聞いて、「何かをせよと阿弥陀仏は言われているのか?」と思うのは間違いです。ただ、それは読んだ人が前述の文章をどう読むかという読解力という話ではありません。阿弥陀仏の本願が成就したということが、私の力が必要ないということであるということがよく理解されていないからだと思います。(違っていたらすみません)


先に紹介した御文章でも、阿弥陀仏の本願はすでに成就して「南無阿弥陀仏と成りまします」と書かれています。そこで、「成就」とはどういうことかについて、親鸞聖人教行信証行巻に、曇鸞大師の浄土論註を引文されています。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻_一乗海釈_論註引文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P198)

http://goo.gl/wWXZMK

阿弥陀仏の本願は、それによって力を成り立たせている。その力は本願にもとづいて本願に誓われた通りの力である。阿弥陀仏の本願は、ただの願いだけでおわるような空しいものではなく、また本願力は空しく空転することがない。本願力(南無阿弥陀仏のお働き)と本願はぴったり合致してまったく違いがないので成就というと言われています。


阿弥陀仏が本願を建てるにあたって、そもそも私に何か「手助け」を必要とされませんでした。それは、どんな人でも助けるために五劫思惟された結果のことです。ですから、阿弥陀仏の本願は「私に何かをしなさい(その行為を手助けに助けます)」と誓われたものではありません。その本願通りに働いておられる本願力である「南無阿弥陀仏」の仰せは、また「私に何かを要求する」ということはありません。本願には初めから「私」は必要ないことをそのまま言われているだけです。


南無阿弥陀仏は「ただ今助ける」の仰せです。それを聞いて「ただ今助かる」と助けられてください。

2013-09-03

「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、「『ただ今救うぞ』という阿弥陀仏の仰せを受け入れること」はできるということでしょうか?(ループさんのコメントより)

ループさん、ventureさんから前回のエントリーについてコメントを頂きました。お尋ねのあった部分について書きます。

ループ 2013/09/01 16:36

お答え頂き有難うございます。

>他力の信心と言われるものは、阿弥陀仏の仰せを受け入れただけです。

「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、

>「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れること

はできるということでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130901/1377985316#c1378021003

できます。

ただ、「できる」というと自分の力でできたような語感がありますが、阿弥陀仏の本願力によって救われます。阿弥陀仏の救いは、私から言えば「助かる」のではなく「助けられる」というのが適当な言い方です。


歎異抄の第一条にも最初に「たすけられ」と書かれています。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄第一条_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P831)

http://goo.gl/rFiov

また、自分の力ではとても「助かる」ことができないから、「助ける」の仰せによって「助けられる」身になるのです。


そこで、高僧和讃には、自力ではとても行けない浄土だから、ある程度のさとりを開いた人でも本願力にまかせるのだと言われています。

(72)

願力成就の報土には

 自力の心行いたらねば

 大小聖人みなながら

 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P591)

http://goo.gl/4OhtR

大小聖人(大乗の聖人、小乗の聖人)でも、阿弥陀仏の浄土に往生するには「如来の弘誓に乗ず」るのですから、私のような者はなおさら本願力によらねば助けられることはありません。反対に言えば、本願力によって必ず浄土往生させていただけるということです。


ventures 2013/09/01 17:54

最大の問題はどういうきっかけで受け入れるのかということですね

なんにせよきっかけがないと何も起こらないと思いますから

阿弥陀様が縁に応じて働きかけるということなんですかね

そうなると最早こちらがどうこうするという話じゃないので

いつともしれないものを憧れながら指をくわえて眺めてるより他ないですね

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130901/1377985316#c1378025672

きっかけというものを求めるのも間違いです。きっかけが起きてからたすかるのは、ただ今助けられることはありません。ただ今助けるという本願力がただ今私に働いているのですから、それ以外に何かきっかけが必要ということはありません。


南無阿弥陀仏を、遠くにおいて何か眺める対象のように思っていれば、その距離は縮まることはありません。ただ今の私を救うために成就した南無阿弥陀仏ですから、私と離れたものではありません。眺めるものではなくて、ただ今聞いて称えるものです。


当エントリー投稿時点での、他の方のコメント

YGM 2013/09/02 09:38

指をくわえて眺めるというのは、分からなくはないですが、

『憧れ』というのが少し合わないように感じます。

苦しむ者を救わんとしているお慈悲は、ありがたく思うのであって、

『憧れる』という表現からは目指しているものが違っているのかと思います。

”きっかけ”ということに目が行ってしまうのも、そのあたりが原因なのではないかと思います。

獲信のメカニズム(?)は誰もわかりませんが、阿弥陀仏のお慈悲については詳しく教えてもらえますので、ここでひとつ着眼点を変えてみてはいかがでしょうか。


たかぼー 2013/09/02 16:49

「そのまま助くる」との如来の仰せをそのまま受け取ると、その仰せから離れることができなくなります。信前においては自力にとらわれて自力から脱出することができなかったのですが、信後はそれとは逆に、如来の仰せから離れることができなくなってしまいます。そのため、たえず私の思いは如来の仰せとともにあり、その仰せに私の心が落ち着いてしまうことになります。そうなりますと、「いつともしれないものを憧れながら指をくわえて眺めてるより他ない」などというはからいの思いなどが生じる余地はなくなってしまいます。そして、その仰せの故にわが生死を如来にまかせてしまうことになります。そのような心理に移行するメカニズムはまったく分かりませんが、現実にそうなってしまいました。だから、自力は捨て物ということがよく分かるし、弥陀をタノムという教えが指し示すこともよく分かるのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130901/1377985316#c1378082290

2013-09-01

自力を捨てよとは「無理とわかり切っていることをすすめられるものでしょうか」(ループさんのコメントより)

ループ 2013/08/30 20:45

お答え頂き有難うございました。

南無阿弥陀仏は

>「めでとうしなして」をせずに、ただちに来れという意味になります。

とのお答えです。しかし、片や南無阿弥陀仏とは

>救いに必要のない「私」を捨てよ

ということだと仰る。矛盾を感じます。

>「自力の心」を全部取り払える力があるのは、阿弥陀様だけ

と明らかなのに、

>救いに必要のない「私」(自力のことと解説頂きました)を捨てよと

無理とわかり切っていることをすすめられるものでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130830/1377849645#c1377863155

たかぼー 2013/08/31 11:22

 「自力は捨て物」とは、「自分の力で自力を捨てよ」という意味では、勿論、ありません。自力を捨てるに際して自分の力にたよってそれを捨てようとしても、まったくの無駄事です。「自力を捨てよ」とは、如来が「われにまかせよ」といわれていることについて、「いつまでも自力の計らいや思いに執着せずに、如来の仰せのとおりに受けよ。」というのと同じ意味で言われているものです。「自力は捨て物」だから、「如来にまかせよ」ということです。未信の人がとても聞き誤りやすいところです。

 このコメントは、特定の方を想定して発信したものではありません。


ループ 2013/09/01 03:45

論旨を進めるために、たかぼーさんのコメントをお借りします。

>「自力は捨て物」だから、「如来にまかせよ」ということです

yamamoya様もまた、同じように、南無阿弥陀仏とは、

>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています

と仰いました。

阿弥陀仏の救いとは、「自力が廃って他力になる」ことで、「自力が廃る」ことと「他力になる」ことは一念同時であり、表裏のような関係にあるものと存じます。

自力を捨てさせるのが阿弥陀仏のお仕事であるならば、

南無阿弥陀仏には「自力は捨て物だから、如来にまかせよ」の意味がある、というのは如何なものでしょうか?

南無阿弥陀仏を素直に読めば、「阿弥陀仏を南無せよ」で、阿弥陀仏の側から言えば「我を信じよ」です。

自力我執に苦しむ行者に対して、阿弥陀仏は「我を信じよ」と、お呼びかけされている、との解釈は間違いでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130830/1377849645#c1377915774

ループさんのコメントから引用しながら書きます。

南無阿弥陀仏には「自力は捨て物だから、如来にまかせよ」の意味がある、というのは如何なものでしょうか?(ループさんのコメントより)

南無阿弥陀仏について、親鸞聖人は「本願招喚の勅命」といわれ、善導大師は「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」と解説されました。

一言で言えば「ただ今救う」「ただ今救うという阿弥陀如来にまかせよ」ということになりますが、その阿弥陀如来にまかせないのを自力というので、自力を捨てよという意味にもなります。


南無阿弥陀仏を素直に読めば、「阿弥陀仏を南無せよ」で、阿弥陀仏の側から言えば「我を信じよ」です。

自力我執に苦しむ行者に対して、阿弥陀仏は「我を信じよ」と、お呼びかけされている、との解釈は間違いでしょうか?(ループさんのコメントより)

阿弥陀仏は、如来を信じられないものに「我を信じよ」といわれるのでしょうか?という趣旨だと理解しました。「如来を信じられない」という「信じる」と「我を信じよ」の「信じる」は意味が異なります。そこで、「我を信じよ」について蓮如上人は御文章に「弥陀をたのむ」と書かれています。それは「我を信じよ」との阿弥陀仏の仰せは、「私を信じられるように努力しなさい」という意味ではないからです。「我を信じよ」とは、「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れることです。


自分から「信じよう」と突き進んでもそこには「阿弥陀仏を信じた」状態には行き着けません。なぜなら、「信じよう」として「信じた」ものは自力の信心だからです。それに対して、阿弥陀仏の仰せを受け入れるということは、「自分から信じよう」としたものではありません。他力の信心と言われるものは、阿弥陀仏の仰せを受け入れただけです。自分から信じようとした結果になるものではありません。

2013-08-30

救いに必要のない「私」と、自力を捨てるのは「私」の仕事ではないの「私」について(ループさんのコメント)

前日のエントリーに頂いたコメントについて書きます。

ループ 2013/08/30 02:44

お聞きいたします。

>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています。

これはどの経文のことを仰っておられるのでしょうか。

ここで仰った「私」と、

>どれだけ「私」を「めでとうしなして」も自力にかわりはありません。その「私」「自力」を捨てるのは「私」の仕事ではありません。南無阿弥陀仏のお働きにより救われるのです

で仰った「私」とは、異なるのでしょうか。

「私」=「自力」の廃捨から解放されたかと思えば、また「私」を捨てよ では逆戻りした心地になります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130829/1377768695#c1377798258

最初の

>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています。

これはどの経文のことを仰っておられるのでしょうか。

について

経文で言えば、南無阿弥陀仏のことです。

南無阿弥陀仏については親鸞聖人

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P170)

http://goo.gl/0SLPy

と言われています。

阿弥陀仏が、「われに帰せよと命じる如来のよびごえ」が南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏のこころについて、善導大師はまた、二河白道の譬に以下のように言われています。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P224)

http://goo.gl/DWjLs

前回のエントリーの内容からいえば「めでとうしなして」をせずに、ただちに来れという意味になります。ですから、「自力を捨てよ」の仰せとなります。

そこで

ここで仰った「私」と、

>どれだけ「私」を「めでとうしなして」も自力にかわりはありません。その「私」「自力」を捨てるのは「私」の仕事ではありません。南無阿弥陀仏のお働きにより救われるのです

で仰った「私」とは、異なるのでしょうか。

について書きます。


最初の「救いに必要のない私」とは、「私の行為」であり、また「私の行為を足しにして助かろうとする思い」「自力」のことです。

後半の「私の仕事ではなかった」という「私」は、自力が廃った上での「私」ですから、「私の行為」「私の行為を足しにしようとする思い」「自力」ではありません。


言葉を変えると「助かろうとする私」ではなく、「阿弥陀仏から助けられる私」という意味です。自分の目から見た自分ではなく、阿弥陀仏からご覧になった私の姿を「私」といっています。信心ということでいえば、そこには私はなく、ただ南無阿弥陀仏のお働きがあるだけです。「助かろうとする私」はそこにはなく、「私を助けようというお働き」である南無阿弥陀仏があるだけです。



