Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-08-26

「阿弥陀仏の本願をただいまそのまま聞く、ということがどういうことなのか、皆目わからないのです」(安藤さんのコメントより)

安藤 2014/08/26 01:17

阿弥陀仏の本願をただいまそのまま聞く、ということがどういうことなのか、皆目わからないのです(T_T)

弥陀の本願を他の表現、言いまわしで説明することも難しいので、山も山さんは、いつもこのような言い方しかできないのですよね(T_T)

私も早く聞いて肩の荷を降ろしたいです。

私が思ってるのではなく、阿弥陀仏が先に思っておられることなのでしょうがf^_^;

私という奴は、全く思ってないのがほんとの姿なのでしょうが…

阿弥陀仏の本願をただ今聞くというのが分かりにくい表現だったので考えてみました。

言い換えれば、二河白道の譬でいう「汝一心正念にして直ちに来れ」(ただ今助ける)の阿弥陀仏の仰せを確認しないということです。

この確認しないというのはどういうことかというと「ただ今助ける」と聞いて「どうして?」「どうやって?」「助けるって具体的にどういうこと?」の思いがないということです。


言い替えると、阿弥陀仏が五劫思惟された結果の「ただ今助ける」は、確認しようとすれば少なくとも五劫かかるので、そんな時間がかかっていたら臨終に間に合わないので結論だけはまず聞き入れるということです。

一度でいいですから、阿弥陀仏の仰せを聞いたままにして、あれこれ疑問を挟まないで下さい。

2013-04-17

お聴聞していると、「おはたらきをさせていただく」という言葉が当たり前に出てくるので、おはたらきのもつ意味を吟味してみたかったのです。(匿名希望さんのコメントより)


匿名希望 2013/04/15 19:41

ありがとうございます。

確かに法を伝えるということがわからないのかもしれません。

お聴聞していると、「おはたらきをさせていただく」という言葉が当たり前に出てくるので、おはたらきのもつ意味を吟味してみたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130415/1366016819#c1366022498

「おはたらきをさせていただく」は、お寺などで使われる一種の慣用表現と思います。真宗以外の場では、私も聞いたことがありませんでした。

「おはたらき」の主語は阿弥陀如来です。「させていただく」の主語は私です。

阿弥陀仏の仕事を、私が代理でさせてもらうという意味合いで使われている言葉なのだと私は受け取っています。そうなりますと、その「おはたらきをさせていただく」のは、現在阿弥陀仏に救われた私ということになります。往相廻向も還相回向も、「おはたらき」としては、阿弥陀仏から頂くものです。なぜなら、南無阿弥陀仏に、「往相回向」「還相回向」の二つは収まっているからです。


匿名希望さんが、どのような方かは私はよく判っていませんが、「自信教人信」といわれるように、自らが信を得て、人に教えて信ぜしむるのが、浄土真宗では伝える人の基本的立場です。


そこで、「現在の私が法を伝える」という点について考えますと、その相手は各人によって縁のある人は異なります。

「寺の住職」ならば、その寺の門信徒の方が多くなるでしょうし、「一門信徒」ならば、家族や、友人・知人、同じ寺の門信徒ということになるかと思います。


さて、「おはたらきのもつ意味」について書いてみます。

確かに、衆生済度あるいは、人々を救う活動は阿弥陀仏または南無阿弥陀仏の独り働きに違いありません。しかし、「力」の出所はさておき、「私の気持ち」の置き場所が定まりません。

「衆生済度は阿弥陀さまのお働き」「私はその媒介にすぎない」と割り切れるようなものならば、本願力回向とはいわれません。阿弥陀さまのお働きは、私にさし向けられるといってもただの踏み台になるだけではありません。実際に「法を聞いてもらいたい」という気持ちにさせられるものです。

確かに、その気持ち自身の阿弥陀仏によっておこされるものですが、起こされた側からいえばやはり「法を聞いてもらいたい」と思っているのも事実です。その「法を聞いてもらいたい」という気持ちに従い、自分の持ち場でいろいろと悩みながら有縁の方に法を伝えていく努力が、如来よりお働きを頂いた結果だと思います。

まづ有縁を度すべきなり(歎異抄第5条)

とあるのは、浄土へ行き仏になってからことを言われたものですが、自分のいる持ち場でできるこをしていこうと努力することが、菩薩行ではなくても報恩行と思います。

2012-01-07

追記:「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」(おさびしやまさんのコメント)

2012-01-05のエントリーについて、追記です。

おさびしやまさんのコメントの意図を取り違えて書いておりました。申し訳ございませんでした。そこで、複数の方からコメントを頂いて、改めてエントリーを書きます。コメントを書かれたみなさん有難うございました。

広島の名無し 2012/01/05 23:33

たぶん、おさびしやまさんは、長八さんの言われるように「無耳人」、「真実を聞く耳を持たぬ者」という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞即信」の「聞」は、自分の力ではできない、という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」といった素朴な疑問を上げておられるのだと思いますがどうでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325773981

おさびしやま 2012/01/06 11:20

広島の名無しさんの言われるように「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」という素朴な疑問です。世間ではそういったことはしませんし、している人が居たら、まわりにいる人が注意します。山も山さんは、それを敢えてなさっているので、何か深い意味があるのだろうと思ったのです。それを知りたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325816423

おさびしやまさんの言われる通り、聞即信の「聞」は、自力で聞いたという聞ではありません。そこで、「聞く力がないものに、聞いてくださいとは酷なのでは?」とのことですが、「自分の力で聞くことができないから、阿弥陀仏の仰せに救われてください」という意味で今まで書いてきました。自力の「聞」(疑いのまじった聞)では救われないので、他力の「聞」(疑いない聞)で救われて下さいという意味です。

聞即信の聞は、「本願を聞いて疑心あることなし」の無疑心のことですから、おさびしやまさんの問いは、「自分の力で無疑心になれないものに、無疑心になれとは酷なのでは?」と言われているのと同じことになると思います。

しかし、無疑心とは何によっておこされるかといえば、名号です。

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P231)

http://2jq.pp.sl.pt

無疑心といっても、自分で頑張って「無疑心になった」ということはありません。無疑心の体は名号ですから、南無阿弥陀仏によって無疑心となります。

なぜ南無阿弥陀仏によって無疑心となるのかといえば、私には自らの力で清浄、真実の心になることができないからであり、そのため阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向してくださるのだと、上記のご文の前に親鸞聖人は書かれています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。

ゆゑに疑蓋雑はることなし。(同上)

※現代語訳はこちら 

「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。」と書かれています。阿弥陀如来が私に南無阿弥陀仏を差し向けて施してくださっています。その南無阿弥陀仏の回向を、喚び声ともいわれるので「聞其名号」とお釈迦様は言われました。

また、親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」と言われました。

自分の心で無疑心とはならない私だから、「聞思して」と親鸞聖人がいわれるの「聞」は、名号のお働きによって無疑心となったことを言います。

お尋ねのことについて、もう一度書きますと「自分で聞く力がないから、南無阿弥陀仏によって聞(無疑心)いて下さい。」それ以外にはないので、日頃そう書いています。特別に深い意味はありません。

2011-03-10 「そのまま」といわれても理性で堂々巡り(メンデルさんのコメント)

「そのまま」といわれても理性で堂々巡り(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)「今日こそは、信じよう、称えよう、いただこう、よろこぼう」の心はすべて計らいであると。でも、知識や理性でものごとを判断しているのが自分なのであって、どんなときも、知識や理性を抜きにすることはできないので、結局自分では計らいは捨てることはできないと思います。そうすると、自分では何もできなくなってしまうのですが、何もせずにいても何も変わらないですし、「そのまま素直に聞くだけ」と言われても何が「そのまま」かと思うとまた理性で結局どうどう巡りです。阿弥陀仏はどうして私を助けてくださらないのでしょう。

また、もし助からないまま死んでしまった場合、阿弥陀仏を疑っている上、念仏も相続して称えることもできない私は化土にもいかれないで六道を廻ることになるのでしょうか。(メンデルさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110309/1299619885#c

阿弥陀仏はどうして助けてくださらないのかと言えば、阿弥陀仏のお働きを自分で計らっているからです。阿弥陀仏は、ただ今メンデルさんを助けようと働いておられます。

理性を抜きにして考えることは、仰るとおり出来ません。自分では捨てることが出来ないので、阿弥陀仏が計らいを破ってくださり、取ってくださるのです。

阿弥陀仏が取り上げて捨て去って下さる計らいを、自分で「そのまま」になって捨てようとしているのが計らいです。

「そのまま」とは、「そのままになる」ことでも、「そのままになろうとする」ことでもありません。自分の手を加えないことです。「そのままになろう」という手を加えないことです。

反対から言えば、常に「そのままになろう」と常に手を加え続けているのが私です。「そのままになろう」の堂々巡りは続きますが、どこまでいっても終わりはありません。

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば

 

大小聖人*1みなながら 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃72・浄土真宗聖典(註釈版)

どれだけ理性や知恵を巡らしても、阿弥陀仏の浄土は「願力成就の報土」ですから、「自力の心行いたらねば」といわれます。阿弥陀仏の願力に依らねば往生できません。龍樹菩薩のような方であっても、自力の心行を捨てて、「如来の弘誓に乗ず」といわれています。

