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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2015-08-11

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「13 易の徳と勝の徳」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

13 易の徳と勝の徳

 そこでたのむものを助ける、称うるものを迎えとると仰せられた、第十八願の御正意は。衆生がたのめば弥陀が助ける、衆生が称えれば弥陀が迎えとる。若し衆生がたのみも称えもせぬならば、弥陀は堕ちても知らんぞというような思し召しではない。疑蓋無雑の親様にそのような不実のあるべき訳のないことは、再三御話しを尽くしました。

 

 然るにたのむと称うるということを。弥陀が衆生を助けるについての条件のように心得て。これを調えてかからねば、如来様から助けて貰われぬように、勘違いをしておるものゆえに。たのむと称うるということが気にかかり種々の不審が起こり。遂には、異解異安心の病気となって、しまうのじゃ。これに依って、たのまにゃならん、称えにゃすまんの、仕事を暫くやめにして。たのめよ称えよと、呼んで下された、本願の思し召しを、委細に聞き取って頂きたい。


 それについて法然上人は選択集本願章の中に、詳しい問答が設けてある。先ず御問いの御言葉が。

なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。

http://goo.gl/Ol89g1

というてある。

 これを至極平易にいうて見ると。阿弥陀如来は何と本願をお立てなされても、よさそうなのもじゃに。たのむものと、称うるものを、助けるぞと仰せられたは。全体如何なる思し召しであるかという御尋ねである。

 その次に。

答へていはく、聖意*1測りがたし。

とあって、阿弥陀如来が五劫の間。選択思惟して御建てなされた本願の御聖意を。愚痴の法然などが、到底測り知ることの出来るものではないと、御卑下なされて、その次に。

しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義

と仰せられて。これより以下に詳しく御示しはあるけれど。文面が難くて、御話し申すも容易でないから。帰するところの味わいだけを御話しして、皆様から聞いて頂きましょう。

 そもそも阿弥陀如来が、たのむものを助ける、称うるものを迎えとると仰せられたは。衆生に難題御懸けなされたのでもなく、我等に注文なされた条件でもない。三世十方の諸仏菩薩に並びのない、易の徳と勝の徳のある、御手柄を御知らせ下された、御誓いである。


 易の徳というは、容易い徳、勝の徳というは、勝れた徳。何が容易いというても、たのむや称うる程、容易いことはありますまい。又何が勝れておるというても、十方衆生機類を選ばず、助けてくださるるほど、勝れたものはありますまい。ソコデ三信十念を以ては、勝の徳が顕れておるので。これをもう少し皆様に解り易くいうて見ると。もともと衆生を助けるということは。阿弥陀如来にかぎった話しではないので。一切諸仏総じての仕事である。仏と名のつくものに、衆生を助ける御勝敗をなさらぬ御方は一仏もない。

 

 しかし外の諸仏の助けようと、阿弥陀如来の助けようとう天地雲泥の違いが有る。その一切諸仏に並びの無い、御助けのお手際を、知らせて下されたが、たのめ称えよの仰せである。諸仏菩薩の御助けには、薬にしたくても、こんな仰せは更にない。諸仏菩薩はどのような仰せであるかといえば。殊勝になれよ助けるぞ、智慧を磨けよ助けるぞ。座禅してこい助けるぞ、善根積んでこい助けるぞ、と斯様な呼び声ばかりである。


 これでは何程助けて貰いとうても。無善造悪の我等は、とても助けて頂くことは出来ぬ。然るに有り難や、阿弥陀如来御一仏。殊勝になれとはいわんぞよ、智慧を出せともいえはせぬ。座禅せよではらちあかず。らちの明かないそのままで、何にもいらぬ証拠には、たのむばかりで助けるぞ。口へ出してもその通り、御経読んで来いとはいわん。御領解陳べて来いともいわぬ、世話の要らない証拠には、称うるばかりで助けるぞと。阿弥陀如来の御助けの、三世十方に並びの無い、勝れてあるのと、容易い御徳を知らせて下されたが、三信十念の御誓いである。


 サァ皆様、これで本願の思し召しが解りましたか。心配さしょとて、たのめと喚んだのではない。世話のいらない御助けを、知らせてやりたいばっかりで、たのむものをとよんだのじゃ。難儀さしょとて、称うるものをというたじゃない。楽な至極のありたけを、聞かせてやりたい御慈悲より、称うるばかりと喚んだのじゃ。それを知らずに御互いは、楽な仰せを難儀に受けて。愚痴の数々並べ立て、御助け一つを余所に見て、迷うたことの勿体なや。今は御慈悲に夜が明けて、世話の要らない御助けが。南無阿弥陀仏であったかと。聞こえた信の当体が、たのむばかりの御助け。たのむも六字御助けも六字の外に無いならば。六字の息が口へ出て、申す念仏そのままが、称うるばかりの御助け。御助け一つが貰われて、三信十念世話要らず。具足の出来たうえからは、後念の勤めこれ一つ、欠け目のないよう世話をして。目出度うこの世を過ごせよが、真俗二諦の教えである。

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*1:仏のみこころ。

2015-08-10

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「12 価値のふみ違い」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

12 価値のふみ違い

 引き続いて御話しを申します、第十八願の三信十念、若不生者の思し召しについて。三信とはたのめの仰せ、十念とは称えよの勅命、若不生者とは助けずばおかんの御約束。その御約束通り出来上がったが、南無阿弥陀仏の六字であるゆえに。この六字を信の方よりいうときは、たのむばかりで助けるぞよの勅命となり。行の方よりいうときは、称うるものを迎えとるという仰せとなる。

 

 

 そこで数多の同行が、たのめ助けるの仰せを聞いて、たのむ一念に力を入れ。この一念がなければ、助けて貰われぬように迷い込み。たのみようや、信じぶりに、難儀して御座る御方も有り。又称うるものを迎えとるの仰せを聞いて。称えにゃすまんと励みだし、称うるところに、骨折って御座る御方も有る。

 

 これが情けないほど、本願の正意を取り損ない。一文ぶりも値打ちのない、たのむと称うるに値打ちをつけ。千両万両に替えがたい、助けるぞよの御手柄に目をつけず。助けて下さるるは当たり前じゃ、その御助けを貰うには、たのまにゃならぬ、称えにゃならぬと、迷って御座る人々のために。先ず私は、たのむと称うるの価値ということについて、前席より御話しを申しかけた次第であります。


 それについて思い出したは。加藤恵証師の木像画像論の中に、面白い話が載っていた。詳しいことは記憶してないが、たしか明治四年の頃。大阪の近在に、初めて小学校というものが設けられたときのことである。

 

 

 村内の人々は、今迄寺子屋というて。お寺に通わせて、読み書きを習わせてあった、週間を一時に改めて。見たこともない学校などへ、出すことを甚だ嫌っておる。それを一々説諭して、漸く不承不承にも、学校へ出させてところ。計らずも僅かの間違いより、一村こぞって学校から子どもを引かせてしもうたことがある。

 

 

 その騒動の起こりというは、修身の過程を授けるについて。今日のごとく、教科書も調ってない頃のことであるから。生徒を一堂に集めて、忠臣孝子や英雄豪傑の、歴史話を聞かせることにしてあった。

 ある時先生が、支那の司馬温公の話を聞かせました。

 この話は皆様も御存知の通り、司馬温公が七八歳の頃。多くの子どもと庭園で遊んでいた、そこに大きな水がめが有って。それに登って子どもが水鏡を見ているうちに。一人の子どもが過って水がめの中へ落ちたので。多くの子どもは驚いて、家人へ知らせに、走って行ってしもうた。

 その時温公一人踏みとどまり、待てよ、家の者の来るまでに、落ちた子どもは死んでしまう。この瓶が、たとえ何程の値のするものにせよ。人間の命にはかえられぬと、気付いた温公。忽ち手ごろの石を拾って、その瓶に打ち付けた。瓶は割れる、水は出る、子どもは無事に助かったという。

 

 

 この話を持ち出した先生は、詳しく生徒に物語り。何と諸君、司馬温公という御方は、感心なお人でしょう。外の子どもは瓶を割って、命を助けるという、智慧がなかった。然るに温公一人、幼少の時からかかる智慧のあったものゆえに。落ちた子どもが助かったのみならず。自分も後には、尊き官吏になられました。諸君も将来出世して、名高いものになりたいと思ったら。悪い遊びをすることをやめて、かくのごとき善良の智慧を、発すことに鍛練せねばなりませぬぞと。懇ろに生徒を教訓した。