このエントリー投稿時点でのみなさんのコメント

しかばね 2013/08/30 11:23

私は今まで、先生達やお同行さん方から、

「自力の心は放っておけ、本願を聞け。」

「自力の心は相手にするな、本願に向かえ。」と教えて頂いてきました。

今振り返っても「自力」で「自力」は廃らないので、そういうふうに指導してもらえて良かったと思います。

「自力の心」を全部取り払える力があるのは、阿弥陀様だけなのです。


ループ 2013/08/30 12:17

お聞きしたことへのご回答以外は、私へのコメントではないものと理解しますので、

ご容赦ください。


たかぼー 2013/08/30 12:33

 自力は捨て物と教えるのは正しい教えだけれど、自分で自力を捨てようとするのは間違い。自分で自力を捨てようとすると「難中の難」に陥ってしまう。これが難信と言われるゆえん。でも、如来にまかせると「難中の難」だったのが、「易中の易」になります。ここが最も大事なところです。この違いは何によるのか、よくよく考えるべきは、このことだけです。

 ちなみに親鸞会では「自力が廃るまで自力で求めよ」と教えますが、自力は捨て物と教えるのではなく、捨てるべき自力で求めよと教えるのですから、これは方向違いもいいところ。捨てるべき自力で求めよと教えるのは、祖師の教義にはない大きな間違い。いつまでたっても自力は捨て物だと分からないことになります。


たかぼー 2013/08/30 13:03

 上記の私のコメントは、特定の方を想定して発信したものではありません。


たかぼー 2013/08/30 15:49

 このスレッドのテーマに対応して、林遊さんが自らのブログに「知られる私」というテーマで20数年前の文章を掲載しています。自己の罪悪感を追究しようとしているお同行の誤りに言及したもので、お勧めです。


しかばね 2013/08/30 16:56

ループさんへ

私は、特定の方に読んで頂きたいことがある時には、“○○さんへ”と相手の方のお名前をまず書くようにしています。

だから、私の先のコメントは、今私が知らされていることを書いただけなのですよ。

ただ、「自力の心」のところはものすごく大切なところと言うか、ここがわかればもう、十劫の間の迷いに打ち止めが出来るところなので、もちろんループさんにも読んで頂けたらいいな・・・と思って書きました。

でも、混乱させてしまったのだとしたら、謝ります。

ごめんなさい。


林遊さんのブログの題名は、ご存じですか?

私は、知らないのですが・・・。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130829/1377768695#c1377829381

たかぼーさんが紹介されているブログは、以下のものです。

参照

知られる私 « 用管窺天記

2013-08-29

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)2_自力はどれだけ捨てようとしても自力になる理由

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

信心に対する「疑い」について、前回に引き続き書きます。

疑いについて、別の言葉でよく使われるのが「自力心」または「自力の心」です。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。(教行信証化土巻本_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P395)

http://goo.gl/2tu1PD

自力の心を離れたことを、横超他力といわれています。それは、他力の信心をあらわされたものですから、自力の心は疑いと同義語としてかかれています。

そこで、「自力の心」について親鸞聖人は一念多念証文に以下のように言われています。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)

http://goo.gl/6QqZAv

ここで「自力」といわれているのは「自力の心」と同じ意味です。それは、自分の心をたのみ、自分の力をはげんで、いろいろな善根をあてちからにすることをいわれています。

ここでいわれていることでいえば「自力を捨てようとする」のも、「わがこころをたのみ、わが力をはげみ」と同じことになります。


しかし、よく考えて見ると「自力を捨てようとする私(A)」が「自力の心(B)」を捨てようと一生懸命頑張ったとします。そこで、どうにかこうにか(B)を捨てることができたとしても、以前として(A)は残ります。自力を捨てようという私(自力・A)が、以前として残ってしまうという結果になります。そこでさらに「自力を捨てようとする私(A)」を捨てようと励んだところで、「『自力を捨てようとする私(A)』を捨てようとする私(C)」は残る訳です。結果として、そのような努力はどれだけ続けても「捨てようとする私(自力)」が残る以上は終わりがありません。


このように、自らの力で往生浄土を遂げようという心はすべて自力であり、「疑い」といわれます。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息6_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P746)

ここでいわれていているように、自らの善根をもって浄土往生を遂げようとすることを自力といわれています。どのようにしても自分自身をどうにかして他力になろうというのはゴールがありません。

どれだけ「私」を「めでとうしなして」も自力にかわりはありません。その「私」「自力」を捨てるのは「私」の仕事ではありません。南無阿弥陀仏のお働きにより救われるのですから、救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています。

それを聞いたのが信心です。

2011-07-06

南無阿弥陀仏があるから私は大丈夫だと自分を安心させようとする心について(頂いた質問)

今私の心に現れてくださる南無阿弥陀仏があるから私は大丈夫だと自分の心を安心させようとしている心があることに気がつきました。(略)自分は法話を縁にして聞いた通りの救いの世界をまた作り上げていました。(頂いた質問)

自分の心で南無阿弥陀仏をあてにする心を用意せよという南無阿弥陀仏ではありません。南無阿弥陀仏には、信じる心(信・機)も助けるお働き(行・法)も一体となっているのだと蓮如上人は教えておられます。

このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。(御文章4帖目14通)

蓮如上人は、「弥陀をたのむ」信心のことを、機といわれています。そして、「たのむ衆生をたすけたまふかたの法」(はたらき)が阿弥陀仏(法)だといわれています。

弥陀をたのむ信心は、阿弥陀仏によって発されるものです。そのため、弥陀をたのむ信心を獲得した人は、即時に阿弥陀仏の願力によって摂取されます。

そのことを顕しておられるのが南無阿弥陀仏の六字です。

またそのことを蓮如上人のお歌には以下のようにいわれています。

たのませて たのまれたまふ 弥陀なれば 

   たのむ心もわれとおこらず(蓮如上人)


阿弥陀仏の方からいえば「たのませて」下さる南無阿弥陀仏です。

私の方からいえば「たのまれたまふ」南無阿弥陀仏です。阿弥陀仏が我にまかせよと仰せ下さり、仰せの通り私が疑い無くまかせたのが信心です。私から言えば「たのまれたまう弥陀」が、南無阿弥陀仏であり。信心です。そのため「たのむ心もわれとおこらず」といわれるように、私の方から「たのむ心」を発したり、用意したりするものではありません。全て他力廻向される救いです。

そうして、弥陀をたのむ信心の行者を摂取して捨てられないのが南無阿弥陀仏です。「念仏衆生摂取不捨」と観無量寿経に説かれていますが、南無阿弥陀仏でいえば、念仏衆生が「南無」であり、摂取不捨が「阿弥陀仏」です。

このように南無阿弥陀仏という名号のお働きが、私の信心(機・南無阿弥陀仏)となり、信心の行者を捨てられない(念仏衆生摂取不捨=南無阿弥陀仏)という利益を与えていくと蓮如上人が教えられています。

南無阿弥陀仏を受け取るにふさわしい心があると想定し、それに合わせようとするのも自力廻向です。あくまで阿弥陀仏の本願は先手の法であり、他力廻向の法です。

私が用意するに先立って、必ず救う法を用意して差し向けて下さいます。それを、私の方で「受け取るための準備」をしようとするのが計らいです。その計らいをすてて、ただ今南無阿弥陀仏と聞いて下さい。必ずただ今救われてください。

2011-04-08

「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善」はそんなに大事なお言葉なんですか?(4月3日親鸞会二千畳座談会参加者より)

4月3日親鸞会館二千畳座談会参加者から頂いた質問です。

座談会は「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」の部分についての話でした。

鸞会館の二千畳座談会は、過去1年以上、10数回はこの一念多念証文のお言葉についての話が続いています。今回も「みな浄土の方便の善」の「善」とは何かについての話が、「法施と財施」であり、「法施が大事」との話になり、終了間際「財施は誰にでもしたらいいのではない。それについてはまた続き」といって終わりました。

八万四千の法門で教えられる善は、それほど大事なのでしょうか?(頂いた質問)

親鸞会の運営にとっては質問にあった最初の部分が大事なご文のようです。しかし、座談会で一日かけて話をした内容は質問者や参詣者の往生浄土に関して大事とは言えません。一日かけて結論は、法施をせよ、財施をせよとの話だったようですが、ただ今救われるために法施をせよ、財施をせよと親鸞聖人は教えておられません。

昨日のエントリーに関連していえば、阿弥陀仏が本願を建てられるときに、私を救う手立てとして善は捨てられたものです。


八万四千の法門についての唯信鈔文意のお言葉

「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門*1なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P710・法蔵館の真宗聖典P622.1行目)

上記は、唯信鈔文意の中で親鸞聖人が善導大師のお言葉*2を解説されたものです。

「八万四千の法門は、みな自力の善根なるゆえに、浄土には生まれずと嫌わるる」と教えおられます。嫌われるとは、阿弥陀仏が嫌われるということです。


「善をせよ」が釈迦一代の教え?

では、お釈迦様は、善をせよと一生涯すすめられたのでしょうか?「善をせよ」が釈迦一代の教えなのでしょうか?

上記の唯信鈔文意には続けてこのように書かれています。

「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(同上

お釈迦様は、「よろづの善のなかより名号をえらびとりて」私に教えられました。諸善ではなく、名号一つをもっぱらに教えられたということです。

「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。(同上

「選択本願の名号を一向専修なれ」というのが「釈尊の教勅なり」と教えられています。阿弥陀仏が選択された名号の一法を信じなさい、念仏申しなさいがお釈迦様一代の教えです。

阿弥陀仏は、私の浄土往生を願われ、「諸善をしたら助ける」ではなく。南無阿弥陀仏を成就されました。

お釈迦様は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたので、いろいろ善はあっても選んで名号一つを教え勧められました。善導大師も親鸞聖人も同様です。


法施が大事との話があったようですが、法施の法とは阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が出てこない話を一日かけてしたとしてもそれは法施ではありません。法施が大事と言いながら、法施をしていないというのが、4月3日の話だと思いました。

ただ今救うと阿弥陀仏が呼びかけられているのが、この南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。

*1:八万四千の法門・・八万四千は多数の意。仏の説いた教法全体のことであるが、親鸞聖人は本願(第十八願)の法以外の自力方便の教えの意とされる。「化身土巻P394以下参照」

*2:「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」(真仏土巻訓)

2011-03-30 獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント)

さくらもちさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私の周囲の獲信者は、『機の深信』が立っているのだけは自分でハッキリわかるようです。

「こんな大きな後生の問題、自分の力ではどうすることもできない・・・という事だけはわかった。」と言う人や、

「自分は地獄に行く・・・それは間違いない。」と言った人もいます。

それに対して『法の深信』に関しては(?????)という感じで、ハッキリしないようです。

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110327/1301176303#c1301384980

「機の深信だけはハッキリする」ということはありません。機法二種一具の深信ですから、片方だけというような独立したものではありません。

捨自帰他という言葉を使うと、「捨自はあるけど、帰他はない」といえないのと同じ事です。自力を捨てたということは、他力に帰したことになるからです。

二種深信は、善導大師が仰ったこと*1ですが、教行信証には以下の部分で引文されています。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218

機の深信とはなにかといえば、「罪悪生死の凡夫」とハッキリ自覚することではありません。またそれだけではご文の一部分だけになってしまいます。

大事な部分は「出離の縁あることなし」です。

自らには生死を離れるだけの善根をもちあわせていないので(出離の縁有ることなし)、自らの善根をたのむ自力の心を捨てたというのが機の深信です。

なぜ「出離の縁有ることなし」なのかといえば、自ら生死を離れるほどの善根を持ち合わせていないからです。罪悪生死の凡夫だから生死を離れるほどの善根を現在持ち合わせていませんし、また未来もそんな善根を持つことはありませんが、「罪悪生死の凡夫」を自覚するだけでは、機の深信とはいえません。


