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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-05-26 自分を追い詰めて活動しないと助からないのでしょうか?(メールで頂

自分を追い詰めて活動しないと助からないのでしょうか?(メールで頂いた質問)

メールで頂いた質問ですが、大事な内容だったので、みなさんにも知っていただきたいと思い、エントリーします。メールの文章は一部改変しています。

「阿弥陀仏は機に応じて救ってくださるから、親鸞聖人みたいな修行をできる人でないと救われないということはない。」と聞きました。

親鸞聖人のような優れた機の方はすごい修行をされ、法然上人に出会われてからも(聖徳太子への3日3晩の祈祷から想像しても)相当すごい聞法をされたであろうと思います。

機に応じてといっても、その人の機なりに(どんな行ができたかどうかではなくて)目いっぱい苦しんで阿弥陀仏に向かって求めた人でないと救われないのではないか?

目いっぱい求めているかと問われれば、ぜんぜん楽ではないけれど目いっぱいとは言えないから、やはり救っていただけないのではないか?などと、どうしても思えてきます。

楽したい怠惰な自分にとっては、もう(本当は)求める苦しみも終わりにしたいくらいなのですが・・。

機に応じて救ってくださるとはどういうことなのでしょう?(お聖教の根拠はあるのでしょうか?)

自分を追い詰めて聴聞、顕正、六度万行などに取り組んでいかなくても、本当に助けていただけるのでしょうか?

すごく聞法活動している人をみると、どうしても自分はまだまだ助けていただけないのでは?あの人たちが先に助けていただけるのでは?と思うのです。

教えてください。よろしくお願いします。(メールで頂いた質問)

回答します。

機に応じて救って下さると言うことについて教えられた親鸞聖人のお言葉は、こちらです。

釈迦弥陀は慈悲の父母

種々に善巧方便し

われらが無上の信心を

発起せしめたまいけり」(高僧和讃)

親鸞聖人は教えておられます。

阿弥陀仏とお釈迦様は慈悲の父であり母であります。相手に応じていろいろと方便して、私たちに真実信心を獲得するまで導いて下されるのだということです。

親鸞聖人のような山で20年修行をしなければ助からないということでもありません。学問をものすごい量しなければ助からないというものではありません。

無常が問題になって求める人もあれば、罪悪が問題になって求める人もあるでしょう。阿弥陀仏の願力によって救われるのですが、その願力がかかる私たちは、一人一人持っている業が違います。結果として、いつ、どこで、どうやって救われるかは、一人一人違います。

救われたときが、20才の人と、40才の人と、60才の人では、それまでの聞法歴も違うでしょうし、念仏の量も違うでしょう、行った善行も違うでしょう。救われて振り返れば、「阿弥陀仏がこうして導いて下されたのか」と一人一人が知らされるのであって、「私がこうしなかったら助からなかった」と思うものではありません。

質問された方より聞法歴も長い人もあるでしょうし、活動している人もあると思いますが、それらの人が救われていないといっても、聞法歴や活動量は、救いと無関係なので気にする必要はありません。

「あの人が先に救われるのでは?」と心配されても、現時点で活動で救われた人があるでしょうか?

先に救われようが、往生は一人一人のしのぎです。先に救われる人が有っても、それは阿弥陀仏のお働きであって、その人の善根の結果ではありません。

問題は、「雑行を棄てて、弥陀をたのむ」かどうかです。

聞法の長さではないのです、活動の量でもないのです。ただ今弥陀に救われようと、弥陀の救いにむかっていくかどうかです。

活動や聞法で苦しんで助かるのではありません。苦しんだら助けて下されるだろうというのは、計らいです。こうしたら助けて下されるだろうという計算は、自力の心なのです。

一番は、「自分はまだ助からないのでは?」と、救われる時と現在に距離をあけて、ハードルを設ける心が救いを妨げているのです。それは阿弥陀仏が作っているのではなく、自身が作っているものです。

「阿弥陀仏は必ず助けて下される」という大前提で、ただ今救われて下さい。

2008-07-20

真実は属人性のものではありません(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメントいただきありがとうございました。

(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080719/1216466149#c


残念ながら、根拠になりません。

なぜ根拠にならないかはご自身で(聖人がどのような人に対し、どのようなお気持ちで、どのような意味で書かれたお言葉か)お考えください。ただし、一言だけ申し上げます。このご文は護法のために聖人が命を賭けられて書かれたお言葉と拝察します。その尊いご文を高森教の教義の矛盾点をごまかすことに利用するために引用されることには義憤を感じます。

こちらは出した根拠は根拠にならないとご指摘頂きました。

また、この件については議論を終了と聞きましたので、そのように致します。

上記引用部分について、いいたいことは、分かりますが、前々回からのエントリーの「高森教」という表現について、一言書いておきます。

そもそも高森教という言い方は、「高森先生オリジナルの教義」という意味でいわれているのだと思いますが、それの真偽はさておき、そのように、真実が、一定の個人に帰属するという言い方は、浄土真宗ではありません。

浄土真宗において、善知識といわれる人は、法を指し示す人であり、その人をとおして知るべきものは、真実(弥陀の本願)であり、真実信心なのです。

親鸞聖人のお言葉を出して説明するのも親鸞学徒としては当然ですが、親鸞学徒とは、親鸞聖人という個人に帰属する真実を信奉する人のことではありません。

真実は属人性のものではありません。

「唯一無二の善知識」などという人をさして、「高森教」といわれるのなら、そのとおりでしょうが、「唯一無二の善知識」といった時点で、それは浄土真宗ではなくなってしまいます。真宗の何処に、善知識は同時代に一人でなければならないとあるでしょうか。

そんなことをいっている人があるかもしれませんが、少なくもと私は高森先生ご自身の著作やご説法で聞いた記憶はありません。

前述の通り、真実とは属人性のものではなく、また、一個人が所有出来るようなものは真実とはいいません。

「たとえ相手が三歳の子供であっても説かれることが真実なら聞かねばならない」とも聞いてきました。

元自称福徳会員さんが、私に向って「高森教」というように私を見ているとするならば、同様のことを、親鸞聖人ご自身に向って考えておられるように感じるのですがいかがでしょうか。「親鸞学徒」とは「親鸞教」の信者では無いのです。

それは、親鸞聖人ご自身が「親鸞、私なし」といわれていることからも明らかです。

私が今まで書いてきたことも、高森先生という一個人だけが知っている真実を聞いていっているのではありません。あくまで、弥陀の本願まことをいっているに過ぎません。

ご質問を頂いておりますのでお答えします。

1.親鸞聖人は19願・20願は方便の願であると教えられたことはご存知でしょうか?

2.親鸞聖人は方便の願を捨てなさいと教えられたことはご存知でしょうか?

1については、元自称福徳会員さんが「ダイレクト」にこだわるのであれば、

「19願、20願は、方便の願である」という言い方をされたところはありません。

2については

「当流は廃立肝要なり」(御遺言鈔)と親鸞聖人仰っている通りです。

最後におこたえ頂いた部分で、一つ不明なところがございましたので、こちらから質問させて頂きます。

「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて、それらを捨てて、18願の真実を求めさせていただかないといけないと思います。

「方便」と信じて、それらを捨てて、とは、「方便だから捨てる」ということでしょうか?

それはいつのときなのでしょうか?

よろしくお願い致します。

2008-07-19

未信のものに「真仮のわからぬもの」と断言された親鸞聖人(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有り難うございました。

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080717/1216296401#c1216315683

返信が一日遅くなり、申し訳ございませんでした。

聖人のおほせには親鸞は弟子一人ももたすとこそおほせられ候ひつれ。そのゆへは如来の教法を十方衆生にとききかしむるときは、たゝ如来の御代官をまうしつるはかりなり。 さらに親鸞めつらしき法をもひろめす、如来の教法をわれも信しひとにもをしへきかしむるはかりなり。そのほかはなにををしへて弟子といはんそとおほせられつるなり。されはとも同行なるへきものなり。これによりて聖人は御同朋御同行とこそかしつきておほせられけり。

「更に親鸞珍しき法をも弘めず」のお言葉の前後の文章を入れてどう思うか、ということでしたので、お答えします。

親鸞聖人は、上記の御文章のように「俺は偉い、つべこべいうな」などという、指導者、独裁者のような方ではありませんでした。

阿弥陀仏の前では、万人は平等であり、その救いを求めている人は、「御同行、御同朋」と、「御」の字までつけられて、同じ道を行く同志であり、兄弟であると仰っています。自己の姿を知らされれば、そんな偉そうにできるものではありません。

これは、自分の姿を知らされた上での、親鸞聖人の正直なお気持ちだと思います。


まずは「未信の者は方便がわからない」とダイレクトに教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。

また、再度、コメントいただく際は、貴殿や高森先生のお考えではなく、親鸞聖人・蓮如上人のお言葉を示した上でお答えください。

前回のコメントでも、

この言葉の中に真仮は出てきませんし、方便を論ずることもおっしゃられていません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080716/1216208121#c より)

と頂きましたので、真仮というお言葉を使われた上での親鸞聖人のお言葉を出しますと


「然るに、諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず。洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」(教行信証化土巻)