 

 

 斯かる結構な歴史話が、騒動の種となったが面白い。

 その日の学校は閉まって、生徒はそれぞれわが家へ帰った。お母様ただ今帰りました、と挨拶するや否や、いつも欲しがる御菓子も貰わず。急いで台所へ行って、大きな音をさせておるので。母親は怪しみて次郎や何をしたの!と尋ねれば。

 次郎は得意の返事で、お母様ただ今瓶を割っておりますというから。母親は驚いて行って見れば、梅干し瓶に石をぶつけて、割ってしまってある。

 コリャ次郎や、お前は気狂いにでもなったのか。なぜこんな悪いことをするのじゃ、大いに叱りつければ。

 先生から教えてもらって来たという。

 なんじゃ先生が、こんな悪いことを教えるものかといえば。

 隣の太郎さんにも聞いて御覧、子どものときから瓶を割る、智慧のないものは。将来名高いものには、なられんと、確かに先生がいわれましたというから。あまりのことに母親は、隣へ駆けつけて見ると。

 ここの太郎は、辣韮瓶を割って叱られておる。彼処では味噌瓶が割られた此処では奈良漬け瓶を割ったという始末で。学校へ子どもを出しておく家では、残らず瓶を割られてしもうたので。

 ソリャ見たか、今の学校などではロクなことを教えるものか。これじゃからわしらは、学校へ出すことに反対したのじゃ。それを無理に引き出して、斯かる悪時を教えるとは、言語道断じゃ。矢張りもとの寺子屋に限るというて。村内一同学校から、子どもを引かせてしもうたという話である。


 皆様は腹を抱えて笑って御座るが。よく考えて見れば、子どもとしては聞き違いをするも無理はない。肝心な落ちた子どもを助けると言う、大問題には気がつかず。司馬温公が石を拾ったなぁ、瓶にかちつけたなぁ、瓶が割れたなぁと。瓶を割るということにのみ、興味を以て聞いておるところへ。先生が又いって聞かせる。多くの子どもは瓶を割るという、智慧は起こらなんだに。さすが司馬温公一人、この智慧を発したは感心である。諸君もかかる智慧を発さねばならぬぞ、というものじゃから。無邪気の子どもは瓶さえ割れば、名高いものになられると考えて。斯かる間違いの起こったものを、誠に是非もない次第である。

 

 

 こんな話はどうでもよいが。笑って御座る皆様も、これに似寄った間違いはあるまいか。五年十年足手を運び、大事をかけて聞きながら。たのめの仰せに迷い込み、称えよの御意に屈託して。これさえできれば当たり前で参れるように心得て。三千世界に並びのない、仏智無辺の御助けを、深く聞く気の御座らぬは。今の子どもが瓶さえ割れば名高いものにならるると思い違うた間違いより。百千万倍も大きな間違いであるまいか。

 瓶を割るより値打ちのない、たのむと称うるに値打ちを付け。子どもの助かる話でない。堕ちるこの身をこのままで、助けて下さる値打ちを知らず。丸々値打ちをふみ違い、迷うて御座るそのうちに。瓶を損じたぐらいじゃない、大事の後生を丸損じ。落ちて沈んで仕もうてから、泣いて叫んでみたとても。返らぬことと気をつけて、本願の正意に落ちつくまで、命をかけて聞きましょう。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-08-09

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「11 たのむと称うるの価値」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

11 たのむと称うるの価値

 然らば本願の三信十念、たのむものを迎えとるぞとの勅命を。どのようにかみ砕いて味わえば、よいかというに。おおよそたのめ助けるの仰せを聞いて。たのまにゃならんと頭から、丸飲み込みにするゆえに。たのむ一念が胸につかえて、いつも癪の種となるのじゃから。先ずたのむということ、助けるぞよということを。暫く切り離して見てください。

 

 

 称うるものを迎えとるの仰せも同じこと。称えにゃすまぬと、丸飲み込みにすると、忽ち留飲病になるゆえに。これも称うるということと、迎えとるということを切り離しておいて。それからそのたのむのと、称うるものという。勅命の頭の堅いところは、二つながら甲の器にいれておき。次に後へ残った助けるぞよ、迎えとるぞよ、の勅命の尊いご馳走は共に乙の器にいれておいて。

f:id:yamamoya:20150809114300p:image:w360

 サァ是から、両方の器のご馳走を、そろそろと吟味して御覧なさい。先ず甲の器に入れてある、たのむということは誰がたのむのでありますか。まさか阿弥陀如来や諸仏菩薩がたのんで下さるのではあるまい。

われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり*1

http://goo.gl/SyuU2y

とあれば我等衆生の心の上に、たのむことに相違ない。我々の心のうちで、たのむものとしてみれば。どのようにたのんだとうして見てもたのむということは、抑値打ちの有るものであろうか。

 

 若し値打ちが有るものならば、私は早速皆様にたのみます。何をたのむか、私は後生などという大問題はたのまねども。近頃困っておる、千円あまりの借金をたのみます。誰か返済して下されませ。一度で足らねば二度、二度で足らねば三度でも五度でも百度でも千度でもたのみます。自力だのみで悪ければ、誰ぞ返済してやると仰れば、他力だのみでも何でも致します。サァ誰か返済して下されませ、サァサァ返済どころか、余りたのんだら皆様はあきれて、お逃げなさるのでありましょう。

 

 

 若しも返済して下されたとすれば、その返済して下された方にこそ、値打ちは確かにあることなれど。たのんだ方には、一文ぶりの値打ちのあるべき訳はありますまい。全体ものをたのむということは、値打ちも実力もないもののすることで。私の如き貧乏物に限って、時々檀中にものをたのむ、たのめばたのむほど、自己に値打ちのないことが分かります。


 今は千円や二千円の話でない、無量永劫の出離の大事。無善造悪の我々が、汗を流してたのもうが、油こぼしてたのもうが。泣いて叫んでたのんで見ても、我等のたのんだところには、何の値打ちが有りますか。紙くず買いでも値踏みをせず、逃げてしまうが我等のたのみでありましょう。

 

 

 称うるというも同じこと。衆生称念とあるからは、諸仏が称揚なさるのではない、我々の口で称うるのじゃ。嘘をいうたり魚食う、臭い臭いこの口で。南無阿弥陀仏を称うれば、何の値打ちがありますか。称えられたる御六字には、無上甚深の値打ちがあるにもせよ。称えた手元の能称の、口の仕業には、毛厘の値打ちの有ろう訳はありますまい。

 

 

 そうして見れば、甲の器に容れてある、たのむと称うるということは。我々のすることとして見れば。何程たのんでも称えても、不幸にして、一厘一毛の値打ちの有るべきものでないことは明瞭であります。


 次に乙の器に容れて有る、ご馳走はどうでしょう。助けるぞよ、迎えとるぞよ。この御一言は何程の金を出したら、聞かれるものでありますか。百億万両の金を積んでも又とあるべき勅命ではありますまい。

 

 

 聞かれぬばかりならよけれども。大蛇と見るとも女人は嫌い、鬼に会うより悪人は嫌じゃと、哀れ悲しい評判ばかりで。夢にもいたずらにも、助けるなどと愛想懸けての尽き果ててある私を。大悲招喚の親様一人必ず助けるぞと呼んで下された喚び声は。只の一言のことなれど、この一言の喚び声を、たてて下さるそれまでは。五劫永劫の命がけ、御難儀なされたその結果。捨てた諸仏の真ん中で、弥陀は必ず助けるぞと、喚びかけなられたこの仰せ。値打ちは無量無辺にて、無碍や無対や炎王や清浄歓喜智慧不断、難思無称と日や月の。天にも地にも並び無い、尊き限りのご馳走が、助けるぞよの勅命である。


 サァ皆様よ、ここまで本願の御喚び声を噛みしめて味おうて見ると。たのむと。称うるということは、一文ぶりの値打ちもないので。千両万両に替えがたい、値打ちのあるのは、たすけるぞよの勅命である。

 

 

