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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-06-19 [問答]考えることが悪いのではありません(Kさんのコメント)

煩悩即菩提について(KGさんのコメント)

S会会員さんの質問には明日エントリーします。

「煩悩即菩提」とは、

吹き上がった煩悩が消され、苦しみから解放してもらえます。その煩悩は菩提へと転じ変えられます。(KGさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189#c1245371832

ことではありません。上記の説明では「煩悩が瞬間的に滅して菩提になる」ことになります。

吹き上がるも何も、煩悩しかありません。

苦しみから解放されるというのは、往生一定の安心であって、煩悩による苦しみがなくなるのではありません。煩悩はそのまま変わりませんが、往生一定の安心があるのです。

煩悩が照らされ懴悔になったといっても、これは煩悩が懴悔に転換したのではなく、煩悩そのままで懴悔の心を起こされることです。

2009-06-10 阿弥陀仏に救われても、煩悩そのものは変化しません(質問さんのコメ

阿弥陀仏に救われても、煩悩そのものは変化しません(質問さんのコメント)

質問さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証信巻)

臨終一念の夕に、仏のさとりをひらきます。これを往生即成仏といいます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547586

引用場所が教行信証の「信」巻である、ということが重要のように感じました。「真の仏弟子」について親鸞聖人解釈されたところですね。

その少し前に、「大願清浄の報土には、品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。」とここにも「横超」が出てきますので、関連深いと思いますが、

「臨終一念の夕」と「一念須臾」は、同じとき(時節)を差す一念でしょうか?(質問さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547586#c1244550561

臨終一念の夕べというのは、臨終のときをいいます。命が終わると同時にという意味です。

一念須臾は、一念も須臾も短い時間を指す言葉ですから、言葉の意味がそもそも違います。

また、「臨終」とは何の臨終でしょうか?(同上)

命が終わる時をいいます。この肉身の命が終わることです。

また、獲信とこの「臨終」の時間的関係は、どのようになっているのでしょうか?(同上)

時間的関係というのは、いつ臨終を迎えるか分かりませんが、親鸞聖人のお言葉通り、「横超の金剛心を窮むる」(獲信)が先で、そうなった人が念仏の衆生です。その念仏の衆生が、臨終一念の夕べに、仏のさとりを開くのだといわれています。

また、往生即成仏の「往生」と「臨終」は、同じとき(時節)を差すのでしょうか?(同上)

臨終とは「臨命終時」の略で、命がまさに終わろうとする時のことです。

往生とは、「浄土に往き生まれる」のことです。

「往生というのは、浄土にうまるという也」(尊号真像銘文)

よって、同じときではありません。

それから、超証する「大般涅槃」と「無上正真道」は、本質的に同じさとりの内容でしょうか?(同上)

同じです。阿弥陀仏にただ今救われた人がさとる証には、別のものはありません。

前回質問しました

「獲信後から成仏までの間、煩悩はどうなっていくのでしょうか?」

につきまして、煩悩が出てきた時に、その煩悩(苦しんでいる状態)と摂取不捨の関係がどうなのか、阿弥陀仏の光明が煩悩に苦しんでいる人(獲信者)にどうはたらくのか、教えて頂きたいという趣旨でした。宜しければ、コメント・ご回答頂けますと幸いです。(同上)

煩悩そのものは、なにもかわりません。

煩悩が出てきたときというのは、煩悩が出たり消えたりする前提ですが、煩悩具足の凡夫の私から煩悩は出たり消えたりしません。

縁によって、欲や怒りや愚痴の心は出てきますが、摂取不捨の利益に救われていても、煩悩は何も変化しません。

そのことをいわれているのが正信偈の御文です。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇

貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

(摂取の心光は常に照護したもう、已に能く無明の闇を破すと雖も

 貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり)

阿弥陀仏に救われても、貪欲愛欲、怒りや憎しみ雲や霧が常に真実信心の天を覆っているのです。雲や霧には何も変化はありません。

ただ、往生の障りにはならなくなるだけです。

2008-12-02 煩悩即菩提の、喜びとは何を喜ぶのか?(かぺたさんのコメントより)

