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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-07-30

善悪を超越した阿弥陀仏の救いについて(リモさんのコメントより)

前回のエントリーの内容についてリモさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

リモ 2014/07/27 00:42

>人間の上での善悪を超越している

安心問答の2014_07_11のブログのコメントに重複しそうですが、

(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140711/1405070125)

「人間の上での善悪」をもう少し詳しく御説明して頂きたかったです。

yamamoyaさんは、煩悩具足の人間でも仏さまと同じ善(白業)ができるというお立場なのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140725/1406279168#c1406389359

南無阿弥陀仏について、前回のエントリーで「真実の行」と親鸞聖人が仰有っていることを紹介しました。

今回は、また別のご文を通して書きます。

円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智(教行信証総序)

(現代語訳)

自他不二、生死一如とさとりきわめた阿弥陀仏の無上の徳を円かに具えている名号は、人びとの煩悩悪業をそのままさとりの徳にかえていく智慧のはたらきをもっており

http://goo.gl/rPBzJM

これは教行信証総序のお言葉です。南無阿弥陀仏を「円融至徳の嘉号」と言われています。

円融とは、「それぞれのものが、その立場を保持しながら完全に一体となって、お互いに融けあいさまたげがないこと(浄土真宗辞典)」という意味があります。仏様の智慧から見ると、私たちが考えるような自分と他人、善と悪と言った区別は有りません。しかし、それを仮に名前をつけてそれぞれの名前で自他、生死、善悪と呼ばれていますが、本来はそれぞれはお互いに融けあいさまたげがないということです。それを支えているのは仏の智慧であり、その阿弥陀仏の智慧とお徳が完全に備わっているのが南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏は「悪を転じて徳を成す正智」だといわれています。

この転じるということについて、親鸞聖人は唯信鈔文意に以下のように言われています。

罪をけしうしなはずして、善になすなり。(唯信鈔文意)

http://goo.gl/4hcqdx

ここでは、「罪を消してなくさないまま善にする」と言われています。このように言われるのは、罪とか悪には実体がないというのが前提に有ります。もし実体があるものならば転じるということは有りません。ここで転じるというのは意味が変わるという意味です。それを転じるのは仏の智慧によるものです。


しかし、人間の智慧ではそのあたりはよく分からないことです。悪は悪であり、善は善であり、全く別のものであり、また実体があるようにしか思えません。それが人間の上での善悪です。しかし、仏様の智慧からするとそのようなものは本来有りません。


この悪を転じて徳となすについては、毒と薬の関係で例えられることがあります。「薬も過ぎれば毒となる」の言葉があるように、薬とは本来毒なのです。その毒の成分をうまくコントロールすると、毒の成分がそのまま薬として働くようになります。そのように「悪」はそのまま、仏の智慧のコントロールが働くことによって徳として下さるというのが、総序の「悪を転じて徳を成す正智」ということです。


人間の考えでは、善によって悪を消し去るようにしか阿弥陀仏の救いを考えられませんが、そういうものではないということです。

最後になりましたが、お訊ねの

yamamoyaさんは、煩悩具足の人間でも仏さまと同じ善(白業)ができるというお立場なのですか?

について書きます。

できないという立場です。

なぜなら、仏様と同じ善ができるのは仏様です。もしできたらそれは凡夫とは言いません。

2009-11-16 罪悪観の多少は、阿弥陀仏が救う上での不都合にはなりません(maryさ

罪悪観の多少は、阿弥陀仏が救う上での不都合にはなりません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

御文章に「我が身の罪の深きにも心を懸けず」とか「我が身の罪の深きには目をかけずして」とあるのは、我が身の罪の深さを自覚して「罪つくりの悪いものだ」との自覚のある人に、気にしなくてよいと言われているのであって、「罪である」とか「悪である」とも何とも感じないで平気でいる人は、やはり蓮如上人が、気にするな、言われている相手とは違うのではないか?と思えてきます。

阿弥陀仏の見抜かれた自己まではいかなくても、それなりに罪悪深重のあさましい自分であると自覚した人が、本願を聞ける機であるということはないでしょうか?

