Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-05-16

もう一つのブログでのアンケートのご案内

親鸞会会員および元会員にとっての信心について。安心問答とブログを分けて思ったこと とコメント欄でのアンケート実施 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

上記エントリーを更新しました。

現役会員、元会員の方の今の心境を知りたいと思ったので、コメントを募集します。コメントはリンク先のブログにお願いします。

それから、もう一つのブログの更新情報についてはPCで当ブログをご覧の方は,右側のtwitterの欄に更新情報が出るので、それをご覧下さい。またFacebookでも見ることができますのでお願いします。

2011-01-31 「宿善まかせ」は「過去世に積んだ善根まかせ」ではありません(花さ

「宿善まかせ」は「過去世に積んだ善根まかせ」ではありません(花さんのコメント)

(中略)

親鸞会では信心決定は宿善まかせと教えていますが、そうではないのですね、では宿善まかせということについて、詳しく教えてくださいと聞かれました。私も少し説明しましたが、詳しく教えてください。(花さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090702/1246529473#c1296434648

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(御文章4帖目15通・浄土真宗聖典(註釈版)P1188

「宿善まかせ」は、上記の御文章に出てくる言葉です。親鸞会では、この御言葉を「宿善まかせ」だから、「善をせよ」と勧めます。しかし、この「宿善まかせ」のお言葉は、阿弥陀仏のお力まかせという意味が正しい解釈です。

宿善には、以下の意味があります。

宿善ーしゅくぜん

1 【左訓】「むかしの善といふ」→宿善(しゅくぜん)(唯信鈔 P.1353)

2 過去世に積んだ善根(ぜんごん)。獲信のための善き因縁。如来の調育のはたらき。→補註5

3  過去世に積んだ善根(ぜんごん)。 (要集 P.1128要集 P.1148)

http://wikidharma.org/4d4674251c463

大きく分けると、以下の2つになります。

  1. 過去世に積んだ善根
  2. 如来の調育のはたらき。

蓮如上人が「まことに宿善まかせ」といわれたのは、「信心決定」についてのことです。

信心決定は「過去世に積んだ善根まかせ」ではありません。もしそうであるならば、ただ今臨終を迎える人には、善根を積む暇がありませんので救われないことになります。

信心決定は、すべて「如来のお働き」です。

親鸞聖人が、教行信証の総序に

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P132

といわれる「宿縁」が、「宿善まかせ」の「宿善」です。

親鸞聖人が遠く慶べといわれた「宿縁」は、阿弥陀如来の長い間の光明のお働きであり、お育てのことをいわれています。「過去に自分があれだけ善根を積んだから救われたのだ」と慶んでおられるお言葉ではありません。

ただ今仏法を聞く心が起きるのは、阿弥陀如来のお働きによるのであって、何か私が実行した結果ではありません。

現在阿弥陀仏の本願を聞こうという心も、阿弥陀仏の光明のお働きによるものです。

「まことに宿善まかせとはいいながら述懐のこころしばらくもやむことなし」と蓮如上人が仰ったのも、人の力で今聞く気がない人に聞く気を起こさせることができるのではなく、すべて阿弥陀如来のお働きによるのだけれども、空しく一生過ぎゆく人を目の当たりにすると何か言わずにおれない心境をいわれたものだと思います。

どうかただ今救われる本願を聞いてただ今救われてくださいと、阿弥陀如来の本願についてお話ししていますが、私が言ったからその人が聞く気になり、救われるのではありません。すべて、阿弥陀仏とその人と一対一の間のことです。

信心決定は、善根まかせではありません。阿弥陀如来のお力一つでさせていただくものです。

2009-11-25 宿善を厚くせよではなく、ただ今救われよと言うのが知識です。(nowh

宿善を厚くせよではなく、ただ今救われよと言うのが知識です。(nowhereさんのコメント)

nowheraさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「ただいま救う阿弥陀仏の本願にただいま救われる」とお聞きします。また宿善開発したひとは、「阿弥陀仏の浄土にただいま救われたい」となったひとであるともお聞きします。