 然るに、ここまで聞き明かさずして、只一応の聴聞をしておる人々は。何の値打ちもないものに、うんと値打ちを張り込んで。値打ちに限りのない御助けは。何処にも有り余る仰せの如く軽く見て。たのみ一念が大事である、称うる手元が肝要である。いや称えずともたのもさえすればよいのじゃ。いやたのんでも、自力だのみでは用事が足らぬ。いや親心に夜明して、一心に御助け候へと、振り向く心がどうじゃのと。

 

 いやなところに力を入れて御座る様子は。いかにもたのむ一念さえ出来上がれば、御助けなどは当たり前で。いつでも棚からころころと、転んでくるような安い御助けと、思うて御座るのじゃ。

 これが丸々勅命の値打ちを踏み違い。要らざるところに骨を折り、たのむ一念出かして見ても。大事の御助けが、ころがって来たか、来ぬかが解らぬゆえ。生涯我が機に難儀して、遂に異解や異安心に傾くのじゃ。

 

 そこでたのむというも値打ち無し、称うるというも値打ちなし。何の値打ちのないままで、弥陀は必ず助けるぞよが、本願の思し召し。これを法然上人は、易の徳なりと御讃嘆なされ。易の徳というは、容易い徳のこと。何が容易いというたとて、称うる程容易いものはあるまい。その称うるよりも、また一層容易いのは、心でたのむ一念である。

 

 こんな容易い値打ちの無い、たのむばかりや称うるだけで。極悪深重の我々を助けてやるぞよと仰るは。頂く衆生に世話や面倒させてはすまん。面倒なしにこの弥陀が、助けてやるぞの御誓いが、三信十念の御約束。

 

 その面倒なしの世話いらぬ、容易い仰せを面倒に受けて。たのむや称うるに世話をやき、今日まで迷うて心配したは。大事の値打ちの御助けが、心へ届かぬからである。

 届かぬ昔に引き替えて、今は本願の喚び声の値打ちの在りかを聞いてみりゃ。たのむ称うる値打ち無し、値打ちの更にないもので、助けてやるこそ値打ちもの。こちらの値打ちが露塵もなけりゃないほど御助けの値打ちは一つ限りなく。量り知れぬ御手柄が、遠い浄土に有るのでない。近い六字の御助けが、心に届いた一念に。至心信楽己を忘れ。苦しいたのみの重荷を下ろし、楽なたのみとあらわれて。偲びかねたる御念仏、申す口さえ恥ずかしや。

 

 

 かかる容易い本願に、不足並べてきたことの、勿体なやと懺悔して。暮らす後念の相続は、御恩に傷のつかぬよう。手の舞い足の踏むところ、無理や非道のないように。この世を目出度う送るのが、念仏行者の大事の勤めというものである。

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*1:御文章4帖目6通

2015-08-07

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「10 丸飲み込みは大の禁制」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

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10 丸飲み込みは大の禁制

 前席より御話しを申しかけた、第十八願の上に於いて、三信十念の御誓いがある。三信とはたのむこと、十念とは称うること。このたのむと称うると有るについて、不審の数々を述べてみましたが。実際、阿弥陀如来から助けて頂くについては。たのまねばならぬのか、称えねばならぬのか、二つ揃わねばならぬのか、一つ欠けてもよいのか。またたのむと称うるに、軽重が有るのか、前後が有るのか。但しはたのむも称うるも、要らずして助かるのか。それこれの辺が幾重にも不審でたまらんのである。

 

 

 しかも動かすべからざる事実問題のあるは、この世の親子にして。親が我が子を助けるについて、子どものたのみ心や、称うる口に、その必要を更に認めてないのみならず。たとい親でなくとも、真実人を助けるという主義の上には。たのませてから、称えさせてからというような理屈があるべき訳は決してない。然るに阿弥陀如来とも申し奉る摂取不捨の親様が。我等衆生を助けるに、一心に弥陀をたのめよの。名号を称えよのと仰せられたは、誠に解らんことである。


 世間普通の考えから言うて見ると、第十八願の御誓いは。「設我得仏十方衆生、若不生者不取正覚」と是だけで用事が足りそうなものである。弥陀が仏に成るについては、十方の衆生を若し極楽へ生まれさせずば、我も正覚を取らんぞと、御誓いなされたなら。いかにも御慈悲に駆け引きのない、真実づくめのことが明瞭であろうに。たのむものと称うるものに限って、生まれさせると仰せられては。余りに御慈悲が御倹約過ぎて、世間並みの相場よりは、一層下落した親様のように思われて。なかなか本願の思し召しが解りかねるので、遂には種々の異解異安心が起こって来るのも仕方のない次第であります。


 そこでこれらの異解や疑問が、何から起こって来るやというに。多くの人々が本願の思し召しを、ただ一応の聴聞をして。たのめ助けるの仰せじゃもの、たのまずに済むものかと。頭から丸の見込みになさるから。忽ちたのめの御意が、胸につかえ、称えよの仰せが腹に落ちかね、どうたのむのじゃ、どう称えるのじゃと、何時まで経っても、世話や心配がやまぬのじゃ。


 三度三度の食べ物も、蛇や蛙であるまいもの。人間ならば丸飲み込みは大の禁物である。胃弱の人などが、普通のご飯では胃に悪いというて。軟らかに煮返して、喰うて御座るは結構なれど。煮返して軟らかになったからというて。それを丸飲み込みに喰うてしもうたら、何の所詮もない。

 そのようなことならば、むしろ普通のご飯をそのままに喰うて。一口ずつ丁寧にかみ砕き。口の中で粥になるほとよく噛んで、それを飲み込めば。煮返したご飯より、幾倍胃のためによいやら知れんのじゃ。


 私がある医師に、この話をして。病院などに、煮返して病院に喰わせるより。普通のご飯を少量づつ、よく噛んで喰うように、させなさもては如何でありますかと申したれば。その医師は、それは御尤もの説ではあるが。よく噛めというて聞かしても、どれだけ噛めばよいのやら。程度が更に解らんゆえ。

 煮返して喰わせるより外に、仕方はないと申されたから。私はその噛む程度については仙法の中に。一口の食物を、必ず自分の年齢の数だけずつ噛んで飲み込むことに規定してあります。三十歳の人ならば三十噛みと四十歳の人ならば四十噛みである。私も胃に故障の有るときは、しばしば実行してみましたが。非常によいようでありますと申したれば。その医師は、なるほど、それは生理に叶うたところの程度である。仙人などは、そこまで考えておりますか。

 

 

 しかし三十四十位の人は、まだよいが、七十八十の老人となっては、大変でありますなァ。と大笑いして感心せられたことがある。然るに胃病の人が、軟らかに煮返した御飯だからというて。それをろくろく噛みもせず、いつも丸飲み込みにする故に。矢張り胃病の邪魔になる。


 今も丁度その如く、かかる容易い本願の喚び声は、いかにも軟らかなる、たのめ称えよの仰せではあるけれど。頂く此方が、ただ一応の聴聞して、たのまにゃならんとかみ砕かず、称えにゃすまんとそのままを丸飲み込みにするゆえに、いつもたのむと称うるが、胸につかえて難儀して。遂には異安心という、病気が募って来ることになる。

 

 

 私は是を名づけて、御法義の食傷者と申します。折角体を養うために、用いるところの食物を。喰いようの悪いために、返って体を損なう様なことでは、甚だ残念であります。今も無量永劫、心の助かる本願の、ご馳走に逢いながら。聞きようの粗末のために、かえって御法義の食傷病を起こし。往生を仕損ずるようなことでは。実に取り返しはつきませんから、蓮如上人も。

ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なり*1

http://goo.gl/H3I4OD

と御示し下されてあれば。皆様も一応聞いて丸飲み込みにして、不消化の聴聞をなさらずに。幾重にもかみ砕いて、聞いて頂きいことである。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

*1:御文章3帖目6通

2015-08-06

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「9 三信十念不審の数々」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

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9 三信十念不審の数々

全て何事でも根本から聞かんと誤りが出る。安心上のことはなおさら、根本が大事じゃゆえ祖師聖人も。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし

と仰せられて、根本が定まらねば末の解ろう道理はない。


 先ず雑行雑修を捨てると言うことについても。これで廃ったか、廃らぬかと、捨てる手元に苦心をして、御座る御方は沢山あるが。捨てよと仰せられた、根本から聞こうとかかる人は甚だ少ない。なぜに雑行を捨てよと仰せられたのか、雑修は如何なる訳で御嫌いならるのか、自力疑心もその通り。捨てる晴れるは後にして、仰せの根本から聞かねばならぬ。罪や障りがあってさえ、助けてくださる弥陀様が、自力ぐらいは有っても御差し支えはあるまいに、自力を捨てよと仰せらるるは何故か。


