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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-05-02

南無阿弥陀仏に飛び込むには、どんな飛び込み方をしたらいいでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏に飛び込むには、どんな飛び込み方をしたらいいでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏に飛び込むといっても、南無阿弥陀仏はどこにあるのかが問題になります。自分から離れた場所におられる南無阿弥陀仏ならば、「どうやって飛び込むか」「飛び込む条件はなにか」が問題になります。


しかし、南無阿弥陀仏は遠くにあるのではありません。遠くでまっておられるのではなく、直接私に喚びかけ、働いて下さっているのです。

そのことを、親鸞聖人教行信証行文類に以下のように言われています。

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行文類)

http://goo.gl/BcK1S

南無阿弥陀仏は、私を招きよび続けておられる阿弥陀仏の強い仰せです。喚び声とも昔からいわれています。阿弥陀仏が私によびかけられる喚び声ですから、当然私にその声は届いています。届いている声となった南無阿弥陀仏ですから、飛び込むのではなくこちらは聞くだけです。


私が飛び込むのではなく、阿弥陀仏の方から南無阿弥陀仏となって飛び込んで来ておられます。それを、疑い無く聞くだけです。それを疑いを交えて、「まだ遠くにおられる」とか「自分はまだ聞けない」とあれこれ計らっていてはいつまでたっても聞けません。


南無阿弥陀仏に飛び込めという言い方もありますが、それはあれこれ計らうその計らいを捨て去りなさいという意味です。また、南無だ弥陀仏から逃げずに向き合いなさいという意味で使われているものだと思います。阿弥陀仏がどれだけ喚びかけておられても、この私が疑ったり逃げていては聞いたことにはなりません。

あれこれ考える計らいは、何の益もありません。南無阿弥陀仏をそのまま聞いて、南無阿弥陀仏となってください。

2013-04-27

南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が「名無しの凡夫」につけて下さる私の名前です。

ここ何回かのエントリーで、南無阿弥陀仏のすがたとか、六字のいわれについて書いてきました。

その名号を聞いているのが信心ですから、親鸞聖人は名号を聞くの「聞く」ということについて

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻末_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P251)

http://goo.gl/fw2nQ

といわれています。

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることない」のが「聞いた」ことだといわれています。「仏願の生起本末」とは、阿弥陀仏が私を救う本願を建てられた由来と、その本願が成就して現在南無阿弥陀仏となってよびかけて下さっていることをいいます。


喚びかけるということは、私に向かって「ただ今お前を救う」と阿弥陀仏が名を告げられることなので、南無阿弥陀仏のことを名号といいます。しかし、この名号は、単にご自分の名前を名乗られているのではありません。私に向けて名を告げられているのですから、聞いた私の方から言えば、それは「私の名」と聞くものです。


善導大師は、この南無阿弥陀仏の喚び声を二河白道の譬で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。(教行信証信巻引文より浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P224)

http://goo.gl/DWjLs

と言われています。

ここで「なんぢ(汝)」と喚ばれているのは誰かといえば、「私」のことです。「誰か」に言われていることではありません。また、一方的に阿弥陀仏が自分の名前を告げられているのが名号ならば、私にとってあまり関係のないこととしか思えません。例えて言えば、選挙カーが候補者の名前を連呼しているのを聞いているように感じてしまいます。国政選挙をはじめ、選挙は自分に無関係な話ではありませんが、「みなさんこの度、立候補した○○です」の「みなさん」に自分は入っているものの、聞いた側としては「みんなに言っているのだろう」くらいに聞いています。


しかし、相手が誰であれ自分の名前を名指しで言われれば「自分のことだ」とわかります。また、実名を呼ばれなくても、よぶ相手が「そこの貴方」と私にめがけてよびかけると「それは私のことだ」と判るものです。人間の発声の世界でも、背中を向けた5人の中の一人にめがけて声をかけると、声をかけられた人は自分が呼ばれたことが判るとのことです。


阿弥陀仏は、私めがけて「南無阿弥陀仏」とよびかけられています。しかも、本願が成就していらずっと過去から私一人に「南無阿弥陀仏」と呼ばれています。それを聞いた私は「南無阿弥陀仏とは私のことですか」と聞くのが、名号を聞いたといいます。そこで南無阿弥陀仏は私の名となり、私が南無阿弥陀仏となります。その名のとおりに、私は浄土に往生し仏に生まれることができます。阿弥陀仏が名号を私にさし向けられるということは、現在の私にとって分かりやすい言葉で言うと、私に名前を与えてくださるということです。


戸籍上の名前はあっても、本当の名前を知らないのが私です。名前を知らないということは、自分が何者かを知らないということです。そのため、自分が何者であり、何処から来たのかも何処へ行くのかも知らずに生死を重ねています。その私に向けて、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と名のられて私に本当の名前である南無阿弥陀仏と名づけてくださいます。南無阿弥陀仏は、仏の名前ですから、その名を付けられた私は仏の子となるのです。阿弥陀仏から「名無しの凡夫」に仏の子と名づけて頂いたことに疑い無いことを、名号を聞いて疑い無い信心と言います。

