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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-11

「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。(退会二年目さん、酔っぱらいさんののコメントより)

退会二年目 2013/09/10 03:13

(略)

私は信心決定したのですが私の周りの人は信心決定していないどころか仏教を全く知らない人達ばかりです。どうにかお伝えしたいのですが親鸞会に在籍していた頃の失敗を思い出しなかなかお伝えすることができません。そんなとき「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。わかりずらい質問ですみません。

あと余談ですが信心決定してから「信心決定」という言葉を使うことにやや抵抗を感じます。恐らく親鸞会で求道していたときに思い描いていたものと実際のものがかけ離れていたからだと思うのですが。山も山さんはそのようなことはありませんか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378750437

最初の念仏する上で思うことについてですが、特に間違ったものではありません。

なぜなら、御消息に親鸞聖人が以下のように書かれているからです。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。(親鸞聖人御消息(下)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P783)

「往生を不定におぼしめさんひと」というのは、阿弥陀仏にただ今救われていない人のことです。そういう人は、まず救われることを思い念仏しなさい。そして、すでに阿弥陀仏に救われていいるひとは、阿弥陀如来のご恩を思って念仏し、世の中が安穏であるように、仏法がひろまるようにと思いなさいと書かれて有ります。


念仏は祈祷のするための言葉では確かにありません。しかし、私がただ今称えているところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のお働きそのものです。そのお働きである南無阿弥陀仏が、人を救っていくのですから、念仏するときに「どうかあの人が仏法を聞くように」と思われてもおかしなことではありません。


また、仏法を聞く人が周りでいないなかでも、そのようになんとか浄土往生をしてもらいたいと思うことは、まことに有り難いことだと思います。私も、そのように縁のあるいろんな人に対してそのように思っています。とはいえ、なかなかすぐに聞く人ばかりではありませんので、そこは悩ましいところです。南無阿弥陀仏と念仏するときは、そういうなかなか聞かない人のことを思うこともあります。


あと「信心決定」についてですが、私も同じような気持ちはあります。加えて、元会員や現役会員の人と話をする時に「信心決定」という言葉を使うのを少し控えようという気持ちがあります。理由は、退会二年目さんと同じで、「信心決定とはこのようなもの」という固定観念がそうとう強いので、信心や安心の話をしていても「信心決定」という単語を出すと、どうしてもその固定観念から話を聞いてしまうからです。


酔っ払い 2013/09/10 16:12

自分も昔から、会の「信心決定」というニュアンスが違うと主張してました。

それは会(会長)が実際のものを理解しておらず、

聖教にあるような意味使い方でなく一般受けするようなキーワードとして利用しており、言葉の使い方を歪めていることからだと思ってます。

あ、自分は未信なので信用性はどうだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378797173

酔っ払いさんがコメントされていることも同様のことだと思います。「スッキリハッキリ」とか「人生の目的を達成した喜び」とかいろいろと某会では言います。それを聞いた人は「信心決定とはそのようなもの」と思い込まされ、それに向かって一生懸命「進もう」と頑張ります。信心は「求めるもの」で「与えられるものではない」というのが某会では常識になっていますが、それは間違いです。


多くの会員が今でも所属しているので、それらの人が早く阿弥陀仏の本願を本当の意味で聞かれるようにと思い、私も南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏をするものです。

追記

連絡先はこちらをご覧下さい。

山も山さんのプロフィール - はてな

2013-04-26

南無阿弥陀仏のお念仏には実の入ったお念仏と実の入ってないお念仏と有るように思われますが・・お書きになって居られます(仏願の生起本末)とは如何な事でしょうか空念仏となれば阿弥陀如来さまに御恩報謝の称名念仏とはどの様に区分けすれば良いのでしょうか。(みじゅくにんさんのコメントより)

みじゅくにんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みじゅくにん 2013/04/25 09:51