煩悩即菩提の、喜びとは何を喜ぶのか?(かぺたさんのコメントより)

かぺたさんからいただいたコメントについて、お答えします。

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081127/1227777295#c1227797181

後半お答頂いた内容ですが非常に難しく理解しきれませんが、『この世の苦しみが獲信した

からといって喜びに転じ変わるというようなことはなく、あくまで相対の幸福は多いに

越したことはないが、それがあろうがなかろうが、往生一定であるということはまったく

変わらないのでそのことによって今現在の心が明るい。』←すみません、なにか違うような

気もしますがこれが今の私の理解です。

難しかったとのことで、申し訳ございませんでした。

この世の苦しみ、楽しみによって、往生一定が、一定でなくなる、妨げられるということはありません。

この世の苦しみは、苦しみのまま存在します、それが喜びに転ずるというのは、言葉で説明すると難しいですが、「苦しみは確かにある」そのまま「喜びもある」という状態なのです。

「罪障功徳の体となる

 こおりとみずのごとくにて

 こおりおおきにみずおおし

 さわりおおきに徳おおし」(親鸞聖人

 喜びといっても、煩悩が喜ぶ喜び(お金が儲かったなど)とは喜び(菩提)なので、たとえで親鸞聖人いわれていますが、「俺の(力で)すくわれたぞぉぉ」と雄叫びをあげるような、「努力が実った!」という喜びとは違うということです。

・救われたら煩悩即菩提で苦しみは全て喜びに全て転じ変わるというのは本当でしょうか?

 (例えば貧乏な事を喜べるというような事があるのでしょうか)

このように質問をいただいた「全て喜び」というのは、「煩悩満たされた」喜びではないということなのです。

では、「うれしくないのか?」という質問があるかもしれませんが、「うれしい」です。

「獲信見敬大慶喜」(正信偈)

親鸞聖人いわれる通りで、大きな喜びはあります。

この世のことで例えたら「美味しい」といっても、いろいろな美味しさがあります。

「美味しい肉」といった「美味しい」と「美味しい水」といった「美味しい」と、「空気がおいしい」といった「美味しい」は、文字で表せば全部「美味しい」ですが、「味」は全部違うでしょう。

「喜び」も「言葉」ですから、「言葉」は同じでも、想像するものが違うのです。

煩悩即菩提ときいて、「すごく美味しい肉」のような「味」を想像して、「そういう味があるのか」と思っていても、その「美味しい」は、「美味しい水」や「美味しい空気」のような美味しさ(味)なのだということです。(これはあくまでたとえです、質が違うといいたいためのたとえです)

他力の信心は、「私の努力の結晶」ではないのです。「阿弥陀仏のご苦労を賜ったもの」なのです。

だからこそ、歎異鈔に

「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり」(歎異鈔)

といわれているのです。

言葉をかえれば、「すべて喜び」という「喜び」は、阿弥陀仏のご苦労を喜ぶ、ご恩を喜ぶ喜びであり、恩徳讃の心から出てくる喜びです。

他力の信心獲得すれば、他力の信心と一体に成るので、その信心を喜ぶということは、私すべてが喜びに転ずる世界なのです。

貧乏を喜ぶということが、表現上あっても、それは「貧乏なこと=不幸」という価値観が、「貧乏=幸せ」と価値観が転換するということではありません。

「貧乏=不幸(といってよいものではありませんが、生活自体が苦しいという現実はあると思います)」は、かわりませんが、他力の信心獲得すれば、その信心を喜ばずにおれなくなりませんから、結果として、喜ぶすがたになります。