善導大師は別のところでは「罪悪生死の凡夫」の部分を「善根薄少*2」と言われています。

「罪悪生死の凡夫」も「善根薄少」も私の姿です。しかし、そう自覚するだけでは罪悪観です。

「罪悪生死の凡夫」であり「善根薄少」だから「出離の縁有ることなし」「三界に流転して火宅を出でず」なのが私です。そうなると、生死を離れるために自らの善根を往生の足しにしようとか、自らの考えをたのみにする自力の心を捨てるということです。

このように自分の持ち合わせている善根(罪悪生死の凡夫ならなおさらありませんが)では生死を離れることが出来ないと、自らの善根をたのむ心(自力の心)を捨てたことを機の深信といいます。


「地獄行き間違いない自己の自覚」が機の深信ではありません。

自らをたのむ自力の心を捨てたということは、阿弥陀仏の本願力に乗って往生定まる身になったことですから、他力に帰したということです。これを法の深信といいます。本願力によって往生定まった(法の深信)ということは、自力の心を捨てた(機の深信)ということです。

私も親鸞会にいるときは、大体以下のような話を聞き、最初はそういうものだと思っていました。

「『機の深信は地獄行き間違いない自己だとハッキリ自覚すること』『法の深信は極楽行き間違いない自己だとハッキリ自覚すること』これは絶対矛盾だが、それが矛盾無く知らされるのが救われた不思議な世界であり、二種深信だ。」

しかし、これは間違いです。二種深信は矛盾ではないからです。二種深信は、真実信心を表されたお言葉ですから、真実信心をあらわされた他の表現を使えば捨自帰他ともいいます。

二種深信が矛盾した表現というなら、捨自帰他も矛盾した表現にならねばなりません。

二種深信が矛盾した表現というのならば、他力の信心を表現されたお言葉は全部矛盾した表現とならなければなりません。

捨自帰他は、捨自即帰他です。自力を捨てるままが他力に帰したということです。他力に帰したということは、自力を捨てたということです。自力の心がないということは、他力の信心ということです。

矛盾した表現ではありません。

お尋ねのなかにでてくる方が実際どのような気持ちでいっておられるかはわかりません。

「自分は地獄に行く・・・それは間違いない。」は、「地獄行き間違いないと自覚すること=機の深信」と理解して言われている言葉の定義の問題だと思います。発言された方がそう思われているのか、さくらもちさんがそのように思われているのかまではわかりません。

「こんな大きな後生の問題、自分の力ではどうすることもできない・・・という事だけはわかった。」については、自力を離れたというお気持ちでいわれているのかも知れません。ただ自力は離れたけど、他力に帰してはいないというのであれば、二種深信や捨自帰他とはいえません。

どちらにしても、阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われることが大事です。

地獄行きの自分を探すのでも、極楽行きになった安心を求めるのでもありません。ただ今救うという本願を聞くことが大事です。

*1:観無量寿経疏・散善義浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P457

*2:二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。・浄土真宗聖典(註釈版)P228

2011-03-10 「そのまま」といわれても理性で堂々巡り(メンデルさんのコメント)

「そのまま」といわれても理性で堂々巡り(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)「今日こそは、信じよう、称えよう、いただこう、よろこぼう」の心はすべて計らいであると。でも、知識や理性でものごとを判断しているのが自分なのであって、どんなときも、知識や理性を抜きにすることはできないので、結局自分では計らいは捨てることはできないと思います。そうすると、自分では何もできなくなってしまうのですが、何もせずにいても何も変わらないですし、「そのまま素直に聞くだけ」と言われても何が「そのまま」かと思うとまた理性で結局どうどう巡りです。阿弥陀仏はどうして私を助けてくださらないのでしょう。

また、もし助からないまま死んでしまった場合、阿弥陀仏を疑っている上、念仏も相続して称えることもできない私は化土にもいかれないで六道を廻ることになるのでしょうか。(メンデルさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110309/1299619885#c

阿弥陀仏はどうして助けてくださらないのかと言えば、阿弥陀仏のお働きを自分で計らっているからです。阿弥陀仏は、ただ今メンデルさんを助けようと働いておられます。

理性を抜きにして考えることは、仰るとおり出来ません。自分では捨てることが出来ないので、阿弥陀仏が計らいを破ってくださり、取ってくださるのです。

阿弥陀仏が取り上げて捨て去って下さる計らいを、自分で「そのまま」になって捨てようとしているのが計らいです。

「そのまま」とは、「そのままになる」ことでも、「そのままになろうとする」ことでもありません。自分の手を加えないことです。「そのままになろう」という手を加えないことです。

反対から言えば、常に「そのままになろう」と常に手を加え続けているのが私です。「そのままになろう」の堂々巡りは続きますが、どこまでいっても終わりはありません。

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば

 

大小聖人*1みなながら 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃72・浄土真宗聖典(註釈版)

どれだけ理性や知恵を巡らしても、阿弥陀仏の浄土は「願力成就の報土」ですから、「自力の心行いたらねば」といわれます。阿弥陀仏の願力に依らねば往生できません。龍樹菩薩のような方であっても、自力の心行を捨てて、「如来の弘誓に乗ず」といわれています。

自分の力でどれだけ理性を巡らしても浄土往生は出来ないからこそ、阿弥陀

仏の本願の仰せを聞く以外にありません。

もし助からないまま死んだらどうなるか?については、間違いないと言えるのは、浄土往生はできないということです。

では、どこへ行くのかということについては、一人一人のの行為によって変わるので、私には分かりません。

化土ならば、地獄よりは安心とか、人間界ならまだいいというものではありません。化土も阿弥陀仏が願われている世界ではありませんし、六道はどこであっても生死の世界であることにかわりはありません。地獄に堕ちるなら頑張ろうと思う心もあるかもしれませんが、いづれにしろ、浄土往生できないことが阿弥陀仏にとっては一大事です。

必ずただ今阿弥陀仏は救ってくださいますので、ただ今阿弥陀仏に救われてください。

*1:大小聖人・・「大乗の聖人、小乗の聖人」(異本左訓)

2010-06-09 わが身をたのむのが自力です(おしゃまさん、YGMさんのコメント)

わが身をたのむのが自力です(おしゃまさん、YGMさんのコメント)

おしゃまさん、YGMさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(信心決定なんかそんなに簡単にできることではない。でも、何十年かかっても求め抜こう。)

こう思う心は、「必ずただ今救うぞ」という阿弥陀仏の本願を否定している心なのですね?

この心は、本願を勝手にはからう“自力の心”なので、捨てなければいけないのですね?

(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100608/1275984238#c1275995920

(信心決定・・・求め抜こう。)という心は、阿弥陀仏の本願を否定している心でしょう。

しかし、それは『自力の心』というよりむしろ『間違った知識』ではないでしょうか。

弥陀の救いを聞かせてもらって、”何十年かかっても求め抜こう”というような発想は起こり得ないと思います。

あくまで阿弥陀仏が「必ずただ今救うぞ」のみで、私が求め抜くものではありません。

(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100608/1275984238#c1276040122

信心決定は、簡単にできるものではないというのは、私の側から言えば、簡単でないというより、できないことです。

しかし、なんとか救われようと思う心は、阿弥陀仏によって起こされた尊い聞法心でもあります。

簡単でないとか、何十年もかかるという前提は、阿弥陀仏の本願を否定する心です。

自力については、一念多念証文から紹介しますと

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文・註釈版聖典P688

阿弥陀仏をたのまずに、わが身をたのみ、我が心をたのみ、我が力を励み、様々な自分のやった善い行いをたのむ人のことを、自力といわれています。

本願を否定する心があるから、わが身をたのみにし、自分の力でなんとか解決しようという自力の心となって現れます。

自分の力でなんとかしようというのが、わが身をたのむ自力の心です。それは捨てものです。

「信心決定は簡単にできるわけがない」は、「本願を否定する心」と、「本願を疑う心」とが雑じっている表現です。

「でも、何十年かかっても求めぬこう」は、阿弥陀仏が起こして下さった聞法心と、自分で何とかしようというわが身を頼む自力の心が交ざっている表現です。

すてねばならないのは、自力であり、本願を疑う心です。

必ず、阿弥陀仏はただ今助けて下さいます。

2010-03-06 他力の信心は私のものではありません(Rudelさんのコメント)

他力の信心は私のものではありません(Rudelさんのコメント)

Rudelさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(自分が)助かりたい」という前提で仏法聞いているので、「助かるとか、助からないとか、往生出来るとか出来ないとかは、全部南無阿弥陀仏の受け持ち」と言われると、困ってしまいます。阿弥陀様の受け持ちにできません。

聞かせていただいても、「間違いなくなりたい、ハッキリしたい」という気持ちになるばかりです。凡夫の心がハッキリするわけはないとは思いながらも、

「法に向かう」ではなく、法をつかもうつかもうと、出ない手足を伸ばすばかりです。

どうしたらいいか、何をどう聞けばいいのやら、わからなくなって来ました。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100305/1267787959#c1267801158

出ない手足を伸ばしても、それは自力の上塗りです。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意

みづからが身をよしと思う心をすて、身をたのまずとは、自分の身の中に信心を所有しようという心を捨てることです。また、それをすててしまったら、私には何も無くなってしまうのではないかという心も顧みないと言うことです。元々何もないのですから、捨てることや、顧みないことに躊躇はいりません。困るのは、自分の信心を自分のものにしよう、所有しようという心ですから、捨てるものです。

信心とは、阿弥陀仏の本願によって成就した南無阿弥陀仏を聞いたそのままが救われた姿です。

ハッキリしたいというのが、よいかわるいかということよりも、そう思うところから、阿弥陀仏に祈る心になるのです。祈るとは、阿弥陀仏に確信を請求する心です。

他力の信心は、私の方にものがらがありません。何をどう聞くかではなく、聞いたそのままが、他力の信心です。

2010-03-05 そのままとは、きいたそのまま。補足2

そのままとは、きいたそのまま。補足2

聞いたそのままの、補足エントリーその2です。

他力の信心は、本願を聞いたそのままということについて書いてきましたが、その補足です。

他力の信心は、聞いたそのままということは、別の言葉で言いますと、他力の信心は、そのものがらが私にないということです。私の方になく、南無阿弥陀仏の中にあるということです。

蓮如上人が、「聖人親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と、聖人一流の章に言われています。浄土真宗の教えは、信心が本です。

その信心とは、「信じております」という信心ではありません。一般で言う宗教とは、信じるものがらが私の中にあるのです。他力の信心とは区別する意味で、そういう信心を「確信」とします。自分で間違いないと確信するのは、他力の信心ではありません。

ですから、一般に言う宗教団体は、親鸞会も含めて、「あなたは間違っている」というと「私は間違っていない!」とかたくなになり、自分で確信を固めます

自分は間違いないと、確信をもつということは、第3者からの意見を聞く耳がなくなってしまいます。そうやって自分だけ「これこそ真実」と気分を高揚させていきます。マルクスが宗教はアヘンだとか、毒酒だといったのは、こういったところからきます。自分だけが閉じられた世界のなかで、酒に酔ったようによい気持ちになり、他のことは一切聞かなくなるからです。

しかし、他力信心は、そういう閉じられたものでは有りません。開かれたものが他力の信心です。どうしてかといえば、助かるとか、信心のものがらが私にないからです。

自分の中に閉じ込めた確信は、信心のものがらが自分で所有しているので硬くなります。例えていえば、1億円を鞄に入れて自分の手元に持って暗い夜道を歩くとなると、周りの人に取られるのではないかと疑心暗鬼になり硬くなってしまいます。

信心は、所有化している限りは、どうしても自分でつかんで硬くなります。○○だから間違いないという、○○は、全部私の中の三業であり、確信です。

他力の信心は、信じるものがらが私の中にないので、「これで間違いない!」と確信する必要がないものです。また、壊れないようにと、自分で守る必要もありません。相続も、自分の手元に無いので、自分で相続させようと頑張るものでもありません。