蓮如聖人の御文章拝読していると往生出来た人が称えるお念仏と往生出来ていない人が称えるお念仏が有って南無阿弥陀仏のお念仏には実の入ったお念仏と実の入ってないお念仏と有るように思われますが・・お書きになって居られます(仏願の生起本末)とは如何な事でしょうか空念仏となれば阿弥陀如来さまに御恩報謝の称名念仏とはどの様に区分けすれば良いのでしょうか。合掌

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130425/1366832428#c1366851079

みじゅくにんさんの言われる御文章の箇所は、以下の場所ではないかと思います。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(御文章5帖目11通_御正忌)

http://goo.gl/QnEmf

結論から言いますと、念仏には自力の念仏と他力の念仏と二つにわかれます。その分かれ目は、称える人が南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無いか、疑っているかの違いによります。言葉を変えれば、他力の信心をえているか、いないかの違いです。南無阿弥陀仏そのものに違いはありませんが、称えている人の心によって分けて書かれています。


そのことを、上記の御文章では自力の念仏、あるいは空念仏を「なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへ」ることと言われています。そんな人は、極楽に往生できるように自分で思っていたも「それはおほきにおぼつかなき次第なり」と言われています。

そこで「なにの分別もなく」とはどういうことかというと、阿弥陀仏の本願と本願によって成就した南無阿弥陀仏のいわれを正しく聞きひらいていないことです。

ですから、他力の念仏は、空念仏にたいして何が違うのかといえば、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる」人の念仏のことです。


この「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」が、コメントされた「仏願の生起本末」です。

仏願の生起本末とは,阿弥陀仏が本願を建てられた(仏願)について、それがなぜ起こされたのか(生起)と、その結果どのような本願を建てられてその結果どのように私を救ってくださるのか(本末)ということです。


阿弥陀仏が、私を救うために本願を建てて下さいました。私を、浄土に往生させ仏にするという本願です。そこで、どうやってこの私を浄土に往生させるかについて、南無阿弥陀仏となって私に直接働きかけ喚びかけられることにしました。その結果,現在私が称えている念仏も、私が自分で考えた言葉ではなく、南無阿弥陀仏のとなられた阿弥陀仏が私の口から出てくださるすがたです。


南無阿弥陀仏の念仏はそのようないわれがあって、私の口から出てくださっています。それに疑い無いのが「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる」ことであり、信心決定だといわれています。


従いまして、念仏する私の心の違いではありますが、南無阿弥陀仏そのものについてのいわれについての疑心のあるなしで、信心決定(または往生治定)なのか、浄土往生が「それはおほきにおぼつかなき次第なり」に分かれます。私の称え心を詮索して疑い晴れるのではありません。それよりも南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い身になってください。南無阿弥陀仏は、ただ今お前を助けるとの阿弥陀仏の仰せですから、聞いて疑い無い人は必ずただ今助かります。

最後に、御恩報謝の念仏とは、信心決定した上でいわれることですから、上記の御文章には直前に

されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。

ここでも安心決定(信心決定)して、浄土往生を願いなさいと勧めておられます。その上で「如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏*1」を称えさせて頂きましょう。


空念仏について、しかばねさんのコメントに書かれてあったので、一部抜粋して掲載します。

しかばね 2013/04/25 17:12

(略)

本願寺の聞法会館で買った本に『シイラの念仏』のお話が載っています。

シイラ”というのは、実のならぬ稲穂のことです。

だから、シイラの念仏とは“空念仏”のことです。

これは鳥取県の妙好人、源左さんのお話です。

源左さんは、未信の時、「おらあの念仏は、シイラの念仏じゃけー〜」と言って苦しんでいました。

でも、信後は、「念仏にゃシイラはないけっど 人間がシイラだがのう シイラでも称えなんすらや 実がいっでのう」と言っています。

(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130425/1366832428#c1366877560

*1:御文章5帖目10通_聖人一流

2011-07-14

追記:称名念仏は口の動きそのものに功徳があるのではありません。(利井鮮妙師語録より)