しかし、それは、貧乏という現実がかわったのではありません。

あえていえば、喜ぶものがら(南無阿弥陀仏)と一体に成るので、喜ぶものがそのままあるという世界に生かされるということなのです。

こういうことを書くと、真実信心とは、なにか遠い遠い世界の、遥か高嶺の花のように思われるかもしれません。「そんな心になれない」とか「ここひとつになれない」という心は、真実信心のすばらしさを聞けば、わかられるほど強くなると思います。

しかし、それは計らいであって、自分で遠くにおいているのです。

「自分には〜」と、仮に自分に価値がなかったとしても、それが何だというのでしょうか。阿弥陀仏の本願は、そんなものを相手に建てられたのではなかったのでしょうか。

阿弥陀仏は常にそばまできて、ただいま救おうと、現在働いておられます。

あとは、聞くものの気持ち一つなのです。

カペタさんのコメントに返事がのびのびになり、申し訳ございませんでした。

ご不明な点ございましたら、またコメントをお願いいたします。

2008-11-27 仏法を聞くと言うことと、この世の苦しみ・楽しみ(カペタさんのコメ

仏法を聞くと言うことと、この世の苦しみ・楽しみ(カペタさんのコメントより)

前回の続きです

かぺたさんから以前頂いた質問で、まだ答えていない部分について回答します。

質問のコメント全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081121/1227269318#c1227275653


・救われたのに『どなたに救われたかわからないがとにかく救われたことははっきりしている』

 などということがあるのでしょうか?

「どなたに救われたかわからない」という言葉だけとると、そういえる場合もあるでしょう。

ここで大事なのは「わからない」という意味です。「目で見たり、耳で聞いたり、さわったりしたようにはわからない」ということなら意味は通ります。

阿弥陀仏に救われたときに、目の前に金色輝く阿弥陀仏が現れて・・・」というような、ことなら、「どなたに救われたかわからない」ということは絶対に言えません。

しかし、そのようなものが見えるなら、それは、よく聞く神秘体験となにも変わりません。私が以前あった人の中には「目の前に弘法大師があらわれて・・・」という体験をした人もあります。

弥陀に救われる体験とは、「体験」はありますが、「明確にすべてを言葉に表現すること」はできません。できないから「不可称・不可説・不可思議の信楽」と親鸞聖人は言われています。

次に「とにかく救われたことははっきりしている」というのは、言葉だけで言えば、どうとでもとれます。

大事なのは救いの内容です。

「こころがぱぁっと明るくなりました」というのは、感情です。キリスト教の奇跡体験者にも多くあります。「そういう体験をした=救われた」と浄土真宗ではいいません。

あくまでも自力の心が廃った体験、一心に弥陀に帰命した体験を、浄土真宗で言う「弥陀に救われた体験」というのです。

十方衆生(すべてのひと)をただ今救うという弥陀の本願でありますが、捨てねば助からぬ自力の心というのは、弥陀の本願(法)に向かっての心ですから、法を抜いて、自力の心が廃ると言うことはありません。

・救われたら煩悩即菩提で苦しみは全て喜びに全て転じ変わるというのは本当でしょうか?

 (例えば貧乏な事を喜べるというような事があるのでしょうか)

煩悩即菩提は、本当ですが、「苦しみは全て喜びに全て転じ変わる」というのは「苦しみがゼロになって、あとは喜びだけになる」という意味ではありません。

煩悩は、信前信後を通じて、減りもしなければ、増えもしません。

日頃「苦しみ」と感じているのは、煩悩の苦しみです。貧乏が辛いというのも、煩悩です。

じゃあ、弥陀に救われたら、貧乏なことを喜べることになるのかという譬えで言いますと、貧乏は辛いです。煩悩が変わらないということは、その苦しみも変わりません。

「貧乏だからといっても、浄土往生のさわりにはならない」と転じるということです。

弥陀に救われて、何が変わるのかと言うことを「無碍の一道」と親鸞聖人は言われましたが、あくまで「浄土往生のさわりがない世界」であって、「この世のさわり(苦しみ)がない世界」ではないのです。

