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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-08-11

二種深信が「前後関係がある(前後起)」と考えてしまう理由を考える。

前回のエントリーで、二種深信について浄土真宗辞典から引用しました。

にしゅじんしん 二種深信

(略)

この二種深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起)としたり、前後関係がある(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」が設けられている。(浄土真宗辞典

このなかで、二種深信が「前後関係がある(前後起)」と考えてしまう理由を考えてみました。

このような機の深信と法の深信に前後関係があると考えてしまうと、例えば「地獄行きと切り落とされてから、往生一定と知らされる」といった信心になってしまいます。もちろんこれは、真実信心ではありません。にもかかわらず、上記のような信心を「真実信心だ」と思う人がいるので過去から現在にいたるまで異安心問題が浄土真宗にはあります。


このように考えてしまう理由は、親鸞聖人の書かれた「教行信証」における「教」、「行」、「証」の関係についての理解が異なるからです。


前述した、二種深信を「前後起」と考える人は、A→B→Cのように考えています。このABCに相当するのが、「教」→「行」→「信」という考えです。

このような考えの一例を挙げると以下のようになります。

  • (例1)
    • 教えがある→
    • 教えの通りに実行する→
    • 実行したら信心が獲られる

これをさらに異義、異安心に当てはめると以下のようになります。

  • (例2)
    • 教えがある(善をしなければ信仰は進まないなど)→
    • 教えの通りに実行する(信仰が進むために善を実行する)→
    • 実行したら信心が獲られる(善を実行した結果、善ができない自分と知らされ、それによって阿弥陀仏に救われる身になる)

私も以前は上記のように考えていますした。しかし、実際に教行信証て書かれているなかでの教行証の関係は上記のようなものではありません。

まず、「教」とは、救われる道を教えたものです。その「これが救われる道です」と聞いて、「はい、そのようにその道を行きます」と道を進んでいる相が救われた相です。

そのように「何が救いか」と分からない人に対して「これが救いの道だ」と示すのが「教」です。その「教」によって、救われる道を知ることを「行」といいます。その救われる道とは、教行信証でいえば名号であり念仏です。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(教行信証行巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/zgpzwM

ここでは「無碍光如来の名を称する」ことが「大行」と言われています。このようにいわれるのも「教(大無量寿経)」には、南無阿弥陀仏(念仏)を頂いて称えなさいと説かれているからです。

そのように、「教(大無量寿経)」にあるように「南無阿弥陀仏を頂いて称え」てこれが「私が救われる道である」と聞いて疑い無いことを「信」といいます。

言い換えると、念仏(行)が私の助かる道と疑いなく聞き入れるのが「信」です。そして、「念仏が私の助かる道」と教えられるのは「教」です。ですから、「教」「行」「信」は同時に成り立つものです。

「教」→「行」→「信」ではなく

「教」によって「行」を信じるということであり、「信」によって、「教」にあらわられた「行」が私にそのまま働くということです。


ですから、どれが先で、どれが後ということはいいません。どんなに素晴らしい教えがあったとしても、「それは自分と無関係」と思っている人にとっては「教」はあってもないのと同じです。同様に「行」も「これが救われる道です」と聞いていても「それが自分の救われる道だ」と聞き入れなければあってもないのと同じです。その「教」に説かれた「行」を、聞き入れたことを「信」ということです。


それらは同時であって、時間的に前後はありません。上記のことから、二種深信の前後起は間違いということになります。

2014-08-09

「自分の場合はこのような法の深信があったかと言われると、よくわかりません。」(ななしビックさんのコメントより)

ななしビック 2014/08/09 08:19

なんども済みません。二種深信が知りたいと書いたのですが、過去ログを調べたらありましたね。。先に調べておくべきでした。今更ですが。。

こんな大事なことは既出で当然ですよね。。

>なぜ阿弥陀仏が本願をおこされたのか(生起)を聞くとは、「自力では浄土へ往けないものだから」ということです。いわゆる自力無功と疑い無いのが機の深信です。

自分の場合は、「自分と思ってきたカタマリのどこを分析しても(身も心も)、自分のものである、自分の本質であるといえるものがなかった。自分とは縁に触れ て生ずるつくられたものだった。自力以前の問題だった。」ということに疑いがなくなりました。浄土はかけらも登場しませんでした。