前回のエントリーに追記です。

口で南無阿弥陀仏と称えている私の口の動きに功徳があるのではありません。称えられている名号そのものが私を助けるお働きがあるのです。

その関係について、利井鮮妙師語録から紹介します。

自力行者の念仏は称える方に力を入れて、あるいは称えごころ、数の多少や、行儀のよしあし、余善のあるなしによりて称名の功徳に勝り劣りがあると思い、機法一体の御名号称えながら、ハナレバナレの動舌発声に功を見ます。


これに反して他力の称名は、己が称えたからと能称の功を見ず「トナヘテモトナヘテモ南無阿弥陀仏、終日称礼念スレドモ自ノ行ニアラズ如来ノ行ヲ行スルナリ」とふと称えた念仏も蜂殺しの念仏も機法一体なり。願行具足の名号を称うるなり。善導大師の仏体を出したもう称名も、蓮生房が仏体を顕わした称名も、我々の称名も同じであります。喩えば自力称名はキンカンの如く皮を食うて実を捨て、他力の称名は蜜柑の如く皮を捨てて実を食うのであります。皮は動舌発声、実は阿弥陀仏即是其行であります。(利井鮮妙師匠語録より)

2011-05-02

念仏はどんな気持ちで称えたらいいでしょうか?(頂いた質問)

念仏を称えていると、自分は人より称えているぞと思うことがあります。どんな気持ちで称えたらよろしいでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏が選び取られた行が念仏ですから、称えるのは私の口から出てくるものであっても、私の行ではありません。自分の行ではないから、人と比べて優劣を決められるものでもありません。

往生の足しにしようと思わず、そのまま称えればよいといわれた、法然上人のお言葉を紹介します。

又いはく、本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)

本願の念仏は、智慧や、持戒や、道心や、慈悲を加えるような手助けがいらないものです。手助けが必要な念仏ならば、選択本願の念仏にはなりません。

善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、念仏に手を加えずそのまま称えなさいと勧められています。

これだけ真剣に称えているからとか、これだけ回数多く称えているからとか、それで念仏そのもののお働きが何か変わるものではありません。

念仏を使おうとか、何かの足しにしようとせず、ただ南無阿弥陀仏と呼びかけて下さる阿弥陀仏のお働きだと念仏されたらよいと思います。

2011-04-18

呼び続けてくださっているとは、現代語で具体的にどのようにでしょうか?(武蔵さんのコメント)

武蔵さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

呼び続けてくださってるとありますが、現代語で具体的にどのようにでしょうか?

その呼び声を聞くとありがたくて泣けてきますか?(武蔵さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110417/1302986104#c1303041090

「呼び続けてくださってるとありますが、現代語で具体的にどのようにでしょうか?」

具体的に聞こえてくるのは、「南無阿弥陀仏」と聞こえます。南無阿弥陀仏の音声自体は、私の口から出てくるものですから、私の声です。

「夢の中に阿弥陀仏が現れてこのように言われた」というように、具体的に現代語で聞いたことはありません。

しかし「南無阿弥陀仏」の念仏のこころを、お釈迦様、善知識方から聞かせて頂いております。「具体的に」となると、善導大師の二河白道の譬えにある、西岸上におられる阿弥陀仏の呼び声が具体的だと思います。

西の岸の上に、人ありて喚ばひ*1ていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P224)

南無阿弥陀仏と私の口から出て下さる念仏は、阿弥陀仏が私に向かって呼びかけられる声です。

文字にすると六字です。具体的にどう呼ばれているのかと言えば、上記のように、「なんぢ」と私に呼びかけれています。

私に向かって「一心正念にしてただちに来れ」と呼びかけられています。ただ今来なさい私のところへと呼び続けられています。

「われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と仰っています。どれだけ煩悩があっても、どれだけ順境でも逆境でも、浄土往生は護ってみせると呼びかけられています。