浄土往生のさわりがなぜ無いのかというと、それは真実信心を獲得しているからです。

信心決定した世界とは、浄土往生のさわりがない世界です。阿弥陀仏は現在ただ今、浄土往生のさわりが無い身に救ってみせる、死ねば弥陀の浄土に生まれさせるという本願を建てておられます。

その本願を建てられた御心からすると、この世の苦しみの解決は、副産物なのです。

この世の苦しみを解決するために仏法を聞くのではありません。

この世を楽しく過ごすために仏法を聞くのではありません。

そのように思う人は、この世の楽しみも味わうことはできません。

なぜなら、この世の楽しみを獲る(目的)には、後生の苦しみを解決(手段)しなければならないからです。この様に目的と手段が、前後逆になると、後生の苦しみの解決をしない限り、この世に楽しみなどあり得ないというような発想になってしまいます。

だから、この世の楽しみについて、敵愾心や罪悪感を感じる人もあります。

この世の楽しみは、楽しみとして確かに存在するのです。人間ですから、それを楽しくないと言ってしまったらそれはロボットか石になってしまいます。

きれいな風景をみて、きれいだなぁと思う心があるでしょう。楽しい会話をして、楽しいと思う心もあるでしょう。美味しい食事を頂いて、美味しいと思う心もあるでしょう。そういう感性は、人間として生きていく上で大事なことです。

ただ、それを「きれいだ」「楽しい」「美味しい」と感じることと、弥陀の救いは全く関係ないのです。関係ないですし、それが目的ではありません。

あくまでも目的は、後生の苦しみの解決(浄土往生)が目的であって、この世の楽しみを得るというのは、その手段であり、解決をしたあとの副次的にやってくるものなのです。

この世の楽しみが手段と言ったのは、体が健康でなければ仏法はなかなか聞き抜くことはできません。

いつもいらいらしていては、自分の心になかなか目が向かないでしょう。

健全な心で、体にいいものや美味しいものを食べ、人間関係のストレスもないということは、仏法を求める上では決してマイナスにはなりません。

反対に、心が暗く、食事もろくにとらず、いろんなことで思い悩んでいては、なかなか法は聞けません。

弥陀の救いとは関係ないと書きましたが、関係ないならこの世のことでストレスを抱えない方がいいのは当然です。

求道そのものは、以前のエントリーにも書きましたが、一歩本当の求道がはじまれば、孤独でもあり苦しい道に違いありません。

だからといって、日常生活まで苦しみのどん底にならねば聞けない法だと思うのは聞き間違いです。またそうしようというのは、山で修行をする仏教です。

当流親鸞聖人の一義は、強ちに出家発心の形を本とせず、捨家棄欲の姿を標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむる時は、さらに男女・老少を簡ばざるものなり。(御文章1帖目2通 出家発心)

蓮如上人も言われているとおりです。親鸞聖人の教えは、出家するような形をあらわさない。家を捨て、欲を捨てたような姿をあらわさない、ただ他力の信心決定するときには、そういう男女だとか年令とか言う形は関係ないのですから。

欲を捨てねばならないとか、そういう形にこだわるのは、それが弥陀の救いと関係あると思うからです。

もう少し分解して書きますと、

現在の苦しみを解決(目的)するには、後生の苦を解決(手段)しなければならない。

その後生の苦しみを解決するまでは、この世は苦しみの連続でしかないから、それに耐えていくのが聞法だ、求道だ。という考えです。

そうなると「出家発心の形」が本になり。「捨家棄欲の姿」を標するようになります。

目的と手段が逆になっています。目的が間違ったら、本当に手に入れたいものが、手に入らなくなります。

あくまでも目的は、現在ただ今弥陀に救われ、信心決定の身になることなのです。

この世楽しむことではありません。また、真剣に聞くことが目的でもないのです。それは手段であって目的ではありません。

「「聴聞、心に入れて申さん」と、思う人はあり、「信をとらんずる」と、思う人なし。されば、「極楽はたのしむ」と、聞きて、「参らん」と、願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になる」(御一代記聞書 123)

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