親鸞聖人は仰っています。

「未信のものは真仮がわからない」

「真実信心を得たものは、真仮がわかる」ということで、親鸞聖人は、「諸寺の釈門」(日本中の僧侶)に向って、「真仮の門戸もわからぬもの」と断言されています。

未信のもの(諸寺の釈門)は、真仮がわからない(真仮の門戸も知らず)と、親鸞聖人は仰っています。

真仮がわからなかったらこのようにいわれる道理はありません。これは、法の立場から仰ったものです。「一段高いところに立って」威張っておられるのではありません。法の上からいえば、「三界の大導師」であり「如来の代官」なのです。

如来の代官というのは、文字通り代官で、尊いのは如来であり、代官が偉いのではありません。

機からいえば、「御同朋」の精神の親鸞聖人ですが、法の立場からいえば、相手かまわず、「真仮もわからぬもの」「邪正もわからぬもの」と、断言されています。このようにいわれるのも、真実信心を獲られてから、振り返って方便が方便と知らされたからであり、未信の時は、方便が方便と分からなかったというご自身の体験からもいわれているのです。

私自身も、別段自分の考えで、「未信のものは方便を論じられない(難しい)」といっているのではありません。

もちろん、真仮が分からぬのに、いかにも真仮が分かったように、思い込み、人をミスリードするものがあれば、それは大変なことです。真仮が分からないのに、いかにも分かったように相手を見下すのは、真仮が分かっていないのです。

真仮を論じるのは、如来から頂く南無阿弥陀仏の働きによるのであって、自分が偉いからではありません。

真仮を明らかに知られ、真仮を明らかにされた親鸞聖人だからこそ、その教えに従うのみです。私自身の考えを入れるつもりはありません。

最後に方便についてお答え頂きましたが、

「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて求めさせていただかないといけないと思います。

について

「信心決定したら、何でもかんでもわかるようになるものではありません。」ですので、方便がわかる・わからないということではなく、親鸞聖人が方便と教えられたのならば方便と信じさせていただくということです。

この「方便と信じて」というのは、「この通りに進めば18願(真実)に出られると信じて」ということでしょうか?

またお尋ねしますが、宜しくお願い致します。

2008-07-17

方便とは、如来の善巧方便ということ(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有り難うございました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080716/1216208121#c1216253377

ただ単純に「未信の者が方便を論ずることはできない(難しい)」と教えられた聖人のお言葉をお示しください。

そういう御文で、よく皆さんが知っておられるのは

「更に親鸞珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり。」

御文章に出てくるお言葉ですが、「我も信じ」ているからこそ、「人に教え聞かしむる」ことができるのです。

そこで、議論を続けている間に、「未信の者が方便を論ずることはできない(難しい)」ということについて、考えてみました。

私は、元々、真が分かって、仮が仮と知られるのであって、真も仮も分からないものが、どうして真仮を説くことができるでしょうか。ということで、以前のエントリーに書きました。色眼鏡をかけた者どおしで、本当の色をみることはできません。

それを、元自称福徳会員さんはコメントで、

「未信の者は方便がわからない」とダイレクトに教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。

といわれています。上記の親鸞聖人のお言葉でどのように思われるでしょうか。

「未信の者は方便がわからない」は、逆に言うと「信を獲た人は、方便を論ずることができる」ということになってしまいます。

逆の表現でいうと、必ずしもそうは言えなくなってしまいます。

信心決定したら、何でもかんでもわかるようになるものではありません。

人を導く(方便を論ずる)ということでも、絶対に間違いなく、正確にできるかと言えばそうでもありません。

親鸞聖人でさえ、「我誤てり、われあやまてり」と仰有っています。

真実信心を獲た方であっても、その後の布教において惑われることはあります。

真実信心を獲ている人でも、正確な教学のない人はまた、方便を必ず相手に分かるように、論ずることができるわけでもありません。信心をえたと言われている、庄松同行や、お軽同行が、真仮をハッキリと相手に分かるように方便を論じていくことができたわけではありません。

やはり、方便という言葉自体の使い方に、人間が説法することにつけたのは、私の間違いであったと思います。

元々、親鸞聖人が方便といわれるときは、「釈迦弥陀の善巧方便」であって、如来のなされることなのです。

真実信心を得ているから、自在に方便が論じられるようにいうのは、言い過ぎた表現であったと思います。

人を信仰の道から遠ざけるようなものは、結果として方便とはいえないのですから、また事実、仏法聞くことをやめられる方があるのも事実です。

では、元自称福徳会員さんは、方便について本当のことはどのように思っておられるのでしょうか。分かる範囲で教えていただきたく思います。

宜しくお願いいたします。

2008-07-16

自信なくして教人信はないということ(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有り難うございました。

一日回答が遅くなっている間、二つコメントをいただきました。

二つ同時の回答は時間の都合上難しいので、2008/07/15 09:53のコメントについて、回答いたします。

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080714/1216031356#c


真仏土巻のお言葉について

さて、以下のお言葉はそもそも真仏土巻の巻末のお言葉で、次の化土巻へのブリッジとなるお言葉です。

化の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆえに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに化の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

このお言葉について、元自称福徳会員さんは以下のように書かれています。

この文を書かれた聖人の御心(意図)は何だったでしょうか?「何が真仏土(報土)に生まれる因か早く知りなさい」、「何が真で何が仮であるか早く知って、真を取り、仮を捨てなさい」ということではないでしょうか?

上記に対しては、同意します。

「早く真仮を知り、仮を捨て、真に入れ」というのが親鸞聖人の教えです。

言葉はいろいろ言い方はありますが、それ以外にはありません。

親鸞聖人が「未信の者が方便を論ずることはできない(あるいは難しい)」と言う事を教えられたというのではあればそのように直接、教えられたご文を出すべきです。

以前にも書きましたが、「方便を論ずるのは獲信された方であっても親鸞聖人が教えられたこと以外については慎重であるべき」というのが私にスタンスです。

これも仰有るとおりです。

「未信の者が方便を論ずることができるのか」という議論の中での、お言葉の引用でしたが、「未信の者が方便を論ずることはできない(難しい)」ということを言いたいのならば、「未信の者が方便を論ずるなら、その先に信をとれ」という論理で御文を出すべきであったと反省いたします。

そういう御文は、元自称福徳会員さんもよくご存じだと思います。

「自信教人信」の善導大師のお言葉もそうです。

自ら信心決定して、人に教え信ぜしめるといわれてます。「自信」がなければ「教人信」はでてきません。


高森先生が高森教の教義の矛盾点をごまかすことに利用しているのではないかという疑念です。また、まずは自身の特有の教義ありきで、それに親鸞聖人のお言葉を無理やり当てはめようとしているのではないかと言う疑念です。このようなことは親鸞学徒にあるまじき行為です。

そういう疑念を持っておられると言うことは、分かりました。

次のコメントの、諸行往生等に関するところがそれにあたると思いますが、それについては、この次のエントリーで記述します。

そのように思われるのも、親鸞聖人の書かれていることと、元自称福徳会員さんが、親鸞会に在籍されていたときに、親鸞会で聞いたこととずれていると思われたからなのだと思います。

これについては、「親鸞聖人の著作」と、「親鸞会」の「何」が違っていたのでしょうか。

高森先生が、壇上の説法でいわれることでしょうか?

親鸞会の機関誌でしょうか?

それとも、現場の講師のいうことでしょうか?

どれか一つか、三つともそう思われたのか、どこかにそう思われることがあるからそう書かれているのだと思います。

少なくとも、壇上で説法される内容を聴聞させていただいている間においては、私は、親鸞聖人の著作と違うことを聞いた記憶はありません。

ほか二つについては、いろいろと思うところもありますが、機会があればまた書きます。


貴殿は彼の教行信証のお言葉が「未信の者は方便を論ずることはできない」と教えられた根拠になることを示されようと一生懸命努力されたことは認めます。しかしながら、私の目には、まずは高森先生の特有の教義ありきで、それに親鸞聖人のお言葉を無理やり当てはめようとしているように写ります。従いまして、残念ながら私の要望はかなえられなかったものといたします。

これに関しては、ご要望にお応えできず申し訳ございませんでした。

また明日エントリーしますが、次のコメントについて、先に思ったことだけ書いておきますと、往生と関係づけた善の勧めは真宗にはございません。しかし、そう思わず聞き間違えている人は非常に多いのが、親鸞聖人の時代からの真宗の歴史でもあります。

「早く真仮を知り、仮を捨て、真に入れ」というのが親鸞聖人の教え勧められたことです。仮を捨てるとはどいういうことか。真に入るとはどういうことかは、一人一人が、体にかけて求めていく道です。

ほか、沢山の方のコメントを頂きありがとうございました。

初めてコメントを下さった方もありました、全部お答えできませんでしたが、この次のエントリーで、お返事申し上げます。

2008-07-14

未信の者は絶対に方便を論ずることはできないのか(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

お忙しいところ、コメントいただきありがとうございました。

こちらも一日遅くなり、申し訳ございませんでした。

コメント全文はこちら

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080708/1215519694#c

化の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆえに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに化の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

上記の、教行信証のお言葉についてお尋ねでしたので、回答いたします。

どうして教行信証の前後のお言葉がある場合と、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」を抜き出した場合とで意味が違ってくるのでしょうか?