>ではどうやって私を助けようとされているのか(本末)を聞くとは、阿弥陀仏の願力のお働き一つで救うということであり、南無阿弥陀仏だけで救うと聞いて疑い無いことが法の深信です。

自分の場合はこのような法の深信があったかと言われると、よくわかりません。

我執は消えませんでしたが、我執が無意味なことはわかりました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140807/1407402941#c1407539946

二種深信について、浄土真宗辞典より一部紹介します。

にしゅじんしん 二種深信

(略)

この二種深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起)としたり、前後関係がある(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」が設けられている。(浄土真宗辞典

ですから、機の深信と法の深信が別々のものとして同時に起きる(二心並起)ということはありません。また、機の深信が起きてから、法の深信が起きる(前後起)あるいは、法の深信が起きてから機の深信が起きるということも有りません。


二種深信と「二種」と言う言葉があっても「別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている」というのが大切なところです。私は以前、「別々の矛盾したものが同時に起きる(二心並起)」が二種深信だと思っていましたが、それは間違いでした。


あくまでも「一つの信心の両面をあらわしている」のが二種深信ですから、もともと二つ別々である道理がありません。


ここで「一つの信心」とあるのは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いない以外には有りません。本願を聞いたのが信心という、聞即信の信心です。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/X9Hg2dx

ここで「きくといふは、信心をあらはす御のりなり」と言われているのが、いわゆる「聞即信」のことです。そこで「聞く」とはなにかについて、上記のご文では「本願の名号をきく」「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」ことだと言われています。

本願を聞くといっても、実際は「本願の名号を聞く」ということですから「南無阿弥陀仏を聞く」ということです。その南無阿弥陀仏については、親鸞聖人は「本願招喚の勅命(教行信証行巻)」と言われています。


「直ちに来れ」と喚びかけられる阿弥陀仏の仰せを聞いて疑いない、つまり、仰せに従い聞き入れたことを「聞」といいます。それが他力信心ということです。その信心のすがたを示されたのが二種深信です。


南無阿弥陀仏の勅命を抜きにして、何か分かったことを持ってきても二種深信とはいいません。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

2011-04-27

「鮮明不動の信念=二種深信」ではありません(4月17日親鸞会テレビ座談会より)

4月17日に行われた、親鸞会のテレビ座談会参加者から頂いた情報より、気になったところを書きます。

二つ目の質問の内容は以下のものでした。

「歎異抄をひらく」 P186 /8行目にある

「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念

とはどのようなものだったのでしょうか?(4月17日テレビ座談会の質問)

これについての回答は、「二種深信」でした。その後、最後まで二種深信の説明が続きました。

この質問が出る直前まで、会長は「念仏は極楽の因か、地獄の業かということは、知らんは知らんでも知りすぎた知らん」という話をしていました。

当日の話をまとめると、以下のようなものです。

  • 二種深信=鮮明不動の信念
  • 鮮明不動の信念=「知りすぎた知らん」くらい知っている
  • 二種深信は、二つのことがハッキリ知らされる。地獄行き間違いない身とハッキリ知らされる。極楽行き間違いない身とハッキリ知らされる。

「二種深信=鮮明不動の信念(強烈な自覚とその体験)」ではありません。

二種深信は、真実信心、他力の信心のことであって、私の信念ではありません。

私が親鸞会在籍時に繰り返し聞いたことと、今回の内容は同じでした。

まとめると以下のような理解です。

  • 二種深信が立つと、二つのことがハッキリし、地獄行きの自分の姿がハッキリ知らされ、極楽行きの自分の姿がハッキリ知らされる。
  • 矛盾したことが同時に知らされる不可思議な世界。誰に聞かなくてもハッキリする鮮明不動の信念ができあがる。
  • 鮮明不動の信念ができあがるから、「知りすぎた知らん」と歎異抄2章で親鸞聖人は言われる。
  • そんな信念が出来あがるから、命がけの布教をせずにおれなくなる。