他力信心のものがらは何かと言えば、南無阿弥陀仏です。私の作ったものでも、私の所有できるものでもありません。

「信心獲得」ときくと、信心が所有できるものであるように思いますが、そうではありません。所有できると思うところに、信心のものがらを自分の中に探す心が出てきます。安心が出来た、確信ができた、大丈夫になったなどというのがそれにあたります。仮に見つけたとしても、信心のものがらは、南無阿弥陀仏であって私の確信では有りませんから、みつけたものがらは他力信心ではありません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通・信心獲得

信心獲得は、阿弥陀仏の第十八願を心得ることであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだといわれています。

では、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるとはどういうことかといえば、「自力を捨てて、一心に弥陀をたのむ」ことです。聖人一流の章で言えば「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命」です。自力を捨てるも、一心に弥陀をたのむも別のことではなく同じ事です。

弥陀をたのむとは、南無阿弥陀仏をたのむということです。南無阿弥陀仏にまかせるということです。助かるとか、助からないとか、往生出来るとか出来ないとかは、全部南無阿弥陀仏の受け持ちです。

私の仕事はそこにはないということです。信心のものがらは、私の中にはありません。南無阿弥陀仏を聞いたそのままの、南無阿弥陀仏の中にあります。どれだけ頑張っても私のものにはなりません。

私が聞いて間違いなくなったことが信心ではありません。間違いのない南無阿弥陀仏を聞かせていただくのが先です。聞いたそのままが信心です。

2010-02-14 もがくのも、もがかないのも方法論なので離れるのです(MMAさんのコ

もがくのも、もがかないのも方法論なので離れるのです(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「自力では助からないから自力を捨てなさい」と教えて戴いていますが、自力を捨てようとする心も自力であり、どれだけもがいても自力は自力で堂々巡りをするばかりです。

そしてその自力は阿弥陀仏によってのみ取り除かれると教えていただいています。阿弥陀仏に救われる為には自力を捨てようともがくことは無駄なのでしょうか。それともどれだけ「自力で自力は捨てることは出来ない」と言われても、「何とか自力を捨てよう。何とか何とか」という心のままで求めるのがこの道なのでしょうか。(MMAさんのコメント)※修正コメントにあわせて一部修正

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100211/1265886020#c1265944753

回答します。

自力を捨てようともがくことは、「無駄」という言い方はコメントの流れからすると言えないと思います。「無駄」ではなくて、もがくのも捨てて弥陀をたのめということです。

「無駄」というと、「無駄だからやらない方がよい」ということになります。そうなると、「もがかない方が早く救われる」ということになります。

ですから、次の選択肢の、「『何とか何とか』という心のままで求めるのでしょうか」とあわせて考えますと、今回の質問は以下のようになると思います。

阿弥陀仏に救われるには、自力を捨てようともがいた方がよいでしょうか?もがかない方がよいでしょうか?」

この問いに対してまとめて回答しますと、どちらも間違いです。もがくかもがかないかは、どちらの自力に対する捨て方の問題で、阿弥陀仏をたのむ心にならないからです。

捨てるというのは、そこを離れるともいわれています。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。(唯信鈔文意)

阿弥陀仏の本願のお働きにまかせ自力を離れたのが信心であるといわれています。

自力を離れなければならないと、そこにばかり心がかかると、そこにとらわれて、上記のお言葉が

「自力を離れたる、これを「唯信」という」になってしまいます。

自力を捨てよとか、自力を離れると言うことは、本願他力をたのむことです。

「この道」とコメントされているように長いように思われるかも知れませんが、道ならただ今救われません。重荷を背負った状態で、どうやって進んだらよいかと考えられているのかも知れません。

弥陀をたのむとは、重荷と言う言葉を使うならば、阿弥陀仏に重荷をまかせることです。

コメントにあったので、引用させてもらいますと、お軽同行の言葉に

すまぬこゝろを すましにかゝりや

雑修自力とすてられゝ

すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ

思えば有念 思わにゃ無念

どこにお慈悲があるのやら

(中略)

そのまま来いのお勅命

いかなるおかるも 頭がさがる

連れて行かうぞ 連れられましょぞと

往生は投げた投げた

(ZhengQingさんのコメントより抜粋、お軽同行の言葉)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100210/1265807426#c1265845881

長い道中を、これからどれだけ一人で行かねばならないのかと思われているのならば違います。「独り生まれ独り死し、独り去り独り来る(大無量寿経下巻)」と聞いて、この道は救われるまで独りなのだと思われているのかも知れませんが、そうではないのです。

往生極楽の道は、孤独ではありません。上記のお軽同行の言葉にあるように「連れて行こうぞ 連れられましょぞ」と阿弥陀仏は常に働いておられます。往生は自分で抱える荷物ではないのです。往生は投げた投げたです。弥陀にまかせて、連れて行こうぞの仰せに、連れられましょうと、ただ今すくわれてください。

阿弥陀仏はあきらめられません。

2010-01-27 自分を入れる分だけ遠くなるのが他力です(Kさんのコメント)

自分を入れる分だけ遠くなるのが他力です(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

少し考えてみました。

次の3通りがあると考えます。

(1)ただ今阿弥陀仏に救われる(弥陀をたのむ、弥陀まかせ、他力)

(2)今は救われないが、何かしたらあるいは何かしていくと救われる(努力、自力)

(3)今は救われないが、何もしなくてもそのうち救われる(無努力、自力)

普通、(2)と(3)しか考えられないので、(2)ではないと言われると、じゃあ(3)か?となり、

(3)ではないと言われると、じゃあ(2)か?と、そういうように(2)と(3)を行ったり来たりにしかならないのだと思います。

(2)か(3)か?ではなく、(2)でも(3)でもない、(1)だということで理解したら私なりには納得できます。

これで考えますと、(2)と(3)で共通するのは今は救われないということで、(1)と比べると、阿弥陀仏の本願との距離か隔たりか壁があるように思えます。それが救われない理由なのではないでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100123/1264247282#c1264516191

本願に対する距離感といいますか、自分が支えねばとか、自分が関与しなければならないとい思うからではないかと思います。

他力とは、私の行いが入る余地がないから他力といいます。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(御消息20/末灯鈔7

他力と言うのは、義なきを義とすといわれています。義というのは、私のはからいを義といいます。阿弥陀如来の誓願は不可思議なので、仏と仏のはからいであって、凡夫のはからいではありません。弥勒菩薩でも、仏智の不思議をはからう人はありません。そのため、阿弥陀如来の誓願には義なきを義とすと、法然聖人は仰いました。といわれています。

自分がそこに関与しようとした分だけ、阿弥陀仏のお働きは私から遠くになっているように感じるのは、他力には私の計らいはそもそも必要ないからです。必要ない者を差し挟んだ分だけ遠くなってしまいます。

上記の御消息は、法然聖人のお言葉として親鸞聖人が紹介されているものです。

同じように、他力とは凡夫のはからいのないことであるといわれた法然聖人のお歌を紹介します。

他力とは 野中にたてる竿なれや よりさわらぬをば 他力とぞいう

私からいえば何も関与できないことですし、自己を入れさせない働きが他力なので、自力を捨てさせるのは他力と説明されることがあるのはこのためです。

私からのはたらきかけもなく、ただあるのが阿弥陀仏の本願力です。その阿弥陀仏の本願力ただ一つによって救われますので、ただ今救われます。

2010-01-20 どうしたら助かるかよりも、なぜ助からないかが大事(ひろしさんのコ

どうしたら助かるかよりも、なぜ助からないかが大事(ひろしさんのコメント)

ひろしさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今私が自覚する自力の心とは

阿弥陀仏の本願に底を入れる心。

こんな私が助かるのだろうか、と思う心。

簡単に救われるならば、頂く信心が安っぽく思える心。

体や口では阿弥陀仏に向いているが、内心を見れば白々しい心。

信心決定したという人を見て、疑う心(人に対する疑いではなく法に対する疑い)。

例えば華光会の同人の様に親鸞会で言う「真剣な求道」をしていない人に対して、「そんなもんで救われるんだ」と思う心。

なんとか救われたいと思う心。

阿弥陀仏の本願を頭で理解しよう、と思う心。

頭では分かっていると思う心。

この心は自力、この心は煩悩と仕分けする心。

そういう心です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100118/1263774329#c1263819993

ご自分の心を打ち出していただき有り難うございました。

全体を通して私が感じることは、「法に対する疑い」よりも、方法論や他人と比較する心が多く出ているということです。

コメントの文面を勝手に分類してみました。

  • 法に対する疑い
    • 阿弥陀仏の本願に底を入れる心。
    • 信心決定したという人を見て、疑う心(人に対する疑いではなく法に対する疑い)。(法についての疑いですが、内容は救いの有無に対する疑い)
    • こんな私が助かるのだろうか、と思う心。(同上)
  • 方法論・他人との比較
    • 体や口では阿弥陀仏に向いているが、内心を見れば白々しい心。(心が変わればよいという方法論)
    • なんとか救われたいと思う心。(何か方法を論ずる心)
    • 阿弥陀仏の本願を頭で理解しよう、と思う心。(理解するという方法論)
    • 頭では分かっていると思う心。(同上)
    • この心は自力、この心は煩悩と仕分けする心。(同上)
    • 簡単に救われるならば、頂く信心が安っぽく思える心。(他人と比較)
    • 例えば華光会の同人の様に親鸞会で言う「真剣な求道」をしていない人に対して、「そんなもんで救われるんだ」と思う心。(他人と比較)

方法を論じるというのは、別の言い方をすると、救われた自分と救われていない自分の差を埋めようとする心です。救われた人と救われていない人という違いはあっても、差はありません。その「差分」を自分で埋めようというのが方法を考える心です。

また法に対する疑いの項目に(救いの有無に対する疑い)と書きましたのは、ただ今救われると言うことが有るのかという疑いです。それは、どうしても「ただ今」ではなくて、今はいないけれどもやがてやって来られる阿弥陀仏を迎えようという心です。阿弥陀仏の救いは不来迎です。

不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。(御文章1帖目4通・自問自答

不来迎ということは、一念で救われると言うときは、さらに来迎を待つこともないのだといわれています。

ただ今救われることがあるから、救いの有無は疑う必要はありません。

どうしたら救われるのかという疑問や、方法論の追求はどれだけいってもおわりがありません。不来迎なのになぜ助からないかという疑問が大事とおもいます。

2010-01-18 善ができると思う心と、善を往生の足しにしようとする心(ひろしさん

善ができると思う心と、善を往生の足しにしようとする心(ひろしさんのコメント)

ひろしさんより質問に重ねてコメント頂き有り難うございました。

返答が遅くなりました。

確かにライフセイバーと阿弥陀仏は違うので、譬えは不適切だったと思います。

善が出来るとバタバタしている姿を譬えようと思いました。

善が出来るとバタバタしているというのは、自力で助かると思っている事を表したつもりです。(ひろしさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100115/1263508040#c1263696746

ひろしさんのコメントを拝見すると、「善が出来るとばたばたしている」ということを「自力で助かると思っている」ということで言われています。

「自らの力でする善」と、「自らの力で行った善を阿弥陀仏に差し向けて往生しようとする心」と二つありますが、前者の「自らの力でする善」を「自力」と言われているように思いました。

阿弥陀仏の願力は無窮ですから、どんな暴れても必ず救うお働きがあります。

この内容ならば、自力のままで助かるという事なのでしょうか?(ひろしさんのコメント)

「どんなに暴れても」と私が書いたのは、「どれだけ逃げても逃がさぬお慈悲」という意味でかきました。逃げる姿、西に向かわず東に向かう姿とは煩悩具足の凡夫の姿なので、煩悩具足の姿のまま救われると言うことで書きました。

自力と言うのは、親鸞聖人がいわれるのは以下のものです。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息6

わが身をたのみ、わが計らいの心をもって三業を立派にして往生しようと思う心を自力といいます。

「三業を立派にして往生しようと思う心」が自力であって、「三業が立派にできると思う心」は自力とはいいません。

ひとつ気になりましたのは、「自力という丸太にしがみついているのでしょうね」といわれていましたが、自覚の上では違うということでしょうか?