具体的に現代語にしようと思うことは、日常生活上にありません。ただ南無阿弥陀仏と称えております。称えた南無阿弥陀仏と、ただ南無阿弥陀仏と聞いているだけです。

「どんな意味ですか?」と問われれば、「『ただちに来たれ』『ただ今救うぞ』、と呼びかけられています」と答えます。

「現代語で具体的」となると、その表現は一人ひとり違うと思います。同じ詩を聞いても、どんな詩ですか?と聞かれた場合、言葉にすると表現は一人ひとりことなるようなものです。私は、南無阿弥陀仏とは、ただちに来たれと呼びかけられていると聞いております。

「呼び声を聞くと有り難くて泣けてきますか?」

念仏を称えながらいつも泣くわけではありません。泣くほど有り難いと思うこともあれば、何も思わないときもあります。

感情の起伏ですから、それは念仏を称えている状況によっていろいろと変わります。

しかし、私が有り難く思おうが、思うまいが南無阿弥陀仏と念仏となって出て下さる、呼び続けて下さっているのは大変有り難いです。

*1:「よばふ」は呼び続けるの意。

2011-02-11 念仏を称えているときに何を思うと疑心になる?(でんさんのコメント

念仏を称えているときに何を思うと疑心になる?(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

念仏称えてる最中に、腹が減ったな〜とか、眠いな〜とか、時々思ってしまうのですが、これも疑心になるのでしょうか?(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110210/1297288102#c

そういうものは疑心とはいいません。自分の身体についての感想ですから、暑いときは暑い、寒いときは寒い、足がしびれたときはしびれたなぁと思います。

念仏について思うことで、疑心というのはどういう心かというと、以下のような心です。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。(教行信証化身土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P412

念仏を「おのれが善根とする」心が、疑心です。

阿弥陀仏が、私を助けるための行として南無阿弥陀仏を選び取られました。念仏を称えているのは自分の口であっても、称えられているところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の行そのものです。

本来は阿弥陀仏の行である南無阿弥陀仏を、自分の善根のように考えたり、自分の善根と思うが故に「これだけ称えたのだから、往生の足しになるだろう」と思うのが疑心です。

それは、そのまま救うという本願に対して、何か手助けをしなければならないのではないか、念仏もそのままでは頼りないのではないかと思う心です。

それ以外に、念仏を称えているときにお腹が減ったと思うこと自体は疑心ではありません。

南無阿弥陀仏一つですくうと呼び続けおられますので、ただ今南無阿弥陀仏に救われます。

2011-01-23 南無阿弥陀仏は声の仏となって私の口から出てくるとは?(頂いた質問

南無阿弥陀仏は声の仏となって私の口から出てくるとは?(頂いた質問)

真宗では南無阿弥陀仏(念仏)は、声の仏となって私の口から出てくると言う表現を聞きますが、これは一体どういうことなのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、法蔵菩薩が十方衆生を必ず浄土に生まれさせると願われたものです。

その本願が成就して、法蔵菩薩から阿弥陀如来となられました。

では、阿弥陀如来はどうやって私を助けようとされているのかといえば、そのお働きが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が本願によって選び取られた十方衆生を浄土往生させるための働きです。この南無阿弥陀仏は、「本願招喚の勅命」であると親鸞聖人は言われています。私に向かって必ず救うからまかせよと呼び続けられる、呼び声ということです。

呼び声は、声だから阿弥陀仏ではないではないかと思われるかもしれません。しかし、その呼び声といわれた南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の本願が声という形で私に届けられているのですから、本願そのものであって、阿弥陀仏のお働きそのものですから、声の仏という表現もされます。

その南無阿弥陀仏と常に呼びかけられ、それを疑い無く聞き続けている姿が、信心となり、口から出れば念仏といわれます。

以下追記

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。(御文章4帖目8通・浄土真宗聖典(註釈版)P1179

法蔵菩薩が本願を誓われ、すでに阿弥陀如来になられたその姿が、いま私が聞き、私が称えている南無阿弥陀仏です。

どう聞いてもこれは私の声としか思えないとか、この一声に往生させる働きがあるのだろうかという方もあります。

しかし、この南無阿弥陀仏は私を必ず浄土に往生させる働きがあります。それを疑うか、疑い無く聞くかです。

「是名正定之業順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、仏の願にしたがふがゆゑにと申す文なり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P687