「何が真仏土(報土)に生まれる因かわからないから、救われないのだという意味です」説明をしたことについての疑問ですが。

教行信証のこの御文自体を、文字通りで解説すれば上記のようになります。

そこで、

教行信証の前後のお言葉をつけた上で、「未信の者は方便を論ずることはできない」と教えられた根拠になることを示されるか「未信の者は方便を論ずることはできない」と教えられた根拠はないとお答えいただきたいと思います。

ここで、この教行信証のお言葉に限らず、まず「方便とは何か?」というところからいいますと、「方便」とは「真実に近づけるために必要なもの」であります。

また、いまから書くこと自体は、言葉や聖教のご文の意味からいうことなので、別段めずらしいことを書くわけではありません。

親鸞会だから、本願寺だからという話でもありません。仏法ということについての記述なので、そこに独自の解釈があると思われれば、またコメントで教えていただきたく思います。

真実に近づけるための方便ですから、導く先の真実を知らなければ、そこへ近づけさせるもの(方便)を論ずることはできないでしょう。ということをいっています。

なにも「体験」や「信心」に固定した話ではありません。

真実とは、「教え」であり、体験といっても、教えのとおりの体験であり、教えのとおりの信心なのです。「教え」にあわない体験や信心をもってきて、そこに導く方便といわれても、それは導こうとする先(目的地)が、真実ではない以上、どれだけ饒舌に具体的に語ったところで「方便」とはいわれません。

自分の通ったこともない道、いったこともないところへ、人を案内できるのでしょうか。

「知識は針のごとし、同行は糸のごとし」といわれるとおりです。

そういう意味で「未信のものは方便を論ずることはできない」といっているのです。

その根拠として、上記の教行信証のお言葉を出しましたが、

「真実に入って、方便が方便としらされる」=「方便が方便とわかるのは真実に入ったとき」

であり

「何が方便か、何が真実かわからない間は救われていない」のです。

別の言葉で言えば、「何が方便であり、何が真実であるかわかった」=「真仮がわかった」=「弥陀に救われた」ということになります。

「真と仮」を別の言葉で言えば、

「真」は、18願、「仮」は、19願、20願 

(菩提心さんのコメントにお答えしますと、十法衆生と誓われた願(三願)についての真仮をいっているので、コメントで教えていただいたこととは何も矛盾しません)

蓮如上人のご文章によく出されるお言葉で言いますと

「真」は、真実信心、「仮」は雑行雑修行自力の心

です。

前回のエントリーでも書きましたが、では「絶対に未信の者が方便を語ることは不可能か?」ということではありません。

上記の「何が真で何が仮か」「何が真実で、何が方便か」というのは「教え」です。

それについて、お釈迦様のお経をはじめ、善知識方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が教えられているのですから、その教えを正しく知り、正しく伝えることは、そのまま「真仮」を伝えることになるのですから、「絶対できない」とはいえません。

しかし、(「絶対にできない」とはいえない)=「できる」とは、とてもいえません。

とても、難しいことだからです。

真実わかっておられた善導大師が「難きが中に転た更に難し」といわれ、親鸞聖人が「教うることもまたかたし」といわれているのですから、ましていわんや、真実が真実と知らされなければ、という意味で、「未信の者が方便を論ずることはできない」といったのです。

上記のことから、「できない」ということが不適切だと思われたのなら。

「未信の者が方便を論ずることはとても難しい」といたします。

哲学的とか、学問的という意味ではなく「難信の法」には違いないのです。だから、教えられる方は、そこに大変なご苦労をしてこられたのです。

問題なのは、教義の理解が不十分なのに、「自分でこれが方便だと思うもの」を、方便だといって人に勧めることなのです。

方便が方便と知らされるのは、確かに真実に入ってからではありますが、親鸞聖人のご著書、覚如上人、蓮如上人の書かれたものには、真実と方便について、大変詳しく書かれています。

そういう意味から、「方便がわかるものではない」とか「自力がわかるものではない」ということではありません。

自力が廃らなければ、他力の救いにはなりませんから、自分が持っている自力も、計らいも、全く救われる前にはまったく分からないなら、捨てよとも言われません。

体にかけて、心にかけて、真面目に真実信心を求める人には、必ず、何が捨てもので、何が拾いものか、分かるときが来ます。

それが教えですから、教えを聞かねばなりません。

コメントで言われることは、私もそのように感じるところではあります。

「教え」とは、「弥陀の本願」であり、浄土真宗の教えを聞き求めるものからいえば「親鸞聖人のお言葉」「覚如上人のお言葉」「蓮如上人のお言葉」です。

それを伝える布教使の責任が重いのは言うまでもありません。

2008-07-08

真実わかった上での方便(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080707/1215425967#c1215494291

そこで、方便というのは、あくまでも説かれる方から言うことであって、仏法を聞いている方で、あれこれ言うものではありません。

なぜなら、方便(仮)が方便と分かるのは真実(真)が分かる人であり、逆から言うと、救われる前は、何が方便で何が真実かははっきりと分からないのです。

何が方便かということが分からない人が、方便を論ずるということは、本来は出来ません。導く先(真実)が分からないのですから。

「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)


http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080615

これは、6月15日付けのエントリーで私が書いた文章です。

それに対して

しかしながら、あくまで親鸞聖人のお言葉を通してであれば未信の者も方便を論ずることはでき、しかも悪いことではない。

また、「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)のお言葉は、「未信の者は方便を論ずることはできない」という根拠にはならないということでよろしいでしょうか?

という意見です。

結論から先に言いますと、すべてには同意できません。

まず、ここで言う方便とは、阿弥陀仏がなされる方便です。この方便をされるのが阿弥陀仏である以上、阿弥陀仏ご自身でなければわからないものですし、使うこともできません。

方便とは、真実に近づけるために必要なものですから、近づけさせる真実が分からないと方便を使うことはできません。その真実も、阿弥陀仏の本願(真実の願、十八願)でありますから、阿弥陀仏でなければ分かりません。

その阿弥陀仏の御心、本願の真仮を知られた、善知識方(釈尊を初めとした、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人)は、常に真(真実)と仮(方便)を明らかにして教えて行かれました。

ですから、親鸞聖人のお言葉を、教え通りに忠実にお伝えするのであれば、未信であっても、真仮を明らかにすることができます。

自己の信仰を語るのではなく、親鸞聖人の「教え」を論ずるのでありますから、「教え」を伝えるままが、真仮を明らかにすることになるからです。もちろんそれは悪いことではありません。

しかし、「親鸞聖人のお言葉を通して、正しく伝えれば」という、「正しく伝える」だけの、教えの正確な理解があるというのが大前提です。

自分勝手に教えを理解し、「これが方便だ」と、分かったつもりで方便を論じられては、真実も分かりません。また、何か別の目的で、破邪顕正や、財施をする口実につかうような人がもしあれば、それはとんでもない誤用です。

「ウソも方便」という言葉もありますが、真実わからぬ、しかも教えに昏いものが使えば単なる「ウソ」になってしまいます。また教えに昏いと、その自覚もなくやってしまいますから、そうなれば間違いです。

実際はどうなっているのかまでは、ここでは論じません。

未信の立場であるならば、自分は本当は真実が分からない、求めておりますから、親鸞聖人に教えていただくという立場ならばいいのですが、真実分からないという事実はさておき、真実はこうであると「分かったつもり」で、動き始めるとおかしなことになってしまいます。

親鸞聖人のお言葉には、間違いなく真仮が書かれてあります。それを伝える者が、勘違いしたり、曲げてはならないのです。

「教えを正しく理解している」人なら、論じることはできます。

とはいえ、本当に真実が真実と分かってなければ、方便と真実の関係はわからないので、

また、「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)のお言葉は、「未信の者は方便を論ずることはできない」という根拠にはならないということでよろしいでしょうか?

これが、根拠にはならないとは言えません。

御文自体は、「未信の者は方便を論ずることはできない」と言う意味なので、私が6月15日に書いたエントリーにも「本来はできない」と書いたのはそのためです。


繰り返しになりますが、では絶対にできないのか?と言われれば、善知識方のお言葉を通して論じることはできるでしょうが、教えが正しく理解できていればと言う前提の上での話です。

2008-07-07

「わかる」と「体験」の違いについて(元自称福徳会員さんのコメントより)

親鸞会館のご法話に参詣しており、返事が遅くなりすみませんでした。

元自称福徳会員さんのコメントより

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080704/1215183799#c

上記コメントから、まだ以下の部分について回答していない部分があるとのことでした。

(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080628/1214657835#c1214762007)

前回のコメントについては、ほぼお答えしたと思っていますが、まだの部分は以下の部分でしょうか。

以下の部分について回答いたします。

19願の善、20願の善(念仏)を行うことができたから助かるのではない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わずに、真剣に実行することは可能でしょうか?