自分の力でどれだけ理性を巡らしても浄土往生は出来ないからこそ、阿弥陀

仏の本願の仰せを聞く以外にありません。

もし助からないまま死んだらどうなるか?については、間違いないと言えるのは、浄土往生はできないということです。

では、どこへ行くのかということについては、一人一人のの行為によって変わるので、私には分かりません。

化土ならば、地獄よりは安心とか、人間界ならまだいいというものではありません。化土も阿弥陀仏が願われている世界ではありませんし、六道はどこであっても生死の世界であることにかわりはありません。地獄に堕ちるなら頑張ろうと思う心もあるかもしれませんが、いづれにしろ、浄土往生できないことが阿弥陀仏にとっては一大事です。

必ずただ今阿弥陀仏は救ってくださいますので、ただ今阿弥陀仏に救われてください。

*1:大小聖人・・「大乗の聖人、小乗の聖人」(異本左訓)

2011-03-07 「自分はまだそこまで行っていないのですが」の「そこ」は「どこ?」

「自分はまだそこまで行っていないのですが」の「そこ」は「どこ?」ですか(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはただ今の救いと聞きますが、どうも自分はまだそこまで行っていないように思いますが、こういう考え方は間違いでしょうか?(頂いた質問)

「まだそこまで行っていない」という考え方は、結論から言いますと間違いです。

しかし、私自身もそのように考えていたので、それについて考えてみます。

まだそこまで行ってないの「そこ」とは「どこ?」

私自身は、「なにか心境の変化が起きる」ことだと思っていました。

具体的にどんなものがあったか、思いつくまま列記してみます。

  • 無常観が強まり、明日をも知れない命だという強い自覚が芽生える。
  • 罪悪観が深くなり、自分の後生はどうなるんだろうかという気持ちになる。
  • 「雑行」が問題になる。(親鸞会用語)
  • 自力の心が、悪い心だと分かるようになる。
  • 念仏を称えずにおれない心境になる。
  • 浄土を願う気持ちが強くなる。
  • なんとしても今日聞き抜かなければならないという強い気持ちが起きてくる。

だいたいこんな心になるというのが、私にとっての「そこ」だったと思います。

こう思うのも「ただ今救われる」とは、なかなか信じられないために「そこ」まで行ってみようと、「救い」を「そこまで行く」にすり替えていたからです。

そうなると、仏法を聞くのも「そこ」へ行くためになる、「ただ今救われる」という阿弥陀仏の本願の心はどこかへ行ってしまいます。

未熟者は救われないとか、上記にあげたような心があるような人間でないと救われないという思いは、阿弥陀仏の本願とはまるで逆の考え方です。

阿弥陀仏は「今は未熟だから救えない」「今はこういう状態だから助けることができない」という仏さまではありません。

阿弥陀仏は、○○な者を選ばれない仏さまです。

不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 (五会法事讃)(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P704.6行目

  • 貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。(行巻訓)

不簡とは、えらばずとよみます。えらばずと、四回繰り返しておられます。

貧しい者、苦しみ困っている人、富のある人をえらばれません。

智慧の浅い人と、広い学問を持つ人をえらばれません。

お聖教を広く大きく聞いている人、戒律を守れる人もえらばれません。

戒律を破り、罪が深く、良い心が少なく、悪い心の多い人もえらばれません。

すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P707.1行目

と言われてます。

どんな人もえらばないことが、阿弥陀仏の本願の元にあります。「不簡(簡ばず)」と四回も重ねて言われてることを、こちらで「そこまで行かねば」というのは、自分で本願を計らっているからです。

「それが弥陀のお計らいだ」と、条件をいろいろと設定するのは間違いです。

必ずただ今救われます。「そこまで行く」のではなく「ここ」で救われます。

2010-12-16 聞法はただ今聞いていること(おしゃまさんのコメント)

聞法はただ今聞いていること(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

救われる「道」はない・・・と言われても、何もしなくてもいいわけではありませんよね?

“聞法する”という「道」はありますよね?(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101201/1291192486#c1292326161

もちろん「『なにもしない』ということをすれば助かる」のではありません。

聞法はとても大事な事ですが、コメントされたエントリーの趣旨からいえば「道」ではありません。聞法の道という「道」があれば、その間を進める人と進めない人が出てくるからです。

時間の流れからいえば、一日一日と日は流れ、今年も残りあとわずかとなりました。仏法を聞き始めてからの時間の経過の視点では、1年間、2年間、10年間とその人その人の道はあります。しかし、それは振り返ってみていうことです。

南無阿弥陀仏は、ただ今私に呼びかけられ、働いておられます。どこか道を進んだところで待っておられるのではありません。「この道を早く進んで来なさい、進んで来れる者は救おう」と誓われた本願でもありません。

「進まねば聞けない」というのは、南無阿弥陀仏を自分とは離れたところに置いている考え方で、自力の計らいです。いつでもどこでもこの私に常に働いて下さる南無阿弥陀仏ですから、ただ今救われます。自分と離れたところにある南無阿弥陀仏ではないと、聞いて下さい。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖目5通)

信心獲得といっても、「道」を進んで何かをつかみ取ることではありません。第18願をこころうることです。それは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだと言われています。南無阿弥陀仏は、道を進めない私のために阿弥陀仏が自らよりそって働いて下さるお働きですから、ただ今疑いなく聞いて救われて下さい。

2010-09-19 不思議な声を聞くのが「聞いた」ではありません(頂いた質問)

不思議な声を聞くのが「聞いた」ではありません(頂いた質問)

親鸞会にいた時は,鳴かぬカラスの声とか片手の音,不思議な声…というように聞いたことがありますが,自分の称えている音声の中に明らかに自分の声とは異なる阿弥陀仏の喚び声として聞こえてくるということでしょうか。(頂いた質問)

「鳴かぬ烏の声」「片手の音」で喩えられるのは、「特別な音が聞こえるのではない」ということです。よって、明らかに違う声が聞こえるということでは有りません。

阿弥陀仏の呼び声が、実際に現れて下さるのが、南無阿弥陀仏です。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀

 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)

という歌があります。

音としては、自分で称えた「南無阿弥陀仏」を自分で聞いているのですが、その南無阿弥陀仏そのものは、「つれてゆくぞの親のよび声」で阿弥陀仏が「ただちに来れ」と呼び続けて下さっている呼び声です。

いわゆるモーゼやジャンヌダルクが聞いたという「神の声」のような声が聞こえるのではありません。幻聴のように「自分はしゃべっていないの誰かの声がする」という声ではありません。声そのものは、「われとなえわれ聞くなれど南無弥陀仏」です。

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(教行信証行巻・註釈版聖典P186・選択本願念仏集の引文

阿弥陀仏が本願で、称名を本願の行とされました。本願に疑いなく南無阿弥陀仏するものは、必ず往生させてみせると誓われています。

ですから、口で称える南無阿弥陀仏は、私が称えようとして称えた音声ではなく、阿弥陀仏の本願の行そのものなのです。それ以外に何か特別に聞こえるものはありません。

「仏願の生起本末を聞いて疑心有ること無し」の、「聞いて」は、称える念仏以外に、法話の場で本願について聞くことや、お聖教の文字であったりしますが、いずれにしろそれ以外の特別な音声が聞こえるのではありません。

大事なのは「特別な音声を聞く」ことではなく、本願を聞いて疑いがあるかないかです。

特別な音声を聞いたか、聞かないかではありません。

2010-03-11 聞いたそのままについて(頂いた質問)

聞いたそのままについて(頂いた質問)

前回のエントリーの補足です。

阿弥陀様にまかせることは私に出来ることなんでしょうか?私の方が先にまかせたいという思いのせいですか?

同じことを何度も何度もお聞きして申し訳ないのですが、「聞いたそのままが、他力の信心です。」の 聞いたそのまま が知りたいです。(頂いた質問)

私が「まかせる」という行為をするということではありません。

私が「まかせた」結果救われるのであれば、前回のエントリーで書いたように、「→」の関係になります。

阿弥陀仏にまかせるとは、私の行為ではなく、阿弥陀仏の願いを聞いたそのままの状態をいいます。

阿弥陀仏のまかせてくれよの仰せの通りになったことを、阿弥陀仏にまかせた(状態)といいます。

「聞いたそのまま」とは、聞いたことに私の計らいを交えないということです。

「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。

「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。(正像末和讃・自然法爾章

阿弥陀仏の救いは、私の計らいを交えないということを、「自然」という言葉で表されています。行者の計らいではなく、自ずからしからしむということです。私がこうなるだろうとか、あのようになるだろうという計らいを超えたもので、本願力だけで救うというものです。

そのまま救うというお助けは、行者のはからいではないということです。私の計らいを付け加えないといけないものではありません。何かを足そうとするものは、捨てものであり、不要なものです。

聞いたそのままとか、聞いたことは、如来の誓いであり、本願ですから私のはからいはそこに入らないと言うことです。

2010-03-09 助けるぞ→助かるぞ ではなく、助けるぞ=助かる です(頂いた質問

助けるぞ→助かるぞ ではなく、助けるぞ=助かる です(頂いた質問)