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏一つで救うと誓われています。疑い無く聞いている姿が信心であり、念仏する姿です。そうして本願を信じ、念仏する姿が、南無阿弥陀仏のお働きであり、浄土往生定まる姿です。

2010-12-14 「念仏で助かる」について(ツリーさんのコメントより)

「念仏で助かる」について(ツリーさんのコメントより)

ツリーさんよりコメントを頂き有り難うございました。

しからば、「念仏で助かる」と言えば良い。どこそこの会長がどうの、だれそれがどうの、関係ない。

「念仏で助かる」と、言い切ればよいでは、ないかと。

「念仏で助かる」当たり前の事を言えばよい。(ツリーさんのコメント)

ツリーさんの仰ることもごもっともです。

法然上人は念仏為本と教えられていますし、親鸞聖人もご和讃に

念仏成仏これ真宗

 万行諸善これ仮門

 権実真仮をわかずして

 自然の浄土をえぞしらぬ(高僧和讃71・註釈版聖典P569

といわれています。

万行諸善でさとりをひらく仮門に対して、念仏成仏が真宗であると教えておられます。

同時に親鸞聖人は、信心往生、信心正因と教えていかれました。

「念仏で助かる」で間違いはないのですが、それを聞いた人の中には一度も念仏称えたこと無い人は浄土往生出来ないのかと思う人や、反対に口で称えさえすれば助かると思う人も出てきます。事実、蓮如上人の時代には、信心ではなく口で称えることによって助かるといういわゆる「無信単称」「口称正因」が流行していました。

そこで蓮如上人は御文章の中で繰り返し、「信心正因 称名報恩」を強調して行かれました。

阿弥陀仏の浄土に往生する因はあくまでも信心一つであって、称えた念仏の多い少ないは関係有りません。本願には「乃至十念」とあるように、念仏の数は限定されていません。あくまでも信心正因です。

涅槃の真因はただ信心をもつてす。(教行信証信巻・註釈版聖典P229)

といわれている通りです。

「念仏為本」あるいは「念仏成仏」でいわれる「念仏」も、「信心」も、その体は南無阿弥陀仏ですから、念仏往生即信心往生となります、念仏往生といっても信心往生といっても意味が変わるものでは有りません。

私が口で称えた念仏の功徳によって救われるのではありません。私が称える念仏は、往生の因ではないので、称名報恩と言われます。

信心正因 称名報恩について、歎異抄には以下のように書かれています。

そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。(歎異抄第14条・註釈版聖典P845

念仏で助かるでも問題有りませんが、誤解する人が過去にあったことを考えると、親鸞聖人の教えは、信心正因ですから、「信心のさだまるとき、往生がさだまる」とか「南無阿弥陀仏で助かる」の方がよいのではないかと思います。名号願力のひとりばたらきで助かります。その名号願力を信受する一念に私の救いが定まります。

2010-12-09 称名そのままが念仏である理由(でんさんのコメント)

称名そのままが念仏である理由(でんさんのコメント)

称名そのままが念仏なのですか。

身に合掌、口に称名、意に念仏と聞いたことがありましたが、誤りかもしれません。

念じる事がよく解らない私にでも、称名で念仏できるように御育て頂けるのですね。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101207/1291698038#c1291766572

称名そのままが念仏ということについて、補足してエントリーをします。

でんさんの以前のコメントにあるように「念仏」といえば、仏を念ずることですから、心を静めて、阿弥陀仏を念じなければできない行為のように思います。

しかし、いざ臨終となり、またいろいろな苦しみに責められている人は、心を平静に保ち阿弥陀仏を念ずることができません。

観無量寿経に説かれている下品下生がその姿です。

の人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。(観無量寿経・註釈版聖典P115

この人というのは、下品下生の五逆罪・十悪を造ってきた人の事です。その人が臨終には苦しみに責められて、心を静めて仏を念ずることができません。そこで善知識が、「もし心を静めて仏を念ずることができないならば、南無阿弥陀仏と称えなさい」と勧められます。