ここの部分については、前回のエントリーでお答えしました。

「私たちのやる諸善や念仏が間に合って助かるのではない」と聞かされても、やらずにおれなくなるのが、体にかけて求めている人の心です。

そう言う心に阿弥陀仏によってさせられるのです。

そこには矛盾が生じていると思います。その言い訳として「未信のものは方便・真実はわからない」と言うことだと思ってしまいます。その根拠が以下の通りと言うことですから。

化の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆえに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに化の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

の中の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」

そこで「未信のものは、方便・真実は分からない」とのことですが、

まったくなんにも分からないということではもちろんありません。

真実は何かと言われれば、「18願の世界であり、弥陀の救いであり、一念の救いの世界である」ということは、「わかっている」と思います。

「真実の世界に出ないと、真実が真実とわからない」ということは

「一念で救われてみなければ、一念の救いであったとはわからない」ということです。

「合点と体験は違う」というのと同じです。

「火は熱いものだと知っている」のと、「火は熱いと体験した」のは違うということです。

この火の譬えで言いますと、「火が熱いと火傷をした人」は、火傷するまで「火が熱いということを知らなかった」ということはありません。

「火は熱い」とわかっていたからこそ、「本当に熱かった、熱いとはこういうことか」と知らされるのです。

真実に救われるまで、何もかも分からない、それがある日突然救われて、救われてみればすべてが分かったということではないのです。

それならば、教えは不要になってしまいます。

教えがあって、教えの通りに救われたということがあり、

弥陀に救われた世界があるから、そこはどんな世界であると教えられるのです。

あれこれ想像した通り寸分違わぬ世界なら、不可称不可説不可思議とは言われませんが、救われた人が、また教えを聞けば、教えの通りであったとまた知らされるのです。

反対に、救われたら何もかも、教えのすべてが分かると言うことではありません。

教行信証真仏土巻のお言葉は、

なにが真仏土(弥陀の浄土)に生まれる因かわからないから、救われないといわれているお言葉です。

では、何が弥陀の浄土に生まれる因かということは、「教え」として、「わかって」おられるのではないかと思います。

「もろもろの雑行を投げすてて、一心に弥陀に帰命すれば」ともいわれ、「弥陀をたのめ」ともいわれ、「他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南無阿弥陀仏のこころなり」とも言われているのです。

その「教え」を、「教えの通りであった」と知らされるところまで進むのであって、それまでは、「教えをきく」のですから、全く何もわからないということではありません。


何もわからないなら、「合点行かずば合点ゆくまで聞け」とはいわれません。

また、コメントにいただきました、

蓮如上人は「どうやって」について書かれておられません。親鸞会に在籍中は「聴聞・お勤めをして、破邪顕正や財施をしていけばやがて宿善が厚くなり、善のできない自分と知らされて、雑行(自力)が廃る」と漠然と理解していました。しかし、今はその考えは間違いであると認識しています。「では今はどのように?」と言う話になりますが、保留にさせてください。

お答えいただくのはいつでも結構です。

ただ、ここはとても大事なところなので、よくよく考えてみてください。

2008-07-01

方便について8(せずにおれない気持ちについて)(元自称福徳会員さんのコメントより)

前回のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080630/1214830526)の続きです。


元自称福徳会員さんのコメント全文は、こちら

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080628/1214657835#c1214762007


続きです、蓮如上人の御文章によく書かれてある、「なんのようもなく、雑行をすてて、一心一向に弥陀に帰命して」という場所について

「救われる相手が主語となって何かするということではない」ことは同意します。しかし、ここで書かれている「なんのようもなく」は「何の要もなく」。「雑行をすてる以外、その他のこと(例えば財施や破邪顕正)は必要なく」と解釈すべきと思います。(なお、「その他のこと」の中に『「本人が自力を捨てようと真剣にやってみる」こと』も入るかどうかを問われればYesとなります。)

「なんの要もなく」とは、行者のする行いではなく、阿弥陀仏の願力によってという意味です。歎異抄の「ただ」と同じ事になります。

方便についての私の考えです。

阿弥陀仏も釈尊もこの願が真実、この願は方便と教えておられませんし、聖道諸経についてもこの経は方便だとは説かれていないと思います。ですので、たとえ弥陀の本願に救われた人であっても、軽々しく、この願は方便だとか聖道諸経は方便だと言ってはいけないと思います。「それならばなんでお前は19願や20願、聖道諸経は方便と言っているのだ」と言う話になりますが、その答えは「親鸞聖人がそのように教えられたから」です。親鸞聖人は体験と深い教学を兼ね備えられた上で、「19願や20願、聖道諸経は方便」と教えられました。そしてそのように教えられた目的は「私達が方便を捨てて18願の真実を求め、18願の世界に救われる」ためです。親鸞学徒である私たちは、「19願や20願、聖道諸経は方便」と思ってはいけないどころか親鸞聖人の教えに信順し、「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて求めさせていただかないといけないと思います。

上記の意見については、ほぼ同意します。

弥陀に救われた親鸞聖人ご自身が、方便の願と真実の願を分けられているのですから、言ってはいけないとはなりませんし、またそれが分からねば、人に教え導くことはできません。

ただ、「方便と信じて」というのは、どういう気持ちなのでしょうか?

そのあたりは、もう少しお聞きしたいと思いました。


親鸞聖人は「19願や20願、聖道諸経は方便なので捨てて、18願を求めなさい、そして救われなさい」と教えられました。その一方では19願や20願を説く必要があるとき(相手)には「本願で誓われている通り、実行すれば、化土往生ができますよ」と教えられています。少しも矛盾を感じません。

19願の善、20願の善(念仏)を行うことができたから助かるのではない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わずに、真剣に実行することは可能でしょうか?

そういう気持ちにさせていただくのが、十九願で阿弥陀仏が誓われた「発菩提心 修諸功徳」なのです。

では、「十九願の善、二十願の善を行うことができたから助かるのではない」ということは、よくよく頭で理解し、教義上そうだとわかっていても、吸う息吐く息に迫る無常に驚いた人は、弥陀の救いを急いで求める人は、どんな気持ちになるでしょうか。

ここでいう助かるとは、言葉をかえると「雑行雑修自力の心がすたる」ことです。

善をしたら自力が廃るのではない、念仏称えたら自力が廃るのではない、そう分かっていても、無常は念々に迫っている、ダメだと思っても「何かの足しにはなるのでは」という心にならないでしょうか。

間に合わないとは聞かされても、「念仏の功徳はあるから、称えないよりはましではないか」とか、思わないでしょうか。

その他諸善について、「やらないよりはやったほうがいいのではないか」という気持ちは出ないでしょうか。

それら、自らの体や口や心で行う、自分で善だと思うことをあて力にして、なにかの役に立つだろうと思う心すべてを自力の心というのです。

自力の牙城はとても固く、だからこそ阿弥陀仏が十八願だけでなく、十九願、二十願と方便の願まで建てられなければならなかったのです。

やっている本人は、それが自力と思えず「それでも何かの役に立つだろう」としか思えません。

その行者に「それが雑行だ」「それが雑修だ」「それが自力だ」「それを振り捨てよ」「弥陀をたのめ」と教え勧められる方が、善知識であり信仰のある同行なのです。

知識は針の如し、同行は糸の如しといわれますのも、そこは通った者でなければ、どれだけ想像してもわからないことだからです。だからこそ、蓮如上人は「教化する者まず信心をよく決定せよ」といわれるのです。

なので、「自力などわかるものではない」「すくわれなければ自力は自力とわかるものではない」と、言っている人を今まで何人も見かけました。

「救われなければ分からない」とは、一面からいえば事実ですが、本当になんにも分からないのでしょうか。

自力の心を、疑情ともいわれますが、弥陀の本願に真剣にむかったときに、疑う心が出てこないのでしょうか。「ほんとうに一念で救われるのか」などなど、出てこないでしょうか。「これだけ聞法しているのになぜ救われないのだろうか」とか思ったことは一度もないのでしょうか。

それとも、そういう本願に対する疑いは全く出ずに、弥陀に救われてから「ああ、自分は疑っていたのか」とでもいうのでしょうか。

疑っている者に疑い晴れたと言うことがあり、自力が捨てられず苦しんだ人に、自力廃ったという喜びがあるのです。

「わかっちゃいるけどやめられない」は、なにも欲や怒りの煩悩を抑えようとおもっても、抑えられずに振り回されている人のことばかりをいうのではありません。

「自分のやった善、称えた念仏、これだけ聞いた、これだけ覚えた」それらは、全部、聞即信の一念を突破するときには間に合わないと、繰り返し聞かされていても、それでも「わかっちゃいるけどやめられない」のです。

これは、その心にならない人がみたら、矛盾と思うでしょう

「分かっちゃいる(わかった)」のなら「やめられる」はずです。

しかし、この世のこと(タバコが好きな人なら喫煙、高カロリーなものをたべる)でさえ、「わかちゃいるけどやめられない」のが、私たちです。どうして、弥陀の本願にむかったときだけ、そうならないといえるのでしょうか。

「わかっちゃいる」けど「やめられない」逆さまの心しかもたないものだから、阿弥陀仏はご苦労をされているのだし、その弥陀の願心を伝えられる、釈尊をはじめとした善知識方もご苦労をされているのです。

2008-06-28

「捨てよ」と「捨てようと思う心があれば捨てなさい」について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。

(全文はこちら

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080625/1214398490#c1214614139

「たとえは一分を表す」ということだそうなので、何を喩えたいかということを察していただきたいと思います。

上記の件に関しては、たとえる内容が内容だけに、どうかなと思った次第です。

この地獄のカリキュラムをこなせば東大に合格できますよ」というのと「この地獄のカリキュラムをこなせると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということと同一でしょうか?聞いた生徒は同じ気持ちで取り組むことができるでしょうか?