2013-04-24

私は、最初、本願寺の御説法で聞いた『阿弥陀様は“声の仏様”になって下さいました。信心と申しますのは、この“南無阿弥陀仏”を聞いていることでございます。』の意味が全くわかりませんでした。(しかばねさんのコメントより)

前回のエントリーに、複数の方からコメントを頂き有り難うございました。

その中で、

しかばね 2013/04/23 17:33

(略)

私は、最初、本願寺の御説法で聞いた『阿弥陀様は“声の仏様”になって下さいました。

信心と申しますのは、この“南無阿弥陀仏”を聞いていることでございます。』の意味が全くわかりませんでした。(略)(しかばねさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130422/1366574505#c1366705996

とあったことについて書きます。


阿弥陀仏は私を救うために本願を建てられて、その結果南無阿弥陀仏の名号を成就されました。そこで、阿弥陀仏に救われるというのは「阿弥陀仏」という仏様が、臨終来迎図のような姿であるときドーンと目の前に現れてくださるのかと思う人もあると思います。以前は、私もそのように考えていた時もありました。

「絵像や木像の阿弥陀仏そのままの姿ではないものの、何か言葉で表現できない「『ものすごいもの』が私にドーンと届いて下さるのではないか?」というものです。

しかし、阿弥陀仏は名号となって私を救うといわれています。そのことを親鸞聖人は,

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻より_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P180)

http://goo.gl/ogtwJ

と引文されています。


阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となり人を救ってくださいます。この南無阿弥陀仏の名号を耳に聞き口に称えると、限りない功徳が心に入ってくると言われています。阿弥陀仏は、名号で私を助けてくださいます。名号は「耳に聞き口に誦する」と南無阿弥陀仏の称名念仏といわれます。この南無阿弥陀仏の声は、阿弥陀仏が私を助ける姿となられたものですから声の仏と表現しています。


この南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのないのが信心ですから、

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。 (御文章5帖5通)

http://goo.gl/CvKdp

と蓮如上人は言われました。


南無阿弥陀仏のいわれを、今の日本語に書けば前回のエントリーに書いた「お前をただ今救う」ですが、実際に「耳に聞き口に誦する」のは「南無阿弥陀仏」です。「お前をただ今救うぞ」という日本語が、どこか遠くから聞こえるものではありません。「声無き声」という人もありますが、声がないのではありません。「南無阿弥陀仏の声」が「南無阿弥陀仏」と聞こえます。南無阿弥陀仏と聞こえたのが、「お前をただ今救うの阿弥陀仏の仰せ」と聞いて疑い無いのが信心です。


追記

6月23日(日)に愛知県西尾市にご縁があって行くことになりました。話を聞きたい方は、ご連絡下さい。

2013-04-22

六字のスガタとは?何ですか? 南無阿弥陀仏のスガタとは?何ですか? 六つの字の心とは何ですか?(西玉子さんのコメントより)

エントリーが遅くなり、すみませんでした。

西玉子 2013/04/20 15:53

こんにちは。お尋ねします。六字のスガタとは?何ですか? 南無阿弥陀仏のスガタとは?何ですか? 六つの字の心とは何ですか? 南无阿彌陀佛 南無阿弥陀仏 ナモアミダブツ 合掌。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130419/1366311561#c1366440834

南無阿弥陀仏のすがた、六時のすがた、六つの時の心は御文章に出てくる御言葉です。意味は、どれも同じです。


その中の一つを紹介しますと、御文章5帖目5通にこのように書かれています

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。 (御文章5帖5通)

ここで、すがたと言われているのは、いわれ、とか、おもむきときいう意味です。

南無阿弥陀仏のいわれをこころうることが、第十八願をこころうることであり、信心獲得するということだといわれています。


では、南無阿弥陀仏のいわれとはなにかといいますと、南無阿弥陀仏とはそもそも何であって、どうして私に働いてくださるのか、どうして私を救ってくださるのかということです。


いわゆる「仏願の生起本末」と意味は同じです。それをこころうるとは、「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」となったことが信心獲得です。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が私を救うために本願を建て、それを成就せられた結果、私に現在よびかけられる阿弥陀仏のお働きそのものです。そのお働きどおり「お前をただ今救う」と聞いて、南無阿弥陀仏にまかせたことを信心獲得といいます。

2011-05-11

正御本尊は信心決定の為に、絶対必要なものなのでしょうか?(アドウチさんのコメント)

アドウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

 私は親鸞会を退会した時から正御本尊が有りません。

 購入したとしても、事情があって家にお掛けすることが出来ません。

 正御本尊は信心決定の為に、絶対必要なものなのでしょうか?(アドウチさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110509/1304888965#c1304993876

「絶対に必要なもの」ではありません。もちろん、本尊は大事なものですが、「これがないと信心決定出来ない」という救いの条件ではありません。

もし、名号本尊を自宅に安置できなければ救われないとなれば、種々の事情でそれができない人は救われません。また、「必要なもの」と聞くと、「信心決定するための必要なモノ」のように聞こえますが、そんなモノはありません。南無阿弥陀仏を疑いなく聞く一つです。

信心決定はひとえに本願力によるのであって、「本尊力」によるのではありません。

(13)

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき

 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃13・P580

「本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなき」ですから、「本尊を安置するかしないか」の「本尊力」ではありません。

本願力とは、南無阿弥陀仏のお働きのことです。南無阿弥陀仏のお働きが私を救って下さいます。その南無阿弥陀仏のお働きは、名号本尊という掛け軸から出てくるものではありません。

いつでもどこでも、常に私に向かって働きかけて下さっているのが本願力です。「まずは名号本尊にしなさい、そうしたら助ける」「そうしなかったら助けない」という本願ではありません。


本尊は大事なものですが、本尊が家にないから救われないのではないかと心配する必要はありません。

ただ今救う本願力は、ただ今必ず救うと働いておられます。南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。

おまけ 

D

消臭力も、「消臭力のボトル」に力があるのではありません。「消臭する力」が消臭します。「消臭する力」は、「ボトルの中」にしか存在しないものではありません。

2010-08-30 自力を交える念仏とは?(でんさんのコメント)

自力を交える念仏とは?(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

自分で口を動かし、声に出さねば南無阿弥陀仏は出てこない

そこに自力を交えずとは?(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100826/1282813160#c1282986480

阿弥陀仏が、私を往生させるための行として選び取られた行を、親鸞聖人教行信証の行巻最初に「大行」と言われています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻

阿弥陀仏は、どういう形で私を助けるために働いておられるかと言えば、南無阿弥陀仏という声となって、念仏の形となって私を助けるために働いておられるということです。五劫思惟され、兆載永劫の修行をされた阿弥陀仏の大功徳は、目に見えませんが、現実に働いておられます。私の口に南無阿弥陀仏という形になって生まれて下さいます。

しかし、南無阿弥陀仏と口を動かして称える念仏を、「これは自分が称えた南無阿弥陀仏」「これは私が称えた念仏」「これは私が称えようと思ったから称えた念仏」というように、阿弥陀仏の行を自分の行のように思うから、往生の助けにしようとしてしまうのです。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。(教行信証化土巻

本願によって選び取られた行である南無阿弥陀仏を、自分で作ったまたは利用した行と思うものは、信を生ずることはないといわれています。

自力を交えないというのは、そのように本願の行である南無阿弥陀仏に、自分で「このようなもの」と定義したり、自分の善根のように思い往生の足しにしようとしないということです。

如来の行でありますから、そこに自分の計らいを交えると自力の念仏となり往生はできません。

2010-08-26 耳に聞こえる念仏が、阿弥陀仏です(でんさんのコメント)

耳に聞こえる念仏が、阿弥陀仏です(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。でんさんのコメントについて、maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「きく」とは言うけれど、知ることを聞くというのだと思ってました。

本当に音として耳に聴こえてくるのですか。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100824/1282612586#c1282633848

音として聞こえています。でんさんも、今まで念仏を称えて南無阿弥陀仏と称えたことがあると思います。そのとき、ご自分で「南無阿弥陀仏」と称えられる声を、自分の耳で聞いたのが阿弥陀仏の仰せです。

正信偈に

重誓名声聞十方

(重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。

と言われています。

名号を声とされて、十方に聞こえんとされているということです。

阿弥陀仏は、この目で拝見できる仏様ではありません。南無阿弥陀仏という声の形の仏に成られたからです。

ですから、私が阿弥陀仏のお姿を目で見ることはできません。南無阿弥陀仏と名乗りを上げられ、それが声となられたのが、今の南無阿弥陀仏です。

ですから、どんな人が、どんな気持ちで称えている南無阿弥陀仏でも、阿弥陀仏が声となられた南無阿弥陀仏でないものは、一声も無いと言うことです。

夜に墓場の近くを通って恐ろしい気持ちになって称える南無阿弥陀仏も、俳優が台詞として称える南無阿弥陀仏も、阿弥陀仏に救われた人が称える南無阿弥陀仏も、全部声の形になられた阿弥陀仏のお姿です。お姿といっても声なられてるので、目に見ることはできません。

問題は、その声となられた南無阿弥陀仏を、自分が称えているように思っているところにあります。どんな気持ちで称えていても、それは阿弥陀仏が、声となって現れておられるのです。それを自分で称えたもののように思い、自分の善根となるように思うのが、名号を疑う心であり、本願を疑う心です。