これについて、善導大師は以下のように解説されています。

六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。(観無量寿経疏散善義・註釈版聖典七祖篇P495

これを「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす」ということで「転教口称(てんぎょうくしょう)」といわれます。

教えを聞いて納得して、心を静めることができない人には、ただ南無阿弥陀仏と称えよと勧められるのは、どういうことかについて、親鸞聖人は唯信鈔文意に解説されています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P716

苦しみに責められて、心を鎮めて阿弥陀仏を念じることができない者には、ただ口に南無阿弥陀仏と称えよと勧められています。それは、口に称えるという行為に意味があるのではなく、称えられるところの南無阿弥陀仏に私を往生させる力があり、その南無阿弥陀仏を疑いなく称える者を往生させるという本願をあらわされたお言葉です。

自分が、心を静めて念じられるとか、念じられないとかいうことを問題にするのとは、南無阿弥陀仏そのものに往生させる働きがあると思えずに、自分の心の動静を問題にしているのです。

そういった、私の心の有りようと関係なく、救う働きは南無阿弥陀仏の中にあります。心を問題にして、念じられないことを気にするのではなく、ただ南無阿弥陀仏が往生させるお働きがあるのだよと教えられたのが、上記の「こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり」です。

コメントの「意に念仏」というのは、意に南無阿弥陀仏であり、信心のことだと思います。

念じられる念じられないとかいう私の心の手助けが必要ないのが、南無阿弥陀仏なのです。その南無阿弥陀仏が救って下さいますので、ただ今南無阿弥陀仏に救われて下さい。

2010-12-08 「念仏で助かる」は正しいのでしょうか?(ツリーさんのコメントより

「念仏で助かる」は正しいのでしょうか?(ツリーさんのコメントより)

ツリーさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>浄土真宗で念仏といえば、「称名念仏」のことをいわれます

確かにそのように、書かれてある本もあります。では、「念仏で助かる」は正しいのでしょうか?

もう少し説明頂けませんか?(ツリーさんのコメント)

「念仏で助かる」は、正しいです。

この場合は「第18願の他力念仏で助かる」という意味です。

私が念仏を称えたという、私の行為の功徳で助かるという意味ではありません。

第18願の他力念仏で助かるということについては、親鸞聖人は尊号真像銘文の中で、法然上人の選択本願念仏集を解説されたところに書かれています。

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。(尊号真像銘文15・註釈版聖典P666

正定の業とは、この私の往生浄土と成仏の原因となる働きをいいます。その正定の業は、仏名を称えることであり、念仏のことです。

それを「称名必得生」といわれ、称名念仏するものは必ず浄土に往生するのであり、それは「依仏本願故」阿弥陀仏の本願に誓われているからです。

こう聞くと、信心正因が浄土真宗であって、念仏正因ではないのではないかと思われる方もあると思います。

称名(念仏)が正定の業であり、私を往生浄土させる働きがあるといった場合は、私が念仏を称えるという「私の行為」(口の動き)ではなくて、称えられたところの念仏(南無阿弥陀仏)のことをいわれます。

称名は、称念仏名のことで、南無阿弥陀仏を称えることです。口の動きとしては「なむあみだぶつ」「なまんだぶつ」「なまんだーぶつ」「なもあみだぶつ」など、人によって言い方は多少異なりますが、6・7回口を動かし発声をしています。この口の動きそのものに、私が往生する働きがあるのではありません。南無阿弥陀仏と称えられた、「南無阿弥陀仏」に私を助ける働きが有るのです。

「なむあみだぶつ」なのか「なもあみだぶつ」なのか、「なまんだぶつ」なのか、どう言ったらよいのでしょうかと言う人がありますが、称えられる南無阿弥陀仏が大事なのですから私の言い方は問題ではありません、*1