 子どもが疑っていても、抱き上げる親の邪魔にはならんのに。衆生の疑いが、助ける弥陀の邪魔になるとは、どういう訳か。と根本から聞いて聞き明かすと、捨てる晴れるの世話なしに、雑行も廃り、疑いも晴れるのじゃ。


 今たのむも称うるも同じことで。たのむ手元や称うる口を後にして、喚んで下さる本願の、根本から確と聞かねばならぬ。然るに兎角世間の人々は、たのめ助けるの仰せじゃもの、たのむ一念がなくてはすまんと。末のところに力を入れ、たのみ心に世話を焼き。たのむに三義の候の憑頼恃怙の四字のうち、どの字でたのむつもりじゃの。と義理や理屈でなで付けて、安心製造するゆえに、聞いたが聞いたにならぬのじゃ。


 どうせ聞く気で聞くならば、先ず本願の腹底へ、動かぬ疑問を突っ込んで。

「それほど迄の親様なら、なぜ我をたのめなどどいうて下された。」

と福野の少女の聞いたのが、実際真面目の聴聞じゃ。それが聞こえてしもうたとき、真から底から世話いらず、信心獲得ができるのじゃ。よってこれより私は、福野の少女に同心して、第十八願のその上で不審の数々を述べて見ましょう。

  • 一 三信と十念たのむと称うるということが、たとえ他力廻向の御与えものであるにせよ。衆生の手元に於いて実際二つ揃わねば、御助けは出来ぬのであろうか。
  • 一 三信十念、二つ揃わねば、往生が出来ぬものならば。たのむ一念のとき往生一定ということは、虚偽(うそ)なのであろうか。
  • 一 実はたのむ一念のとき、往生が定まってしまうので、後念の称名は、あってもなくても、往生に差し支えのないものならば。本願の乃至十念は、あってもなくてもよい贅物を御誓いなられてものであろうか。
  • 一 乃至十念の称うるということが、若しあってもなくても、往生の邪魔にも多足にもならぬものならば。衆生称念必得往生と仰せられ、称うるばかりで迎えとるという御勧化は、虚偽なのであろうか。
  • 一 若し称うるばかりで迎えとるの仰せが、虚偽でないものならば。蓮如上人が、ただ称えては助からざるなりと仰せられたは、余り勝手過ぎる御勧めではあるまいか。
  • 一 本願の上では、たのむと称うると二つ揃えて誓ってあるが。善知識の御化導へ来ると、能信能行の場合は別物として。所信所行の勅命を、知らせて下さるる場合に於いては。必ずたのめよの仰せ一つか、若しくは称えよの、御勧め一つで。たのんで称えよの勅命じゃぞと、二つ揃えて御化導下されてないのは、どういうわけであろうか。
  • 一 思いきって三信十念除いてしまい、たのむも称うるもやめてしもうたら。若不生者の御誓いは、つぶれるものであろうか。

 右の通り凡そ七箇条の不審を並べてみたが。要するところは、たのめばよいのか、称うればよいのか。二つ要るのか、一つでもよいのか。たのむが重いのか、称うるが軽いのか。こんなことなしでは、とても助からんのか。なくても実は助かるのか。それがしっかり聞きたいのじゃ。皆様は、この辺のところが、明瞭に分かっておりますか。

 

 私は素より学問沙汰や法門沙汰では、とても御話しは出来ませんが。ただ信仰上から、そろそろと御話しをして見ましょう。これは至って大切のところであるから皆様も充分に聴聞に心を入れて下されたい。

続きます。

目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-07-17

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「6 異安心の三幅対」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

6 異安心の三幅対

 前席においてくわしく御話し申した如く、大悲真実の親心を以て聴聞の基礎を固めてみると。疑蓋無雑の親様が、我等凡夫を助けるに、条件のあろう訳はない。たとえ他人と他人でも、真正に人を助けるという急場において。条件付きの御助けなど言うことが天地間にあるべきわけは決してない。水難、火難、地震や津波、何れの遭難者を助けるについても御覧なさい。こう思えば助ける、そう思ったら助けぬなどということは、絶対に無いことは明瞭である。そうしてみれば、今は親が子を助けるのじゃ、しかもその親は三世諸仏の王様とも崇めらるる、大慈大悲の阿弥陀さま。五十二段も違っておる、虫けらよりも比較にならぬ我々を。助けるという場合において、条件などのゆめゆめあるべきわけの無いことは、いよいよ明瞭の事実である。


 ここまで聴聞の地固めをしてみると、今度は御化導の文句が、甚だ解らんことになってくる。それほど真実の親様で、無条件の御助けなら。なぜに我を一心にたのめ、露塵ほども疑うこころもつまじきことなり、ひしと縋り参らする思いをなせ、などと仰せられたものか。この御言葉から考えて見ると、まさか無条件で助けてくださるる様子は更にない。言葉を取れば、心が解らず、心を取れば、言葉が通れぬ。意と言葉が丸で違ったように見える。是はどうしたわけであろうか、サァ是より進んでその辺の筋道を、聊か御話しいたしましょうが。五席や十席で済む話ではありませんから。皆様も辛抱して心静かに聞いてください。

 そもそも阿弥陀如来の本願の由来を、善知識の御言葉によって伺ってみると。大体において二つの御示しがある。その一つがたのむものを助けるという思し召しで、もう一つが称うるものを助けるという仰せであります。御文の中に。

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし

とあるは、たのむものを助けるという思し召し。末灯鈔の中に。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と仰せられたは、称うるものを助けるという思し召しである。ここに信ずるものを、助けるという御言葉もあることなれど。つまり信ずるとたのむということは、学問の上では、広いと狭いの差別は立てられておるけれども。安心上にとっては、格別の相違はないことゆえに。今はたのむものを助けるという仰せと、称うるものを助けるの仰せと。この二つについて、御話しを致しましょう。


 祖師聖人や法然聖人は、多く称うるばかりで助けるという思し召しより伝えてくださるる様であるが。蓮如上人へ来てみると、一生涯たのむものを助けるという、仰せの一点張りで御化導下され。しかも称うると言うことは、御恩報謝に限ることとして。往生の正因にとっては、ただ称えては助からざるなりと、御叱りなされてある。そしてそのたのむばかりで助かる証拠といえば、いつも願成就の経文と、善導大師の言南無者の御釈ばかりを、御文の中に引いてある。

 ところが、同じ善導大師でも、礼讃や散善義には「衆生称念必得往生」と仰せられて。是は称うるばかりで往生が出来るという思し召しである。そこでこの、たのむと称うるということは、全体何処から来たかと尋ねてみると。元々阿弥陀如来が、衆生往生の正因を誓わせられた。第十八願の上に、三信と十念の二つの願事があるので。三信とは我等がたのむ一心のこと、十念とは名号を称うる大行のこと。この信と行との二つの御誓いのあるなかに。信の方から喚んで下さるる時の呼び声が、たのむものを助けるぞよの仰せなり。行の方から喚んで下さるる時の呼び声が、称うるものを助けるぞよの仰せとなるのじゃ。


 さてこの二つの御喚び声は、極めて簡単の仰せであるから。一応聞けばだれしも呑み込みやすいようではあるが、再往考えて見ると中々解らん。たのめばよいのか、称うればよいのか。二つそろえねばならぬのか、さほどの御世話のいらぬのか。そこへ善知識の御化導がまちまちと来ているものじゃから。頂くものこそ迷惑千万頂けたようで頂かれず。呑み込めたようでも呑み込み違いしておるものが沢山ある。その呑み込み違いをしていながら、我こそ御正意と思っておる人を異安心と申すので。

 

 

 先ず第一が、たのむものを助けるぞと、信のほうから喚んで下さる仰せを聞いて。たのむばかりのおたすけでありますかと、真受けにしたはよけれども。たのむばかりの御助けじゃもの、たのむ一念がなくてはすまぬと力を入れ。たのむ思いに苦心をして、たのんだから是で往生と。力んでおる人を意業づのりの異安心と申すのじゃ。