(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091115/1258243358#c1258283249

回答します。

「本願を聞ける機」という人がいて、本願を聞けない人が本願を聞ける人にならねば救われないと言うことではありません。

「本願を聞ける機」がいるという前提で話をしますと、阿弥陀仏が「この人は助ける」「この人は助けない」と差別をされているように思ってしまいます。

阿弥陀仏の方からは、一切差別はありません。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず(教行信証信巻

真実信心には、身分によって選ばれないし、老若男女も差別なく、造った罪の多少も問題にせず、修行の期間も論じられないといわれています。

「簡ばず」の「簡」は、要らないものを取り除く、余計なものを取り外すという意味があるそうですが、阿弥陀仏の救いには余計な人は一人もいないということです。

また、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜずといわれているのは、本願の前に救われる人救われない人の差別がないということです。別の言い方で言えば許される人、許されない人という差別はないのです。

蓮如上人が、「罪悪を思い詰め・・」、「罪悪に心を懸けず・・」といわれるのは、罪という自分の有り様を問題にせずに、阿弥陀仏の本願に向かいなさいといわれているのです。

上記のようなお言葉の前後には、必ず「弥陀を一心一向にたのみたてまつりて」「弥陀をたのめ」と言われています。

「罪が思えないと助からない」と思われた上で「自分は罪が思えない」というのでしたら、とても助からないような自分はなおさら阿弥陀仏の本願でなければ助かる道はありません。だから弥陀を一心にたのめと蓮如上人は仰っています。

罪悪観の多少で差別をされるような、阿弥陀仏ではありません。罪悪の自覚の有無で、許される人、許されない人があるのではありません。救いの差別は、私の方で作り上げる者です。「あんな人が救われる」とか、「こんな自分は救われない」と本願を勝手に定義づけしてしまいます。

阿弥陀仏からいえば、救う相手は私であって、他の誰でもありませんから、結果として差別はありません。私一人を助ける阿弥陀仏に、ただ今救われます。

2009-10-09 阿弥陀仏から、私からの違い(Kさんのコメント)

阿弥陀仏から、私からの違い(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

前回は、救われる側からすれば、「罪を知ったから救われた」という関係はないということを書きました。

今回は、阿弥陀仏の側から見た場合でお答えします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091006/1254829301

救われる側から見る場合と、阿弥陀仏の側から見る場合とは違うということでしょうか?同じではないでしょうか?区別されるのにはどのような意味があるのでしょうか?

阿弥陀仏の側から見れば「罪を造った者が、その罪を知り、回心し慚愧することで、救われる」のでしたら、私の側からも結果としては同じだと思うのですが、すべて阿弥陀仏が主語だから私の方ではそれらの関係についてあれこれ言えることではないという意味なのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091006/1254829301#c1254925612

回答します。

違うというのは、大まかに言いますと、「罪を知る」の主語が変わるため、罪の判断基準が違います。

コメントで引用された、「救われる側から言えば、『罪を知ったから救われた』という関係はない」という部分は、私の力で罪を知るということです。私の力で罪を知ったことで阿弥陀仏に救われるということはないので、阿弥陀仏の救いは関係ありませんと書きました。

阿弥陀仏の方から言えば、阿弥陀仏の力で罪を罪と知らせて、回心し慚愧させることで救うということです。

誹謗正法という罪は、正法を知らねばわかりません。その罪を罪と知るのは、正法を知らされるからで、それは阿弥陀仏の願力によって知らされることで、私の力ではないということです。

私が、自分で「善し悪し」や「罪の有る無し」を判断しても、判断基準は自分中心です。

誹謗正法の罪の判断基準は、正法です。その仏法を認めない、自分中心の私の判断基準に、法に目を向けさせ、心の転換をさせるというのが、阿弥陀仏の願力の働きです。

阿弥陀仏の側から見れば「罪を造った者が、その罪を知り、回心し慚愧することで、救われる」のでしたら、私の側からも結果としては同じだと思うのですが(Kさんのコメント)

実際救われた上でいえば、私から見ても、阿弥陀仏からみても、どちらも同じ南無阿弥陀仏の働きという点で同じです。

「私が(私の力で)罪を知った」という自分中心の価値判断は、救いと関係がありません。

前回のエントリーにも書いた親鸞聖人のお言葉です。

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(親鸞聖人御消息6

自分で罪を知ったというのは、「わが身のわるければ」と思うことです。自分の心の善悪は、自分中心の視点での判断基準です。その基準で、本来善悪を関係なく救うという阿弥陀仏の救いを計らうから往生出来ないと言われています。

すべて阿弥陀仏が主語だから私の方ではそれらの関係についてあれこれ言えることではないという意味なのでしょうか?(Kさんのコメント)