「頭ではわかっている」ものと、実際の感じは違うとすれば、実際はどうなのかと思いました。

言葉の上では分かるし、自覚もあります。

しかし、私の自覚が自力かどうか、わかりません。

例え私が自力を自覚したからといって助かるのではありません。

そこから先が問題だと思います。(ひろしさんのコメント)

自覚というのが、コメントの文面の流れからすると、「自分は善ができると自惚れている」という自覚なのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか?

2009-12-10 阿弥陀仏は石像でも木像でもありません(頂いた質問)

阿弥陀仏は石像でも木像でもありません(頂いた質問)

2009-11-12

分かるか分からないかで救いをはかるのが、仏智の不思議を疑うこと(頂いた質問)

問答

いつまでたっても助からないと,「自分だけ本願から除かれているのではないか」「私は助からないのではないか」「弥陀の本願,本当なのだろうか」という心が出てきますが,これらは疑情でしょうか。法に対する疑い,機に対する疑いでしょうか。「仏智疑う罪深し」の疑いでしょうか。(頂いた質問)

回答します。

お尋ねのように阿弥陀仏の救いに向かっていろいろとでてくる心は、ひろい意味で疑情といえます。

しかし、いろいろ出てくる心を、あれこれ詮索することは、それ自体が法に向かっていないので、「それは疑情だぞ」ということはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091112/1258033900

法に向かっていないとは?

また、この文章で言えば「信心」について「どのように心をもち、阿弥陀仏を何とようにたのむのか」ということについての答えです。

「どうすれば救われるのか」ということであって、「どうすれば自力が分かりますか」ということではありません。

自力の心の概念の定義づけにとらわれると、阿弥陀仏に救われる為なのか、自力を知るためなのか、混同してしまいます。

この部分がさっぱりわかりません(頂いた質問)

回答します。

法に向かっていないというのは、何に助けて頂くかと言えば、阿弥陀仏の本願力であるのに、阿弥陀仏の本願のこころに向かわず、自分のこころにばかり目が向いていることを書きました。

お尋ねのように、「これは疑情でしょうか?」という問いに対して、答えていないのではないかと感じられたのだと思います。

いろいろと出てこられた心について、これは疑情でしょうか?という問いは、大事な事ですが、それにとらわれると、「阿弥陀仏に救われるため」から、「自力がわかるため」に変わってしまいます。お尋ねのように混同してしまいます。

阿弥陀仏にすくわれるには、まず自力がわからねばならない」

「どうすれば自力がわかるのだろう」

「私の心にあるはずだ」

このように自分のこころの姿ばかり問題にするのは、大前提として、阿弥陀仏が動いて下されない仏だと思っているということになります。

例えていいますと、「大魔神」のような阿弥陀仏だと思われているのではないかと思います。

「大魔神」とは、1966年公開の特撮時代劇映画ですが、簡単なストーリーを紹介しますと

舞台設定を戦国時代におき、悪人が陰謀をたくらみ、民衆が虐げられると、穏やかな表情の石像だった大魔神が劇中で復活・巨大化して動き出し、クライマックスで破壊的な力を発揮(wikipedia-大魔神)

(純粋な乙女の涙で大魔神は動き出します)

というものです。

この大魔神のように、ものすごい力はあっても、なにか助けて欲しいという願いを出したり、なにかきっかけがないとその力が発揮されないように思われているのだと思います。

阿弥陀仏は、本願を建てられてより、ずっと動きずくめです。私を助けようと働いておられる大慈悲心の仏です。

その阿弥陀仏を、石像にしてしまって、

「自力がわかれば、石像から生きた阿弥陀仏に復活して助けて下される」

「罪悪観が問い詰まれば(以下略)」

「もっと真剣になれば(以下略)」

「もっと善に励んだら(以下略)」

「もっと○○したら(以下略)」

と思うのは、反対です。

阿弥陀仏がなんとかと働いていおられるのに、私が石像のように反応せず動かないのです。

自力を探すのは、それが「わかった」ということを阿弥陀仏に差し出して、勝手に動かないと思っている阿弥陀仏を動かそうという心です。

阿弥陀仏は、現在も動いて、生きて働いておられますから、その阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

参考資料

D

2009-12-01 行者からは不回向が阿弥陀仏の本願(Kさんのコメント)

行者からは不回向が阿弥陀仏の本願(Kさんのコメント)

「もっと○○したら」ではないということは分かります。そういうことが思われてきたときは、

「でもそれも自力だからやめておこう」というように思います。更に「だからやめておこう」というのもまた

それによって助かろうとする心で「それもダメなのか」と気落ちしてしまいます。

おすぎさんも書かれていますように、「ただ今救われます」と言われますがなかなか救われません。

「こうしなければならないという思いは、他力回向を疑う心から起きます。」とは、

こうしなければならないという思いをなくしなさいということでもなければ

他力回向を疑うのをやめよということでもないのですよね?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259248986

回答します。

「やめておこう」も「こうしなければ」も「○○と思うのをやめよう」というのも、阿弥陀仏の本願力回向と一歩距離を置いた上で、その距離を自分の行為で縮めようという心から来ます。

阿弥陀仏は現在ただ今私を救おうと働いておられるので、遠くにある、また距離があると思うのは幻想です。阿弥陀仏から回向されるものですから、私の方から見れば不廻向なのです。「疑うのをやめよ」も「疑わないように思おう」では、「疑わないこと」を私からさしむけるので、不廻向ではありません。

かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり。

このいはれなるがゆゑに、南無と帰命する衆生をかならず摂取して捨てたまはざるがゆゑに、南無阿弥陀仏とは申すなり。(御文章3帖目8通・不廻向

私の方からしない回向であるから、阿弥陀如来の回向を、私からは不廻向というのだ。このことから「南無」の二字は、帰命であり、発願廻向のこころなのだ。

発願廻向だから、行者に先回りして阿弥陀仏の本願力回向によって救い、摂取して捨てられないから南無阿弥陀仏というのだと言われています。

雑行を捨てよ、自力を捨てよと御文章に幾たびもあるのは、行者からの回向は不要であるといわれているのです。

思うとか思わないとかいうのも、「自分が思う・思わない」が出発点になるので、なぜ救われるかという出発点が違います。私が出発点ではなく、阿弥陀仏が出発点で回向される法ですから、他力回向の南無阿弥陀仏なのです。

2009-11-30 「もっと」の思いが有るか無いかよりも差しだそうとする心は不要です

「もっと」の思いが有るか無いかよりも差しだそうとする心は不要です(おすぎさんのコメント)

おすぎさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ただ今救われる と教えて頂いてもなかなか救われません。時間が経てば経つほど 

焦る心が出て 言い訳する心で一杯になります。阿弥陀仏の本願に間違いはないのだから、自分の心がけに問題があると 考えてしまいます。そうすると 「もっと」の思いが 出てきます。

「もっと」の思いを持ったまま 救われるのでしょうか?。(おすぎさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259197314

回答します。

自分の心がけに問題があるというのも1つの考えです。しかし、自分の心がけだけが救われない原因とすると、それを自分で直せば救われることになりますので、自分で直してから、阿弥陀仏が初めて回向して下されると言うことになります。

阿弥陀仏の本願に間違いはありません。必ず救うと阿弥陀仏の大慈悲から、私に回向して下される法なのです。

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば

不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(正像末和讃39

コメントにある「もっと」というのは、「自力の称念きらはるる」といわれたものと同じ心です。もっとと、いろいろなものをわがものとして阿弥陀仏の救済の為に差し出そうという心が自力の心であります。

回向しようと、もっとと出そうとするから捨てよといわれるのであって、阿弥陀仏の本願はもともと、弥陀の方から回向される法ですからそのままの救いです。

「もっと」も「考え」も最初から不要なので、ふりすてよといわれるのです。阿弥陀仏は、ただ今救うという御心ですから、私が「もっと」と差し出そうとしても、「そんなの関係ない」と先回りして救って下さるのです。

「もっと」という思いが良いのか悪いのかと、救いに結びつけるから捨てよといわれるのです。出そうとするから捨てよといわれるのです。不廻向の法ですから。

何を回向しても救いとは「何も関係ない」というのが阿弥陀仏の本願です。

救われるかどうかは、私の心の状態をみて決まることではありません。弥陀回向の南無阿弥陀仏によって救われるのですから、ただ今救われます。

2009-11-27 「布団は何枚もある」という布団一枚があるだけです(nowhereさんの

「布団は何枚もある」という布団一枚があるだけです(nowhereさんのコメント)

nowhereさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

この距離感の原因は本願に明らかです。すなわち「唯除五逆 誹謗正法」です。ただいま救う弥陀の心を遠ざけているのは、過去世からの私の作ってきた罪悪です。それが、今の私の心には「名号の功徳を信じない心」「他のものをあて力にする心」「月を遮る蓋」となって顕れているのでしょう。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

「五逆の罪、誹謗正法の罪」を造ったから、自力があるのでありません。

誹謗正法については、以下のお言葉にあるとおりです。

問うていはく、なんらかの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩報といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(教行信証信巻・往生論註引文

仏も仏法もないといい、その考えを自分で考えたり、人から聞いてそう思うのを誹謗正法というと言われています。

しかし、無仏、無仏法という心や造った罪は、自力そのものではありません。コメントにある表現を使えば、「月を遮る蓋」ではなく、「蓋の下の水」にあたります。

誹謗正法の者だから他のものをあて力にするともいえますが、誹謗正法の罪を造ってきたから自力の心があるというのであれば、罪を消さねば自力の心が無くなることはないということになります。

五逆謗法の罪については、尊号真像銘文にいわれていますが

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文

五逆罪、謗法罪の罪の重さを知らせて、もらさず救うという本願のこころであって、「お前たちは五逆誹謗正法の罪を造ったから現在助からないのだ」と私を、はねつけられているのではありません。

罪を造っているものなら、なおさら救ってみせるという大慈悲の現れが「唯除五逆誹謗正法」の御文です。

この蓋は一枚ではなく、幾重にも重なってできている。T会長の例えでは「下の心を覆うたくさんの布団」のことでしょう。この蓋を取らずして、布団を剥がさずして、名号を受け取ることはできるのでしょうか。「ただいまの救い」に遇えるのでしょうか。答えは否でしょう。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

いろいろ出てくる心はあっても、救いを隔てているのは、阿弥陀仏の本願を疑う心1つであり、自力の心だけです。

いくつも見えても、実体は1つです。

蓋というのも1つのたとえですから、救われていない状態を「蓋ある水」といわれたのであって、蓋を取るとは、「救われなさい」ということです。

コメントの表現を使えば、名号を受け取る=蓋を取るですから、別のことではありません。蓋を取って名号を受け取るのでもなければ、名号を受け取って功徳がわかってから、蓋が取れるのでもありません。

(中略)

そして時満ちて、自力がそのあて力にしていたものを、すべて自ら手放したとき(宿善開発)、弥陀は名号を回向し、行者は全領するのではないでしょうか。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

いくつも段階はありません。

あて力になったものを手放して、初めて回向される阿弥陀仏ではありません。仏智不思議の名号は、現在ただ今回向されているのです。有る段階になってから初めて回向されるのではありません。

手放さないと、布団を一枚一枚とっていかないと救われないのであれば、ただ今救われることはありません。

ただ今回向されている名号を聞いて救われたのが、自力がなくなったということです。言葉が違うだけで同じ事です。

布団は残っていません。

といいますか、最初からないのです。布団があると思っている計らいを捨てて、現在救うぞと働いておられる阿弥陀仏に救われてください。

2009-11-15

ずっと続きません。必ず阿弥陀仏に救われることがあります(頂いた質問)