上記のたとえは、弥陀の救いを東大合格に例えられたと思いますが、「地獄のカリキュラムをこなせると思う心」が自力となります。

このたとえでいいますと、「地獄のカリキュラムがこなせると思う心」が廃った時に、東大合格できるということになってしまい。

東大合格する人の実際の心とは合わないと思い。適当ではないと思いました。

もちろん、いわれたいことは分かりますが、「生徒の気持ち」という点だけ同じだからといって、それについて論じると、良くわからなくなると思ったのでそのように返答しました。

もちろんたとえは一分をあらわすのですから、全部あうとは限りません。

「できると思う心」が廃るかどうかが、弥陀の救いについては、最も大切なので、そこが合わないと、一分があっていていると思われても、たとえとしては適当ではないと思いました。

また、自力聖道仏教のことを、ここにもってくるのも適当ではないと思いました。

「(自分の力で)雑行をすてられると思うのなら、やってみろ」といわれているのです。』

というのは貴殿が(言葉は悪いですが)勝手に蓮如上人のお言葉を書き換えているのです(ただし、蓮如上人の本心は「できると思うのなら、やってみろ」だったと思います)。

蓮如上人の本心はそうだったと思いますと同意して頂きありがとうございます。

(この世のことに喩えても同意いただけないかも知れませんが)ヘビースモーカーに向かって、

「タバコをやめなさい」というのと「タバコをやめられると思うのなら、やってみろ」と言うのは同じですか(タバコは1箱1000円になれば自分の力でやめることができるかもしれませんので合わないところはありますよ)?いわれたヘビースモーカーの受け取り方は同じですか?

このたとえでは、同じでは有りません。

上記のたとえで、いわれているものについて、いづれもタバコをすっている人にいわれているという点では同じことです。

タバコすわない人に、タバコをやめよという人は有りません。

このタバコは、雑行について元自称福徳会員さんは例えられていると思います。

「タバコをやめなさい」は「雑行をすてよ」

「タバコをやめられると思うなら、やめなさい」は「雑行をすてられると思っているならやめなさい」を例えられたのだと思います。

こういうと、勧め方が弱くなるのではないかと思われて、同じではないのではないかといわれているのだと思いますが。

「雑行を捨てよ」と聞くと、聞いた側は「捨てられるから捨てよといわれるのだな」と思うでしょうし、「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と聞くと、「捨てられないものを捨てよといっているのかな」と思うと思われてのことでしょう。

確かに、「雑行雑種自力の心を捨てられるとおもってるのなら捨てなさい」と書きましたのも、「捨てられる」と思っている人にむかっての言い方です。

捨てられると100%思ってない、そんな心がない人に、「捨てられると思う心があれば捨てよ」とはいわれません。そういうことからいうと、そんな心がない人は有るでしょうか。

「どうせ捨てられないんでしょう」と落ち着ける人が「無宿善力及ばず」と蓮如上人が歎かれる人なのです。

「どうせ捨てられないんでしょう」と落ち着いている人は、本当に自分の心を見つめていないのです。

『「どうせ捨てられないのでしょう」と合点できたからいつかは捨てられる』と、やっぱり捨てられると思っているからです。

私が注釈をつけた部分は、説かれる方が相手の心をどう見ておられるかという視点からつけたもので、やはり御文章に有る通り、「雑行を捨てよ」と、蓮如上人は仰っています。

蓮如上人は本心は「できると思うのなら、やってみろ」であったにもかかわらず、「やりなさい」と言う表現で勧められたのはそれなりの意味があると考えています。

自力が本当に我が身の問題となるまでは、自力を捨てよ、早く救われろ、必ず救われると聞いても、「自分がなにかしたら」自力が廃り、早く救われ、必ず救われるとしか思えません。

自力を捨てさせてくださるのも、救ってくださるのも、すべて阿弥陀仏ですから、主語は阿弥陀仏になるとくりかえし書いております。

蓮如上人が「雑行をすてよ」といわれる前後に、「なんのようもなく」とよく書かれているのは、救われる相手が主語となって何かするということではないからです。

「阿弥陀仏が」(雑行をすてさせるから)「もろもろの雑行をなげすてて」一心に弥陀に帰命することが出来るのです。

2008-06-25

方便について6(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。

コメント全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080624/1214304760#c1214357915

言葉遣いについては、不快に思われるところがあり、先にお詫び申し上げます。

「この地獄のカリキュラムをこなせば東大に合格できますよ」というのと「この地獄のカリキュラムをこなせると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということと同一でしょうか?聞いた生徒は同じ気持ちで取り組むことができるでしょうか?(以下省略)

これは、受験の話しなので、弥陀の救いには適当ではないと思います。「できると思う心」といったのは、「やればできる(救われる)」という自力の心をさしているので、同一かどうかといわれても、当てはまりません。

もう一つについても、聖道仏教のような、自力修行により覚りがひらけるという話しになるので、弥陀の救いをいかに伝えるかという方便について当てはめるのは適当ではないと思います。

導き方(言い方)によって導かれるものの真剣さ・行動が違ってくると言うことです。

導き方によって、聞く方の真剣さが変わってくるというのは、本当にその通りです。

「念仏さえ称えておれば、死んだらお助け、死んだら仏」と言われれば、誰も真剣に弥陀の救いを求めようとは思わないでしょう。

釈迦様や親鸞聖人のお気持ちは、「できると思うこころがあるのならやってみなさい。」だったと思います。しかし、そのような表現をされましたか?と聞いているのです。これについてコメントをお願いします。

もっとも分かりやすい言い方は、御文章です。

「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば」(聖人一流の章)

「もろもろの雑行(雑修自力の心)」をなげすてなさい。と言われています、元自称福徳会員さんは、どうやってなげすてるんでしょうか?

助かりたい(雑行雑修自力の心をふりすてたい)心があるなら、そのもろもろの雑行(雑修自力の心)をふりすてよ、と蓮如上人は御文章のいたるところに勧めておられます。

蓮如上人が、「御文は弥陀の直説」「凡夫往生の手鏡」といわれるように、お釈迦様、親鸞聖人の教えられなかったことは一つも書かれていません。

その蓮如上人が、「雑行をすてよ」と何度もいわれているのは、

言葉をかえると

「(自分の力で)雑行をすてられると思うのなら、やってみろ」といわれているのです。

もちろん結果からいえば、自力で自力をすてることはできません。

他力によらねば自力が廃るということは絶対にありません。

しかし、何としても弥陀の救いにあわねばと真剣に求めたならば、かならずこの自力の心が問題になりますし、自力をどうしたらすてられるかと悩みます(悩むと言うことは、なんとかしたらなんとか捨てられるという心があるからです)

どうぜ自力は、自力ですてられないのだからと、すぐさま弥陀をたのむような素直なものなら、阿弥陀仏は三願を建てられなかったのです。

また、たのんだつもりでも、「これでいいんだろうか」「早く助けに来てくれないだろうか」と計らう心も、疑う心も、まったく変わっていませんから、救われていません。

正信偈に「邪見驕慢悪衆生」は「信楽受持すること甚だもって難し、難の中の難これに過ぎたるはなし」とは言われないのです。

「自分の力でなんとかすればなんとかなれる」または「自分は弥陀をたのめるほどの素直なもの」と思うほどの、邪見驕慢はありません。

口に出しては言わなくても、自覚はたとえしなくても、「弥陀をたのめ」と何十回も聞かされ、三願転入の話を聞いて、最後に、「自力は間に合わない」と何十回聞かされても、弥陀に救われないのは、

「できると思う心」が頑としてあるからです。

だから、「できると思う心があるならやってみなさい」と勧められるのです。

念のため、以下の質問にもお答えください。

すみませんが、時間の都合で、また明日お答えします。

最後に

なお、貴殿は私が方便は不要だとか軽んじていいものだと主張しているかのように受け取っておられるようですが、それは認識違いです。

これに関しては、私もそうは思っておりません。

とても真面目に弥陀の救いを求めておられる方だと拝しております。

目的は、弥陀の救いであり、信心決定以外にはありません。

それ以外に人間に生まれた目的はないのですから、目的と手段を間違ってはならないと思います。

2008-06-24

方便について5(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんよりいただいたコメントより

(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080623/1214231987#c1214273008


「阿弥陀仏は19願・20願を方便であるとおっしゃられているでしょうか?また、釈尊は聖道諸経の中に「このお経は方便ですよ」とおっしゃられているでしょうか?いずれも方便とはおっしゃられずに「説かれている通りに実行し、説かれている通りに救われなさい」、と教えられていると思います。「できるかできないかやってみなさいと善を勧める」やりかたはとっておられないと思います。」

まず、以上の点ですが同意されますでしょうか?