 

 

 次に、称うるものを助けるぞと、行の方から喚んでくださる仰せを聞いて。さては称うるばかりの御助けでありますかと。聞いたはいかにも間違いはないようでも。称うるものをの御誓いじゃもの。称えにゃすまぬと力を入れ。称えて所で往生の定まるように、考えておる人を口称募りの異安心と申すのじゃ。

 

 

 そこで第三には、たのめとあればとて、我等がたのめば自力になる。称うるというも同じこと、自力念仏は何にもならん。そこらあたりに心を懸けず、斯かるものをも御助けと。御助け一つに目が付けば、それで不足はないのじゃと。能信能行を払いのけ、このままなりの御助けと、思ってござる人々を、法体 募りの異安心と申すのじゃ。

 

 

 古来より幾多異安心を募るもののある中に。この意業募りと、口称募りと、法体募りの三人が、異安心の三幅対と申してもよいほどの親方株で。それよりいろいろと枝葉が分かれ、三業募りとなり、願生帰命となり、称名勝因や、十項秘事。不拝秘事や、地獄一定法門となってくるのであります。皆様は、異安心などと申すと、悪魔か外道のように思って御座るかも知れないが。そのような悪いものが、異安心などになる気遣いはないので。真実後生が大事にかかり、聞けども聞けども本願の正意が頂かれず。工面工夫の心配を尽くした結果、自分の心にかなった聖教の文句に、はまりこみ。大事の御助けを我が物にせず、是で往生に間違いないと、思うておる人を異安心と申すので。つまり御安心の結核世病人とも名づくべき、哀れ至極の後生願のことであります。

 

 かく申したら皆様方は、そのような安心上の病人こそ、気の毒なものじゃと、思し召すことでしょうが。その病人は、今日何処等におるでしょうか、結核菌は非常に伝染が激しいから、油断はなりませんぞ。今この御座に参ってはおりますまいか。旅か他国か昔話とばかり思っては下さるな。差し詰めて皆様を吟味してみたいものじゃが、皆様は。

「たのんで助かるつもりですか、称えて参るつもりですか。ただしはたのむも称うるも、用事はない、このままなりの御助けと思っておるのでありますか、如何で御座る。」

と問われたら、何とお答えなさいます。


「私どもはそのようなむつかしいことは更に解りませんが、ただ親様の御慈悲一つを、喜ばして貰うばかりであります。」

と、こんなことで腹を決めて御座ることならば。異安心では素より無いが、それは確かに無安心と申すものであります。大事が大事とかかればこそ、異安心にまでなるものの。大事のかからぬ人々は、兎角無安心のままで、同行仲間になって御座る御方が、何程あるやら知れません。

 そこで皆様の中には。

「ハイハイ無安心といわれても、構いません。私は素より無安心でも、如来様がよきようにして助けてくださるるに間違いないから、それで宜しうございます。」

と逃げ口上を持ち出す御方もあるであろう。それは所謂法体募りの口上です。知らず知らずのうちに、我が身は既に法体募りの結核菌にかかっておるのではありませんか。然らば御改悔文でも見事に述べて、ここを一つ切り抜くか。又は面倒の話し相手は御免を蒙り、念仏申すが手にて候と極め込むか。


 何れにしても、 意業、口称の分際を逃れることの出来そうもない聴聞ぶりでは。それこそ異安心の三幅対は、余所ではなかった、現在庫の座に満ち満ちておることになりますぞ。かく申せばとて、皆様に出言のかけ引きや、言い訳の稽古をしてくだされ、と言うのでもなく。義理や法門を覚えてもらいたい、と言うのでもない。ただ喚んで下さる勅命が、真実心に落ち着きの出来るまで。題字を書けて聞いていただきたいばかりで、このような入り込んだお話を持ち出したわけであります。

以名摂物録 後編の目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-07-09

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「5 聴聞の地固め」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。


5 聴聞の地固め

 引き続いて御話しを致しますが。兎角信心安心の事柄は、目に見えない、無形のもん抱いてありますゆえ。解ったようで解らぬことも有り、飲み込めたようでも飲み込み違いのありやすいもので。御話し申す我々も、十二分の注意をはらわねばならぬは、言うまでもないことで。

 

 

 而もその説明をするについても、右からお話をして解らぬ人には、左から話をしてみねばならず。前から諭して叶わぬときは、後ろから諭す必要もあるので。たのむ一念に困って御座る御方には。たのまんでもよいと、言わねばならぬ場合もある。信心頂くにさまよいしておる人々には、時には信心も要らぬと聞かせてみねばならぬこともある。そのことは前席にくわしく御話しを尽くしました。

 

 

 然るに聴聞の基礎の、固まっていない人々は。たのむも要らぬ信ずるも要らぬなどと聞かせられると、忽ち驚いて。夫れは聖教に背いておる、夫れは異安心の話である。当流はたのむ一念がなくてすむのものか、信心為本の宗旨を何と心得ておる。と非難攻撃の矢を放ち、争い出す御方もあるように思われますが。

 

 

 なるほど聖教には一心に弥陀をたのめ、信心を獲得せよと、雨の降るほど勧めてある。そればかりではありません、まだまだあります。雑行捨てよ、自力離れよ、疑い晴れよ、縋る思ひをなせ、決定のこころをとるべし。と数えてみれば沢山ある。

 

 

 これは何れも肝要のことに違いはないが、たとい肝要のこととしても。それを一々我々の仕事のように心得て。思わにゃすまぬ、起こさにゃならぬとかかったら。いかに聖教通りかはしらないが、実際に我々の心にその様な思いが、悉く起こるものであろうか、どうでしょう。


 口で言うは容易いが、心のうちではそーはうまくは参りますまい。うまく参らんものじゃから、起こす思いに骨が折れ。安堵するのに心配し、他力他力と言いながら、いつか自力の深海へはまり。弥陀をたのんだつもりでも、実は自分の領解をたのみ。信心正因と力んでも、力んだ理屈で往生するような形になり。遂には無量永劫の、大問題を仕損ずることになるまいか。皆様よ、他人の話ではありません、理屈さえよければ通られる、裁判所とは違いますから。真実我が身の一大事と心得て、理屈を離れて。信仰の妙味に手ッ点するまで聞いてください。


 全体家屋を建てるには、先ず地盤の固めが第一である。自弁の固めをしないところへ、家を建てては。建てて建てられぬことはなけれども。建てたその家が、忽ち傾いてしまうのみならず。地震や大風に遭ったその時は、それこそ転覆という、大災害を受けねばならぬ。四十間四面の大堂が、建築以来何年経っても、一分一厘狂いのでぬは。用材も大工もよかったものに相違はないが。第一には大切の地盤の固めが、堅牢であるためである。

 

 

 皆様が一念帰命の自信建立なさるにも。第一に聴聞の地盤を固めてから、かかってもらわねばなりませぬ。もし聴聞の地盤が、固まってないところへ、一念帰命の柱立てをして。往生一定の胸を上げ、歓喜報謝の造作までして見ても。忽ち不安の傾きがでるのみならず、異学異見の大風にあったり。臨終の大地震が来たその時は、それこそ大変の騒ぎとなり。折角の後生も、極楽が地獄と転覆してしまい、実に情けないことになりますから。皆様も聴聞の地盤を、今日この座で確と固めていただきたい事であります。


 然らばその聴聞の地盤を固めるには、何で固めるがよいかというに。セメントやコンクリートでは固まりません。信仰の地盤は固まりません。信仰の地盤は、大悲真実の親心を以て、固めるより外はありません。祖師聖人は信の巻に、至心も、信楽も、欲生も、三信ともに、ここ一つという大事のところは。同じ一つの親心を以て固めてあります。先ず、その御言葉を読んでみると。

如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

  乃至

疑蓋雑はることなし

と仰せられてある。


 これが阿弥陀如来の燃え立つばかりの、御慈悲の有りだけを御示し下されたので。かかる尊きやるせなのない親心を以て、三信ともに一つ一つ結び固めてあります。皆様には御言葉が難いから、御心の取れかねる御方もありましょうが。此の世の親から考えて御覧なさい。可愛い我が子を助けるときは、助けてもらう子供より、助ける親がきちがいになってかかります。