私は、機無と言いながらも「どうしてもつかもう」、「確信が欲しい」、「阿弥陀仏の勅命がわが心にハッキリと呼び声となってきこえてくださる」と思ってしまいます。

そうでないと安心ができないような気がします。

しかし、「まかせている状態」とよく教えて下さいますが、世間でも、自分には出来ない事をプロの人にお願いして、「まかせてくれ」と言われ、「はい、お願いします。」とまかせて安心することがあります。

阿弥陀佛は「まかせよ」と言い続けておられます。「はい、お願いします。」とならないのはなぜなんでしょう。(頂いた質問)

私にハッキリするものがらは、本来ありません。ハッキリするとか、疑いないというのは、阿弥陀仏の本願の中にあることです。阿弥陀仏の本願がハッキリ分かるような人は、仏でないとわからないことです。

如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(末灯鈔7

といわれるように、弥勒菩薩でもはからうことができないものですから、私の中にハッキリするものがあるはずだと、人間でわかる種類のものではありません。

何にもハッキリしないのかと聞かれれば、疑いない本願を疑いなく聞き入れると言うことです。

「はい、お願いします」と私が言うといっても、私が阿弥陀仏の本願を十分に分かるから「はい、お願いします」とまかせるのではありません。

阿弥陀仏の仰せに対しては、聞いてから→分かりましたというような差がないのです。

仰せがそのまま、聞いたと言うことです。昔から「勅命のほかに領解なし」といわれるのは、その事です。

助けるぞ→分かりました、というような差が有る場合は、私と阿弥陀仏との間に区別があります。

助けるぞが、助かるになるというのは、言葉で書けば「→」と矢印がつく関係になるように思われるかも知れませんが、そうではありません。「助けるぞ」が「助かるぞ」です。記号で表すのは適当ではありませんが、「→」ではなく「=」なのです。

ですから、「はい、わかりました」という返事をすると思うのは「→」です。実際は、「助けるぞ」が「助かる」の「=」なのです。私は返事をしていないといっても、返事はいらないから、「勅命のほかに領解なし」といわれるのです。

ただ今救うが、ただ今助かるです。

2010-03-05 そのままとは、きいたそのまま。補足2

そのままとは、きいたそのまま。補足2

聞いたそのままの、補足エントリーその2です。

他力の信心は、本願を聞いたそのままということについて書いてきましたが、その補足です。

他力の信心は、聞いたそのままということは、別の言葉で言いますと、他力の信心は、そのものがらが私にないということです。私の方になく、南無阿弥陀仏の中にあるということです。

蓮如上人が、「聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と、聖人一流の章に言われています。浄土真宗の教えは、信心が本です。

その信心とは、「信じております」という信心ではありません。一般で言う宗教とは、信じるものがらが私の中にあるのです。他力の信心とは区別する意味で、そういう信心を「確信」とします。自分で間違いないと確信するのは、他力の信心ではありません。

ですから、一般に言う宗教団体は、親鸞会も含めて、「あなたは間違っている」というと「私は間違っていない!」とかたくなになり、自分で確信を固めます

自分は間違いないと、確信をもつということは、第3者からの意見を聞く耳がなくなってしまいます。そうやって自分だけ「これこそ真実」と気分を高揚させていきます。マルクスが宗教はアヘンだとか、毒酒だといったのは、こういったところからきます。自分だけが閉じられた世界のなかで、酒に酔ったようによい気持ちになり、他のことは一切聞かなくなるからです。

しかし、他力信心は、そういう閉じられたものでは有りません。開かれたものが他力の信心です。どうしてかといえば、助かるとか、信心のものがらが私にないからです。

自分の中に閉じ込めた確信は、信心のものがらが自分で所有しているので硬くなります。例えていえば、1億円を鞄に入れて自分の手元に持って暗い夜道を歩くとなると、周りの人に取られるのではないかと疑心暗鬼になり硬くなってしまいます。

信心は、所有化している限りは、どうしても自分でつかんで硬くなります。○○だから間違いないという、○○は、全部私の中の三業であり、確信です。

他力の信心は、信じるものがらが私の中にないので、「これで間違いない!」と確信する必要がないものです。また、壊れないようにと、自分で守る必要もありません。相続も、自分の手元に無いので、自分で相続させようと頑張るものでもありません。

他力信心のものがらは何かと言えば、南無阿弥陀仏です。私の作ったものでも、私の所有できるものでもありません。

「信心獲得」ときくと、信心が所有できるものであるように思いますが、そうではありません。所有できると思うところに、信心のものがらを自分の中に探す心が出てきます。安心が出来た、確信ができた、大丈夫になったなどというのがそれにあたります。仮に見つけたとしても、信心のものがらは、南無阿弥陀仏であって私の確信では有りませんから、みつけたものがらは他力信心ではありません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通・信心獲得

信心獲得は、阿弥陀仏の第十八願を心得ることであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだといわれています。

では、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるとはどういうことかといえば、「自力を捨てて、一心に弥陀をたのむ」ことです。聖人一流の章で言えば「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命」です。自力を捨てるも、一心に弥陀をたのむも別のことではなく同じ事です。

弥陀をたのむとは、南無阿弥陀仏をたのむということです。南無阿弥陀仏にまかせるということです。助かるとか、助からないとか、往生出来るとか出来ないとかは、全部南無阿弥陀仏の受け持ちです。

私の仕事はそこにはないということです。信心のものがらは、私の中にはありません。南無阿弥陀仏を聞いたそのままの、南無阿弥陀仏の中にあります。どれだけ頑張っても私のものにはなりません。

私が聞いて間違いなくなったことが信心ではありません。間違いのない南無阿弥陀仏を聞かせていただくのが先です。聞いたそのままが信心です。

2010-03-04 そのままとは、聞いたそのまま、の補足

そのままとは、聞いたそのまま、の補足

聞いたそのままということについて、前日エントリーの補足です。

聞いたそのままとは、どういう事かについて、蓮如上人の御文章から紹介します。

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。(御文章5帖目14通・上臈下主

聞いてなんとかしようというのは、わが身の罪の深きことをなんとかしようという心ですから、それはうち捨てよといわれています。弥陀にまかせて、「ただ一心に阿弥陀如来後生助けたまえ」とたのむとは、阿弥陀仏にお願いすることではありません。阿弥陀仏に向かって、「そのまま救う」というなら助けて下さいと請求することではありません。

「助けたまえ」とは、請求ではなく許諾といわれます。許諾とは、相手の願いを受け入れることをいいます。

阿弥陀仏が、「そのまま救う」「助けさせて下さい」という願いを私に言われていることにまかせることをいいます。

私が請求することではありませんから、私が真剣になるとか、ならないということではありません。そのことを親鸞聖人は、自然法爾の章でいわれています。

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからせてあひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すとぞききて候ふ。(正像末和讃・自然法爾章

阿弥陀仏の本願が、最初から私のはからいによるものではなく、南無阿弥陀仏とたのませて、といわれています。

この「南無阿弥陀仏とたのませて」ということを、蓮如上人は「弥陀をたのむ」といわれています。南無阿弥陀仏はただ今救うの弥陀の仰せですから、南無阿弥陀仏とたのむとは、ただ今救うの仰せのままということです。聞いたそのままということです。

南無阿弥陀仏の仰せのままに、私を救って下さると阿弥陀仏が計らって下さるのですから、私がよい事を思うとか、悪いことを思うとか関係ないことを、阿弥陀仏の救いであると法然上人からお聞きしたと言われています。

私がお願いした結果でも、私が聞いて何か工夫をした結果もでもありませんので、お軽同行が言われたように、「聞くより先のお助け」となります。

ただ今、阿弥陀仏のただ今救うの仰せを聞いたそのままのほかに、信心は有りません。

2010-03-03 そのままとは、聞いたそのままということ(頂いた質問)

そのままとは、聞いたそのままということ(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、そのままと聞くと「このままで何もしなくてよいのだろうか?」と思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはそのままの救いですよという言葉はよく聞く言い方です。

この「そのまま」というのは、二通りの意味で解説することができます。

  1. 貴方はそのままで救われる。(煩悩具足の凡夫は変わらない)
  2. 聞いたそのままが救いである。

1、貴方はそのままで救われる。(煩悩具足の凡夫は変わらない)について

そのままと聞いたときに、どうしても「私がそのまま」というように聞いてしまいます。もちろん救いのものがらは、私の中にあるわけではなく、南無阿弥陀仏の中にあるのですから、私の三業に何か善根を付け足したり、悪業を減らしたりしなければならないのではありません。

善人になって救われるのでもなければ、悪がより知らされて救われるのでも有りません。そうでなければ、ただ今救われることはありません。

しかし、お尋ねのことについて大事なのは2の方だとおもいます。

2、聞いたそのままが救いである。

「直ちに来たれ」が、阿弥陀仏のよび声であり、南無阿弥陀仏のお働きです。

その名号を聞いたそのままが救いになることを、聞即信といいます。

「直ちに来たれ」「そのまま救う」が、「私の救い」になるということです。「助ける」の仰せが、そのまま「助かる」になることです。

聞いたことが、そのまま信心になるので、聞即信といいますが、その「聞」については、親鸞聖人が、

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり(一念多念聞意)