自分の心は如何と問えば、「ただいま」とはどうしても思えません。つまりは宿善開発していないのです。

浄土真宗の本質は、とどのつまり、この「ただいま」との距離感ではないでしょうか。阿弥陀仏の救いを漠然と遠くに感じている私のこころ。行者の心にある「阿弥陀仏の浄土」と、阿弥陀仏がただいま救うぞと言われる「阿弥陀仏の浄土」との距離をどう縮めるのか。これを「宿善」といい、「求道」といい、「信仰が進む」といっているのではないですか。

これについてどう導くのかが、善知識の能として問われるところのように思います。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091123/1258932745#c1259028666

阿弥陀仏の本願の「ただいま」との距離感というのは、大事な事です。

親鸞聖人が、ご和讃になんども「仏智の不思議を疑う」と書かれているのは、「ただ今の救い」を疑うことです。

ただ距離を縮めるかどうかというと、蓮如上人のお言葉では「宿善有無」とあるように、距離という言葉で言えば「遠い」か「近い」かどちらかです。

「ただ今の救い」と「思えるか」「思えないか」のどちらかです。

蓮如上人が「宿善」と言われる場合は、聞法心か、信心についてです。

ただ今の救いと思い、ただ今救われようと言う心を宿善と言われているのは、宿善有無の章です。

さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。(御文章3帖目12通・宿善有無

コメントの言葉を使いますと、どれだけ長年仏法を聞いてきたといっても、阿弥陀仏の救いは遙か先のことだとしか思ってない人は信心をとりがたい。ただ今の救いと思い、ただ今救われようと言う人は、阿弥陀仏に救われていくということです。

「宿善」を信心と言われているところは以下の所です。

一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(御一代記聞書234

他宗では仏法を聞くご縁にあうことを宿縁という、浄土真宗には信心をとることを宿善という。信心を獲得すること肝要である。

薄いものを厚くせよとか、遠いものを縮めよという教え方はされていません。

「思えるか」「思えないか」ではなく、「救われるか」「救われないか」のどちらかです。

遠いものを縮めなさいとか、薄いものを厚くしなさいと、教える人が言えば、その言葉のままがただ今救われる阿弥陀仏の本願を否定してしまいます。

知識のいうことは、ただ今阿弥陀仏に救われなさいということです。

蓮如上人が「存命のうちにみなみな信心決定あれかし」といわれた、「存命のうち」というのは、ただ今のことです。ただ今阿弥陀仏に救われなさいよと勧めるのが知識の仕事であって、求道しなさい、信仰がすすみますと勧めるのは善知識の能ではないはずです。

また自分は宿善の機か、無宿善の機かと問題にするより、救われるか救われないかが問題です。

ただ今救われる本願ですし、私を救う本願だからです。私がどんな機であるかは、ただ今の救いには関係ありません。

2009-10-05 自力の心をひるがえすとは(YGMさんのコメント)

自力の心をひるがえすとは(YGMさんのコメント)

YGMさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、

>阿弥陀仏の浄土に往生することができます。

宿善が厚くなくても、罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができますでしょうか?

どうやったら自力の心をひるがえせますでしょうか?(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091001/1254401251#c1254466075

回答します。

最初に、「宿善が厚くなくても」という言葉についてですが、どういう意味合いでこの「宿善」という言葉を使っておられるかは、文脈から類推すると、「現在の自分の心境における聞法心の強弱」ではないかと思います。

そういう意味だという前提で回答をいたしますと、質問は以下のようになります。

現在自分には、ここ一つ求めねばとか、海山超えても法を聞こうと言うような燃え立つ心はないのだけれども、「罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができますか?」

YGMさんのお気持ちからすると、阿弥陀仏に救われるには

  • 燃え立つような聞法心が起きていなければならない
  • 聞法心が無くても、自力の心をひるがえして、弥陀をたのめばよい

ということだと思います。

最初の聞法心とは、阿弥陀仏から起こさせられるものですから、自分の力で強くしようとしたからといって、強くなるものではありません。真剣になろうという試みは、一度や二度は今までにされていると思います。結果的に、真剣になろうとして、なるでしょうか?