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名号といっても、信心といっても、称名(念仏)といっても、それは働いている場による呼び名が違うのであって、どれも同じ南無阿弥陀仏です。

名号といった場合は、阿弥陀仏の救いの力や、お働きそのものを指すときに使われます。

信心といった場合は、その名号が私の心の上で働いておられるときに使われます。

称名(念仏)といった場合は、名号が私の口で働いておられるすがたというときに使います。

上記の意味で、名号が私を助ける力があると言っても、信心一つで救われると言っても、称名(念仏)で救われると言っても同じ事です。

念仏と聞くと、自分の口で動かして発声している行為そのもののように思ってしまう方もありますが、称えさせられているところの南無阿弥陀仏が私を救って下さると言うことです。

2010-12-07 念仏は何を念ずるのですか?(でんさんのコメント)

念仏は何を念ずるのですか?(でんさんのコメント)

皆さんは分かっておられる様ですが、念仏がそもそも分からないのです。

念仏とは念ずる事の様ですが、何を念ずるのですか。

また、合掌や正座にも意味がございますか。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101205/1291541269#c1291672626

念仏は、仏を念ずることです。

合掌は、主に仏教の世界における礼儀の1つです。正座は、日本における礼儀の1つです。

また、合掌は、右手は仏、左手は衆生をあらわし、両手を合わせることで仏と一体となることや、仏への帰依をあらわします。また人に対しては、尊敬の心をあらわす礼儀となっています。

念仏について、補足して書きます。

念仏は、註釈版聖典の巻末註には以下のように書かれています。

仏を念ずること。

真如を念ずる実相の念仏、

仏のすがたを心に思い観る観想の念仏、

仏像を観ずる観像の念仏、

仏の名号(みょうごう)をとなえる称名念仏

などがあり、聖道(しょうどう)門では、実相念仏を最勝とし、称名念仏を最劣とみる。しかし浄土門では、称名は阿弥陀仏の本願において選び取られた決定往生の行であり、極善最上の法であるとする。称名 しょうみょう。註釈版聖典巻末註P1525

でんさんがコメントに書かれているように、念仏とは、仏を念ずることです。

それにも、上記に紹介した「実装の念仏」「観想の念仏」「観像の念仏」「称名念仏」と4種類があります。

浄土真宗で念仏といえば、「称名念仏」のことをいわれます。

その念仏は、阿弥陀仏が本願で選び取られた往生の業であり、私を往生させる働きであると、親鸞聖人は、教行信証行巻に以下のように、引文されています。

選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、

「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」と。(教行信証行巻・註釈版聖典P185)

法然上人の選択本願念仏集に書かれたことを、引文されて、南無阿弥陀仏以外に往生の業はないといわれています。

しかし、この念仏は、私の行ではなくて、阿弥陀仏が本願で選び取られた行ですから、阿弥陀仏の行です。浄土真宗で、「お念仏」と「お」の字をつけるのは、念仏そのものが阿弥陀仏の行であるからです。自分の行に「お」は普通つけません。

そこで、称名には、阿弥陀仏が私に差し向けられた行であり、私を救う働きがあることを、親鸞聖人は行巻に仰っています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(註釈版聖典P141

阿弥陀仏が差し向けて下さるものに「大行」と「大信」があります。

そのうち「大行」とは、「南無阿弥陀仏」の称名念仏です。この大行(称名念仏)は、阿弥陀如来が完成されたあらゆる徳がおさまっています。一念で私を救う働きがあるものですと言われています。

念仏は仏を念ずることですが、浄土真宗では称名念仏のことで、南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の名号を称えることです。