 先日の新聞にも、東京のある運送屋が火事を出した悲惨の話が出ておりました。子供五人に夫婦二人、七人家内の有りだけが、二回に寝ていた夜の二時頃。階下の店から出火したのを、知らずに熟睡していたところを。通行人にたたき起こされ、驚いて飛び起きたが。階下ははや一面の火となっておるので、防ぎはつかぬ。何分指を並べたように、寝かしてある五人の子供。抱くやら負うやら引きずるやら、丸の裸で二階の窓から屋根へ飛び出し。屋根伝いに批難して漸く命だけ助かったと思ったが。

 

 あまりにうろたえて逃げたので、五歳の子供を一人取り残してきた。その時母親は狂気になって、その子を助けに立ち戻ったものの。無残や火事が済んでみてみれば、母親は我が子を火宅だけ占めたまま。親と諸共黒焦げになって、死んでしまったとのこと。

 

 

 サァ皆様この母親が我が子を助けにかかって時の心こそ。一念一刹那も清浄ならざることなる真実ならざることなし、という形であります。尤も凡夫の心は、この真実が続くものでも無し、しかも成功の出来ない悲しいことであったが。母親の心には成功の不成功の、と考えておるヒマはありません。

 

 人目に見れば、余り無考えの仕事のようにもおもわるる。一人のこのために我が身が死んでは、四人の子供を親無しにする。一人が可愛いか、四人が可愛いか、全体火の中へ入って、人間が何をとってこられる。もう少し後先の考えをしてみればよかったに。などと評議をしておるのは、畳の上のお話で。これが疑蓋雑まることあり、というものじゃ。

 

 

 今疑蓋無雑の母親は、可愛いと思い一念の外に、彼此雑ぜるものはない。財産も忘れ、夫も忘れ、家事も忘れ、危険も忘れ、命も忘れ、死ぬも忘れ。四人の子供も皆忘れ、ただ助けにゃおかん……と火の中で。我が子に飛びついた形が、全く疑蓋雑ることなしというところである。この疑蓋無雑の親心を、如何に微細に調べてみても我が子がたのんでおるかおらぬか、縋る思いはあるかないか、その思いではたすけられぬの。この思いにならせていの、というような味わいが。露塵ほども親の心に、あるべきはずのないことは、至って明瞭のことでしょう。


 これから考えて見て下されませ。今は大悲の親様が、清浄真実変わりなく不可思議兆載永劫のその間。衆生可愛いや悪人不憫の御心で、諸苦毒中の厭いなく、助けることにかからせられた。胸の内。疑蓋無雑とあるうえは、たのむ一念起こして来いの、自力捨てねば見捨てるのと。可笑しい味のあるべき訳は決してない。

 

 

 これをもう少し簡単に言えば。親が我が子を助けるに、条件のあるべき筈はない。弥陀が衆生を助けるに、条件があってたまるものか無条件で助けてくださるるが、疑蓋雑まわことなしというところ。これなら助ける。それなら助けぬ、という条件付きの親様なら、助ける御手元に、疑蓋が雑わっておるといわねばならぬ。疑蓋の雑わったものならば、真実大悲とは申されぬ。真実大悲の親様なら、何とあろうと、かとあろうと、助けやるには条件つけぬ。条件なしの御助けの、種が六字と出来上がり。発願回向と我が胸へ、与えて届けて下された。その一念にたのむとなり、縋るとなり、信心となり、安心となる。


 そうして見れば、たのむというも信ずるというも、助けてもらう条件では無い。御助けの届いた形なれば、たのまにゃならぬ、信ぜにゃならぬの議論の腰はぬけはてて。たのまずにおられぬことになったのが。凡夫自力のたのみでない、たのむ一念のありだけが、全く南無阿弥陀仏のお働きであるというけは、いよいよ明瞭になった次第である。

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2015-07-08

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「4 頼まずに助かった所以」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

4 頼まずに助かった所以

かく申したら皆様は。さても松澤は詭弁を吐く坊主である。極楽参りの問題を、魚津あたりへ持ってゆき、後生の話を此の世の話にいい曲げて。これが頼まんで助かる証拠じゃのと、人を愚弄するにも程がある。そんな証拠が、御文やご和讃の中に何処にある。聖教の所判になき、くせ法門とは汝のことである、ご立腹なさる御方も有るでしょう。

しかし皆様、心静かにしばらくしばらく。仰せ御尤もには候えども、御文やご和讃から、助けてもらうのではありません。助けてくださるるは、阿弥陀如来でありますぞ、余りうろたえてくださるな。阿弥陀如来と申す御方は、凡夫よな粗末の御方でありますか。不実で固めた凡夫でさえ、だれが落ちておるやらわからん他人を助けるに。頼ませてから助けるような、不徳のことはしないのに。真実ずくめの親様が、一子のごとく憐念すと。可愛い衆生を助けるにたのむ一念のないものは、落ちても知らんというような、不実の有るべきはずは有るまい。もしそのような親様であったなら、畜生にも劣ることになります。皆様はこの辺のところは、何と味わって下されますか。イヤ何とあろうと御文通りだ、たのめ助けるの仰せだもの。たのむ一念のないものは、とても助かる訳はない、と飽くまで御力みなされますか。夫れでは一休禅師の笑い草。

『阿弥陀には まことの御慈悲はなかりけり。

 たのむ衆生を撰助けする。』

 ということになりますよ。

 

 全体言葉から、心が定まるのではない。心から言葉が出たのじゃから。文に依らずして義に依る、言葉に迷わずして心を取らねばならぬので。道理、文証、扱い所詮と、学者方は申されますから。道理を先として文証を後へ回すが、当たり前である。依って御文やご和讃の御言葉をあとにして、暫く道理から考えて御覧なさい。

 

 角川の遭難者が、頼みもせぬのに助かったは。如何なるわけで助かったのじゃ。巡査が来たので助かったか、消防夫が来たので助かったか。斧で腰板を破ったので助かったか。

 それらは御助けの縁にはなっておるけれど、未だ助かったのではない。正しく御助けの決着は、消防夫が列車の中へ飛び込んで、お助けの手を懸けたときに助かったのじゃ。

 そこで消防夫や巡査が駆けつけてくれた故。たのまんでも助かるに、違いないと思っておるが法体づのり。たとえ巡査が来てくれても、たのまんでは助かるまいと、思っているのが意業づのり。何れにしても御助けの手が届いてないから、助かったのではないことだけは請け合いである。


 ここをもう少し込み入って、お話をしてみると。落ちたお客の中にも、重症のものは半死半生で、夢中になっていたけれど。軽傷のものは、叫び声張り上げて、助けてくれ助けてくれ……と頼んでいた。これは自力だのみと言うもので、何のようにも立たぬので、更にたのむ思いもなく、夢中になっていた者と、少しも変わりはないのである。


 そこでいよいよ消防夫に飛び込まれ、御助けの手のかかったとき今迄叫んで助けてと、たのんだ自力の手は引けて。真から底から落ちつかれ、安心安堵の出来たのが他力廻向のたのみである。ここでお客が万一にも、張りつめた心が一時にゆるみ、忽ち昏睡状態の夢中になってしまっても、たのみの体は変わらぬのじゃ。客から出したたのみなら、夢中になったその時に、変わらぬわけはなけれども。客から出したたのみでない、助けてやるぞと向こうから。懸けた先手の御助けが、たのみの体であるゆえに。夢中に抱かれておるままが、たのんだ形、縋った形、他力にまかせた形である。ここまで行けば始めから半死半生で夢中になっていたものも。御助けの手が届いた上は、たのまれた形は同様で。縋りまかせて相まで、更に変わりはないのである。


 今日御互いの我々も、後生一つの助かるは。弥陀があるから助かるか、六字が出来たで助かるか。呼び声聞いたで助かるか。そこらあたりで治定(きまり)はつかぬ、つかぬ治定のつくときは、助けるお手の届いたとき。助ける弥陀がある上は、たのむ用事はいらないと。法体まかせにしてみても、後生の定りはつかぬのじゃ。助ける弥陀があればとて、たのまんですむものかやと。意業だのみをしてみても、矢張り後生は定(きま)らんのじゃ。定(きま)らぬ衆生の後生をばきめてやりたい親様は。五劫永劫の駆けつけて、種々に善巧方便の。斧振り上げて定散と、迷う自力の腰板を、打って打って打ち破り。宿善開発の端的に、我能く汝を護るぞと。苦しい胸のどん底へ、飛び込まれたる御六字が、摂取の御手であったかと。知れて届いた一念に、たのむたのまん世話要らず、助かったのじゃたのまれたのじゃ。助けてもらったこの客は、散乱粗動の夢中でも。助ける六字が動かぬゆえ、たのむ相も動かぬのじゃ。たのむ衆生の手元では、妄念妄執わすれてもたのめる六字が変わらぬゆえ助かる道も変わらぬのじゃ。変わらぬ動かぬ御六字の働き一つがあらわれて。安堵決定とたのまれた。これが他力廻向の信心というのである。