自分の心の変化をみつめても救いは予測できない

そこで、真剣になれない自分を責めるのは、方向が違います。自分の心に変化がないことをもって、救われないと思うのは見るところが違います。

聞法心は数値化できるものではありませんが、仮に数値化したとして、先々月が2、先月が4、今月が6と増えたら、自分はそのうち救われるだろうと、いう考えは間違いです。

また、そういう考えがあるので、先々月も救われていない、先月も救われていない、今月も無理だろうと予想を自分で立てるのです。

自分自身が阿弥陀仏に救われることについては、「今までなかった」のは当然です。どれだけ、今まで阿弥陀仏に救われた方があっても、その人にとっては「初めて救われた」ということです。

自分の心の変化を見て救われるかどうかを論じることはできません。別の言葉で言うと、阿弥陀仏の救いを予測することはできません。

過去の自分の心の変化というデータをいくら解析しても、阿弥陀仏の救いを予測することはできません。

そもそも、仏でもない人間に予測できることと言うのはごく限られた範囲のことです。


予測はほとんどできないものという例

一例をあげますと、ビリヤードで、1つのボールを壁に当ててどういう角度で跳ね返るかということについては、1回目の反射くらいは玉のスピードや角度で計算はできます。

しかし、跳ね返る回数が増えるととたんに予測ができなくなります。これは数学者マイケルベリーの言ったことです。(出典:ブラックスワン・下巻)

9回目に跳ね返った後になると、テーブルの横に立っている人の引力の大きさを計算に入れないといけない。そして56回目に跳ね返った後は、宇宙に存在するすべての素粒子についてそれぞれ仮定が必要になるのだ!

(略)

このビリヤードのボールの話は、均質で単純な世界を仮定している点に注意してほしい。人の自由な意志で起こりうる、頭がおかしくなりそうな社会のあれこれさえ考慮していない。(ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質より)

単純なビリヤードのボールが跳ね返ることでも予測がつかないのですから、まして、阿弥陀仏の救いを私の心の変化で予測しようとしても不可能です。


阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏による救い

阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏による救いですから、阿弥陀仏に向かわねばなりません。

自分の心のデータをどれだけ集めても、予測不能なのですから、その心の変化がどうあれ、「いつ救われるか」ということを考えるのは意味のないことです。

阿弥陀仏の救いは、真剣になれたら救うというものではありません。煩悩具足の凡夫を、そのまま救うと言うことは、真剣になれないものを救うということです。

自分の心の変化で知ろうとするのでは、「ただ今の救い」ではなく、「未来の救い」です。

今までどうだったか、自分の今のこころがどうであるということは、ただ今救われると言うことと関係がありません。

聞法心が燃えているから救われるのでもなければ、聞法心が弱いから救われないでもありません。


いはんや悪人をや、聞法心の弱い人をや、つまりは関係ない

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。(歎異抄3章)http://wikidharma.org/4ac4999b6eda3

このお言葉を、質問の言葉でいえば、善人=聞法心の強い人、悪人=聞法心の弱い人

つまり、聞法心が燃えている人が助かるのなら、聞法心が弱い人はなお助かりますということです。逆に思うのは、本願の御心に合いません。

自覚としても、聞法心が強いか弱いかは、ただ今の救いと関係がありません。


自力の心をひるがえすのも、阿弥陀仏のお力

次の質問ですが、改めて引用しますと

罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができますでしょうか?