といわれています。阿弥陀仏の本願を聞いて疑心が無いのが、聞ということです。

「直ちに来たれ」を聞いたそのままが、聞ということです。

聞いたそのままの聞ということで、これを「如実の聞」といいます。

「聞其名号信心歓喜」と本願成就文にいわれた「聞」は、この「如実の聞」です。

私は本願は何度も聞いていますが、阿弥陀仏の呼び声が聞けませんといわれる方の「何度も聞いている・聞」は、この「如実の聞」ではなく、「不如実の聞」だからです。

不如実の聞とは、どんな聞かといえば、二十願にあるような「聞」です。

聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国

わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん(二十願)

20願でも「わが名号を聞きて」と有りますから、18願成就文に「その名号を聞きて」とあるように「名号を聞いて」いるのは同じです。しかし、20願でいわれる「聞」は、名号を自分の功徳の本にして、自分で称えてその功徳を阿弥陀仏に回向しないと助からないと聞き誤っているので不如実の聞といわれます。

名号を「そのまま救う」と読み替えるとこうなります。

「そのまま救う」と聞いて、「そのまま救う」と私はちゃんと聞きましたよ、わかりましたよと理解を加えて阿弥陀仏に差し向ければ、阿弥陀仏がOKの返事を下さると聞いているということです。「そのまま救う」を聞いたそのままに聞いていないので、これを不如実の聞といいます。

「そのまま救う」をわかろうとするのは、「分かろう」「知ろう」と南無阿弥陀仏に手を加え、手を出しているのです。20願で言えば、私から阿弥陀仏に至心廻向している姿です。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏から回向されるものであって、私から回向した結果さらに返事として頂けるものではないのです。

例えていえば、向こうから押して開けて頂くドア(こちらから見れば引いて開く)を、こちから一生懸命押しているようなものです。押して開かない構造のドアを一生懸命押しても、どれだけ押してもそれは絶対に開きません。硬くなるばかりで、絶対に開きません。

微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(教行信証化土巻)

と化土巻に言われたのはこのことです。

厳しく聞き間違いを戒められています。

「そのまま救う」と聞いた本願を、聞いたそのままが信心です。聞いて分かったのが信心ではありません。聞いたそのままにしないのが、自力の心といわれるものです。それは捨てものです。阿弥陀仏から私へ私へと回向される南無阿弥陀仏を、私から阿弥陀仏へと聞き誤るのですから、私から阿弥陀仏へという心は捨てよといわれ、私へ私へと回向される南無阿弥陀仏をたのめと言われるのです。

「弥陀の呼び声」を聞いていないのではなく、聞いているけど聞き誤っているのが「不如実の聞」です。

聞いたそのままが、阿弥陀仏の救いですから、自力は捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2010-02-25 そのままになろうとするのは、そのままではありません(頂いた質問)

そのままになろうとするのは、そのままではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞くと、そのまま何もしなくてよいように思ってしまいます。それでは違うようにも思うのですが、どういうことでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはそのままの救いですが、何にもしなくてよいんだと座り込むのは、横着になってしまいます。やりたい放題なんでもしておれば救われるということでは、そのままではなく、わがままになります。

「そのまま」というのは、「聞いたそのまま」ということです。

聞いたそのままと言うことは、私の側で判断をあれこれつけない救いだということです。

仏法の話をきいて「これで大丈夫」とか「これで安心」と思う判断をつけると、その判断を加えることによって、「そのまま」ではなくなってしまいます。

「○○」【だから大丈夫】「○○」【で安心】「○○」【だからダメだ】

上記の【だから大丈夫】、【で安心】というのが、付け加えた判断ということになります。その判断が、自分自身のたよりになるので、往生するかどうかを、自分の側で全部囲い込んでしまいます。

言葉は違っても、「○○」【だから大丈夫】も「○○」【だからダメだ】は、自分の判断が基準になるので、それではあてになりません。

助かる働きは、全部南無阿弥陀仏の中にあるので、私の判断が加わる必要もありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通

阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに、「貴方を仏にさせることができなければ、私も仏のさとりをとりません。と誓われた、その本願が成就した姿が、南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が、私の往生が定まった証拠です。だから、信心獲得するといっても、ただこの南無阿弥陀仏のおはたらきであるということです。

南無阿弥陀仏に、「私が聞いた」「これで大丈夫」を加えて、往生が定まるのではありません。

往生定まった法である南無阿弥陀仏を、聞かせていただくということです。それが、「聞いたそのまま」ということです。

「聞いて間違いない」という私の判断が間違いないのではありません。聞こえて下さる南無阿弥陀仏が間違いないのです。

「そのままになろう」とするのではなく、「そのままの法」を聞くのです。

「そのままになろう」とすると、聞いたそのままにはなりません。そのままになろうと肩に力をいれるのは、ちょっと横に置いて、そのまま救うの南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

2010-02-18 聴聞とは、無名無実に聞くことではありません(MMAさんのコメント

聴聞とは、無名無実に聞くことではありません(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

 いつも教えて戴いているように現在救われようという気持ちでやっております。これは皆、視覚での行ですが、聴聞に極まるとか聴聞が大事と聞くとやはり聴覚での行が大切なのかと思ってしまいます。(それじゃ、耳の聞こえない人はどうなるんだという疑問も出てきますが)(MMAさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100214/1266098661#c1266227026

聴聞に極まると言われたのは、何を聞くかと言えば、「聞其名号」と、南無阿弥陀仏を聞くことを言います。

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。(御文章1帖目15通・宗名当流世間

ただ無名無実に聞くのではありませんと言われているのは、実質のともなわないことではないということです。実質のともなわないというのは、必ず救うという南無阿弥陀仏のとおりに救われないということです。

聞其名号とは、南無阿弥陀仏の通りに救われる事をいいます。

ですから、目で文字を読んでも、耳で聞いても、それが「無名無実」では、見ていない、聞いていないと言うことです。

南無阿弥陀仏は「文字」でもないですし、「音」でもありません。阿弥陀仏の私を助けようという願力のお働きそのものなのです。ですから、耳に音声で聞こえるとか、視覚情報で入ってくるものでもなく、私へ私へと働いて下される南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏の名号をたのめば、必ず阿弥陀仏が助けて下されるようになっております。聞きなさいとは、たのめということです。聴覚や視覚のことではありません。

2010-01-23 努力の前に救われるのが大事(頂いた質問)

努力の前に救われるのが大事(頂いた質問)

救われる為に「何かしなければ」と考えるのは間違いと聞きましたが、果たして無努力で良いのだろうか、との疑問が起きてきます。怠け者ながら、何らかの実践項目を教えてもらいたい気持ちがあります。(頂いた質問)

私が阿弥陀仏の浄土に往生する働きは、すべて阿弥陀仏がなされることであって、私が「何かをする」という部分はありません。

ただ、「無努力」と、弥陀をたのむ、または、弥陀まかせは違います。

「努力しないように」努力すれば、それも努力にはいります。

何をしたらよいのですかという問いに対しては、阿弥陀仏の本願を聞いて下さいというのが答えです。

聞くというのは、阿弥陀仏の本願に救われる事です。

阿弥陀仏は、私の努力を求めてはおられません。私が阿弥陀仏に救われる事を願われています。

これについては、追記をまた書きます。

2009-12-18 後生が気にかかるかどうかは、気にかけなくてもよいことです(頂いた

後生が気にかかるかどうかは、気にかけなくてもよいことです(頂いた質問)

いろいろなお聖教や仏教書を読んでいますが、自分の後生はなかなか気になりません。

煩悩にいつも振り回されて、阿弥陀様の声が聞こえません(頂いた質問)

お聖教や、仏教書に書かれてあることは、後生を気にせよということではありません。阿弥陀仏に救われなさいということです。

されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。(御文章5帖目9通・安心の一義

他力の信心をうるといっても、これは全て南無阿弥陀仏の六字のこころです。一切のお聖教といっても、南無阿弥陀仏の六字を信じさせ、阿弥陀仏に救われる為に書かれたものです。

後生に驚きを立たせるものでもなければ、日頃煩悩に振り回されている自分を落ち着かせてくれる、精神安定剤というか煩悩抑制装置ではありません。

こんな煩悩に振り回されていては、阿弥陀仏の声を聞くことはできないと思われる気持ちはよくわかります。しかし、「煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」でありますから、煩悩が燃えさかっているから助からないということではありません。

火事場で救助されるひとが、この火を自分で消してから助けてもらおうと思わないのと同じで、煩悩の火を自分で消して助かるのではありません。

お聖教には南無阿弥陀仏の六字のこころが教えられています。

南無阿弥陀仏の六字のこころとは、上記の御文章の前にはこう教えられています。

これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。(御文章5帖目9通・安心の一義)

往生に関してはすべて南無阿弥陀仏のお働きです。南無とたのむ者を阿弥陀仏が助けるという道理ですから、南無阿弥陀仏というお姿が、私たちが平等に助かる姿なのです。

阿弥陀仏の声とは、阿弥陀仏の私を助けるという名のりですから、南無阿弥陀仏の事です。私を助けようと働きかけておられますから、私の煩悩や後生がどれほど心にかかっているかという自分の心の状態によらず、平等に救われるのです。