二種深信は、何かを強烈に自覚するという体験ではありません。真実信心のことを、二種深信といわれているのです。

もし、「二種深信=強烈な自覚を生む体験」となれば、「真実信心=体験」と言うことになりますから間違いです。

二種深信は、以下の文章です。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P218

真実信心は、本願に疑い無い心であり、無疑心ともいわれます。

「深信」が、疑い無い心ですから、「一つには」「二つには」とあるのは、本願の内容です。

「出離の縁あることなし」である凡夫に、「さだめて往生を得」という本願を建てられたのが阿弥陀仏です。

二種深信が立つといっても、本願に疑い晴れたことであって、「強い自覚が生まれた」とは異なります。「こんな強い自覚が生まれたから、二種深信だ。だから私の信心は間違いないのだ」というのも、自覚が土台になっているので間違いです。本願が土台になっていません。

自らの力では「出離の縁あることなし」の私に対して、「願力に乗」れば「定めて往生を得」させるという本願に対して、疑い晴れたのが二種深信です。

「強い自覚」や「鮮明不動の信念」は、真実信心そのものとはまた別のもので、その人その人に応じてことなるものです。

「仏恩報ずる思い」と同じで、「仏恩報ずる思い」は共通であっても「どれくらい強く自覚しているか」は一人ひとり異なるものだからです。「これくらい仏恩報ずる思いがあるから間違いない」というものではなく、有るか無いかです。

二種深信も「どれだけ鮮明な自覚か」ということが問題ではなく、本願に疑いが有るか無いかです。

鮮明不動の信念(体験)=二種深信ではありません。


追記

最近のテレビ座談会では「念仏成仏これ真宗」のご和讃を根拠に出して話をしているようです。

今回「念仏で助かる」と何度も言っていたことに驚きました。

親鸞会に長くいましたが、「念仏で助かる」という言い回しはほとんど聞いた記憶がありませんでした。

ただ「念仏」とは何かという話は一切無く、前回と今回紹介したような「知りすぎた知らん」と「鮮明不動の信念である二種深信」と、確かにどこの歎異抄解説書にもないことを話すばかりでした。

「誰も書かなかったこと」を話したいのでしょうが、参詣している人は「親鸞聖人が教えられた本願念仏の教え」を聞きたいのです。

2011-04-01 二種深信は「矛盾した二つのことが同時に知らされる」ことではありま

二種深信は「矛盾した二つのことが同時に知らされる」ことではありません(補足)

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)の補足です。

二種深信は、機法二種一具の深信といわれます。二種とは、機の深信と法の深信です。

二種とあっても「二種類別なものがある」という意味ではありません。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P218

「一つには」「二つには」とは、説明の都合上前後が出来る*1ために数字が書かれているだけです。「二種類の別のものが起きる」という意味ではありません。


二種深信は、真実信心をあらわされたもので、真実信心を二つに分解されたのではありません。また、真実信心は「二つの心が同時に起きる*2」とか「二つの心が順番に起きる*3」というものでもありません。

二つの別の心が起きると思うと、矛盾したとしか思えなくなります。

二つの別の心が順番に起きると思うと、「機の深信が先で、法の深信が後だ。」とか「地獄行き間違いないとハッキリして(まず堕ちて)から、助かるに間違いないと知らされた」という表現になります。一つの信心ですから、そのような前後はありません。


機の深信も、法の深信も真実信心をあらわされたものです。

機の深信は、地獄行きの自分の姿がハッキリ知らされることではなく、ただ今の自分、また過去に自分がやってきた行為(今までやってきた功徳、聞法、自力の念仏)は、生死を離れるためには全く役に立たないと知らされることです。別の言葉で、自力無功といいます。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P707

唯信鈔文意には「あしきこころをかへりみず」と言われています。自分がやってきたいろいろな善や、自分でこれでよいと思ってきたこと、こうすれば助かるだろうと予想してそれにしがみついていた「あしきこころ」を顧みないことです。それを自力の心を捨てることだと言われています。