ただ、自力無功、他力回向、まかせる、これ一つと分かるのですが

(略)

御文章(2帖目15通)に「されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。

とありました。

まかせる まかせる まかせる まかせようとする心も自力、、、、ずーっとこのままでは困ります。

回答します。

ずっとこのまま続くのではありません。必ず救われる事があります。

阿弥陀仏は、私たちを決して捨てられはしません。

ご和讃にも、摂取してすてないから阿弥陀というのだといわれています。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

まかせるというのは、「『まかせる』ということをする」のではありません。

それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。(御文章2帖目14通

私たち凡夫が、浄土へ参るための用意をされたのが、他力の信心です。

浄土往生の用意をしていただいたのです。費用は全部持つと阿弥陀仏が言われているのです。

日常生活でも「費用を出してもらった」といったら、私が何か「した」のではありません。ただ「出してもらった」のです。加えて、用意をされたというのは、旅行で言えば、往復の旅費、宿泊代だけでなく、道中の食事代も全部出すと言うことです。

往生浄土に関しては、私が出すものは何一つ無いと言うことです。

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。(御文章2帖目15通

そのことを、「さらになんのやうもいらず」と言われているのです。

阿弥陀仏に浄土往きの費用を出していただくということです。阿弥陀仏も、おさめ、たすけ、救うと言われているのです。

必ず救われると言うことがあります。つらいときは阿弥陀仏が苦しんでおられるのです。五劫思惟も、兆載永劫のご修行も、私一人を助けるためのものなのです。

大千世界に多くの仏や、人有れど、そこまでして下さるのは阿弥陀仏だけです。

これも自力、あれも自力と思って行き詰まったら、それは捨てものだということです。自力を捨てて弥陀をたのむ一つで救われます。

2009-10-29 自力を捨てて弥陀をたのむか、弥陀をたのみて自力を捨てるか(maryさ

自力を捨てて弥陀をたのむか、弥陀をたのみて自力を捨てるか(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

御文章に「雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」とか「自力なんどいう悪き心を振り捨てて」などどあるので、阿弥陀仏の救いに預かろうとした時、どうして気になる言葉です。「救われるか、救われないか」の、信・不信が問題だと毎回御教示頂いておりますが、自力という言葉を概念として理解しようとする(とらわれる)ことは、我身の獲信にとってよくないということでしょうか?

また、自力という事を一切意識上気にしないままで、救われるという事が可能でしょうか?

教えて下さい。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091009/1255097531#c1256764787

回答します。

自力と言う言葉を概念として理解することは、大事です。親鸞聖人が、自力とはこういうものであると解説されています。しかし、それ以上に何かを知らねばならないということがあるのではありません。

自力を捨てるとは、他力に帰することです。

自力を捨てるとは、自力を知って、よくよく分かることではありません。阿弥陀仏に救われることです。

捨自帰他ともいわれますが、自力を捨てることが、他力に帰することであり、他力に帰することが自力を捨てることです。

「自力をすてて弥陀をたのむ」と書いても、「弥陀をたのみ自力をすてる」と書いても同じ事です。

御文章には、「自力を捨てて弥陀をたのめ」と書かれる場合が多くありますが、親鸞聖人のお言葉でいえば、前後を逆に書かれているところもあります。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ(唯信鈔文意

コメントをされた御文章について、前後を紹介します。

さればその信心というは、いかように心を持ちて、弥陀をば何とようにたのむべきやらん。それ信心を取るというは、ようもなく、ただ諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり。(御文章5帖目15通

「雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑いなき」を真実信心と言われています。

雑行・雑修・自力をふりすてるには、「ようもなく、ただ」と言われています。よく知りなさいとはいわれていません。

また、この御文章で言えば「信心」について「どのように心をもち、阿弥陀仏を何とようにたのむのか」ということについての答えです。

「どうすれば救われるのか」ということであって、「どうすれば自力が分かりますか」ということではありません。

自力の心の概念の定義づけにとらわれると、阿弥陀仏に救われる為なのか、自力を知るためなのか、混同してしまいます。

どうしても自力がわからねば、捨てられないはずというようにとらわれる心があるのでしたら、「一心に深く弥陀に帰する」ように心を変えることが大事です。

「弥陀に帰する」も「自力を捨てる」も同じ事だからです。

「自力が分からねば助からない」「自力が分からない私は助からない」ということが、悩みになるのでしたら、それは一度横に置いて、阿弥陀仏をたのんで下さい。阿弥陀仏をたのめば自力は廃ります。

向き合うのは、阿弥陀仏であって、私の心ではありません。ただ今阿弥陀仏に救われます。

2009-10-08 「強く信じた者」しか救われないのではありません(nowhereさんのコメ

「強く信じた者」しか救われないのではありません(nowhereさんのコメント)

nowheraさんよりコメントを頂きました。

(中略)

振り返ると、これまで多かれ少なかれ、阿弥陀仏を「感じ」ている部分があるように思います。むしろ「感じる」ことなしには、これまで求めては来れなかったように思います。「感じる」体験の数々が、私の求道の歴史であったように思います。

そう思ってみれば、「火を触ったよりもハッキリする」と言われる体験をするまで、ぼんやりとでもよいから「感じる」ことを目指すしかないのでしょうか。強く信じた者にしかできないことを、本心では全然信じていない私がやっていく矛盾をかかえながら。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091007/1254879630#c1254908793

回答します。

ぼんやりとでもよいから「感じる」ことを目指すのではなく、ただ今阿弥陀仏に救われて下さいということです。

強く信じた者にしかできないというものが、阿弥陀仏に向くと言うことではありません。阿弥陀仏の方から向かせてくださるのです。

また、「本心では全然信じてない」というならば、どこか信じているところもあるというように思われますが、それでよいと思います。

「本心で信じていない」が、「信じていない心がある」というのならば、阿弥陀仏に救われてもなくならない煩悩の疑いで「信じてない心」はあります。しかし、その「信じてない心」があっても、往生のさまたげにはなりません。

疑情も疑煩悩も含めて、100%「疑い」が無くならないと救われないと思うのは、自分の心の善悪で、本願を計らっているのです。

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(親鸞聖人御消息6

(大意)

わが身が悪ければ、阿弥陀如来は迎えに来ては下されないと思ってはならない、凡夫は元から煩悩具足しているから、悪い者と思いなさい。また、自分の心がよければ浄土に往生出来ると思ってはならない、自力の計らいでは、真実の極楽浄土へ生まれることはできない。

コメントで頂いた言葉からすれば、「本心では信じてない」私を阿弥陀如来は助けて下さらないと思うべきではありません、元から「本心では信じていない」ので煩悩具足と言われるのです。強く信じたら助かると思うべきでもありません、それは自力の計らいですから、わが心の善悪では極楽往生することはできません。

最後に、

「火を触ったよりもハッキリする」と言われる体験(nowhereさんのコメントより)

についてですが、疑い晴れた南無阿弥陀仏を頂くという意味では、ハッキリするには違いありません。

しかし、「火に触ったハッキリ」よりも「ハッキリする体験」と思えばそれは間違いです。

「火に触った体験」は、「熱い!」という皮膚感覚であり、三業のことです。そのような体験が、誰にでもあると言えば間違いです。体験は三業ですから、人によって違います。そのようなハッキリとすれば、疑情も疑煩悩すべて「疑い」が、全部無くなってしまう体験ということになってしまいます。

共通しているのは、私の善悪に関係なく救うという南無阿弥陀仏だけです。ただ今救うという本願に、ただ今救われて下さい。

決して「○○している者は助かる、○○しない者は助からない」という本願ではありません。

2009-10-02 リンク先がうまく表示されない問題・最後の学徒さんの質問に回答しま

「何か手立てを捜さずにはおれない自分」は変わるか?(最後の学徒さんのコメント)

最後の学徒さんよりコメントを頂きました。有り難うございました

「ただ今の救いであり、往生に役立つ者は何も無いと聞かされていても、何か手立てを捜さずにはおれない自分と知らされ、謗法の者と知らされ」たと表現された事と、やまもやまさんの自力の計らいが廃る事とは関係がありましたでしょうか?(最後の学徒さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090930/1254301341#c1254325144

回答します。

自分が弥陀の本願に対してあれこれと手立てを考えることと、自力の計らいが廃ることとは、因果関係はありません。

阿弥陀仏に救われるかどうかは、阿弥陀仏のお働きによるもので、私の働きではありません。

あれこれと手立てを考えるのは、私が勝手にやっていることです。自力の計らいが廃るのは、阿弥陀仏のお仕事です。

やまもやまさんの言われるところの

「何か手立てを捜さずにはおれない自分」は変わるのか変わらないのか。

変わるとしたら何によって変わるのか。

変わらないとしたら、変わらないまま救われるのか。

やまもやまさん自身の知らされた姿なのでしょうが、

私自身の姿とも思えます(最後の学徒さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090930/1254301341#c1254327062

回答します。

救われる為にあれこれ手立てを考えることは、救われたらなくなります。

しかし、あれこれ考える煩悩具足の者という姿は何も変わりません。

前回のエントリーで紹介した、歎異抄3章にあります。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄3章

阿弥陀仏は、私たちを煩悩具足の凡夫と見抜いて、それをあわれに思われて本願を建てられました。それは、煩悩具足の凡夫を、悪人のまま救うというものです。

悪人が成仏するのは、善人になるということではありません。他力をたのむということです。

疑いということをいうならば、煩悩で言う疑う心は何もかわりません。疑い晴れた南無阿弥陀仏をそのまま聞信することです。

細かく言えば、手立てを捜す者ということと、誹謗正法ということはイコールではありません。誹謗正法の者というのは、あくまでも阿弥陀仏の法の上で知らされることです。

法の上で、救われた自身が知らされることであって、私の力でどうこうしたから知らされることではありません。

2009-09-09 一心一向に弥陀に帰命しなさいというしかないと思います(Kさんのコ

一心一向に弥陀に帰命しなさいというしかないと思います(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

すみません、9/6のエントリーにコメントしてしまいましたが、タイミングから考えてその講師の方はそれより前のエントリーを読まれ全体的に見られて言われたと思います。

善巧方便についてですが、阿弥陀仏に救われることと関係のある善の勧めについて否定している(ように見える)ことに対してのことだと思います。

それと、阿弥陀仏、お釈迦様、親鸞聖人はもちろんですが特に高森先生の善巧方便ということではないでしょうか。講師の方自身の善巧方便とはあまり思ってないでしょう。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090907/1252327845#c1252332650

以前のエントリーで、私たちの善行と阿弥陀仏の救いは無関係であると書きました。こう書くとどうも、親鸞会関係の方は、「善の勧めを否定した」と読むようです。

善巧方便とは、他の方のコメントにもありましたが、あくまでも阿弥陀仏や、お釈迦様が真実を分かられた上で、私たちを巧みに導かれることをいいます。

親鸞聖人も、「仏意はかりがたし」といわれています。仏でない凡夫の身では、仏と同じようには分からないのです。

そういう前提で、親鸞聖人は、阿弥陀仏、釈尊の教えられた御心を、私たちに伝えて下さいました。法に対しては、頭を垂れるという親鸞聖人のお姿を通して、阿弥陀仏の法の尊さを私たちも知らせて頂くのです。

そこで、高森会長の善巧方便とはいわないにしても、そう思っているのなら間違いです。「親鸞聖人も明らかにされなかったことを、明らかにされるこの方は、親鸞聖人と同等かそれ以上の善知識である」という心なのかもしれません。

個人的にそう思うこと自体は、構いません。しかし、それを他人を批評するときの背景に使うのは間違いです。親鸞聖人が言われなかったことだという批評なら、間違ったところは直していかねばなりません。

しかし、高森会長と違うから間違いというのは、是非の基準が特定の個人の意見です。そのような批判は、真宗教義上の是非ではなく、高森会長の言うことを信じられるか、信じられないかということになるので意味がありません。


阿弥陀仏の救いにあうまで、何を勧めるか?