救われるか救われないかという点では、全ては阿弥陀仏のお働きです。私が、何かをした結果が、浄土往生ではありません。

自分中心ではなく、阿弥陀仏に向かって、ただ今救われてください。

2009-07-10 なぜ生きるの本にある「機の深信」は罪悪観と混同しているのか?につ

なぜ生きるの本にある「機の深信」は罪悪観と混同しているのか?について(S会会員さんのコメント)

S会会員さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

『なぜ生きる』という本に、

・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。

これを「機の深信」といわれる。聖人には、自己の告白が多いが、みな機の深信である。いくつかを紹介しよう。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し〜

                (221ページ)とか

・無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。

 煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし〜

                (260ページ)

と書いてありますが、こうした部分も機の深信と罪悪観?と混同して書いてあるということでしょうか?

またこの本の記述が仮に間違っているとしたら、他力の信心を得ているひとでもこの辺を混同することはありうるのでしょうか?(S会会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090707/1246970640#c1247147230
なぜ生きる

なぜ生きる

回答します。

著者が機の深信と信後の罪悪観を混同して書いているのか、わかっていてあえて書いているのかはわかりませんが、本の構成自体は、混同して書いてあります。

「機の深信」については、あほうどりさんがコメントされている通りです。

二種深信=信楽=真実信心

です。

機の深信はその一つの相です。

少し難しく言いますと、自力無功を表します。(あほうどりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1247063685

しかし、「なぜ生きる」では、機の深信がこのような定義で書かれていません。別の意味で書かれています。別の言葉で言えば、「真実信心を獲得して知らされた罪悪観も含めて知らされる自己の姿=機の深信」と定義されていると思われます。

例:なぜ生きる 第2章17 善いことをすると腹が立つ

・わずかなクッキーを隣家にプレゼントしても、「ありがとう」の一言がなかったらおもしろくない

・偽善者とは「人の為と言って善をするもの」。しかし、まわりの人のためだとわかっていても、タバコすらやめられない

上記は、罪悪観について書かれている章ですが、第2部14の機の深信とはなにかという流れで書かれているので、読んだ人は、「これも機の深信なのか」と思います。

親鸞聖人のお言葉に関しては、「機の深信(真実信心)から出たお言葉(信後の懴悔・罪悪観)」と、「機の深信(真実信心)」が同じ「機の深信である」と定義して書かれているからです。どちらも真実信心(機の深信)があった上での聖人の著作ですから、おおざっぱにいえば同じと言うことで書いているのかもしれません。

コメントで書かれた部分につきましては

・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。

これだけでは、機の深信と罪悪観が混同しているとはいえません。

無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。

これに関しては、「すべてが永久に救われぬ」が機の深信とすれば、「無慚無愧の極悪人と知らされる」は罪悪観です。この二つを「機の深信」と定義しています。この定義でなぜ生きるという本は書かれています。「なぜ生きるという本のなかでの機の深信」で書かれているのです。

真実信心の人でも混同するのですかという点ですが、真実信心を間違えることはありませんが、教義を解説するということでは間違えることはあるでしょう。

別の言葉で言えば、自身が阿弥陀仏に救われ、弥陀の浄土に往生するという点、自らの力で往生することはできない点については阿弥陀仏の願力によるので間違えることはありません。真実信心については間違わないというのはそのことです。機と法に疑心有ること無しは、どんな人も変わりません。

人に説明する段では、混同することはあると思います。これは「機の深信という言葉の意味は?」「罪悪観とは違うのか?」というのは、言葉の定義であり、学問です。学問をしなければ、「自分が知らされた自分の姿」を全部機の深信のお言葉「罪悪生死の凡夫」と結びつけて考える人もあるでしょう。

自らの信仰を求める際には、親鸞聖人のどのお言葉が機の深信か、どれが罪悪観かを知らねば助からないということはありません。

ひらたくいえば深信ですから、疑心有ることないことです。問題になるのは、疑心(自力)であって、どのお言葉が機の深信かということではありません。

結果どういう自己の姿を知らされるのかという感じ方には、個人差はあります。

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ(悲歎述懐和讃)

このようなお言葉は、身を粉にしてのご布教があったからこそのお言葉であって、真実信心を獲得したすべての人が、平等に、救われたらすぐに思うことではありません。

真実信心を獲得しなさい、阿弥陀仏に救われなさいと、親鸞聖人は勧められました。悪人と知らされなさいとはいわれていません。

ただ今救う本願があり、南無阿弥陀仏を与えようと阿弥陀仏は働いておられます。ただ今阿弥陀仏に救われる事が有ります。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-07-06 心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します