しかし、南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の行であり、私の行ではありません。

南無阿弥陀仏は、私を往生させるための、阿弥陀仏の行が収まっており、私に差し向けられているものです。

一見すると、私が口で称えているだけではないかと思われるかも知れませんが、口で称えることがそのまま仏を念じていることになります。

しかも、その口で称えること自体も、阿弥陀仏によって称えさせられていることです。

阿弥陀仏は本願で、本願を信じさせ、念仏を称えさせ、往生させると誓われています。

信ずることも、念ずることもないこの私に向かって、本願を建てられたのですから、何を念じるかわからないものに、南無阿弥陀仏と呼びかけて下さっています。

常によびかけられる南無阿弥陀仏によって、この私が本願を信じ念仏する身に救って下さるのです。

合掌は、仏と衆生が1つとなる、帰依のすがたと書きましたが、真宗でいえば帰命のすがたです。

それについて、真宗ではこういう歌があります。

「右ほとけ 左われとぞ 合わす掌の 中ぞゆかしき 南無の一声」

阿弥陀仏が差し向けて下さる、南無阿弥陀仏の呼びかけに、本願を信じ、合掌し南無阿弥陀仏と称えさせていただきたいとおもいます。

2010-12-05 念仏が特段有り難いとも思いませんが?(ジーマさんのコメント)

念仏が特段有り難いとも思いませんが?(ジーマさんのコメント)

時々念仏は出てきますが,特段有難いとも思いません。忘れてばかりで申し訳ないとも思いません。これではいけないのでしょうか。(ジーマさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101204/1291412572#c1291474217

ジーマさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

念仏に対して有り難いと思わないとか、忘れてばかりで申し訳ないと思わないこと自体は、個々人の感じることなので、その善し悪しをここではいいません。

よくないのは、念仏を何かの役に立てようと思うことです。念仏称えないと何か悪いことが起きるのだろうか、それなら称えたほうが往生する上で役立つのではないかと思う心が悪いのです。

また、有り難いと思わなくても、南無阿弥陀仏が私を救って下さる法なのですから、念仏しなくてよいというものではありません。

一 実如上人、さいさい仰せられ候ふ。仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力なり。(御一代記聞書55・註釈版聖典P1250

仏法のことは、我が心にまかせずたしなめといわれています。ここでいわれる仏法のことには、もちろん念仏することも含まれています。南無阿弥陀仏と念仏するのは、わが心にまかせていては、有り難く思えなかったり、申し訳なく思えないときには称えないということになります。心にまかせず励んで念仏されたらよいとすすめておられます。

また、阿弥陀仏の御恩をなかなか思えない者ですから、心にまかせてはならないと働いて下さいます。

2010-12-04 念仏は救われるまで称えなくてもよいのでしょうか?(頂いた質問)

念仏は救われるまで称えなくてもよいのでしょうか?(頂いた質問)

念仏は御恩報謝と聞きますが、そう聞くと救われるまでは称えなくてもよいように思いますが、いかがでしょうか?(頂いた質問)

念仏は、救われるまでは称えなくてもよいものでは有りません。

そのように思われるのも、御恩報謝の念仏という言葉が、念仏を称えることが阿弥陀仏に対して恩返しをすることになる行為だと思われるからだと思います。ずっと称えていけば阿弥陀仏の御恩をすべて返せて対等になえるというような考えになるのは間違いです。

称名報恩とは、念仏を南無阿弥陀仏と称える人の心をいわれたものです。阿弥陀仏に救われた感謝の思いで、ありがたやとうとやと称えるものであって、念仏を何かの足しする心や、手段と思って称えるものではありません。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ[云々]。(御一代記聞書179・註釈版聖典P1289

阿弥陀仏に救われた上の念仏は、尊く思って称える念仏も、ふととなえる念仏も仏恩報謝の念仏です。他宗では、親の追善供養の為、また何かのために役立たせる手段として念仏を使います。

親鸞聖人の教えられた念仏は、弥陀をたのむことであり、そのうえの称名念仏は仏恩報謝になるといわれています。

どうとなえたら自力の念仏にならないだろうかとか、どう称えたら御恩報謝の念仏になるのだろうかと考えるのは、すでに念仏を何かの手段、方法と思っていることになります。

称えるものの気持ちとしては、ただ阿弥陀仏の御恩嬉しやと感謝の心以外にはありません。

ただ今阿弥陀仏に救われて、念仏称えさせて頂きましょう。