自力を捨てることですから、これを捨自とも捨機ともいいます。


自力の心を捨てるということは、それ単独で成り立つことではありません。

すでに呼びかけて働いておられる南無阿弥陀仏を、自力の心で今まではねつけていたわけですから、自力の心を捨てるとは、そのまま阿弥陀仏の仰せを聞いたことになります。必ず浄土往生させると誓われた本願を知るのが法の深信です。

捨自は、そのまま帰他(他力に帰る)ことになります。

また、自力無功と知らされるとは、そのまま阿弥陀仏にまかせることですから、他力全託、託法といいます。


自力を捨てることと他力に帰することは、表現上別の言葉ですが、同じ事をいわれています。自力を捨てたということは他力に帰したということです。他力に帰したということは、自力を捨てたということです。

また、自力無功と知らされたと言うことは、他力全託したということです。

文字で書けば二つあっても、二つの別のものがあるのでも、矛盾したものが同時にあるいは、順番に起きることでもありません。


二種深信といっても二種類の別々の深信があるのではありません。他力信心を二種深信というのですから、一つのことをいわれてたお言葉です。

前日のエントリーに関連していえば、矛盾した二つのことがおきるのではないので、驚天動地の体験ともなりません。

まとめ

最後に図にしてみました。

二種深信-捨機即託法捨自即帰他
機の深信自力無功捨機捨自
法の深信他力全託託法帰他
  • 機の深信と法の深信は矛盾したことをいわれているのではありません。
    • 自力を捨てる(機の深信)ままが他力に帰したこと(法の深信)になるため。
  • 二種深信は、二つのものが同時に起きることではありません。
  • 二種深信は、二つのものが順番に起きるのでもありません。
    • 機の深信が立ってから法の深信が立つということはありません。
    • 機の深信だけ立ったとか、法の深信だけ立ったということもありません。

*1:説必次第・・説くに必ず次第す

*2:二心並起

*3:前後起

2011-03-30 獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント)

さくらもちさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私の周囲の獲信者は、『機の深信』が立っているのだけは自分でハッキリわかるようです。

「こんな大きな後生の問題、自分の力ではどうすることもできない・・・という事だけはわかった。」と言う人や、

「自分は地獄に行く・・・それは間違いない。」と言った人もいます。

それに対して『法の深信』に関しては(?????)という感じで、ハッキリしないようです。

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110327/1301176303#c1301384980

「機の深信だけはハッキリする」ということはありません。機法二種一具の深信ですから、片方だけというような独立したものではありません。

捨自帰他という言葉を使うと、「捨自はあるけど、帰他はない」といえないのと同じ事です。自力を捨てたということは、他力に帰したことになるからです。

二種深信は、善導大師が仰ったこと*1ですが、教行信証には以下の部分で引文されています。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218

機の深信とはなにかといえば、「罪悪生死の凡夫」とハッキリ自覚することではありません。またそれだけではご文の一部分だけになってしまいます。

大事な部分は「出離の縁あることなし」です。

自らには生死を離れるだけの善根をもちあわせていないので(出離の縁有ることなし)、自らの善根をたのむ自力の心を捨てたというのが機の深信です。

なぜ「出離の縁有ることなし」なのかといえば、自ら生死を離れるほどの善根を持ち合わせていないからです。罪悪生死の凡夫だから生死を離れるほどの善根を現在持ち合わせていませんし、また未来もそんな善根を持つことはありませんが、「罪悪生死の凡夫」を自覚するだけでは、機の深信とはいえません。


善導大師は別のところでは「罪悪生死の凡夫」の部分を「善根薄少*2」と言われています。

「罪悪生死の凡夫」も「善根薄少」も私の姿です。しかし、そう自覚するだけでは罪悪観です。

「罪悪生死の凡夫」であり「善根薄少」だから「出離の縁有ることなし」「三界に流転して火宅を出でず」なのが私です。そうなると、生死を離れるために自らの善根を往生の足しにしようとか、自らの考えをたのみにする自力の心を捨てるということです。