心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します(メールで頂いた質問)

あるブログをみていると

心常念悪を心常念悪と疑い晴れたいうことは、はるかに人智を超えている。ちょっと聞いて分かることではありえない。

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/f6a21f4d71ec1e93bd2f869df9d32798

とありました、私もそのように考えていたのですが、阿弥陀仏に救われ、無明の闇が晴れると、心常念悪に疑いが晴れるということなのでしょうか(メールで頂いた質問)

メールの文中に、掲載されたブログのURLが書いてあったので、このエントリーをトラックバックしてみました。

回答します。

結論から言いますと、阿弥陀仏に救われて知らされる姿は、機の深信であって心常念悪ではありません。

機の深信とは、以下のお言葉です。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

ここにあるように、はるか過去から現在も、出離の縁があることの無かった自分であると、深信したことをいいます。深信とは、深く信ずると言うことですが、露チリの疑心が無くなったと言うことです。

ここで、疑心という言葉は、疑情であり、自力の心のことなのですが、疑煩悩とイメージが重なりやすいので、別の言葉で「条件をつける心」とします。

機の深信が立つまえ、阿弥陀仏に救われる前は、「出離の縁あることなし」ということにも「条件をつける心」で条件をつけます。

たとえば「極悪の自己が知らされねば」出離の縁はあることなしである。

「心常念悪と知らされねば」出離の縁あることなしである。

「心常念悪だから」出離の縁有ること無しである。

「聞法心が弱いから」出離の縁あることなしである。

救われない自分に条件をつける心が、自力の心です。条件があると思うから、自分の心にいろいろと条件をつけ、勝手にコーチをする心です。

「もっと自己を見つめよ」

「もっと悪を見つめよ」

「もっと強い聞法心を起こせ」

「もっと命がけになれ」

そうならないと、助からないぞ、救われないぞという心が条件をつける心であり、自力と言うのです。阿弥陀仏にかわって、かってに条件をつけ自分をコーチするのです。

阿弥陀仏に救われれば、条件をつける心がなくなるのですから、無条件に助からないと知らされるのが、機の深信です。

無条件に救うのが、阿弥陀仏の本願です。本願について条件をつける心がなくなるので、これを法の深信といいます。

無条件に救われない自己の姿が知らされるのが、機の深信です。

ですから、心常念悪だからと条件をつけるのは、自己の姿に条件をつけているので、救われて出てくる言葉ではありません。

2009-05-23 雑行と諸善万行の関係と信仰のバロメーターについて(花さんのコメン

雑行と諸善万行の関係と信仰のバロメーターについて(花さんのコメント)

花さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ご回答有難うございました。私がどうしたら救われるかが大事だと教えて頂きました。私が救われるには雑行をすてなければなりませんが,五雑行は捨てています、しかし諸善万行はどう捨てればよいのでしょうか?諸善万行を捨てるということは善を捨てると言うことだと理解していますが、善をどうすてればよいでしょうか?(花さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242899191#c1242947084

私はS会で長年求道してきましたが、求道のバロメーターとして深信因果を教えられ、廃悪修善の気持ちが強いほど求道が進んでいる。つまり善果がきた時は感謝し、努力する。悪果がきた時は懺悔し、こんな結果が二度と来ないよう努力する、感謝と懺悔の気持ちが強い人ほど求道が進んでいる。と聞かせていただきましたが、求道が進んでいるかどうかの判断は何によってきまるのでしょうか・・?(花さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242899191#c1242947860

回答します。

最初の、雑行をすてるとは、善をすてる(しない)とは違います。

それ、弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころを懸けず(御文章2帖目2通・すべて承引)

このようにいわれています。「諸善・万行にこころを懸けず」のであって、「諸善万行をせず」ではありません。

逆にいいますと「諸善・万行にこころを懸ける」上でする諸善が雑行であって、諸善そのものをさしていわれているのではありません。

「諸善・万行にこころを懸ける」とは、自力の心です。

身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。(末灯鈔)

自力とは、親鸞聖人がいわれるように、体、口、心の乱れを整えて、立派にしてそのことによって浄土に往生出来るだろう、浄土往生の足しになるだろうと思う心を自力といいます。