昨日から私の住むところでは、雪がつもりはじめました。積雪が10センチを越え、20センチを越えると、どんな庭も真っ白です。人の手が入らず荒れ果てた空き家の庭にも、しっかり手入れのされた庭にも雪は平等に降り積もります。

荒れ果てた庭には雪が積もらないからと、いろいろな石をどけたり、草を抜いたり、花を植える人はありません。

降り積もる雪が降る場所に差別がないように、阿弥陀仏の救いはどんな人も差別をされません。自分の心の庭を気にかけるより、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて下さい。

2009-11-24 本願を聞くとは、本願に救われること(頂いた質問)

本願を聞くとは、本願に救われること(頂いた質問)

知識の言葉を通してしか、阿弥陀仏の御心を聞かせていただくことはできないのだから、阿弥陀仏の本願を聞いて救われるには、やはり知識の言葉を真剣に聞くよりほかにないのではないでしょうか?(頂いた質問)

回答します。

阿弥陀仏の本願を聞いて下さいというのは、「仏法は聴聞に極まる」の通りで、阿弥陀仏の救いは「聞其名号」して救われる教えです。

そこで「聞く」というのは、「何かを聞く」というイメージがどうしても強いのですが、意味から言えば「救われる」ということです。

「何かを聞く」と考えると、静かな部屋で耳をじっと澄ませていれば聞こえてくるように思われますが、そうではありません。

「聞け」というのは、阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の喚び声を聞くのであって、別の言い方で言いますと、「阿弥陀仏の直ちに来たれ」の仰せの通りに救われることです。

では、知識の言葉は何かと言えば、二河白道の譬えの東の岸に立つ人はどう言っているかと言いますと、

東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。(教行信証信巻より

ただこの道(南無阿弥陀仏の白道)を行きなさい。必ず死の難はないし、止まっていれば死んでしまうぞと、東の岸の人は勧めます。

善知識の言葉といっても、それは「阿弥陀仏の本願そのもの」ではなく、「阿弥陀仏に救われなさい」と言っているに過ぎません。そのことから言えば、どれだけ知識の「言葉そのもの」をどれだけ聞いても、それは聞いたことにはなりません。

「ただ決定してこの道を尋ねて行け」と聞けば、それは知識の言葉を良く聞けということにはなりません。直ちに阿弥陀仏に救われなさいということです。

阿弥陀仏の呼ぶ声を聞きなさい、阿弥陀仏の直ちに救うという本願を聞けということです。阿弥陀仏に救われなさいということです。

雲をつかむようなものを聞くのではなく、実際に阿弥陀仏に救われなさいということなのです。どんな善知識方も、私の話を聞きなさいとはいわれません、本願を聞きなさいと勧められます。

阿弥陀仏を疑うから知識の言葉に縋るのです。

「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」すがるべきは阿弥陀仏ですから、阿弥陀仏に向かって阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-11-14 阿弥陀仏が回向されるのは切実な心ではありません(頂いた質問

阿弥陀仏が回向されるのは切実な心ではありません(頂いた質問)

「たのむ人を助ける」という事ですが、たのむ心のない人はどうしようもないという事でしょうか?

助かりたいという心もないような人が、どうして助かるでしょうか?

助かりたいという切実な心を起こして下さるという事でしょうか?(頂いた質問)

回答します。

たのむ心のない私たちだから、たのむ心は阿弥陀仏があたえてくださるものです。

一 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。(御一代記聞書

親鸞聖人のご和讃に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」というのは、阿弥陀仏の方から、たのむこころも、尊く有り難いと念仏するこころも、みな与えてくださるから、こうしたらああしたらと計らって念仏称えるのは、自力であるから嫌われるのだと仰いました。

どうしたら救われるのだろうかという「切実な心」は、自分でこしらえないと救われないというものではありません。そういう心がなければならないというのは、信心をつかもうとする心ですし、そうできると思う心です。

「切実な心」や「燃え立つ心」がないから、自分は助からないと思われる方もありますが、そうではありません。「切実な心」や「燃え立つ心」を回向すると阿弥陀仏はいわれていません。「真実信心の称名は 弥陀回向の法」と言われるように、阿弥陀仏をたのむ心、念仏申す心を差し向けてくださるのです。

まずは「切実な心を与えてから」その次に○○を与えて、というような、小出しにされる阿弥陀仏ではありません。南無阿弥陀仏をそのまま与えようとされるので、大慈悲心なのです。

阿弥陀仏の大慈悲によって、回向される南無阿弥陀仏に救われるか救われないかであって、切実な心になるかならないかではありません。

ただ今阿弥陀仏に救われますから、ただ今救われて下さい。

2009-10-12 正しく理解することと、救いについて(maryさんのコメント)

正しく理解することと、救いについて(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

あてにならない自分の心を頼りにして生きているから、不安なのだと思います。

本願を聞いて、その文面どうりに受け取れなくて、自分の思いで本願を理解していますが、その間違った思いを正して、本願通りに理解できたならば、救われるでしょうか?

正しく理解すること、と救いは どんな関係でしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091007/1254879629#c1255084730

 

回答します。

本願通りに理解できたら救われるのではありません。

また、正しく理解することによって、救われるのでもありません。

正しく理解をしないと救われないと言うことになると、仏教の学問をしない者は救われないということになります。御文章で言えば、5帖目2通・八万の法蔵には、「本願を信じる」ことが大事であると教えられています。

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。されば聖人(親鸞)の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。(御文章5帖目2通

ここで仏教の教義を正しく理解している人を、八万の法蔵を知るといわれています。ここで後世を知らなければ愚者といわれる、「後世」とは、その後半にいわれている「一念の信心のいはれ」です。

決して、後生がわかった、わからない、ということでもなければ、後生がわかるために、まず善をしましょうとかいうことでもありません。一念の信心のいわれを知りなさいということです。

ですから、御文章の中に親鸞聖人のお言葉として、「すべてのひとは、弥陀の本願を信じなければ(一念の信心のいわれを知らなければ)、決してたすかると言うことはない」と言われています。

では、「一念の信心のいわれを知る」ことが、イコール正しく理解することなのかと思われると思いますが、それは違います。「一念の信心のいわれ」は、凡夫の頭で「理解」はできないものです。「不可思議の信楽」でありますから、私の頭で理解できるものではありません。

違った理解を正すと言うことで言えば、「理解すれば助かる」という思いを捨てて、阿弥陀仏の御心を知ると言うことです。別の言い方をすれば「正しく理解できない者でも救う本願である」ということです、「疑い深い者でも救う本願である」と、知ることです。

ただ今救うと言うことは、正しく理解できたら救うのでもなく、疑い深い者が素直な者にして救うということではありません。「こんな者は助からないだろう」という者が救われるのです。

2009-09-27 名号を聞くとはどういうことか(maryさんのコメント)

名号を聞くとはどういうことか(maryさんのコメント)

前回のエントリーの続きです。

関連して、maryさんからもコメントを頂きました。

Kさんが24日に回答してもらった質問は、私もお尋ねしたかった内容そのものでしたので、質問して下さいましてありがとうございました。

結局、「名号を受け取りなさい」ということだと思うのですが、どうやって受け取ればいいのか、名号を聞くとはどういう状態か、どういう事なのか、よくわかりません。

目にも見えず、形のないものをどうやって受け取ればいいのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253968720

回答します。

「助かるか助からないかが問題」とは、コメントに書かれたように、「名号を受け取るかどうか」ということです。

そこで、「どうやって受け取ればよいのか」と問題になると思います。

方法、手段ということは、私たちで用意することならば、自力回向ということになるので、今回は、名号を聞くとはどういう事かについて書きます。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)

阿弥陀仏が私をどんなものと見て、どのような本願を建てられ、その結果どのような名号を完成されたかということを聞くことであり、南無阿弥陀仏を頂いて疑心がないのが聞くということだといわれています。

受け取るという言い方についてお尋ねでしたので、別の言い方をすると、南無阿弥陀仏という救いの働きによって救われることです。

南無阿弥陀仏によって救われたこと、真実信心を獲得したことを聞いたといいます。

2009-09-26 考えるとは何を考えるのか?(Kさんのコメント)

考えるとは何を考えるのか?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏は私を助けることができるのかできないのか」ということを考えるのでしょうか?