どうやったら自力の心をひるがえせますでしょうか?(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091001/1254401251#c1254466075

罪を罪と知らされるのも、自力の心をひるがえすのも、阿弥陀仏のお力によります。

しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候いき。(歎異抄3章

「自力のこころをひるがえす」ことを自分でしてから、「他力をたのみたてまつる」のではありません。

阿弥陀仏のお力で「自力の心をひるがえ」して頂くことを「他力をたのむ」というのです。

どうすれば自力をひるがえすことができるのですか?については、私の方で用意する方法はありません。

「自力をひるがえすのは自分の仕事」と思えば、また自分の心を観察し、データを集め、予測を始めてしまいます。

助ける働きは南無阿弥陀仏にありますから、阿弥陀仏の救いに向かって下さい。

必ずただ今救われます。

2009-07-02

自力探しと宿善まかせ(メールで頂いた質問)

今救われよう、南無阿弥陀仏を頂こうと思って(力んでいるような感じですが)、どうして今救われないのだろうと思ってみるのですが、正直、何も感じられないような感じです。自惚れているからなのでしょうか?(メールで頂いた質問)

回答します。

何も感じられないと言うことは、別に変わったことでもありません。

自力の心というものは、わかるときにはわかるというものなのです。

仏法を聞こうという心でも同じ事が言えると思いますが、どれほど人から勧められても仏法を聞こうと思わないときは、思えといわれても思えません。しかし、いざ仏法を聞こうという心が起きるときは、どういうわけかそのような心になるものなのです。

すべて阿弥陀仏の光明のはたらきによるものなのですが、自力の心は起こさねばならないというものではなく、起きるときはおきるものです。

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし。(御文章4帖目15通・大阪建立)

蓮如上人のお言葉ですが、宿善まかせといわれます。皆々信心決定あれかしと朝夕思い続けておられた蓮如上人ですが、ここでいわれる宿善まかせとは、ただ今救われようという聞法心です。それは、自覚としてはいろいろあるでしょうが、別の言葉でいえば、自力が問題となるかどうかということです。

宿善とは、自力の心が問題となるということ、諸々の雑行が問題となることです。

自力がすたらねば救われないといっても、自力を探せば自力はみつかりません。影を追っても影には追いつけないようなものです。

宿善まかせときいて、善をもとめる人と考え方は同じで、善を積むのが、自力を探すに変わっただけです。本質的には同じ事をいっています。

それは自惚れているということではありません。

阿弥陀仏にむくかむかないかであり、まず自力を探そうというのは、阿弥陀仏より手段にむいているのです。

ただ今救う阿弥陀仏に向かって下さい。

2009-05-24 メールで頂いた質問と、maryさんのコメントに回答しました

無理につらい聞法をおわらせるのが阿弥陀仏の救いではありません(メールで頂いた質問)

メールで質問を頂きました。有り難うございました。

阿弥陀様のような慈悲深い仏様なのだから、ぱっぱっと今生で、みんなきれいさっぱり助けてくださればいいのにと、ついつい思ってしまいます。

どうして、救いに前後があるのだろう?

今生で救われる人とそうでない人がいるのは、不公平だなと、思うのです。

また、逆に、弥陀の本願まことなのだから、今生救われなくても、次生、または最後にはゆくゆくは、皆が救われるだろうと開き直りに心もでてきます。

だから、無理につらい聞法をしなくてもいいのではと甘い考えもあるのです。

こんな私の考えの誤りをただしてください。(メールで頂いた質問)

回答します。

結論からいいますと、救いに不公平はありません。

かやうに宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり(御一代記聞書)

この御一代記聞書のお言葉に言われている宿善とは、信心決定のことです。

信心決定する人に遅い人と速い人が有るから、往生にも前後があるのです。時間に前後があると言うことは、阿弥陀仏の願力に不公平が生じていると言うことでは有りません。

今生で救われても、一人一人は時間差があるのですから、質問された方は、今生で救われても不公平があると思われるでしょうか?