「諸善・万行にこころをかける」とは、自分のする諸善が往生の足しになる、早く助かるためになにか役に立つと思う心です。その心を捨てよといわれるのが、「諸善・万行にこころをかけず」といわれているところです。

私がただ今阿弥陀仏に救われるのは、全く阿弥陀仏の力によるのですから、私たちのやる善が往生の足しになるのではありません。

「諸善万行をすてよ」ではなく、「諸善・万行にこころをかけず」です。それを「雑行を捨てて」といわれているのです。どうすれば捨てられますかということについては、御文章にあるように「弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて」なのです。

次に、求道が進んでいるかどうかは、浄土真宗では問題になりません。

阿弥陀仏の本願は、ただ今南無阿弥陀仏を与えて死ねば往生浄土させるというお約束であって、「求道を進ませる」という本願ではありません。

親鸞聖人も、蓮如上人も「一日も片時も急いで信心決定せよ」とはいわれても、求道が進むようにしなさいとはいわれていません。

「廃悪修善の気持ちの強弱」を問題にして、「どれだけ善をするようになったか、どれだけ悪をしないようになったか」を問題にするのは「罪の有る無しの沙汰」と蓮如上人がいわれるものです。

罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。(御一代記聞書)

罪悪(善悪)がどれだけあるかを問題にするより、信心獲得したかどうか、ただ今弥陀に救われるかどうかを問題にしなさい、沙汰しなさいといわれています。

このようにいわれるのも、親鸞聖人がこのようにいわれているからです。

罪福ふかく信じつつ

善本修習するひとは

疑心の善人なるゆへに

方便化土にとまるなり(正像末和讃)

罪福深く信ずるとは、花さんの質問の言葉で言えば因果の道理を深く信じて、罪を恐れ、罪を作らないようにしよう、福をもとめて、善いことをしようとする人のことです。そういう人は、「善悪が往生と関係有る」という心が離れないので、その上で念仏称えていても、疑心の善人であり、疑情(自力)がなくなっていませんから、浄土には生まれることはできないのだといわれています。

仮に深信因果で、廃悪修善に励む人があったとしても、その善根で浄土には生まれることは出来ません。浄土に生まれることはできないということは、信心獲得できないということであり、ただ今弥陀に救われることはないということです。

阿弥陀仏も、お釈迦様も、親鸞聖人も、蓮如上人も、「化土へ生まれよ」とはいわれていません。「弥陀の浄土へ往生せよ」「信心獲得せよ」といわれています。

もちろん因果の道理を深く信じ、廃悪修善につとめることはとても大事なことです。それは信前信後通して大事なことなのです。

ただ、信心獲得と、廃悪修善の心の強弱を関係づけることはできません。求道が進むかどうかではありません。ただ今阿弥陀仏に救われるかどうかが問題なのですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-05-07 往生の正因は悪人と知らされることでしょうか?(名無しさんのコメン

往生の正因は悪人と知らされることでしょうか?(名無しさんのコメントより)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、最も往生の正因なり。

他力をたのみたてまつるためならば、悪人と知らされたものでなければなりませんが、自己を善人と思っている人でもただ今救われますか?

(名無しさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090504/1241396159#c1241503418

歎異抄の悪人正機について質問を頂きました。

回答します。

名無しさんのコメントの文脈上の「自己を善人と思っている人」でもただ今救われます。

この「自己を善人と思っている人」という定義によってはそうではないともいえます。

名無しさんのコメントの文面上、私が読む限りでは「自己を善人と思っている人=悪人と知らされていないもの」と思います。

しかし、「他力をたのみたてまつるために、悪人と知らされ」ねばならないとは、歎異抄に書かれていません。歎異抄3章での「悪人」とは、同じ歎異抄の文中の言葉で言えば「煩悩具足のわれら」のことです。そこで、「悪人」を「煩悩具足のわれら」に置き換えますと、「他力をたのみたてまつるために(阿弥陀仏にすくわれるに)は、煩悩具足われらと知らされねばならない」ということはありません。

阿弥陀仏に救われるかどうかは、

自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。(歎異抄3章)

自力の心を捨てて、他力に帰すれば、真実の極楽往生が出来るのだといわれています。煩悩具足われらと知らされるかどうかが問題ではありません。

他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄3章)

とは、他力をたのむ煩悩具足の凡夫が、もっとも往生の正因なりということですが、「往生の正因」は、「他力をたのむ」ことであって、悪人と知らされたかどうかではありません。