「唯除五逆罪誹謗正法」だから自分は除かれているのかということでしょうか。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253929065

回答します。

自分自身が信心獲得をする際に、方法手段を考えるのか、救いそのものをもとめるのかという問題です。

「聞思して遅慮することなかれ」(教行信証総序)

と親鸞聖人がいわれるように、いろいろと考えている間に無常を迎えていてはなりませんが、真実信心を求める上で考えるということはとても大事なことです。

阿弥陀仏は私を助けることができるのかできないのか」については、法の能力についてあれこれ考えるということではありません。

私からいえば、助かるか助からないかということです。

「唯除五逆罪誹謗正法」についても、自分が謗法を造っているかいないかによって、除かれるか除かれないかも変わります。自分は実際どうなのかということが大事です。

本日のエントリーについては、明日、続き*1を書きますのでよろしくお願いいたします。

2009-09-23 聴聞とは何を聞くことなのか?(頂いた質問)

聴聞とは何を聞くことなのか?(頂いた質問)

しばらく更新が滞っておりました。

聴聞が大事と聞きますが、何を聞いたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

回答します。

仏法を真剣に聞くことはとても大事な事です。しかし、真剣に聞くと聞いても、とにかく覚えるほど集中して聞けばよいのかと思われるかも知れません。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)

親鸞聖人は、「聞」というのは、阿弥陀仏がどういうことで本願を建てられ、どのように私たちを救われるようになったのかを聞いて疑心有ること無いことだといわれます。

すく

そう聞くと、「仏願の生起本末」という演題の説法を聞くことかというと、そうではありません。

もう少し具体的にいうと、阿弥陀仏の御心を聞くということです。

私たちは、真実信心を求める立場で、自分のことを出発点にどうしても物事を考えてしまいます。

例えば、「どういう心になったら救われるのか」

「もっと真剣にならねば救われないのではないか」

「なにか大きな心境の変化が起きなければ救われないのではないか」などです。

いずれも、「私が」こうなったら救われるという話です。または、「私が」こういう手段を講じたら救われるという、手段についての話です。

阿弥陀仏の本願は、短い言葉で言えば「私を助ける」為の本願です。助ける阿弥陀仏の立場からいえば、「助けられるか、助けられないか」が最も大事な問題になります。

「私中心」ではなく、救う阿弥陀仏の立場から、阿弥陀仏の御心を聞くということが、「仏願の生起本末を聞く」ということです。

私中心で、阿弥陀仏の本願に向かいますと、どうしても「では、どのようになったら(何をしたら)助けて下さるのか」という手段が問題になります。

しかし、助ける阿弥陀仏の立場でいえば、私がどういう手段を講じているかといことは問題ではなく、私を助けられるか、助けられないかという本来の目的が果たせるかどうかが問題になります。

「助けられるかどうか」が問題になる阿弥陀仏に対して、手段を問題にする私では、心が一つにならないのです。一心にならないということです。

「利他の信楽うるひとは、願に相応するゆえに」と親鸞聖人もいわれるように、阿弥陀仏の本願に救われる私からいえば、願に相応することが大事なのです。

「どういうようになったら阿弥陀仏は助けて下さるのか」という手段が問題の自分中心の考えを捨てて、「助けられるか助けられないか」という阿弥陀仏の本願の御心の立場で、阿弥陀仏の願心を聞くということが、「仏願の生起本末を聞く」ということです。

「どうなったら助かるか」ではなく、「助かるか助からないか」を問題にするということなのです。

聞くとは、「聞其名号」と阿弥陀仏の作られた名号を受け取るということです。ただ今阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜るかどうかが問題です。それが聴聞ということです。

ただ今、南無阿弥陀仏を聞いて救われて下さい。

2009-09-07 ただ今救われなさいが、釈尊、親鸞聖人の勧めです(Kさんのコメント

ただ今救われなさいが、釈尊、親鸞聖人の勧めです(Kさんのコメント)

この安心問答について親鸞会講師の方から

「あれは、善巧方便ということが分かっていない人の書いた文章」だと言われました。

善巧方便とはどういうことか教えていただきたく思います。よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252248830

回答します。前回のエントリー*1のコメントです。

善巧方便とは、仏様が、巧みに善くてだて(方便)をめぐらして衆生を利益することをいいます。

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。(教行信証信巻)

釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し

われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃)

真実信心を獲得させていただけるのは、阿弥陀仏、お釈迦様の善巧方便があったからだといわれています。

親鸞会講師の方が、どのように前回のエントリーをよまれて「善巧方便がわかっていない」といったのかは、このコメントだけではハッキリとはわかりません。

以下は、私の予測として書きます。違っていたら、またコメントをいただければ有り難く思います。

親鸞会講師のいう善巧方便とは、「全力で参詣せよ」ということだと思います。

全力で参詣していけば、そのうち知らされることがあり、やがて救われるということを言っているのだと思います。

また「全力で善をせよ」「善をすれば何かが知らされて救われる」ということなのだと思います。

全力で参詣する前に、何を聞くのかが大事ではないでしょうか?と前回のエントリーでは書きました。

足を運ぶのは、「仏の御名を聞く」ことであり、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜り、ただ今弥陀に救われることなのです。

参考までに、親鸞会では何を聞けと言っているのかということを、親鸞会公式サイトから引用します。ブログで指摘されて一部訂正されてた後なので、親鸞会内ではこれが正式な見解ということだと理解します。

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。

 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。

「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)

「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。

「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。

 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。(以下略)

 (聞法の決勝点

仏願の生起本末を聞けという親鸞聖人のお言葉を出して有りますが、全文を見ても、「生起」はあっても「本末」はどこにも書かれていません。

文末にはこう結んであります。

「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」

「自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す」と機の深信が立つと同時に、その逆謗を生かす「若不生者」の誓いに疑いが晴れるのだ。

 そこまで聞き抜け、と聖人は仰せなのである。(同上) 

聞法の決勝点

要約しますと、「絶対助からぬ自分と知れ、そうしたら助かる」ということです。

または「自己の姿を徹底して見つめなさい、そうしたら助かる」ということです。

「助かる縁の無いもの」と見抜いて本願を建てられたのは、仏願の「生起」です。では、どうしたら、救うことができるのかと、五劫思惟され、兆載永劫のご修行をされて、与える一つで往生させる南無阿弥陀仏を完成されたというのが「本末」です。


「苦しくなければ求道ではない」?

「とにかく参詣せよ」といわれ、「助からない私」とひたすら聞くのが、親鸞会講師の方がいう、善巧方便のようです。聞けば聞くほど、ある意味苦しくなるので「これが求道」と思われるのでしょうか。

「求道は苦しくなければならない、苦しくなければ求道とは言えない」という固定観念が有るようです。

おそらく、「無理をしなければ財施にならない」という親鸞会内で繰り返しつかわれるフレーズから連想しているのだと思います。しかし、その連想から、肉体的精神的に苦しめば苦しむほどよいというように思う人も出てきます。指導する方も、「それが善巧方便」と思って勧めているのでしょうか?

「助からぬ自己を知るために、全力で富山に足を運び、精一杯財施をし、倒れるまで活動するように勧める」のが、善巧方便なのでしょうか?

その勧め通りに実行し、実際に肉体的精神的に倒れていく会員に対しては「縁がなかった」ですませてよいのでしょうか?そして、「倒れた法友の屍を乗り越えて行け」と勧めるのが善巧方便なのでしょうか?

釈尊、親鸞聖人の教えからいって、それが善巧方便ではありません。

求道はある意味苦しいものです。楽して求められる真実信心ではありません。

しかし、苦しくなければ求道ではないというのは間違いです。獲信するのが求道です。

聞法とは、「ただ今救う本願を、ただ今救うと聞く」ことです。「助からない自分だと知るために聞く」のではありません。

善巧方便といわれるのなら、阿弥陀仏は「そのまま来たれ」といわれ、お釈迦様は「阿弥陀仏に向かえ」と勧めておられます。「助からぬ自分と知れ」とは、勧めておられません。

救う法を聞くことがないから、「聞いていればいつか、助かる縁の無いものと知らされると同時に救われるのだ」と思うしかないのかも知れません。

「雑行をすてて、弥陀をたのめ」と繰り返し書かれている御文章をよくよく拝読されたらよいのではないかと思います。

ただ今救われる本願ですから、ただ今救われなさいと、釈尊、親鸞聖人は勧めておられます。

2009-08-31 「わが心にまかせずして心を責めよ」(御一代記聞書)とは?(カウフ

「わが心にまかせずして心を責めよ」(御一代記聞書)とは?(カウフマンさんのコメント)

カウフマンさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「わがこころにまかせずして、こころをせめよ。仏法はこころのつまるものかとおもえば、信心に御なぐさみ候う」と、おおせられそうろう。

と蓮如上人御一代記聞書にありますが、ここで「こころをせめ」るのは阿弥陀仏であると理解して宜しいでしょうか?

 この言葉を知った当初は「楽がしたいという自分の心にまかせないで、仏法の説かれる場所に足を運んで無常と罪悪を問い詰めなさい」というように理解しておりました。

 しかし、どんなに心を責めようとしても、自力の押し任せのようにしか思えません。(カウフマンさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090829/1251549586#c1251590813

回答します。

一、わが心にまかせずして心を責めよ、仏法は心のつまるものかとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。(御一代記聞書47)

本当のところをいえば「こころをせめる」のは、阿弥陀仏です。

「こころをせめる」の「こころ」は自力の心ですから、自力の心を、晴らそうと責められるのは阿弥陀仏だからです。

しかし、自力で自力をすてようと頑張っているようにしか、自覚はできませんから、カウフマンさんのいわれるように自力で自力の押し任せのように感じられると思います。

このお言葉の意味は、カウフマンさんがいわれるように、自分で自分の罪悪を責めるということではありません。

「こころのつまる」というのは、自力で自力は捨てられず、とはいっても、自力がすたらねば救われずという、逃げ場のない心境を表されたものです。

とはいっても、自力で自力はすてられず、とそのままにするのは、そのままのお助けの聞き間違いです。そう思うのがは、「わがこころにまかせる」ということです。自力を捨てずに他力になることはありません。

「自力を捨てて、一心に弥陀に帰命せよ」との教えのとおり、自力を捨てて、阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

2009-08-29 「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)

「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)

メールで頂いた質問に答えます。

「聞いても他の人のように正確に覚えていないんです。だから、私のような者は、聞きに行ってもどれだけ意味があるのかわかりません」と、ある人に打ち明けたところ

「だから、蓮如上人は「そのカゴを水につけよ」と仰せです。私たちの心はザルのように水をすくったと思ったら、すぐに抜けてしまう。だから、常に聴聞の場に身を運ぶことが大事なのです。」

と言われました。

蓮如上人の御一代記聞書にあるお言葉を読んでも、毎回参詣せよというようには書かれていないと思うのですが、どういう意味なのでしょうか?

