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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-04-09 「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」まとめ(みなさんのコメントから)

「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」まとめ(みなさんのコメントから)

Kさんからの質問で議論されている善導大師の不得外現賢善精進之相内懐虚仮について、前回のエントリーで、くりいむれもんさん、あほうどりさんよりコメントを頂き有り難うございました。

非常に勉強になるコメントも多かったので、エントリーとしてまとめて掲載します。

  1. くりいむれもんさんのコメント
  2. あほうどりさんのコメント1
  3. あほうどりさんのコメント2
  4. あほうどりさんの補足コメント

そこで、Kさんがまとめて下さいました

少し整理させてください。

・善導大師も親鸞聖人も共に、阿弥陀仏から真実の心=至誠心=真実の信心を頂きなさいということ一つを教えられた。(18願意)

・しかし善導大師は時代背景等からそのまま説いても分からないということで、

「まず、まことのこころ=至誠心、を起しなさい」と教えられ、人によって

「まことの心を、自分で起す(起せると思っている)」とも

「自分にはまことの心はないのだからまことの心をいただいて自分のものにする」

ともとれるような言い方をされている。(⇒19願意?ここはまだよくわかりません)

こんなところでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090408/1239152820#c1239202330

不得外現賢善精進之相内懐虚仮については、善導大師が書かれた文章です。

外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれと読みます。

内外不一致を戒められたお言葉ですが、わかりやすく言いますとあほうどりさんの言われるような意味になります。

外に賢善精進の相を現じていても、内が虚仮ではいけませんよ、不真実であってはいけませんよ、内外ともに真実になるようにしなさいよ。

ということですね。

(さっきの※とは微妙に違いますよ)

ところが私たちには真実の心はありませんから、この文は、阿弥陀仏から真実の心=至誠心=真実の信心を頂きなさいという意になります。(あほうどりさんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090408/1239152820#c1239190576

単に「賢善精進の相を現じなさい」そして「内も虚仮を懐かないようにしなさい」という意味ではないということを言いたかったのです。(あほうどりさんコメント補足)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090408/1239152820#c1239232695

真実信心一つを勧められたものであって、単純に善いことをせよといわれたものではありません。

大事なのはやはり心であり、真実信心といっても体の行いのことではありません。心が虚仮であってはなりませんよ、真実信心を早く獲得しなさいと言われているのです。

Kさんの言われるように、親鸞聖人も、善導大師も、真実信心を頂きなさいと教えられたのはその通りです。

一見すると逆のように思う人がある部分は、コメントで書かれているとおりで顕彰隠密といいますが、観無量寿経には簡単に表面的にわかりやすいものと、かすかにあらわれた本当の意味というものが二つあるからです。時代背景と前回書きましたのは、原因の一つで、教義からいえば、穏顕の意味があるという意味からそのように説かれました。(詳しいことはコメント文をご覧下さい)

またそのように思われる方の多くは、「善をすれば助かる」「善をすれば信仰が進む」「善をしたら早く救われる」と思っておられるようです。「善をしなくても助かるのは間違い」「善をしない方がよいというのは間違い」と思っておられるようです。

心で思うこと、口で言うこと、体で思うことを含めて、善をしたから早く助かるというのならば、阿弥陀仏は本願を建てられることはありませんでした。

「善をしたら阿弥陀仏に早く救われるというのは間違い」と聞くと、「善をしなかったら阿弥陀仏に早く救われる」ということになると思われる人があります。しかし、親鸞聖人は、「善をしたら早く阿弥陀仏に救われる」とも「善をしなかったら阿弥陀仏に早く救われる」とも教えられませんでした。

「善」の有無、「悪」の多少で、救われるのではありません。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいわず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(教行信証信巻)

真実信心は、身分や、老若男女、罪悪の多少、修行(善)の多少も関係ない、行でも善でも頓でも慚でも、尋常でも臨終でも、多念でも一念でもない、ただ不可称不可説不可思議の信心なのだといわれています。

真実信心は、善や悪とは無関係なものなのです。無関係なことを関係あるようにいうのは間違いです。

あくまでも真実信心一つが、阿弥陀仏に救われる上で大事なことなのです。


追記 自力の至誠心について

くりいむれもんさんよりコメントを頂き追記します。

至誠心について、至誠心=他力の信心=真実信心という一面を書きましたが、表に現れた意味の方でどのようにいわれているのか。

一つには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おほよそ仏道に入るには、まづまことのこころをおこすべし。(唯信鈔)

仏道をに入るもには、まずまことの心を起こしなさい。そうしなければなりませんよと、唯信鈔に書かれています。

そして、この観無量寿経に説かれる三心について(至誠心もその一つ)について、親鸞聖人はこのように教えられています。

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心と知るべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」というなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆえにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆえに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆえに、すなはち生れずといふなり。(教行信証化土巻)