このように自分の持ち合わせている善根(罪悪生死の凡夫ならなおさらありませんが)では生死を離れることが出来ないと、自らの善根をたのむ心(自力の心)を捨てたことを機の深信といいます。


「地獄行き間違いない自己の自覚」が機の深信ではありません。

自らをたのむ自力の心を捨てたということは、阿弥陀仏の本願力に乗って往生定まる身になったことですから、他力に帰したということです。これを法の深信といいます。本願力によって往生定まった(法の深信)ということは、自力の心を捨てた(機の深信)ということです。

私も親鸞会にいるときは、大体以下のような話を聞き、最初はそういうものだと思っていました。

「『機の深信は地獄行き間違いない自己だとハッキリ自覚すること』『法の深信は極楽行き間違いない自己だとハッキリ自覚すること』これは絶対矛盾だが、それが矛盾無く知らされるのが救われた不思議な世界であり、二種深信だ。」

しかし、これは間違いです。二種深信は矛盾ではないからです。二種深信は、真実信心を表されたお言葉ですから、真実信心をあらわされた他の表現を使えば捨自帰他ともいいます。

二種深信が矛盾した表現というなら、捨自帰他も矛盾した表現にならねばなりません。

二種深信が矛盾した表現というのならば、他力の信心を表現されたお言葉は全部矛盾した表現とならなければなりません。

捨自帰他は、捨自即帰他です。自力を捨てるままが他力に帰したということです。他力に帰したということは、自力を捨てたということです。自力の心がないということは、他力の信心ということです。

矛盾した表現ではありません。

お尋ねのなかにでてくる方が実際どのような気持ちでいっておられるかはわかりません。

「自分は地獄に行く・・・それは間違いない。」は、「地獄行き間違いないと自覚すること=機の深信」と理解して言われている言葉の定義の問題だと思います。発言された方がそう思われているのか、さくらもちさんがそのように思われているのかまではわかりません。

「こんな大きな後生の問題、自分の力ではどうすることもできない・・・という事だけはわかった。」については、自力を離れたというお気持ちでいわれているのかも知れません。ただ自力は離れたけど、他力に帰してはいないというのであれば、二種深信や捨自帰他とはいえません。

どちらにしても、阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われることが大事です。

地獄行きの自分を探すのでも、極楽行きになった安心を求めるのでもありません。ただ今救うという本願を聞くことが大事です。

*1:観無量寿経疏・散善義浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P457

*2:二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。・浄土真宗聖典(註釈版)P228

2009-07-18 知らされるが自己の姿ばかりでは二種深信とはいえません(S会会員さ

知らされるが自己の姿ばかりでは二種深信とはいえません(歎異抄をひらくを読んで思うこと)(S会会員さんのコメントから)

S会会員さんから以前頂いたコメントについて思うことをエントリーします。質問コメントではありませんでしたので、私の思うところです。

思うに昔、会長の話を真剣に求めていたころ、自分は罪悪深重のものと思おう、思おうとしていたことを思い出します。

無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これが「機の深信」である、といわれるとそのように思おうとし、そのように知らされたいそのように思いたいとずーっと考えていました。

こうした思いにとらわれている会員さんは非常に多いのではないかと思います。法に対する疑いであると同時に機に対する疑いですから、当然一念で知らされる自己の姿が罪悪深重の無間地獄行き間違い無しのものと聞くと自分はその自己の姿を本当と思えない、これも疑情だからこの心をなんとかしたいと思うのは自然な気持ちではないかと思います。

(私だけだったかもしれませんが)(S会会員さんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090710/1247215243#c1247235089

このように思う方は多いと思います。

「何かが知らされるはずだ」という観念にとらわれると、「知らされる」ということで見ている対象は自分の心ばかりになってしまいます。

機ばかりをみて、法を仰がなくなるので、結果として阿弥陀仏には向かなくなってしまいます。

ちなみに『歎異抄をひらく』にもこれに関連する記述がありました。

弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。

(159ページ)

とあります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090710/1247215243#c1247235089
歎異抄をひらく