以名摂物録 後編の目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-06-17

以名摂物録 後編 松澤祐然述「3 たのむは要らぬ証拠はあるか」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

3 たのむは要らぬ証拠はあるか

第二には、親様の真実ありたけを打ち明かして。他力たのみを勧める場合に於いて。たのむも信ずるも要らぬ、と言ってみたいことがある。

そのわけは皆様もよく考えて見てください。言葉や文句は何とあろうと。大体弥陀のお慈悲の腹底に据わってみたときに。実際衆生のたのむ一念が要るであろうか、要らぬであろうか。此のことは前にもくわしく、お話をしておいたことであるが。


可愛い我が子を助ける親が、我が子に頼ませてから助けるというような。気違いじみた味わいが、あるべきことか無いことか、馬鹿でも分かる事である。


皆様は夜中に懐から、抜け出て寝ておる我が子をば。見つけたときはどうなさる。

「こりゃ坊や、そのように抜け出て寝ていては風邪を引いて死んでしまうぞ。我を一心にたのめよ、かならず抱いて寝るぞ。」

と呼びかけて、そこで坊ちゃんが。

「親なればこそ。」

とたのむ思いの起きたとき、抱いてやるのでありますか。内の嬶はそうではない。抜け出た我が子の罪も咎めず、我が身の油断をしていたのが残念で残念で。

「あら、まぁいつの間に抜け出ていたやら。」

とかき取るように抱きしめて、暖めてやるのが、親の親切でありますぞ。


凡夫同士の親でさえ、これじゃのに。大慈大悲の親様が、可愛い衆生を助けるに。たのむ一念が起こらねば、助けられぬというような、訳は微塵もありますまい。


然らばたのむ一念は、全く要らぬのでありますか、と聞きたい御方もあるでしょうが。それほどたのむ一念に執着して御座る御方には。目の覚めるように、私は確かにお答えいたします。

「要りませんとも、要りませんとも、たのまずとも必ず助かります。」

「これは珍しい、そしてそのたのまずとも助かる証拠はあるか。」

「あるともあるとも。」

「何処にある。」

「越中にある。」

「何時あった。」

「去年の六月11日。」

「これはいよいよ面白い、どういう具合で助かった。」

さらばくわしく物語ろう、確かにこれをお聞きなさい。


抑頃は大正丙辰。水無月中の一日のこと。私は越中の石動より魚津へ引き移るので。午前十一時二十分石動発の列車に乗っておりました。その列車がまさに魚津へ到着せんとする、八丁ばかり手前のところで。どうした弾みか、非常に動揺してきたので。乗客一同、スワ大変と驚くうちに。後部の貨車から脱線し始めて。遂に角川という川の中へ、ボーギ式の客車が一つ。実に恐ろしい勢いで、鉄橋上より真っ逆さまに落ちてしまった。


幸いに連結器が切れてくれたので。私どもの乗っていた列車は、無事でありましたが。さぁその落ちた列車内は、忽ちに阿鼻叫喚の大騒ぎ。何分逆さまに落ちたものじゃから。列車の窓は水に嵌まっておるので何としても出ることが出来ぬ。

そこで機敏の魚津警察署では急に消防夫を集めて馳せつけて。列車の腰板を斧で漸う打ち破り、遭難者を順々に引き出した。手の折れておるもの、足の折れておるもの。頭の欠けた人、耳のちぎれた人乱髪の女に、半死の男。うめく老婆に、叫ぶ子供。何れを見ても、濡れた着物に、滴る血潮。

さすがの地獄も、此の上のことはあるまいと、思われるほどの、惨憺さる有り様。そこへそろそろ死人が引き出される。担架は走る、医者は来る、白衣の看護婦、黒衣の役場員。上を下へと応急手当て。

一先ず済ませてみたところが、乗客合計四十一名で。無残の即死が十一名、重軽傷か二十八名。

無事に居たのが母に死なれて泣いておる、四歳の少女と。これも仏のお陰様じゃと、喜んでおる老尼の、二名のみであった。


くわしいことは、当時の新聞紙上で、報道せられたこと故に。皆様の中にも、記憶して御座る御方もあるであろう。わたしはこの恐ろしい現場に遭遇して実際に見ていたのだ。

これ皆様よ、お聞きください。それほどまでに大騒ぎして、遭難者を助けましたその時に。たのむ一念のお調べなどは、一向微塵ほどもありませなんだぞ。疑わしくは、魚津警察へ照会して御覧なさい。

さぁこれが正しく、たのみもせずに助かった現の証拠というものであります。

以名摂物録 後編の目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

 

2015-05-13

以名摂物録 後編 松澤祐然述「2 撫でるも叩くも親の慈悲」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

2 撫でるも叩くも親の慈悲

お集まりの皆様には。斯かる忌まわしき聴聞の間違いは、おそらくはあるまいと思いますが。しかし斯かる邪見の同行は、世間には随分あることで。


ちょうど振る舞いのお膳に向かったお客様が。茶わんの中から、一粒の籾をつまみ出し。

コリャこの籾を客に食わすとは何事じゃ、籾を人間が食われるか、これは鶏の食べ物じゃ。こんなものを食わせる、ここの主人は、我々を殺すつもりに招いたのか、

と力んでおる狂人も同様である。

もしや間違って、籾が混じってあったなら。そっとお膳の隅へのけておき。およばれできるところだけ、よばれて来るが、客たるものの道である。


布教者が実際間違って言ったものとしてみても。それを脇へのけておき、いただけるところだけ頂いて。手強い御慈悲に満腹して、下向するのが、如法如実の御同行と申すものである。

貞信尼が存命中に、あちこちと御参りする様子を見ておると。大学者の御説教をなさるときも、又拙寺の役僧の書き付け法談するときも。更に変わった様子もなく、共に歓喜の色を湛えて聴聞しておるので。私は不審に思い、問うたことがある。

『貞信さん、お前さんは、どなたの説教を聞くにも、嬉しくてならんというような顔をして御座るが。誰の説教も、同じ味わいに頂かれますか。』

と申したれば、貞信尼は。

『御説教のお堅いところは、とても頂かれませんが。どなたの御説教に参っても、阿弥陀如来の御勅命、南無阿弥陀仏に、かわりはないので。たのめよ必ず助けるぞと呼んでくださる御一言を聞かせて頂くたびごとに。身の毛もよだつほど、嬉しう御座ります。』

と答えられたので、さても仰信の人の聴聞は、又格別のものかなと、驚いたことがありました。

なるほど義理や法門を脇へぬけ、勅命一つを持ち替えず。そのまま頂いて、喜んでおる身にとっては。大学者の説教も、御小僧さんの説教も、何の変わりのあろう訳はない。しかしこれらは、無我の信仰に入りたる貞信の如きものでなければ。中々その様の味わいに、なられるものではなけれども。兎も角もお互いお互いは、斯かる貞信の無我の聴聞を手本として、前席の同行のような邪見の淵へ、夢にも陥らぬよう。ひたすら心がけて頂きたいことであります。


そこで某布教者は、実際にたのむはいらんと申されたか、申されぬか。たとえ言われたものとしても、いかなる訳で、たのむも信ずるも要らぬなどと、いわれたものか。人様のことは解らぬ上は、邪見の同行の尻馬に乗り、是非も究めず、いたずらに、人を攻撃するような。愚痴の御話は、御免蒙るとして。この私にとっても、ある場合においては、たのむも要らぬ信ずるも要らぬ。というて見たいことがある。

そのある場合というは。第一に自力頼みをしておる人の間違いを正してやるとき。第二には親様の真実ありたけを届けて、他力たのみをさせるときである。


まず第一は、皆様もご存知の通り。当流は元より信心為本で、たのむ一念が肝要に違いはないが。その肝要と御勧めなさるるたのみ心は。自力頼みを言うのでない、元より他力だのみを御勧めなさるのじゃ。