観無量寿経の三心は、定善散善の二つの人の心であるから、その定散二善から、大無量寿経の三信(真実信心)を得させるための方便の深心、至誠心なのである。真実信心を獲得しなければ、生まれることはできないといわれている。真実信心を獲得していないから弥陀の極楽浄土へは往生出来ない。雑行雑修を捨てない定善、散善の人は、他力の信心が無いから、多生曠劫という長い間かかっても他力の信心を得ない間は真実の報土往生はできないから、すなわち生まれず(即不得生)といわれています。

至誠心(まことのこころ)になりなさいと言っても、それは真実信心ではないから弥陀の浄土へ生まれることはできませんよ、早く他力の信心を獲なさいよと言われています。

まことの心の無いものは、まことの善が出来ませんから弥陀の浄土に往生することはできません。いわゆる雑毒雑修の善、虚仮の行では弥陀の浄土に生まれることは出来ませんから、真実信心一つを勧められたのが親鸞聖人です。

2009-04-08

至誠心とは何なのか?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

返信が遅くなり申し訳ございませんでした。

観無量寿経の「至誠心」とは何か、教えていただけないでしょうか?

また、親鸞聖人はなぜ善導大師と異なる立場で教えられたのでしょうか?

善導大師よりもお釈迦様に近い立場で教えられたということなのでしょうか?

(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090406/1238977223#c1239026052

至誠心とはどういうものか?ということについて、親鸞聖人教行信証に善導大師の書かれたお言葉を引用されています。

一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃歎し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。およそ三業を起こすに、かならず真実心を須いるがゆえに至誠心と名づく。(教行信証より・善導大師往生礼讃の引用部分)

一つには至誠心、体で阿弥陀仏を礼拝し、口で阿弥陀仏を讃嘆し、心で阿弥陀仏を専念し観察することをいいます。三業を起こすに必ず真実の心を起こすから至誠心と名付けるのだといわれています。

至誠心の「至」も「誠」もまことという意味です。

前回のエントリーで引用した、唯信鈔文意のもとである、唯信鈔にはこのように書かれています。

一つには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おほよそ仏道に入るには、まづまことのこころをおこすべし。(唯信鈔)

至誠心は、真実のこころである。仏道に入るにはまず「まことのこころ」を起こしなさいと言われています。

三業を「まこと」にしなさいと言うことから、「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」というお言葉がでてきます。それについて、親鸞聖人は一見全く反対の意味に解説をされています。

それは、阿弥陀仏の18願は「まことの心の無いものと見抜いてただ今救う」という本願でありますから、その立場から、19願を説かれた御心を親鸞聖人が解説されたからです。

反対に、善導大師はなぜそのように説かれなかったのかといいますと、法然上人よりさらに前の時代の中国という時代背景では、そのように説かなければ誰も分からなかったからと思われます。仏道の入り口に入っていない人に対して、まず「まことのこころ」をおこしなさいと言われています。

また、善導大師よりお釈迦様に近い立場というよりは、阿弥陀仏の立場から説かれたといったほうが分かっていただけるかと思います。

まとめますと、唯信鈔に言われているように、仏道の入り口に入ろうという人に至誠心を説明されたのが善導大師の「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」です。親鸞聖人は、阿弥陀仏のただ今の救い、まことの心の無いものを救うという本願から解説をされました。

よって、浄土真宗のご門徒の方や、まじめにただ今の阿弥陀仏の救いを求めている人に対して、仏道の入り口の話をするというのは、弥陀の救いを遠ざけている結果になってしまいます。

もちろん、善をしなくてよいとかいう話ではありません。

あくまでもただ今の弥陀の救いに、あうかあわないかということです。

「ただ今救われるのはどうしたらよいでしょうか?」という問いに「まず三業を善くして来なさい」では、「ただ今の救い」に対する回答にはなりません。

ただこのように書きますと、親鸞聖人と善導大師はまったく別のことを書かれたかのように思われるかもしれませんが、本当は全く同じ一つの真実信心を明らかにされたのだということを、蓮如上人はこのように言われています。

その信心というは、『大経』には三信と説き、『観経』には三心といい、『阿弥陀経』には一心とあらわせり。三経ともに其の名異りたりと雖も、其の意はただ他力の一心をあらわせる意なり。(御文章1帖目13通・三経安心)

他力の信心というのは、大無量寿経には三信(至心信楽欲生我国)と説かれ、観無量寿経には三心(至誠心深心廻向発願心)といい、阿弥陀経には一心と説かれている。三経でその呼び名は変わっているけれども、ただ他力の信心一つ、真実信心一つをあらわされているのだといわれています。

表面だけ見ると、善導大師と別のことを教えられたのが親鸞聖人と思われるかもしれませんが、お二方共に、真実信心一つを明らかにされたということです。