(頂いた質問)

回答します。

結論からいいますと、コメントにでてくる御一代記聞書のお言葉は、「参詣せよ」ではなく、「信心決定せよ」との仰せです。

コメントに出てくる御一代記聞書のお言葉です。

一、人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。

(御一代記聞書88)

(大意)

ある人が、「私の心はカゴに水を入れるようなものです。法座に参詣しているときは有り難く、尊い法だと思うのですが、すぐに元の心にもどってしまいます」と心中を告白しました。

蓮如上人は、それに対して

「そのカゴを水につけなさい。わが身が南無阿弥陀仏の大宝海に入るのだ。すべて、真実信心がないことからおきることである。善知識が悪いというのは、信心がないことであり、信心のないことはけしからぬこと」と仰いました。


籠を水につけよ=信心決定せよ

ある人は、自分の心をカゴ(今で言えばザル)に例えて、カゴに水を入れるようにどれだけ水を注いでも、すこしもカゴに残らないように、どれだけ仏法を聞いても有り難い心が残りませんと訴えています。

私が今までお会いした方でも、「聞いても頭に残らないから、ダメです」とか、「若い人のように正確に覚えられないから、助からないと思います」と言われる方がありました。これもカゴに水を入れているのと同じ事です。

それに対して蓮如上人が仰った「そのカゴを水につけよ」というのは、常に法座に参詣しろと言うことではありません。環境を常に仏法に関係するところに身を置けと言うことでもありません。

別の言葉で言えば「常に念仏申す身になれ」、つまり「信心決定せよ」ということです。

カゴで水がすくえないように、私の心で、南無阿弥陀仏をとらえようとしても、とらえられるモノが私の心にはありません。だから、蓮如上人は「カゴを水につけよ」という表現でいわれました。

その直後に「万事信なきによりてわろきなり」だから、信を取れといわれています。

御一代記聞書では、ある人が「有り難く尊く思う心が続かない」といいます。

信心とは、私の心が有り難くなるではありません。私の心が尊くなるのでもありません。カゴを水につけても、カゴはカゴでなにも変化はしません。

何が変わったかと言えば、「水につけた」だけです。「水につけよ」という表現は、正信偈の以下の部分から言われているのだと思います。

帰入功徳大宝海(正信偈)

(功徳の大宝海に帰入すれば)

南無阿弥陀仏のことを、功徳の大宝海ともいわれています。そこに帰入するのだと親鸞聖人はいわれています。

覚えられないというのは、聞いて頭の中にいれた法をつなぎ合わせて南無阿弥陀仏をつくろうとしているのです。そんな合成南無阿弥陀仏では、往生はできません。

活動や、環境を仏法漬けにすればよいと思う人は、絶えず水をザルに流しているようなものです。流れてはいても、ぬけていくのは同じなので、水につけたことにはなりません。

尊く思う心は、信心獲得すれば、南無阿弥陀仏から起きるものです。私が作り上げるものではありません。

「急に救われるわけはないのだから、まずは環境から」というのは、私の理屈で、阿弥陀仏はただ今救うといわれています。

ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-07-08 聞とはなにか?(orimaさんのコメント)

聞とはなにか?(orimaさんのコメント)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを聞と曰うなり。

のお言葉について教えて頂けませんでしょうか。(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090703/1246622910#c1246921974

回答します。

大無量寿経・下巻の本願成就文にある「聞其名号信心歓喜乃至一念」の「聞」について、親鸞聖人が教行信証信巻に書かれたお言葉ついてのお尋ねです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。

「聞」とは、仏願の生起(阿弥陀仏が本願をなぜ起こされたのか)本末(その本願が成就されたこと)を聞いて、疑心有ることなしというのこと、これが「聞」であるといわれています。

聞くというのは、どういうことかについて親鸞聖人が教えておられます。「疑心有ることなし」というのが「聞」なのだといわれています。

仏法の話を聞かれれば、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのか、どのようにして名号を成就されたのかということを、聞かれることがあると思います。

ここでいわれる「聞」とは、聞いてきたということではありません。

蓮如上人は御文章にこのように言われています。

されば『経』には『聞其名号・信心歓喜』と説けり。『其の名号を聞く』といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実に聞くにあらず、善知識にあいてその教を受けて、この南無阿弥陀仏の名号を、南無とたのめば必ず阿弥陀仏の助けたまうという道理なり。これを『経』に『信心歓喜』と説かれたり。(御文章1帖目15通・宗名当流世間)

「その名号を聞く」とは、南無阿弥陀仏の名号をただ聞くと言うことではなく、善知識にあいその教えを受けて、南無阿弥陀仏の名号をたのむ一念で阿弥陀仏が助けて下されることなのだといわれています。疑いなく、南無阿弥陀仏の名号を頂くことを言われています。

南無阿弥陀仏の名号を聞く、頂くままが信心ですから、信心決定の姿なのです。

親鸞聖人のお言葉も、「聞」とはどういうことか、南無阿弥陀仏の名号を頂いて疑心のない姿になったことだということです。御文章に書かれているように、それを「信心歓喜」といいます。

阿弥陀仏より南無阿弥陀仏の名号を受け取る一つですくわれるのですから、私がこうやって聞いたからとか、こう思ったから、こう思わねばならないということではありません。

往生の業にはわたくしのはからいはあるまじく候なり(末灯鈔)

と言われるとおりです。

ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-06-18 心が戸惑うのは、悪いことではありません(きらりさんのコメントより

心が戸惑うのは、悪いことではありません(きらりさんのコメントより)

きらりさんのコメントに、コメントをしようと思いましたが、少し長くなりましたのでエントリーに変えます。

私も続けて見てしまうと、心が戸惑いそうなので、これで最後にします。(きらりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547585#c1245297516

「心が戸惑いそう」というのは、「心が戸惑うのが悪いこと」だということでしょうか?

親鸞聖人が京都にもどられた晩年、関東に派遣されていた長男の善鸞(慈信坊)が教えを曲げたことによって、関東の同行の信心が揺らいだことがありました。そのことを親鸞聖人は喜ばれています。

慈信坊が申すことによりて、人々の日頃の信のたじろきおうて在しまし候も、詮ずる所は人々の信心の真実ならぬ事のあらわれて候、よきことにて候。(御消息集)

「善鸞が言ったことで、人々の日頃の信心が戸惑い、動乱したのは、真実信心でないことがあきらかになったからだ、それがわかったのはかえってよかったことだ」と言われています。

読んで戸惑うのは、自力の信心だからです。

「このまま聞いていればいつかは信心決定できる」というのも自力の信心です。

「助かりたい」と本気で思えば、「このままで助かるのだろうか?」と自身の求道に疑問が起きるのは、むしろ健全なことです。

「このままで助かるのだろうか?」という疑問は、阿弥陀仏が起こされる聞法心の現れであって、「考えてはならないこと」ではありません。

凡夫に「助かるのだろうか?」という殊勝な心がでるのは、阿弥陀仏の働き以外にありません。

「見てはならない」の理由が、「これで大丈夫」と間違った信心に腰をかけるというのなら分かります。「心が戸惑う、動揺するから」というのならわかりません。

「心が戸惑うから」というのなら、それまで「戸惑っていなかった」「安心していた」ということになり、安心した求道とは、「このままいけばいつかは救われる」という安楽椅子です。

この安心問答も1年1ヶ月続けています。「これでいいのでしょうか?」という質問に「それでよい」と回答したことは一度もないと記憶しています。

「こうしていけばいつかは救われる」と、年金の積み立てのように思っておられるのなら、それこそ間違いです。これだけ積み立てれば大丈夫と安心している年金信心は、必ず破綻します。

また「どうせ今生は救われないのだから、何かの縁になれば」と聞法するのも間違いです。

「正しい教えを聞いていると思う」のは、自分の考えです。しかし、「正しい教えを聞いていけばそのうち助かる」と思うのは間違いです。

説かれる方が正しければ、100%助かると思うのは、知識帰命といわれるものです。親鸞聖人から直接聞かれた同行が、全員獲信したのではありません。

真実信心を求める道は、獲信するまで安心するところはありません。反対に、あきらめたり弱気になる所もありません。

必ず助ける法に向かい、一心一向に阿弥陀仏に向かうのです。

いつかはではなく、ただ今阿弥陀仏にすくわれることがあります。

ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2009-05-22

阿弥陀仏は真剣に聞法させるといわれているのかについて(1さん、Kさんのコメント)

前回のエントリー(菩提心とはなにかについて(1さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))についてのご質問です。

どうして浄土に生まれたいと阿弥陀仏の19願力でさせられて、『ここ一つ聞き抜かねば』となりますか?