阿弥陀仏の救いに遇うところまでどのようにして導いたらよいのかということについて山も山様がどのように考え実行されているか教えてください。私自身が知りたいということもありますが、「あれは、善巧方便ということが分かっていない人の書いた文章」ということについて反論があればしてほしいということです。(Kさんのコメント)

蓮如上人がいわれるように、いうしかないと思っています。

そもそも、善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。(御文章2帖目11通)

人に法を伝えるのならば、その仕事は「一心一向に弥陀に帰命しなさい」というだけであると言われています。ただ今阿弥陀仏に救われなさいと人に勧める以外にないのではないでしょうか。

「それだけ伝えるのは不十分」と思うから、「善を勧めないのはおかしい」というのではないでしょうか。「念仏に偏っている」と、法然上人を攻撃した聖道仏教の僧と同じ批判です。念仏以外に何か往生の足しになるもの、往生と関係がある善があるという話を聞いて動揺した関東の同行と同じ心です。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。(歎異抄2章)

阿弥陀仏の本願念仏以外に、往生の道や、他の法文を知っていると思っているのならば、大変な誤りであるといわれています。

「あれは善巧方便ということがわかっていない人の書いた文章」についての、反論というものは特にありません。

ただ、一言いうならば、親鸞聖人は関東の同行に「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」という以外に何かがあると思うのであれば、「南都北嶺のゆゆきし学匠」に往生の要をよくよく聞きなさいと言われました。

今日であれば、「本願寺の学者を一撃で撃破する大学者」に往生の要をよくよく聞きなさいといわれるのではないでしょうか。


「○○したら助かるというのは間違い」の意味について

親鸞会では「○○したら助かるというのは間違い」と教えられていますので上記ご回答の内容は(そのように思っている人が会の内外ともに多いのは事実だと思いますが)親鸞会の教えがそうだと言われるのであれば当たっていないと思います。(Kさんのコメント)

親鸞会で「○○したら助かるというのは間違い」といっているのは、「自力が間に合わない」という本来の意味とは違う意味で使われていると思います。

「自力が間に合わない」とは、阿弥陀仏にむかって」○○したら助かるというのは間違いということです。しかし、親鸞会では、お聖教上の根拠で自力無功を教えられた御文を出しますが、言っていることは、終始一貫して「自分の心が」○○したら助かるというのは間違いと言っています。

以下は、実例として、親鸞会関係者のサイトから

信心のバーゲン・セールとその大罪

泣いたのが信心でもなければ、笑ったのが信心でもない。

慟哭したのが信心でもなければ、はいずり回ったのが信心でもない。

スッキリしたのが信心でもなければ、ハッキリしたのが信心でもない。

念仏が止まらなかったのが信心でもなければ、有り難くなったのが信心でもない。

嬉しくなったのが信心でもなければ、尊く思えるようになったのが信心でもない。

合点したのが信心でもなければ、叫ばずにおれないのが信心でもない。

家庭の円満なのが信心でもなければ、健康に過ごせるのが信心でもない。

安楽椅子は無数にある。(以下略)

【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト

http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/group/naze78kejyou.html

「泣いた」とか「笑った」など、どの表現も「自分が」こうなった、ああなったのが信心ではないと、常に自分の心の動きばかりを問題にします。

結果として、泣いたのが信心ではないから泣かないように、笑ったのが信心でないから、笑わないようにしよう。慟哭したのが信心でもないから、慟哭しないようにしよう(以下略)となっているように思います。

「(私が)○○したら助かるというのは間違い」という言葉によって、結果として何も思わないように、ただただ自己の罪悪ばかりを問題にしようとしているのではないかと思います。

本来は、「阿弥陀仏に向かってどれだけ自力の善を差し向けても、自力の善根では助からない」という意味で使う「○○したら助かるというのは間違い」という言葉が、「私が泣いたり、笑ったり、喜べたりしたら助かると思うのは間違い」となっています。

主語が、阿弥陀仏ではなく、私になっているという点で間違いです。

ただ、自分の心がどうなったかということは、阿弥陀仏に向かねば、ただの心の動きです。それがどうなったところで、信心ではないのは当たり前です。

問題にするのは、阿弥陀仏にむくかむかないかであり、ただ今救われるか救われないかです。

阿弥陀仏を抜きに、自分の心をどれだけ問題にしても、終わりがありません。

2009-07-14 同じ所をグルグル回る理由(Rudelさんのコメント)

同じ所をグルグル回る理由(Rudelさんのコメント)

Rudelさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「変わらないはずの自分の心を一生懸命変えようと頑張っていくと、阿弥陀仏の本願に心がかからなくなります」

「力んでみたり、もうわからんとなるのは、自分の心に振り回されているのです」

このお言葉、まさに僕の姿だと思います。

どう信じたら、どう心をかけたら、どうしたら、と、同じ所をグルグル回っている状態です。

ただ今阿弥陀仏にすくわれると毎回教えていただきますが、「現に今、すくわれていないのに…これは一体、どういう今なのか、どうなった今か」「阿弥陀仏は、どうせよと仰っているのか」とすら考えてしまいます。

どうしたらよろしいでしょうか。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090713/1247484668#c1247487201

回答します。Rudelさんの書かれていることは、よくわかります。

Rudelさんに限らず、このブログにコメントを下さる方の悩みはどれも尊い悩みだと拝しております。

阿弥陀仏の救いを求めていくと同じ所をグルグル回っているような感じになると思います。

なぜそうなるのかを少し考えてみました。

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を廻向してくださり、それに対して私は信順し(たのむ)、名号を受け取るのが他力の信心のすがたです。

これに対して、本願を信順し、阿弥陀仏をたのむとはどういうことか、「それにはまずどういう心にならねばならないか」と、自分の心の動静に心が向いてしまうので、自分の心で自分の心を見ればどうなるかというと、ちょうど鏡あわせのように、どこまでいっても終わりがありません。

Rudelさんのコメントの文章を使えば

「どうなった今か」→「どうにかならねばならない」→「どうしたら救われるのか」→「どうなったらいいのだろう」→「どうなった今か(最初に戻る)」

となります。

阿弥陀仏は何かを要求されているのかといえば、凡夫に何も要求はされていません。要求というのは、往生の足しになる行ができる相手にいってこそ意味があることです。往生のたしになるような行が一つもないものだからこそ、名号を作られたのだと親鸞聖人はいわれています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(教行信証信巻)

無始からこのかた清浄の心もなく、真実の心もない私だから、阿弥陀仏は兆載永劫の行をなされたのです。

「なぜ阿弥陀仏によらねばならないのか」という人には、「自分の心を見つめなさい」ということも必要だと思います。

しかし、「自分の心をどうにかしなければ助からない」という人には「阿弥陀仏をたのみなさい」と勧めます。

「自分の心を深く見つめて、何かがわからねば助からない」というのは、誰が言っているのでしょうか?親鸞聖人はそのように教えてはおられません。

自分で自分に弥陀の救いに対する条件付けをしているのです。思い込みともいいますが、それも一つの自力の計らいです。

どうしたら助けてもらえるかと阿弥陀仏に直接訪ねてみれば、そのまま救うというのが阿弥陀仏です。心をどうにかしろと本願に誓っておられません。

「諸々の雑行を投げ捨てて一心に弥陀に帰命」することが大事です。

2009-07-01 自力とは何か(papaさんのコメント)

自力とは何か(papaさんのコメント)

意識を空から見た氷山の一角とすると、救われるとは氷山全体が認識できるようになる(私全体がわかる)のかと思っておりましたが、

そうではないようですね。

自己がはっきり認識できなくても救われるという理解でよろしいでしょうか?

また意識=自力ではないとのことですが、捨てようとする自力は意識に出たものではないでしょうか?(papaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090630/1246347255#c1246351332

回答します。

おそらくpapaさんの質問の趣旨は、「善のできない自分が知らされたときに救われるのでしょうか?」という質問とほぼ同じ内容だと思います。

阿弥陀仏に救われると知らされる姿を、機の深信ともいいます。

しかし、機の深信が立ったら救われると言うことでは有りません。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

また、阿弥陀仏に救われた知らされるというのは、上記のお言葉に表された「出離の縁有ること無し」という姿であって、それ以外に自己認識の領域が拡大すると言うことでは有りません。

意識以外のもの、心理学的にいわれるような潜在意識が「自己」の領域拡大により、潜在意識が顕在化するということではありません。

阿弥陀仏に救われても、煩悩具足の凡夫は変わらないというのはそういうことです。

また、意識というのが唯識でいうところの意識を指して言われるのであれば、真宗学と唯識は領域がそもそも違うので真宗で言われる言葉(自力)が、唯識ではどれに当てはまるかと言うことは信仰を求める上ではあまり関係のないことです。

また、意識=自力ではないといいましたのは、「意識=自力」としますと、私たちが認識している、思うことすべてが自力ということになります。

「自力の心を振り捨てて」といわれる、自力は、私たちがいろいろと思うことの中でいいますと、ただ今の阿弥陀仏の救いに向かったときに、自分の三業をあてたよりにする心であります。それ以外は自力とはいいません。

そういう意味で、意識=自力ではないと書きました。

自力の心は「心」です。また、「自分の中にある心」です。決して、辞書の中にあるものではありません。

本の中に書いてある虎の話を読んで、「こういうのを怖いというのだろう」と思うのと、実際に虎にあって「怖い」と感じるのは違います。

また別の例で言いますと、恋愛小説(映画・漫画)をいくらよんでも、人を好きになった人でないとその感情(心)は分からないのと同じです。

心理学的、脳科学的考察をいくら積み重ねても、愛情というものは感ずるものであって、解析するものではありません。解析しても、感じなければないのと同じだからです。

同様のことは、自力の心も似たようなところがあります。ただ今弥陀に救われようと、実際向かわない人には、自力と言うのはお聖教を百回読んでも感じることはないでしょう。

自力の心とは理解して、捨てるのではなく、感じて捨てるものです。

自力が意識にでるというのは、どう思われていることかはわかりませんが、認識すると言うことから言えば意識に登るものです。

2009-06-24

阿弥陀仏に救われるとは、正解がわかることではありません(Kさん、Tさん、Rudelさんのコメント)

前回のエントリーに複数コメントを頂き有り難うございました。コメントに対してまとめてエントリーします。

確かに自力の心があるから救われないのですが、自力が何かを実感として分かられた上で「自分はどうすればいいのだろうか」という質問なのか、それとも「自力は阿弥陀仏が破って下されると知っている」と知っているが、自分はどうすればいいのだろうかという質問なのかによくわかりませんでした。

後者です。自力が何かを実感として分かっているのとそうでないのと何か違うのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245764619

前者だと「どうすれば自力がすてられますか?」

後者だと「自力とはどんなものでしょうか?」

と、質問する内容が違ってきます。

違うように思うのは、自分の心に問いかけないからです。

自分の心に何と問いかけるのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245764619

ただ今阿弥陀仏に救われたい、どうして自分はただ今救われないのだろうかと、自分の心に問いかけるということです。

自力の心とは、なぜ自分は救われないのかという問いかけに対して出てくる心です。問いかけずに救われる方法論として自力の心を探してみても、「方法論」は自分の心の外に回答を求めることですから、見つかりません。

私が用意するものはありません。邪魔をする自力を捨てるのです。

やはり邪魔をする自力を私が捨てる必要があるということですね。

屁理屈のように思われてしまうかもしれませんが、自力を捨てるということを私が用意しなければならないということですよね。

「私が用意するものはありません。」だと「何もしなくていい」と同義にしかとれないのは私だけではないと思います。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245764619

では、何もしなくても助かるのですか?

自力を捨てなさい、ということは、何をしようとも考えないことですか?