これは、聞法というもの自体を間違われているからだとおもいます。

「無理につらい聞法」とありますが、こう書かれると、質問された方にとっては「聞法=無理にするもの、つらいもの」ということのようです。「聞法=苦行」と思われるから、救われた人は苦行から解放された人、苦行をもうしなくてもよい人とおもうから、「不公平」という発想になるのではないでしょうか。

確かに、南無阿弥陀仏を求めることは、「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」と親鸞聖人がいわれるように、のんきになにもしなくてよいというものではありません。しかし、「火の中すぎて」というのは、無理につらいことをするということではありません。正座に耐えるとか、同じ話をがまんして聞くということではありません。

御一代記聞書のお言葉を使いますと「仏法を心に入れて聴聞すべき」といわれているのは、「むりにつらい思いをする」ことではありません。

南無阿弥陀仏を、阿弥陀仏から頂くことなのです。

聞法とは、ただ座ることではないですし、長時間覚えるほど聞くことではありません。「聞其名号」といわれるように、南無阿弥陀仏の名号を阿弥陀仏から頂き、ただ今弥陀に救われる事なのです。

ただ今弥陀にすくわれるのは、「苦行にたえたから」ではなく、自力の心を振り捨てて、一心に弥陀に帰命することなのです。

「無理につらい聞法」を終わらせるために、仏法を聞くのではありません。ただ今弥陀に救われるためですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-05-15

宿善の有無が問題になるのは、宿善の意味によって変わります(Kさんの質問)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

自分には宿善があると思うのはよいことなのでしょうか?思ったほうがよいのでしょうか?

自分は無宿善と自覚し、だから宿善を厚くしなければと奮起するのがよいことのように聞きますし、自分は宿善が薄いものではないと思うのは自惚れで、救いを妨げているのではないかと思ってしまいます。(Kさんのコメント)

回答します。宿善があるというのは、今回でいいますと「聞法心」のことです。仏法を聞こうという心であり、真実信心獲得の身になろうという心です。

思った方がよいというか、「阿弥陀仏に救われたい」と思う心があるなら、それは聞法心(宿善)があるということです。

そういう聞法心(宿善)は、厚くしようと思って厚くなるものではありません。「阿弥陀仏に救われたい」と思う心は、有り難い心であり、願力によっておこされるものです。

他宗には法にあいたるを宿縁という。当流には信をとることを宿善という。信心をうること肝要なり。(御一代記聞書)

仏法にであうことを宿縁と他宗ではいいますが、浄土真宗では信心獲得することを宿善というと御一代記聞書にも書かれています。

「聞法心があるから大丈夫」というのは、ただ今の救いではないから間違いですが、「聞法心の有無や強弱」を問題にするのではなく、ただ今救われるかどうかを問題にしなければならないのです。

2009-05-13 罪悪深重を自覚してから助かるのではありません(メールより)

罪悪深重を自覚してから助かるのではありません(メールより)

やはり罪悪深重の姿を知らされて、堕ちる者だと自覚した人でないと、計らいをなくす事はできないと思うし、そういう気持ちになる人は宿善が熟した人だから、そう思えない私はやはり宿善というものが足りなくて、まだ名号は頂けないのだ、と思うのです。(頂いたメールより)

一念の救いですが、あえて前後関係をかくならば「自力を捨てて阿弥陀仏に救われた人は、阿弥陀仏の光明によって、罪悪深重の姿も知らされ、堕ちるものと知らされる」のです。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

善導大師のお言葉ですが、「曠劫から流転して、出離の縁有ること無し」と明らかに知らされるのは、機の深信といいますが、これは真実信心のせかいであり、救われて知らされることなのです。

罪悪深重の姿を知らされ→堕ちる者と自覚して→計らい(自力)が無くなる という順番はそこに存在しません。順番(前後)があれば、一念にはなりません。

また、別の言葉で言うと、

機の深信が立って→自力が無くなる 

ということになってしまいます。

時剋の極促の一念でいうなら、順番を踏んでいる時点で一念にはならないのです。

宿善は足りないというものではありません。足りないなら、増やすこともできるということになります。宿善とは、聞法心のことであり、なんとかただ今阿弥陀仏に救われようという心のことです。

メールで尊い気持ちを書かれているのですから、それは間違いなく聞法心であり、宿善という言葉をつかうなら、宿善のある方です。

宿善が足りなくて、名号がいただけないのではありません。

「私はまだいただけないはず」という計らいが邪魔をしているのです。

阿弥陀仏の救いには、資格を取得する必要ありません。ただ今救われるのが阿弥陀仏の救いなのです。