名無しさんの文脈上では「自分を善人と思っている人」とは、私が読む限りでは、「自分は善ができると自惚れている者」であって、「自惚れという煩悩のやまない者」と読めます。その前提で今回は、回答として「自分を善人と思っている人」でもただ今阿弥陀仏に救われますと書きました。

もし「自分を善人と思っている人」を「自力を捨てて、他力をたのんでいない人」という意味で書いておられるのならば、「自力を捨てて、他力をたのんでいない人」というのは現在救われていない人のことですから、そういう人でも、その自力を捨てて他力をたのめば、ただ今救われます。

ただ今救われなければ、救われる時はありません。しかし、今まで救われなかったからただ今救われないということはありません。

ただ今救うという本願にただ今救われて下さい。

参照 歎異抄3章全文

善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。 この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候いき。

2009-05-04 善悪にこだわるのは倫理であって、阿弥陀仏の本願(悪人正機)ではあ

善悪にこだわるのは倫理であって、阿弥陀仏の本願(悪人正機)ではありません

メールで頂いた質問の中で、質問以外の部分で思うところが有りましたので、エントリーをします。

過去無量劫から弥陀の本願を疑い続けてきた,そして今も疑い続けている心があると思います。煩悩でつくりにつくった恐ろしい悪ももちろんですが,何よりも弥陀の本願を疑い続けてきた悪以上の悪はないと思います。(メールで頂いた質問)

「悪いことをしたから助からない」「善いことをしたから助かる、または、早く助かる」という思いは、宗教全般において多くの人が考えることです。

しかし、阿弥陀仏の本願の救いはそうではありません。

有名な歎異抄の悪人正機とは、それを端的に教えられたものです。

善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。(歎異抄3章)

善悪を論じるというのは、倫理の問題です。これはよいことなのか、悪いことなのか、善いことをしている人は必ず善いことが起きなければならない、悪いことをしている人は悪い結果を受けなければならないと思っています。これは社会通念や、倫理の問題としてはそれでなんの問題はありません。

この世のことでは確かにそうです。しかし、一方この世のことでも、いろいろなことでそうはなっていないように思える現象も多々あります。

この世の幸不幸の話を、弥陀の救いにもっていくと、それは性質が違うので話があわなくなります。

「善人でさえ救われるのだから、悪人はなお救われる」といわれたお言葉は、倫理的な善悪に対して、そういうことを論じるのは阿弥陀仏の救いとは違うのだと言うことをわかりやすく仰ったお言葉です。

これを、また倫理的な感覚で読んで「善を勧めないのは間違い」とか「誰でも救われると言うがそれは間違い」「善を勧めるのは当然」と善悪の話を強弁するのは、阿弥陀仏の本願の聞き間違いなのです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみたまいて願をおこしたまう本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、最も往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 (歎異抄3章)

煩悩だらけの私たちは、どんな行いをしても生死流転を離れることができないので、それを憐れに思われて阿弥陀仏は本願をおこされた。その本当の御心は、自らの力で仏になることができないもの(悪人)を助けるためのものだから、阿弥陀仏をたのむ悪人が、往生浄土するものなのだ。だから、善人でこそ助かるのだから、まして悪人はなおたすかるのだと言われた。

煩悩で作った業もあります、本願を疑うということもありますが、しかし、その悪業を作ったから極楽往生できないのではありません。そういうものを目当てに本願は建てられているのですから、「悪い行いをしたから助からない」のではなく、「他力をたのみたてまつる」身になっていないから助からないのです。

原因無くして結果は起きませんから、往生浄土できないという結果は、南無阿弥陀仏の名号を受け取っていないからであって、悪業が多くあるからではないのです。

2008-08-25 「関係ない」とは「ある」でも「ない」でもないということ

「関係ない」とは「ある」でも「ない」でもないということ(元自称福得会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有難うございました。

(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080818/1219056593#c1219589534 )