これについては、前半同意、後半は同意できません。

「説かれているとおりに実行し、説かれているとおりに救われなさい」と

「できるかできないかやってみなさいと善をすすめる」は、イコールだからです。

元自称福徳会員さんは、上記の二つが違うという主張でしたので、前半同意、後半同意できずとします。

よって、元自称福徳会員さんが、紹介しておられる、十九願の根拠、二十願の根拠について

次の点です。これらの2つは19願、20願で勧められている善を実行すれば(実際にできるかできないかは別として)、それぞれの願に相応した往生ができる(救われる)と親鸞聖人がおっしゃられたお言葉と解釈します。同意されますでしょうか?

という点には同意します。

そうやって教え勧めることが、

「できるかできないかやって見なさいと善を勧める」という教え方

になるのです。

元自称福徳会員さんの文章を使うとそうなるのですが、ここで言われる善というのは何をさしていわれているのでしょうか?

十九願も、二十願も、十八願も、最も重視しなければならないのは心ではないでしょうか。

そういう意味からいえば、

「できるかできないかやってみなさいと善を勧める」という言い方は聞いたことがありません。

言うのであれば、「できると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということになります。

ものがらよりも、「できると思う心」こそ問題なのですから、目に見える財施の額の大小が問題ではないのです。

そうなりますと、「方便なら方便(真実の救いではない)と最初からいえばいいではないですか」といわれるでしょうが、それが、先のエントリーで書きましたが、方便を使われるのは阿弥陀仏なので、主語はあくまで「阿弥陀仏」なのです。聞いている側で決めることではありません。ただ、どうしてもそう聞いてしまう人が多いのは否定できません。

三願転入で、救われた親鸞聖人からすれば

「説かれているとおりに実行し、説かれているとおりに救われなさい」と

「できると思う心があるならやってみなさい」は、イコールだったと知らされていますので、

「久しく万行諸善の仮門」にいたと告白され、そこから「出でて」と言われているのです。

「できると思うこころがあればやってみなさい」は、阿弥陀仏の仰せです。その通りに教えること自体が間違いではありません。

しかし、これを聞き誤り、誤用するととんでもないことになってしまいます。

(目標達成のために)「できるかできないか(財施や顕正を)やってみなさい」という心でいえば、目的が違いますから間違いです。

事実財施を強力に勧める論拠になっている、または、善をしたら救われる(諸行往生の機)を多く生み出しているのではないかと思われると思います。

仏法を弘めるのに、個人でなく団体となったときには、確かにお金は必要です。そのために喜んで出しましょうというのが、本来の財施のはずです。だから喜捨ともいわれます。

また、仏法を聞かせていただい、自分に法を説いてくださった布教使にお礼の気持ちで出すものです。

それを、救いと結びつけようと思う心はどこから来るのでしょうか。

これは善だからいい結果がくるはずと、自分の尺度で決めているものがあるのだと思います。「これは善いことに違いない」と善悪を自分できめて、救いと関係づける心を自力と言いますが、そういう大変深く信じ込んでいる人には、それしかわからなければ、ではやってみよと勧める以外にありません。

勧める側に、救いと関係づけるように思っていう人はあるでしょうし、勧められる側にも「その方がわかりやすい」のではないでしょうか。

「救いに関係ないなら、なぜ財施するんですか?」と思われるひともあるかも知れません。

財施の意義は、前述したとおり、仏法を聞いたお礼の心で喜んでするもの、また、どうぞ使ってくださいという気持ちで出すものです。

お金が一番分かりやすく、また大事だからこそ、いろいろな感情が起き、いろいろ腹を立てられるのだと思います。

財施に限らず、自力の心のある間は、「仏法を聞いた」も「念仏となえた」も「これだけいいことした」も「これだけ褒められた」も、それが間に合ってどうにかなるというのが、弥陀の本願ではありません。

それは自称福徳会員さんが、コメントで言われているとおりです。

18願の現在の救いを真剣に求めていくと、「18願はそのまま救うと言う教えであり、自分がやった善や念仏では助からない」と聞かされてわかっているにもかかわらず、「善を足しにしよう・念仏を足しにしよう」と言う心がどうしても出てきます。この心が19願、20願の働きであり、そのまま、3願転入の道を進ませていただいておったのだと救われた後にわかる、と言う理解です。

求めるべきは、十八願の世界であって、その目的に向かって進めと教えられた方が、親鸞聖人です。求めるべき善とは十八願真実のことであり、勧められているものはそれ以外にありません。

その真実の世界に入れるために必要だからこそ、方便があるのです。

蓮如上人も言われているとおりです。

蓮如上人仰られ候

方便をわろしという事は有間敷なり。方便を以て真実をあらはす廃立の義、よくよくしるへし。

弥陀釈迦善知識の善巧方便によりて真実の信をば、うることなる由仰られ候と(御一代記聞書)

2008-06-23

方便について4・三願転入の主語は阿弥陀仏(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより

(全文 http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080618/1213784422#c

結論です。真宗の教えには真宗門徒に対し、18願に救われるために善の勧めはありません。ただし、いくら勧めても18願の救いを求めようとしていない人に対し、19願、20願の善を行うことができれば19願、20願の救いにあずかることができる、聖道諸経の中の善を行うことができればその中で教えられている悟りを得る事ができると方便として教えるのは正しいでしょう。それらの人に19願、20願、聖道諸経は方便で、その中に説かれている善をできるかできないかやってみなさいと勧める方法はありえないことだと思います。

上記の件とおよび、元自称福徳会員さんの以下の件

さて、法を聞く立場のものとして『「19願、20願は方便の願といわれる。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わない』ことが可能でしょうか?答えのない方程式であると聴かされた(理解した)上で、「答えのない方程式である」などと思わずに、真剣に問題を解こうという気になるでしょうか?

を読んで、思ったことを書かせて頂きます。

以前、説く側、聞く側で言い方が変わるというようなことを書きました。

18願、19願、20願は、いづれも阿弥陀如来の願ですから、その願に誓われている内容の主語は阿弥陀仏です。未信の行者ではありません。

どの願が方便であるか、真実であるかと言うことは、阿弥陀仏が決められていることであって未信の行者が決めることではありません。

私が、法を説く立場のものがと言いましたのは、「弥陀の御心をそのまま説けば」という意味で、未信の行者がどう思うかという視点ではありません。

よって

それらの人に19願、20願、聖道諸経は方便で、その中に説かれている善をできるかできないかやってみなさいと勧める方法はありえないことだと思います。

と思われるのは、元自称福徳会員さんが思った、感想であって、19願、20願を勧められているのは、阿弥陀仏です。「ありえないことだと思う」ことが、弥陀が19願、20願を建てられた御心だと言うことです。

同時に

『「19願、20願は方便の願といわれる。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わない』ことが可能でしょうか?

この、方便の願であるというのは、「阿弥陀仏が」言われていることであり、また、弥陀の18願にすくわれた世界から、「方便の願であった」と言われることであって、未信の行者がそう思えると言うことではないのです。

三願転入の親鸞聖人のお言葉は、すべて18願にすくわれた世界から言われており、また阿弥陀仏の御心から言われています。その三願の説明を聞く時の主語は、すべて「阿弥陀仏は」ということになります。

(阿弥陀仏)は19願、20願は方便の願と言われると、聞かされて(理解が出来たらその人は仏心の分かる人ですが)、(未信の行者が)方便であると思わないことが可能でしょうか?

という文章になります。

方便と分かるのは、方便の願を建てられた阿弥陀仏であり、お釈迦様であり、その弥陀の願心をそのまま伝えられる善知識なのです。

「未信の行者が、方便であると思わないことが可能でしょうか?」

と言割れますと、方便が方便と分かるという前提の文章ですが、そうなると、その方便が分かるという主語は、「阿弥陀仏」になります。「未信の行者」ではありません。

そのように、三願転入の御文を聞き、方便が問題になるのも、「阿弥陀仏」の願について、言われていることを、聞いている方が「未信の行者」を主語に勝手に置き換えて聞いているところに誤解の元があります。

「19願に教えられる通りの善を実行して、それから20願で教えられる念仏を称えて、最後18願に入るのだ」という理解は、主語が「阿弥陀仏」になっていないので間違いです。18願から見ないと、三願転入の御文は分かりません。

一方、18願だけで善いと言っているのも、弥陀が建てられて19願、20願を勝手に捨てて、これは方便、これは真実、方便だから不要と、「阿弥陀仏」が決められていることを、勝手に未信の行者を主語にしているという点では、本質的に同じです。

元自称福徳会員さんは、前述の「19願を通って〜」という教え方に疑問をもたれて、「18願だけでよい」と主張されているようですが、正しい理解になったのではありません。本質的に、「阿弥陀仏が」建てられた三願を、「未信の行者」に勝手に置き換えて、未信の立場から三願を見ている以上は、まったく本質的に変わっていません。