19願文には阿弥陀仏は真剣に聞かせるとは誓っておられませんが。(1さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1242912349

回答します。

阿弥陀仏の浄土に生まれるにはどうすればよいのか、それには「聞其名号」と本願成就文にお釈迦様が教えられているように、名号を聞く一つで、正定聚の身に救われることです。

「ここ一つ聞きぬかねば」というのは、「ただ今名号を聞即信せねば」ということです。名号を阿弥陀仏から頂き、信心決定の身にならねば、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することはできないからです。

名号を頂くにはどうすればよいのか、雑行雑修自力の心を振り捨てねばならないとなったひとは、どうしたら雑行を振り捨てることができるか、どうしたら自力を振り捨てられるのか、どう思ったら、どうしたら、法座に足をはこんだら、真剣に聞いたら、勤行をしたら、財施をしたら捨てられるだろうかと、いろいろな行をせずにおれなくなります。

「修諸功徳」には、上記のように、どうしたら自力がすてられるのかとありとあらゆることをしようとする行為が入りますから、真剣な聞法も入ります。

それを蓮如上人が御文章に書かれたのが以下のものです。

人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章4帖目3通・当時世上)

雑行自力を捨てる一つ、南無阿弥陀仏を聞く一つとなった人には、いつまで命があるのかという、自分自身の無常と南無阿弥陀仏を頂くのとどちらが先かの競争になりますから、そのことを「老少不定と聞く時は」といわれ、そうなれば「急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」となります。

以前のエントリーで紹介した。阿弥陀仏の願力によって善をさせられるのかについて(Tさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

諸善万行ことごとく

至心発願せるゆえに

往生浄土の方便の

善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

この親鸞聖人のご和讃でいわれる「往生浄土の方便の善」とは、阿弥陀仏の第19願の願力によってさせられる善であり、どうすれば南無阿弥陀仏が頂けるのか、どうすれば弥陀の浄土に生まれることができるのか、どうすれば自力の心を振り捨てることができるのかと、あれこれ思うこと、体でやること、口でいうことを指していわれています。

「諸善万行ことごとく」ですから、「財施などの善」に限らず、真剣な聞法もはいります。

もともと求めていた人が仏法に出会った場合と仏法聞いてから求め始めた人の場合で違うように思います。

発菩提心の後に仏法(弥陀の救い)を聞いた場合、菩提心=聞法心というと変です。

仏法(弥陀の救い)を聞いてから、発菩提心ならば、菩提心=聞法心=至心発願欲生我国でいいでしょう。

ただ阿弥陀仏から見られたら同じなのかも知れませんね。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1242915283

Kさんのコメントにもありますように、なにを指して菩提心というかによって、話は変わってきます。

私が、ブログ上で解説してきたのは、仏法とご縁があり、阿弥陀仏の本願の救いを聞いている人が、「発菩提心」させられる場合のことをいっています。

阿弥陀仏の第十九願は、「発菩提心 修諸功徳」です。「真剣な聞法をさせる」という文字で書かれていなくても、「ただ今救われようと、あらゆることをせずにおれなくする」ということです。

聞法でいえば、聞法せずにおれなくなるのです。

2009-05-20 KさんとTさんのコメントに回答

死と無量寿について(Kさんのコメント)

死についての苦悩は、直接的には阿弥陀仏の救いとは関係ないということなのでしょうか?

私が思うには、「無量寿」ということです。

それこそが私の求めているものだと思うのです。そういうこととはまた違うのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090518/1242639171#c1242743270

回答します。

死について苦悩したから救われるのではないという面から言えば、無関係です。

しかし、死についての苦悩し、無常を観ずることは、弥陀の救いを求める上で、大変大事なことですから、実際求める面では大事なことです。

人間は不定の境なり、極楽は常住の国なり。されば不定の人間に在らんよりも、常住の極楽を願うべきものなり。されば、当流には信心の方をもって先とせられたる、その故をよく知らずは徒事なり。急ぎて安心決定して、浄土の往生を願うべきなり。(御文章5帖目11通・御正忌)

人間世界は、いつまで続くか分からず、いつまでも続かないのだから、変わらぬ常住の極楽を目指しなさい。だから、浄土真宗には、信心をもって先とするのであり、急いで信心決定して、浄土往生する身になりなさいと蓮如上人は教えておられます。

生死を繰り返し、今ある命もいつまであるか分からない私たちに、阿弥陀仏が、無量寿の仏に生まれさせると作られたのが南無阿弥陀仏の名号です。

Kさんの言葉を借りれば、無量寿の身になるために、急ぎ信心決定していただきたいと思います。

阿弥陀仏はそのために本願を建立されたのです。無常の体ですから、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂き、信心決定の身になるのはただ今のことです。

急いで信心決定の身に、ただ今救われて下さい。

2009-05-11 聴聞とは煩悩との戦いなのか?(メールより)

聴聞とは煩悩との戦いなのか?(メールより)

前回のエントリーに関連して、メールを頂きましたので回答します。

御法話で

「二河の道を進んでいくのは煩悩との戦いであり,煩悩が邪魔になる,罪悪をおそれる。その畏れてる者に「畏れるなー」という弥陀の呼び声が届く」と聞きましたが,それはどういうことかなと思って質問しました。

私的には,煩悩との戦いというのは,「遊びたい楽したい聴聞に行きたくない」という心に打ち勝って,聴聞に出かけたり活動に参加したりすること,邪魔になるというのは,聴聞やお勤めの最中に煩悩が邪魔をしてなかなか真剣に聞けない,つとめられないこと,罪悪を恐れるというのは,悪いことをした時など,こんなことでは助からないのではという心ではないかと思っていました。

しかし,何かちょっと違うような感じがして,次のようにも言えるのではないかと思いました。自分の今の状態というのではなく,あくまで勝手な想像です。

煩悩との戦いというのは,疑情(これも煩悩と聞いたことがあります)がどうしたらなくなるのか,どうしたら晴れるのかと葛藤すること,邪魔になるというのは,疑いや自力の心がなくならないために南無阿弥陀仏を頂けないこと,罪悪を恐れるというのは,一念の時に知らされる弥陀のみ心に反する心ではないかと思いました。(メールより抜粋)

往生極楽の道を聞こうとするときに、煩悩が邪魔になるかといえば、「遊びたい、楽したい」と往生極楽は無関係なので対立するものではありません。邪魔になるというのは対立関係があるから邪魔になるのではありません。

煩悩具足ですから、「遊びたい、楽がしたい」という心が無くなるのでは有りません。

「聴聞に行きたくない」というのは、聴聞が苦行となっているからではないかと思います。5年10年20年と聞いても心に変化が生じないし、それでも真剣に聞けば何か変が起きるという気持ちでは、「どれだけ真剣になるか勝負」となり、これでは聴聞が修行になってしまいます。

信心獲得するというのは、真剣になろうとした努力の結果、真剣になれたことでもなければ、真剣になれない自分を知らされたことでもありません。

真剣になりきれない自分を知らされるためには、真剣に聴聞しなければならないというのは、目的が違います。獲信のための聞法なのです。

信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。(御文章5帖目5通・信心獲得)

信心獲得するというのは、阿弥陀仏の第18願を心得ることであり、それは南無阿弥陀仏を頂くことなのです。

この意味からいえば、聞法の「法」とは南無阿弥陀仏のことです。聞法とは、「聞其名号」のことであり、「信心獲得」のことなのです。

聞法の勧めとは、「信心獲得の勧め」であり、「信心決定あれかし」ですから、足手を運び黙って座っていることではありません。

ですから「聴聞に行きたくない」という言葉でいう「聴聞」は、蓮如上人が「聴聞に極まる」とは意味が異なるということになります。

なぜなら、聴聞に行きたくないという言葉からいわれるものは、信心獲得したくないということとは意味が異なるからです。いろいろな事情で参詣はしたくないということであって、信心獲得したくないということではないと思います。

「聴聞」と「御法話会場に足手を運ぶ」「参詣」はイコールではないのです。聴聞に極まるとは、「聞其名号に極まる」「信心獲得に極まる」「ただこの信心一つに限れり」であって、「参詣に極まる」ではないのです。

悪いことをしたときに、こんなことでは助からないというのも、考えが違います。「悪いから助からない」なら、南無阿弥陀仏でも助からない悪が有るということになります。阿弥陀仏が本願を建てられてたときに想定していなかった悪が現れたということはありません。

そこで、

しかし,何かちょっと違うような感じがして

といわれるとおりで、先に書かれたような理解は間違いです。

煩悩との戦いではなく、自力の心との戦いです。「雑行を棄てて」「自力の心を振り捨てて」というお言葉はありますが、「煩悩を捨てよ」という教えは信心獲得するかどうか、阿弥陀仏に救われるかどうかには関係のないことです。

関係ないものだから、親鸞聖人は比叡山を下りて行かれたのです。親鸞聖人の教えに従うとは、比叡山での修行(煩悩との戦い)をすることではありません。

ただ今救う阿弥陀仏の本願に向かい、本願と私を妨げる自力の心を振り捨てて、ただ今救われることなのです。