「自力を捨てて」といわれても、具体的に何をどうするのか分かりません。(T さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245756905

これに関しては、ひろみさんもコメントされているとおりです。

「自力をすてるということ」という行為をしろといっているのではありません。それでは、私が用意したものが、往生の助けになるということになります。

「用意をする」というのは、不足分を足すという考えです。自分のやったこと、考えたことを足しにして助かるという本願ではありません。

「三業」(なにかをする、いう、考える)を、あて力にする心が自力であって、あて力の対象になっている三業そのものが自力の心ではないのです。

たとえば、「これだけ念仏を称えたから早く助かるだろう」という、場合は、「念仏を称える」という行為をあて力にして「早く助かるだろう」と思います。この「早く助かるだろう」と往生の足しにする心が自力の心で、念仏そのものが自力の心ではありません。

Tさんのコメントでいえば「何もしようとも考えなければ早く助かるだろう」となります。「何もしようとも考えない」という行為をあて力にして「早く助かるだろう」とするのが自力の心です。

具体的にいえば、用意するものがらではありません、何をもってきてもそれを往生の足しにする心(自力の心)を捨てるということです。

ただ、「自力を捨てよ」なのですよね。「私が用意するものはありません。」は、私が用意した何かの力によって助かるのではないという意味ですよね。

「何もしなくていいのか」と「何かする必要がある」の間を長い間揺れ動いてきているように思うのですが何も進展がないのです。ここで質問しても申し訳ありませんが変わっていません。

しかもおそらくこれはとても程度の低い問題なのではないでしょうか?(Kさんのコメント)

程度というものはありません。誰もが陥りやすいところだと思います。

「助かる方法論があり、それを知り実践して助かる」という前提に立つと「何もしなくていいのか」と「何かする必要がある」の間を動き続けると思います。

しかし、「助かる方法論があり、それを知り実践して助かる」のではありません。「助かる方法論=自力を捨てよ」ではありません。

「助かる方法論がある」という前提を捨てよというのが、自力の心を捨てよということです。

「自力の心がわからねば、捨てられない」のは事実です。しかし、「自力の心をどこかにあると探す」と見つかりません。

「どこかに自力がある」というのは、「自分は知らないから助からない」という考えであり、「知ったら助かる」という考えなのです。自分が知らない知識体系を理解し、発見したら助かるという考えは、いわば賢くなったら助かる。賢くないから助からないという考えです。

方法論として突き詰めると、Rudelさんのコメントのように

捨てようとする心も自力、それじゃ捨てようがないじゃないか、と考える心も自力、考えなくても(考えるのをやめようとしても)自力、「ただ今そのまま南無阿弥陀仏をうけとれ」を、自分の頭の中でひたすら解釈しようとしても自力、もう何が何だかわからなくなるばかりです。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245801134

何が何だかわからなくなるとおもいます。

考えることが悪いのではありません。が、「自力」という言葉にあまりにもとらわれてしまうと、出口がなくなってしまいます。自力がすたるかどうかは、体験することだからです。

末灯鈔に書かれているお言葉を紹介します。

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、確かに承り候いし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるをご覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまいしを、見まいらせ候いき。文沙汰して、さがさがしき人の参りたるをば「往生はいかんがあらんずらん」と、確かに承りき。(末灯鈔8)

法然上人は「阿弥陀仏の本願は愚者になって往生する」といわれた。物も覚えられない人が参詣するのをご覧になっては「必ず往生するだろう」と笑っておられた。文字の解釈をいろいろする人がやってくるのを見て「往生できるだろうか」といわれたとのことです。

庄松同行のように、文字も読めないような人でも往生するのですが、「自力とはなにか?」と真剣に悩んだのではないと思います。

「なぜただ今助からないか」「自力がどうすればすたるかどうか」で悩んだのだと思います。

ただでいかれる身をもちながら おのが分別いろいろに

おのが分別さっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ(お軽同行の歌)

と歌っています。おのが分別とはいろいろ考えることでありますが、ここでは自力の計らいです。考えること全般ではありません。

「おのが分別さっぱりやめて」阿弥陀仏の思案にまかせたといわれています。思案も全部阿弥陀仏がすでにされているものです。はからいをやめろとは、「思考停止せよ」でも「考えるのをやめよ」でもありません。

末灯鈔のお言葉でいえば、「愚者になれ」です。

本当は、ただ一向専念無量寿仏、雑行を捨てて一心一向に阿弥陀仏を信じよとそれがすべてなのではないでしょうか?

最近、諸行往生は悪いという人がありますが、「一向専念無量寿仏」は、大無量寿経の19願成就文、諸行往生にあります。

「何もしなくていい」という意味に取られ兼ねないことを言う必要は全くないと思うのです。どうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

言われるとおり、

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば(御文章5帖目10通・聖人一流の章)

と蓮如上人がいわれるように、雑行を棄てて弥陀をたのめと言葉で言えばそれだけです。

「何かしなければいけないのですか?」という問いに「何もしなくていい」というように取らかねない文章を書いたのは、私の力量不足と反省しております。

方法論を追い求めるのは、知識の問題になりがちです。それを捨てよというのは、言葉をかえれば「愚者になれ」ということです。知者にとっては、「愚」はある意味最も遠いところにあるかもしれません。知識の問題になると、「自分が助かりたい」という単純なことが抜けてしまいがちです。

ただ今阿弥陀仏にすくわれるということは必ずあります。ただ今弥陀に救われて下さい。

今回は、長文になり申し訳ございませんでした

2009-06-23

自分はどうすればいいのかも自力(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏のお力に限りがないというのは、自力の心を捨てさせる(無明の闇を破る)力があるということだと思います。

救われないのは自力の心があるからでありそれは阿弥陀仏が破ってくださるものであり、自分はどうすればいいのだろうかと思っていましたが、救われないのは自力の心そのものとは別の、「南無阿弥陀仏を受け取らない」、「阿弥陀仏の仰せに従わない」ということのためであって、それは阿弥陀仏ではなく自分がしなければならないことなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090619/1245401159#c1245501766

回答します。

確かに自力の心があるから救われないのですが、自力が何かを実感として分かられた上で「自分はどうすればいいのだろうか」という質問なのか、それとも「自力は阿弥陀仏が破って下されると知っている」と知っているが、自分はどうすればいいのだろうかという質問なのかよくわかりませんでした。

いづれにしろ「自分はどうすればいいのだろうか」というのが自力です。

自力の心は阿弥陀仏が破って下されると聞いても、その上で「自分はどうすればいいのだろう」と思うのが自力です。

また、「南無阿弥陀仏を受け取らない」「阿弥陀仏の仰せに従わない」のも自力です。自力と別のものではありません。言葉が違うだけで、ものがらは同じです。違うように思うのは、自分の心に問いかけないからです。

ただ、何もしないでただ待っておればよいという棚からぼた餅が降ってくる信心ではありません。信仰を求めるとは、自ら求めることです。

黙って座っていたら徹到する真実信心ならば極難信とはいわれません。

一代諸教の信よりも 弘願の信楽なおかたし

難中之難とときたまひ 無過之難とのべたまふ(浄土和讃)

聖道仏教で覚りを開くよりもむずかしいから、難中の難であり、これに過ぎたる難は無しといわれるのが、阿弥陀仏から賜る信心です。

阿弥陀仏がなされることは何で私がしなければならないことは何なのかということをはっきりさせたいです。

すべて阿弥陀仏がなされることであって私が用意すべきことは何もないように聞きますが、それが邪魔をして、今救われてくださいと言われてもどうしてよいか全くわかりません。(Kさんのコメント)

その「どうしてよいか全くわかりません」という自力の心を振り捨てよというのが、「自力を捨てて弥陀をたのめ」の教えです。

阿弥陀仏がされたことは、自分の力では生死を離れることができない私たちのために南無阿弥陀仏を完成されたことです。

現在阿弥陀仏がなされていることは、その南無阿弥陀仏を差し向けて下さることです。

私は、その邪魔をしているのです。阿弥陀仏がそのまま救うといわれて名号を差し向けて下さっているのに「何をしなければならないのですか」と邪魔をするのです。それが自力です。

私が用意するものはありません。邪魔をする自力を捨てるのです。

つかんだ自力を離さねば、他力に帰することはありません。

自力を捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-05-25 どう思えば・・?と思った心が自力です。思えないのは自力ではありま

どう思えば・・?と思った心が自力です。思えないのは自力ではありません(花さんのコメント)

花さんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。

どうすればたすかるか?答えは自力を捨てればたすかるということはわかりました。自力とは、今阿弥陀仏は助けて下さると手を下げておられると聞いても、今ですか?ただで助けて下さるのですか?そのままとはどういうそのままですか?どう阿弥陀仏を信じればよいのですか・?どううちまかせればよいのだろう・?どう思えば・・・・・?・という心がでてきます。これが自力ですか・?・・・・・・?(花さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090524/1243149577#c1243218178

一心に弥陀をどうたのめばようのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090512/1242102913#c1243218742

自力とはどんな心かということですが、人によって口にすれば表現はいろいろとかわりますが、花さんが書かれた心が、自力の心なのです。

親鸞聖人

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証

と言われているように、雑行を棄て、自力をふりすてなければ阿弥陀仏に救われる事はありません。そこで、自力とは何かと言うことが問題になりますが、多くの人は、「どこかにある自力」を探そうとします。

人間の目は、自分から離れたものしか見ることができませんが、その目を、どこかではなく、自分の心に向けてみないと、自力の心はわかりません。

なぜなら、自分の心が、自力の心だからです。

近すぎて分からないものをみるときには、鏡を使って私たちは自分の姿を見ますが、自力の心を見るための法の鏡が、阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏なのです。

ただ今救うという本願の鏡に、自分の心を投げ出せば、「今ですか?」と写るでしょう。

「ただで救う」「そのまま救う本願」という鏡に自分の心を対面させれば、「ただで助けて下さるのですか?」「そのままとはどういうそのままですか?」「どう阿弥陀仏を信じればよいのですか・?」「どううちまかせればよいのだろう・?」「どう思えば・・・・・?」という心が写ります。

鏡には、そのままの自分の姿しかうつりません。他力の本願に、我が身を映せば、自力しかでてこないのです。自力しか持ち合わせていないものを、鏡に映したら、映った姿が他力になるということでは絶対ありません。

その出てくる自力の心を捨てねば、他力にはなりませんので、それを捨てて、阿弥陀仏をたのめと蓮如上人は仰っています。

それはどういうことなのかということについては、御文章にたびたび書かれていますので、御文章を読まれればよいのですが、今回はその中から一つ紹介をいたします。花さんもよく読まれたこともある御文章の中の「本師本仏(2帖目8通)」に書かれています。

何とように心をも持ちて、何とようにその信心とやらんを心得べきや。懇に之を聞かんと思うなり。

○答えていわく、「それ、当流親鸞聖人の教えたまえるところの他力信心の趣というは、何のようもなく、我が身は浅ましき罪ふかき身ぞと思いて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行を捨てて専修専念なれば、必ず遍照の光明の中に摂め取られまいらするなり。是れまことに、我等が往生の決定するすがたなり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

どういうように心をもって、どうやってその真実信心というものは獲得できるのでしょうか?詳しく教えて下さいという問いに対して、蓮如上人は、「親鸞聖人の教えられる他力信心というのは、何のようもなく、自分自身は浅ましいものと思って、阿弥陀仏を一心一向にたのみ、諸々の雑行をすてれば、必ず阿弥陀仏に救われるのだ」と言われています。

いろいろな方面でいわれているのですが、阿弥陀仏を一心にたのめ、雑行をすてよ、それも何のようもなくであるといわれています。

いろいろと出てくるその心を捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。捨てよとは、思わないということとは違います。思わないというのは、「思わないようにしよう」と思っているのですから、自力の心なのです。

それ以前に、「そんな風に思ったことがない」のは自力もないから、自力がすたった心でもありませんから他力でもありません。

どう思えばの、「どう」を捨てなさいというのが、蓮如上人の「何のようもなく」なのです。