歎異抄をひらく

コメントを頂いた部分を読んで思ったことですが、二種深信とはいわゆる「機法二種一具の深信」ですから、機と法に疑心が晴れるものです。

しかし、コメントで頂いた部分では、「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」と「疑いなく救われる極楽一定の自己」と、「自己が知らされる」で一貫しています。意味は違いますが、これではどちらも「機に疑い晴れる」となってしまい、「不可思議な二種深信」が「不可解な二種深信」になってしまいます。

二種深信のお言葉を見ますと

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

機の深信は、「自身は〜出離の縁有ること無し」と深信すとあります。

二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)

法の深信は「彼の阿弥陀仏〜往生を得」と深信すとあります。

深信するものが、「自身」(機)と「阿弥陀仏」(法)だから二種深信です。

この「歎異抄をひらく」も、以前エントリーで書きました「なぜ生きる」も、読んでハッキリしない部分があるのは、いろんな意味で焦点が定まっていない本だからです。読まれる方の理解力や信仰の問題ではなく、本そのものに真宗の要が書かれていないからだと感じます。

要がない分、信仰のある人が読まれれば余計にはっきりしない本だと思われると思います。

2009-07-07 絶対わからないものではありません、疑心有ることないのです(S会会

絶対わからないものではありません、疑心有ることないのです(S会会員さんのコメント)

S会会員さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

機の深心とは『阿弥陀仏のお力によらなければ絶対に流転輪廻から抜け出せる自分でなかった』と知らされるというようなことを言われているんでしょうか?

もしそうなら二種の深心とは絶対矛盾するようなこころではないような気がします。二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦とか大仰なことをいう人は間違っているということでしょうか?(S会会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1246893797

回答します。

コメントで書かれていることは、機の深信ではありません。

どちらかといわれれば、法の深信です。

機の深信とは、前回のエントリーにも書きましたが、

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

という善導大師のお言葉です。書かれているように「昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信させられます。

遙か過去から現在まで、出離の縁有ることのない自分であると知らされるのです。

法の深信は、阿弥陀仏の本願に疑い晴れるのですから、阿弥陀仏の願力によって往生するに間違いないと知らされることを言います。

二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)

正確に言えば、阿弥陀仏が私たちを助けて下される本願を建てられたことと、その願力によって往生できることが知らされます。

「絶対に矛盾」かといわれれば、「疑心有ること無し」は共通しているので、何もことさら不思議に思うことはありません。

「矛盾」と感じるのも、一つの疑心の現れなので、矛盾するかしないかの判断は人間の知恵でしていることです。阿弥陀仏の智慧からいえば、何の矛盾もありません。

罪悪生死の凡夫であり、出離の縁あることのない私がいるからこそ、阿弥陀仏は本願を建てられました。

出離の縁あることのない、罪悪生死の凡夫のままで、そのまま救うという本願力乗ずれば、かならず浄土往生させていただけるのですから、私の計らいではありません。

二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦(S会会員さんのコメント)

このようにことさら強調するのは、阿弥陀仏の智慧を「人間の知恵では計れないもの」と計っているように聞こえます。

言葉そのもの、一つ一つは確かにその通りです。親鸞聖人が「不可称不可説不可思議」と言われているのですから。

しかし、「絶対理解できない」が、どうも「絶対に救われる事はない」、「滅多に救われることは無い」とことさらいっているように思えます。聞いている人が「自分は今生では助からないのではないか」、「助かる人はあっても、よほどの人でないと無理だ」と、ただ今救う本願を、ただ今救う本願と思えなくなるのではないでしょうか。

「(君たちには)絶対にわからない」というのは、「自分だけはわかっている」と相手に思わせる言い方です。

阿弥陀仏の作られた本願、名号を、ことさら自分の専有物のように思わせるのは歎異抄6章に書かれているところと同様のものと思います。

如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんと申すにや。かえすがえすも あるべからざることなり。(歎異抄6章)

如来よりたまわる信心なのですから、聞いた相手に「わがもの」と思わせることは、あってはならないことなのです。