然るに浄土真宗の人々が。口では他力他力というてはおるが。心の内ではたのむ一念に骨を折り。彼やこれやと心配し、この思いあの心で、と難儀して。教えてもらったり、直してもらったり。工面工夫の有りだけして、やっとのことに出来上がった。たのむ一念であったなら。それはダメ、それはいらぬ、それはお捨てなさい。そんなたのむ一念なら、あって迷惑、なくて仕合わせというものである。


西へ向かっていかねばならぬ人が、東へ向かって走っていたら。寝ていたときより、余程悪うなったので。そのような方角違いをしてをる人は。何とも致し方がないゆえに。まず差し当たり、走ることを止めてもらわねばならぬ如く。

他力にむかわにゃならぬ宗旨の人が。自力頼みをしていながら。知らずに迷って御座ることでは。まるで一座も聞かん人よりは、余程悪う傾いておるのである。そのような人には、何と導く法がないから。まず取り急ぎ頼む一念を、止めさせて、かからねばならぬのじゃ。


撫でて育てるばかりが、親の慈悲というものではあるまい。時によっては、可愛い我が子を、叩きつけねばならぬこともある。

撫でたときが、可愛いので、叩いたときが憎いというのではない。可愛いと撫でる親の手で、叩く道理はなけれども。捨ててはおけぬ我が子の行儀、直してやりたい真実の。慈悲で固めた親心、撫でて可愛い時よりも。叩いたときの可愛さは、涙とともにやるせがない。


今もちょうどその如く。たのめの御意のあるなかに、たのむ一念不要ぞと。いわるる道理はなけれども、捨ててはおけぬ未来の大事。たのみ損じてござるのを、直してやりたい老婆心。たのめたのめと言うよりも、百倍増してつらけれど。たのむは要らぬと叩かにゃならぬ。

叩いた親を恨むのは、親の情けの解らぬのじゃ。たのむは要らぬと叩かれて、叩いた人を謗るのは。弥陀の御慈悲が解らぬのじゃ。

御慈悲のありたけ聞いてみりゃ。たのむたのまんさておいて。逃げても逃がさぬ御手柄を。南無阿弥陀仏と成就して、呼んで届けて下された。六字が摂取の御手じゃもの、たのむまいぞといわれても。たのみになって、力になって。なってなってなり過ぎて。過ぎた余りが口へ出て、申す念仏のありたけまで己が仕事であらばこそ。心行ともに世話要らず、他力ずくめになったのが。一流安心のすがたである。


以名摂物録 後編の目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-05-04

以名摂物録 後編 松澤祐然述「1 たのむも信ずるも要らぬ御勧化」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。


1 たのむも信ずるも要らぬ御勧化

今日もお変わりなく、ようこそ御参詣下さいました。

かくのごとく座に座を重ねるにしたがって。いよいよ親しく御話もさしていただけますが。

しかし、お互いの存命中には。もう、何度ほどお逢いができるものでしょう。私から始め、無事達者で暮らしておれば。いつでも聞かれるように、油断をしておりますが。無常迅速は世の習い。これで私がお話しの、終いになるやら、皆様はこれが聞き納めになるのやら。

一寸先は更にわからん、身の上なれば吉田の法師が徒然草の中にも。『はからざるに病をうけて、此世をさらんとする時にこそ。初めて過ぬる方の、誤れることはしらるれ。誤りといふは、他のことにあらず。速やかにすべきことをゆるくし、緩くすべきことを急ぎて、過にしことの悔しきなり。其時に悔ゆるとも、甲斐あらんや。』と申してある如く。

窮まるに臨んでこれを悔ゆるとも、また何ぞ及ばんや。

蓮如上人も。

『命のうちに不審もとくとくはれられ候はでは、定めて後悔のみにて候はずるぞ、御心得あるべく候。』

と御意見下されてあれば死んでから決まる往生じゃない、落ちてから助かる未来じゃない。今此のお座が御助け治定の場所なれば。この座限りととりつめて、ゆめゆめ後悔のないように、聞き明かして頂きたいことであります。


さてこれまでは真宗一流の安心は。凡夫の機の上に、発るものに違いはなけれども。我等の智慧や分別や、考えや、思惑で、起すのではない。その体全く他力廻向の御六字が我が機の上に。働いて下さるる形を、信相と申すのじゃ、ということは。行きつ戻りつ御話しを尽くしましたが。皆様も大略は、御得心ができましたことでしょう。


然るに近頃は、あちらこちらの同行に。大事の要を聞き誤り。僅かの文句や言葉に拘泥して、善しや悪しやと。迷って御座る輩が、ポツポツ見ゆるようである。

両三年以前のこと。越後の長岡から、新潟へかけて、各地共、大評判で巡回せられた、某布教者がありました。

参詣の沢山ない布教者に、異安心などといわれた人は。古往今来、聞いたことはありませぬが。某布教者は、何処も群参であつた為でもあるまいか。たちまち異安心という。評判が専らになり。甚だしきに至っては、統理大衆一切無碍と敬礼して、和合を本とすべき僧侶までが。同行と付和雷同して、某布教者を攻撃したような、話しも聞きました。


私は年中自国では不在がちで、詳しいことは知りませなんだが。この頃ちょっと帰国しておるとき、ある同行が一人参りまして。計らずも某布教者の話しが出たなら。其の同行は乗り気になって。


『いや、あの御方のお勧めは、私も参ってみましたが、まるで間違った御話で。異安心も異安心も、大異安心でありますよ。』

と申すので私も。


『これは驚いた、同行衆が聞いてわかるような異安心では。余程変わった勧めようをせらるるに相違ない。全体某布教者は、どういう話しをなされたか。』

と尋ねたれば同行が申すには。


『あの御方は、たのむも要らぬ、信ずるも要らぬという。御勧めでありますもの異安心に決まっています。』

そこで私は。


『なるほどそれはご尤もじゃ、たのむも信ずるも要らぬとは、言語道断じゃ。しかし、当流は信心為本であるということは、小僧でも知っておる。

 しかも代々の善知識は、たのむ一念のところ肝要なりと御勧め下され。蓮如上人は、雨の降るほど、弥陀をたのめ、一心にたのめ、ひしとたのめ、と御化導下されてあるにもかかわらず。かりそめにも袈裟衣着た布教者が。高座の上に堂々と、信ずるもたのむも要らぬなどとは、申さるる訳はないはずじゃに。それを言われたものとすれば、そのいわるるには、必ず訳がなければならぬ。

 こう言う訳じゃでたのむは要らぬ、斯かる次第なら信ずるも要らぬと、随分説明があったであろう。その後先の訳は、御同行、お前は何と聞き取ってこられたか。』

と申したれば、今の同行。


『私はそのあとさきの詳しい話しは、聞きませんが。』

と答えたので私は。


『これはおかしい、訳も言わず、理屈も述べず、某布教者は高座の上で。たのむも要らず、信ずるも要らず、たのむも要らず、信ずるも要らず、あなかしこあなかしこ……という説教であったのか。

 それでは説教になるまい。御同行、お前は、訳もわからず、道理も聞かず、ただの一言をつまみ採り。某布教者を異安心などと申すことは、いかにもお前の邪見ではないか。我が身の出離を余所にして、説教者のよしあしに力をいれ。同行という身分を忘れ、勝手に布教者を誹謗して。何とも思わぬぐらいなら、御座へ参るをやめたがよい。

 それは後生を願いに参るのではなく、曾婆羅頻多羅地獄へ堕ちる、種まきに参るというものじゃ。お前のような同行を親鸞聖人は正信偈に。『邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯。』とお叱りなされてある。殊に異安心ということは、布教上からいえば人殺しも同様。信仰上から言えば間男みたようなもので。軽々しく人に対して、異安心呼ばわり出来るものではない。

 たとえ愚夫愚婦の身の上でも。あの男は人殺しじゃの、あの女は不倫をしたのということが容易に口外は出来まいに。信仰を本とするお互いが、同行たるべき身をもって。僧侶に対して異安心とは何事である。これが慚愧の出来ぬことならば、お前は宗教上の人非人である。』

と厳しくある同行を戒めてやったことがありました。これは誠に、情けないことであります。


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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)