あくまでも、阿弥陀仏の御心から、説かなければ三願転入の教えにならないし、聞き間違えてしまうのです。

以前、高森先生から「救われるまでは矛盾としか思われない。救われるまでは真仮はわからない」と言われて、「救われるまではわからないこと。何とかそれで納得しよう」と思ってきましたが、

すくわれるまで分からないこと、と言われても、理解をしようという、元自称福徳のお気持ちは本当に尊いと思います。

「どうせわからんのだから」と、安楽椅子に腰掛ける人がやっぱり多いからです。

しかし、理解の目的は、18願の世界にすくわれるためです。

どうしたら分かるだろうか、分かったら早くすくわれるだろうか、どう聞いたらいいだろうか、と真剣に悩み、進む姿が、19願で誓われている「発菩提心 修諸功徳」の姿です。

その時の気持ちに、「方便だから」「間に合わんから」という気持ちになるでしょうか。

「助からない」という点で言えば、「理解」も間に合いません。「知った覚えた、合点した」のが、真実信心ではないからです。

「どうせ救われないなら、財施を一生懸命するのは意味がない」というのも

「どうせ知った覚えたでは、真実信心ではないのだから、合点しようと、真剣に聞いたり、沙汰をするのは意味がない」といっているのも同じことになります。

どうして「財施」「破邪顕正」はだめで、「真剣に聞いたり」「沙汰をする」ことは、いいことになるのでしょうか。いいことといったら「間に合う」と言うことになります。

ここで、聞き間違って頂きたくないのは、「真剣に聞くのが間に合わない」といったときは、(未信の行者が)真剣に聞く(という行い)がまに合わないと言っているのであって、「聞其名号」の聞くとは違います。

18願を求めているものに本来は19願で教えられている善を求める必要がないにもかかわらず、むりやり理屈をひねり出して人集め・金集めのために目標を掲げて破邪顕正・財施を勧めていたのではないかと思ってしまいます。残念ですが、いろいろな不祥事(盗作・長男の不倫とその揉み消し・会計疑惑等)を勘案するとそのように思えてきます。

最後にここについて、教えについてと思うところを書かせて頂きます。

18願の救いに、未信の行者の善根が間に合って救われるのでは確かにありません。

しかし、「阿弥陀仏」は、19願に善を勧めておられます。

「未信の行者」が、方便だと思って善をするということは、また19願の軌道にのっていないのです。

18願の世界にどうしたら出られるだろうかと、真剣に向い、間に合わないと言われても、何かせずにおれない気持ち(発菩提心)になり、なにかしようとする(修諸功徳)が、19願の願力によって阿弥陀仏に引っ張られている姿です。

菩提心が起きるのも、修諸功徳となるのも、「阿弥陀仏が」なされていることなのです。

その願意が分からぬもの(親鸞会の講師全員がそうとは思いませんが)が、19願をしたら、20願になる、20願の念仏していたら、いつの間にか18願になるというような理解(前後関係も主語も逆)で、勧め、聞く方も理解をするから、不審もいだかせる結果になるのです。

いつも三願転入の話しをされる時に、「これは阿弥陀仏のお言葉です」「これは誰のお言葉ですか?阿弥陀仏です」と何度も何度も、毎回のようにいわれるのは、未だの御心から話しをするということなのであって、未信の行者の立場での話しではないということです。

教行信証に親鸞聖人が書かれているのも、ほとんどが、信後の世界、信後の立場から書かれているのも、善知識は、「如来の代官」であり、「弥陀の御心」をそのまま伝えるということに徹していかれたからです。

2008-06-20

方便について4(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんよりコメントをいただきましたので、そこからお答えします。

※コメント全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080618/1213784422#c1213937002

「○○が目標、と聞くと、わくわくする人間の根性しかないんです」とありますが、親鸞会から出される目標を聞いてわくわくする人などおられるのでしょうか?皆さん、どうしようかと泣く泣く努力していると言うのが実情でないでしょうか?貴殿はどのような立場の方かわかりませんが、支部長や一般会員の実感と大きくずれているように思うのですがいかがでしょうか?(この点について現会員や元会員さんの率直なご意見を聞かせてもらいたいものです)

これに関しては、目標がでたことについて、わくわくするということについては、その目標に向かう動機付けという観点で書きました。

種々の目標自体、大変だというのは実感として多くの人が持っておられることには同意します。前向きに取り組む人もあれば、やる気を喪失する人もあると思います。

動機付けに大小はあると思いますが、それに参加する人は、どういった動機付けでその目標に向かっているのでしょうか。

「この目標にむかって活動すれば信仰が進むだろう」という動機付けではないでしょうか。

達成したときに、ほっと安心したり、よかったと安堵するのは、名誉欲が大きいでしょうか、その根っこにあるのは、それによって信仰が進んだという思いではないでしょうか。

また、そういう活動をするときに「自分はこれだけ信仰を求めている」という実感です。

そういう点で、「わくわくする人間の根性」と表記しました。別に、まったく苦痛を伴わないということではありません。

さらに親鸞会の目標について2点について正しいか質問します。

・目標を達成しようができまいが、助かるか助からないかは全く関係ない。

・目標に向かって努力しようがしまいが、助かるか助からないかは全く関係ない。

「助かるか助からないか」ということからいえば、言い換えますと

「縦の線を突破するかしないか」

「自力が廃るか廃らないか」

「信楽と生まれさせられるか、させられないか」という一念の水際においては、全く関係ありません。

「目標達成した」「目標にむかって努力した」など、私たちの行いは、阿弥陀仏の本願力によって救われることと無関係なので、他力の救いといわれるのですから。

逆に、「目標達成できなかったら、救われない」となったら、自力の行が間に合うことになるので、教義に反します。

私たちのやる行いは、善いと思っている行いも足しにはならず、悪いと思っている行いも碍りにはなりません。

助かるか助からないかは、雑行雑修自力の心が廃ったかどうかで決まります。他に、救われるか救われないかを決めるものがらはありません。

また、「周囲の評価が高い人は、今の格好をくずすことはできず方便が方便になってない」とあります。親鸞会では恩徳報謝賞・真実開顕賞などの表彰制度を設けていますが、これらについては「方便が方便になってない」ことを助長しているのではないでしょうか?

これに関しては、結果として「方便が方便になっていない」ことを助長する結果になっている人もあるでしょうし、そうでないひともあるとは思います。

確かに、みんなの前で賞讃されたり、賞状をもらったり、機関誌に報道されたりすると、まわりが褒めるということが、自力の上塗りと言うことになってしまうことも多いと思います。

実際の気持ちは、その当事者に聞いてみないとわかりませんが、 助長された人が多いのではないかと思います。

支部長であったり、幹部の人では、助長することで○○目標を達成しようという人もいるでしょうし、そういう人がいることは否定しません。

では、何のために、表彰制度があるのか。という質問になると思います。

どうしても形のあることしか分からない人が多く、それを喜ぶ人が圧倒的な状況で、財施という行為を通して少しでも仏縁をと言うことかもしれません

ただ、縦の線の水際では、それは全く関係ないということは前からも書いてきました。

捨てねばならないのは自力の心であり、財施と関係づけようという心なのです。

では、そういうことをしなかったら、絶対信心決定まで求め抜く人が今よりもっともっと増えていたのか?と問われると、それは、分かりません。

親鸞聖人がおられた800年前の真宗教団と、蓮如上人時代の、本願寺教団では、どちらが真実信心を獲た人が多かったのか。

説法の内容以外の方法論で、どれだけの人がご縁を結ぶと言うこととは別の段階の、真実信心を獲るひとがどれだけ変化するのかということは分かりません。

真実信心は、あくまで阿弥陀仏から賜るものなのですから。

真仮の水際で、表彰されたかどうかも含めて私たちの自力の行いは、関係ない、とはっきりと、ご法話でも、言われている以上は、聞いたほうの責任といえます。

また、その誤解を(おそらく自身も誤解して)増長している人の責任です。

そうなると、加害者はだれ、被害者は誰という犯人捜しをしたい気持ちの人も多いでしょうが、それはこの文章を読まれている方が決めることではないかと思います。

そういう点で大事なのは正しい教えを知ることに違いありません。

なお、17日・18日の方便に対する貴殿の記載内容は私がかつて親鸞会に在籍していたときに高森先生からお聞きしていた内容かと思います。このことについては貴殿は同意されますか?