華光の教えが真実と確信しましたのでそちらに専念したいと思います。

読まれているかどうかはわかりませんが、ブログの読者の方に向けてという意味もこめて、上記部分について、誤解のないようにコメントを致します。

「華光の教え」という言い方が、引っかかったもので一言書いておきます。

元自称福得会員さんのコメントの中には、「高森教」といってみたり「華光の教え」といってみたり、団体独自の解釈が存在するように書かれている場面がよくみられます。

真実は、属人性のものではないと言うことは、元自称福得会員さんも同意をされたことですが、「団体に属する」というものでもありません。

もし「華光の教え」と、名付けられるようなものがあるのなら、「親鸞聖人の教えそのもの」とは、多少なりとも違うものがあるという前提の言葉です。

また、「団体を代えたら信心決定できる」かのように思っておられるようですが、それは全くの誤解です。「団体の雰囲気」で真実信心を得られるのではありません。

何度か足を運ばれて行かれればわかられると思いますが、「感情信心」「三業安心」に非常に陥りやすい構成員の人が多いのが現状です。

浄土真宗で大事なのは「教え」であって、「感情」でも「雰囲気」でもありません。

あなたが思い描いている「真実を知ったならこうなるはず」という雰囲気があったのでそのように思われているのでしょう。親鸞会と比べてどうこうとは私はいいません。

貴殿との議論で真宗の教えに善の勧めはないことがはっきりしました。

どうもありがとうございました

まだ勘違いをされているようなので、改めて書いておきます。

真宗の教えに「弥陀に救われるために」善をしろという、教えはありません。

「真宗の教えに善の勧めはない」という言葉には、「弥陀の救い」と「善」が関係あるということになってしまいます。

そう読めませんか?

私には、何度読んでもそのようにしかよめません。

弥陀の救いと善は、「関係ない」と何度も書いてきました。最後までそこがわかっていただけなかったことは残念至極です。

関係ないと何度書いても「善の勧め」が「ある」か「ない」かという有無の議論から一歩抜けることができなかったのは残念です。

「関係ない」ということは、「ある」のでも「ない」のでもないということです。

元自称福得会員さんも、弥陀の願力によっていつか知らされるときがくると思います。

ブログは、このまま思ったことがあれば、書いていきます。

教義安心上のことで、不明なこと、不審なことがあれば、どなたでも、いつでもコメントをいただければ、お答えします。

元自称福得会員さんもいつでもコメントいただければ幸いです。

2008-08-19 追記・「善を棄てよ」だと「諸行往生の裏返し」になります

追記・「善をすてよ」だと「諸行往生の裏返し」になります。

元自称福徳会員さんへ

前日のエントリーで、追記したいことがあったので、こちらに書きます。

したがって、「雑行をすてよ」というのは文字通り、「後生の一大事を解決しようとして行う善そのものを捨てよ」と言うことと解釈すべきです。

(元自称福徳会員さんのコメントより 全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080814/1218714993#c1218984375

この一文について、書きます。

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証

親鸞聖人は、「雑行を棄てて、本願に救われた」と自らのことを書かれています。

前も書いたことですが、「弥陀の救い」と「私たちがやる善」は、関係ありません。

「善をした結果、弥陀に救われる」という諸行往生ではありません。これについては、元自称福徳会員さんも同意されていると思いますが、

「善をしたら助かるは間違い」→「善を捨てたら助かる」ということにはなりません。

「雑行を棄てて」助かるのです。

「善を捨てたら助かる」といったら、これも「弥陀の救い」と「善」が関係あることになってしまいます。諸行往生は間違いと言うことは、知っておられると思いますが、「善捨てたら助かる」というのは、諸行往生を裏返しただけで、根本的には、「善の行い」を「するか」「すてるか」という関係がある以上、「弥陀の救い」と「善」を関係づけていると言うことでは同じです。

繰り返しますが、「弥陀の救い」と「善」は、関係ありません。

関係ないから「唯信独達の法門」「信心為本」と言われるのです。

財施のことについて、よく書いてこられるので財施という言葉を使うなら、「財施をしたら助かる」これは間違いですが、「なにか足しになるだろう」という心があったからこそ、財施をしてこられたと思います。

それが「財施と救いは関係ない」とどこかで聞いたか自分で調べて、「財施をしなくていい」と、逆に思考が動いたのではないかと思います。

「財施したら助かる」は間違いですが、「財施を棄てたら助かる」も間違いです。

関係ないものを、関係づけるのを自力といいます。

自力が廃らねば、他力に帰することはできません。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。(御文章・聖人一流の章)

親鸞聖人のみ教えは、信心一つで弥陀に救われる教えです。

「信心をもって本とせら候」と言われているとおりです。

この信心は、他力の信心、真実信心ですから、私たちが善をしたとか、棄てたとかと言うことは無関係です。阿弥陀仏から賜る信心ですから。