その点は同意します。また、真宗の教えと違ったことを書いているつもりはありません。

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の 身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ(浄土和讃)

ご和讃を紹介していただき有り難うございました。

浄土真宗は信心為本の教えであり、真実信心は、不可称不可説不可思議の信楽と言われるように、私たちにはなかなかわかりにくいものです。

信前においてわかるのは、雑行雑修自力の心です。

これが、本当に問題になったなら、目標達成したとか、しないとか、努力したとかしないとか、自力が廃ることと関係ないと言うことは、実際に分かるときが来ます。

なぜ、救われても欲や怒りの煩悩は変わらないのか。

雑行雑修自力の心が問題になればわかります。

どうしたら捨てられる、どうしたら楽になれると、苦しみ計らうままが、阿弥陀仏の上に立ってあれこれ計らう心であり、自力の心そのものなのです。

その上での信心の沙汰(信疑決判)であり、そこをどうしたら捨てられるのかと、聞くのが、火中突破の聞法といわれるのです。

「大千世界にみてらん火をすぎゆきて」しまったら死んでしまいます。

実際に自力の心が死ぬときが、「仏の御名をきく」ときであり

「ながく不退にかなう」ときなのです。

2008-06-18

方便について3(元自称福徳会員さんのコメントより)

方便と真実の関係について3(元自称福徳会員さんのコメントより)

コメントを頂きました。

おたずねの件について、回答いたします。

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080617/1213702732#c1213755192

貴殿に確認です。方便に関する貴殿の主張は以下のとおりでよろしいでしょうか?間違いでしたら、できるだけ以下の文をベースにして書き換えてください。

法を説く立場のものは『「19願、20願は方便の願であり、助からない願である。全ての人は本当の意味で19願の善、20願の善(念仏)を行うことはできない。」と説いた上で、「19願の善、20願の善を行うことはできない自分だった」と知らされるところまで善をしなさい』と善を勧めるのは正しい。『「19願の善、20願の善(念仏)を行うことにより化土往生できる」と説くこと』は誤りである。

法を聞く立場のものは『「19願、20願は方便の願であり、助からない願である。全ての人は本当の意味で19願の善、20願の善(念仏)を行うことはできない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」と思わずに19願の善、20願の善をすることに勤めなければならない。『「19願の善、20願の善をすることにより化土往生できる」と思って善に勤めること』は誤りである。

まず、確認の件についてお答えする前に、方便と真実の関係について、ここで改めて説明をさせていただきます。

ここでいう方便とは、19願、20願、真実とは18願のことになります。

19願、20願は方便の願なんですが、方便と知ろうがするまいが、関係無いんです。問題はその人が、どうとりくむか、つまりは、体にかかってくると、本当の意味での求道となってくると、方便だから、ああ真実でないから、と言っていられません。

方便が方便になるのは真実があるからで、方便が方便にならないのは、真剣にとりくんでない人が言うことです。

真剣に弥陀の救いを求めてやろうとしたら、人間のやることは、19願、20願に放っておいてもなります。

方便だから、とこだわえるのは、そこまで、心がすすんでいない証拠です。

方便が方便になってないということです。方便が真実と同じくらいの重さがあるといわれるゆえんです。

方便が方便になっていないのに、ああでもない、こうでもない、というのは、それは、外から眺めているからで、横の線の軌道にのった人は、方便だから、真実だから、という区別をその時点ではしてませんから。真実に近づけるに、絶対必要なものを方便と言います。

そう言うことから言いますと、元自称福徳会員さんが理解しておられた(または、先輩や担当講師に当たる人から聞いたと思われる話し)は、逆になります。

方便をせずにいられなかった、んでなくて、これは方便、次に真実と方向がさかさまですので、この疑問は多くの人が持ってます。

親鸞聖人はというと、やはり、真実を知られなくても、取り組み方は、尋常ではありませんでした。

ふりかえって、三願転入をいわれましたが、同じく、人間は次元の差こそあれ、真実を最初にいつもしめされても、どうしても、方便をやってます。

顕正や、財施をしてみたり、教学にはげんでみたりしてます。

これは、何も、だまされたというばかりではなく、本人が、それで、納得してる部分が大きいのです。

なぜなら、そのほうがわかりやすいからです。

そういう意味では、比叡の山に入られた親鸞聖人と、かわりは、ありません。やってることは、大曼の難行に比べれば、お粗末ですが。

だまされた、のでなくて、○○が目標、と聞くと、わくわくする人間の根性しかないんです。

そういうことが本来したいんですから。

厳しい心の追及、誰も認めてくれない内部への働きかけ、は名誉欲が大きな山ほどある人間にとっては、非常に厳しいといえます。

あの人はすごい人だ、とだれしも言われたいので、「すごい」といわれるものに、一生懸命になります。

あいつよりは、おれが上、とどうしても思いたい心はないでしょうか?

そのためには、恰好で負かすしかありません、そういう根性をまるだしにして、やっているわけです。

しかし、真実が必ず知らされていますので、おれは、これでいいのかと、自問自答をすることになりますが、周囲の評価が高い人は、今の格好をくずすことはできず方便が方便になってない、まったく抜けた求道になっていますので、いつまでたっても、たすかりませんし、自力などわかりません。

繰り返しになりますが、体にかけて、真実を求めている人、求めたことがないひとには、方便と同じくらい真実が大事だと言うことはわかりません。救われてみなければ、あれが方便であったと言うことはできません。

そういう点で、元自称福徳会員さんの文章を元に書いてみますと

「法を説く立場のものは、まず18願を指し示し、ここが目的地であり、ここが真実の救いである。『「19願、20願は方便の願であり、必ず通らねばならないところです。全ての人は19願の善、20願の善(念仏)を行うことはできるかどうか、やってみなさい。」と説いた上で、「19願の善、20願の善を行うことはできない自分だった」と知らされたときが、救われたときです』と、できるかできないかやってみなさいと善を勧めるのは正しい。『「19願の善、20願の善(念仏)を行うことにより化土往生できる」と説くこと』は誤りである。

法を聞く立場のものは『「19願、20願は必ず通らねばならない願であるから、方便の願といわれる。方便であるから、真実ではない。全ての人は19願の善、20願の善(念仏)を行うことができたから助かるのではない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わずに、18願の救いを求めて、体にかけて法をもとめるままが、19願の善、20願の善になるのです。『「19願の善、20願の善をすることにより化土往生できる」と思って善に勤めること』は誤りである。また、これはどうせ方便だからなどと思って善に励むのも、体にかけて法をもとめていない証拠である。

こうなります。

もう一つについては、これが解決してからまたエントリーします。

2008-06-17

方便について2(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんから頂いたコメントです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080615/1213533162 コメント欄より)

私が言いたかったことはあらかじめ、「これは方便だよ」と言った上で、方便をやらせると言うのはおかしな話と言いたいのです。うそも方便と言われますが、あらかじめ「これは方便のための嘘だよ」と言っては方便にならないと言うことです。

これに関して最初にお答えします。

真実に導くためのものが方便と言うことですから、「これは方便だよ」と言って、また「どうせ方便なのだから」思っていたらそれは方便になりません。

同じような文脈は、親鸞聖人の教えを聴いている人の中で、よく聴かれる言い方ではあります。

「善を勧められるのは、私たちが善が出来ないと知らせるための方便なんですから、一生懸命善に励みましょう」

言葉上一見間違ってはいないようですが、これを聴いた人は必ず違和感を感じるはずです。

「善が出来ない」と知らされるのと、「善ができない」と結論を知っているのとでは、同じ知っているでも全く異なります。

弥陀に救われた「あれはご方便であった」と知らされるのと、「これは方便なんだ」と聞いているのとでは全然異なります。

弥陀の救いの上でのご方便とは、阿弥陀仏のご方便でありますから、弥陀の19願力、20願力が、救われる前に自覚できるものではないということです。

真実弥陀の救いにあった時、「あれは19願の願力、20願の願力に、引かされたご方便であった」と知らされるものです。

よって、説法の場であれば、これは釈迦の代官として話をするのでありますから、これは方便、これは真実と、すっきり分けて話をしなければなりません。

しかし、そうでない場で、「これは方便だから云々」という話は、やはり合いません。本来仏さまが使う言葉を、人間の目線でいうから違和感を感じるのです。

よく有るケースとして、

「私たちは曽無一善(一つの善もできないもの)とお釈迦様は教えられている」と、言うのは何の問題もありません。言われているのはお釈迦様ですから。

「どうせ私たちは曽無一善だからねぇ」と自分の言葉で自分のことをいうのは、仏さまの言葉を、人間が話すため、どうしても違和感が生じるのと同じです。

「方便がウソ」ということではありません。不要な方便なら、19願も、20願も阿弥陀仏は建てられませんでした。

真剣に18願の世界に向って進む人が、19願の願力で引きづり出され、20願の願力引っ張られて、18願の世界に転入するのです。

これは、弥陀に救われたなら振り返り必ず知らされることであり、三願転入の御文について解説を聞けば、万人共通の体験と言われるゆえんが分かるところです。

時間の関係で続きはまた後日お書きしますが、一つだけ気になるところですが

「佛願の生起本末」を聞かせていただく聴聞や信心の沙汰が、優先的に行うことである。

これはなにかの、ご法話の演題のことのように読めないこともないのですが、仏願の生起本末以外に、仏教はありません。上記の文脈だと「仏願の生起本末を聞かせて頂く聴聞」と「聞かせて頂けない聴聞」があるということでしょうか?

そういう意味で、「三願転入の御文」についてでも、「歎異鈔第1章」でも、「阿弥陀仏の本願」でも、仏願の生起本末を聞かせて頂いているのであって、他には何もありません。

親鸞聖人の教えが、仏願の生起本末以外にないからです。縦の線と横の線をいつも書かれるのは、それをあらわされているのですから。