2009-11-04 南無阿弥陀仏はつかむものではありません(頂いた質問)

南無阿弥陀仏はつかむものではありません(頂いた質問)

メールで頂いた質問です。

今私がつかもう獲ようとしているその信心,念仏称えて頂こうとしている名号とは,自分の頭で作り上げている南無阿弥陀仏,自分が勝手に思っている想像している信心ではないでしょうか。そんなありもしない架空の南無阿弥陀仏を何とか信じよう,つかもう,獲ようと励んでいることになるのでしょうか。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の働きそのもののことです。自分で作り上げるものではありませんが、どのようなものかということはよく知る必要があります。

南無阿弥陀仏について、蓮如上人は、御文章に善導大師の六字釈をひかれて教えておられます。

この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。(御文章5帖目13通

南無とは帰命であり、発願廻向という意味である。阿弥陀仏とはその働きであるといわれています。このことから、南無阿弥陀仏によって必ず往生することができるのだといわれています。

さらに、この善導大師の六字釈について、蓮如上人は詳しく教えて下さっています。

しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。(御文章5帖目13通

この善導大師の六字釈をどのように心得たらよいかといえば、例えば我らのような悪業煩悩の身であっても、一念阿弥陀仏の仰せに従えば、必ず本願に信順するものを助けてくだされるのである。帰命というのは、阿弥陀仏の「ただ今救う」の仰せに対して「どうぞお助け下さい」とそのまま受ける心である。だから、一念に阿弥陀仏をたのむ者に往生浄土させる大功徳をあたえることを、発願廻向とはいうのだ。

帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻

帰命というのは、阿弥陀仏の仰せに従うことです。勅命とは、断るとか、しばらく考えるという猶予を与えない強い仰せということです。阿弥陀仏が、「直ちに来たれ」と言われれば、有無を言わさずそれに従わざるを得ないと言うことです。

阿弥陀仏をたのむものに無上の功徳をあたえるこころですから発願廻向といいます。

御文章に続けてこういわれています。

この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。(御文章5帖目13通

阿弥陀仏が私たちに与えるために修められた大功徳を我々に与えて下さるから、法の徳の上からいえば罪を消滅させていただいたと同じく、正定聚不退転の位に入るのです。

このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。(御文章5帖目13通

と結論としてかかれています。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏をたのむものを一念で必ず救うという阿弥陀仏のお働きそのものを、私たちに分かる形であらわされたものです。

「車」とか「テレビ」というようなただの記号ではありません。実際に私を助けようという働きそのものを「南無阿弥陀仏」といわれます。必ず救うと私たちに名乗りをあげられたものが、南無阿弥陀仏なのです。

ですから、南無阿弥陀仏はつかむもではありません。働きそのものはつかめません。月の光をこの手でつかむことができないとの同じ事です。

ただ今救うと願を建てられた、阿弥陀仏の仰せに従うのが、阿弥陀仏に救われるということです。何かをつかむのではありません。阿弥陀仏にただ今救われるのが信心です。

2009-07-13 素直にわかりましたと素直になれるから助かるのではありません(orim

素直にわかりましたと素直になれるから助かるのではありません(orimaさんのコメント)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

どうしたら与えるといわれる行を、素直にわかりましたと受け取れるのでしょうか。

南無阿弥陀仏を頂こうと力んでみたり、もう分からんとなってみたり、繰り返しているような感じです。(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090712/1247397060#c1247456868

回答します。

素直に受け取るというのは、「素直にならねば受け取れない」と言うことではありません。言葉で書くといろいろと誤解をされるところです。

「素直に受け取れ」と聞けば「素直にならねばならない」とか、「素直でないから受け取れない」とどうしても考えてしまいます。そうなると、阿弥陀仏に救われた人は皆素直な人であるということになります。

信前信後、私の姿はかわりません、素直でない者は救われても素直ではないのです。

南無阿弥陀仏に向かっていく場合も、orimaさんのコメントを見る限りでは、自分の心を変えよう変えようとしておられるように思います。

自分の心をなんとか変えなければ助からないというのは、すべての人を救うという阿弥陀仏の本願を、「素直に」受け取っていないのです。

自分の心を見つめる心は大事な事です。しかし、変わらないはずの自分の心を一生懸命変えようと頑張っていくと、阿弥陀仏の本願に心がかからなくなります。

先ず、当流の安心の趣は、あながちにわが心の悪きをも、また妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず。(御文章1帖目3通・猟漁)

上記の御文章に、「妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず」といわれているのは、「素直にならねばならない」「執着の心を離れなければならない」という心を離れなさいということです。

力んでみたり、もうわからんとなるのは、自分の心に振り回されているのです。一心に阿弥陀仏に帰命することが大事です。

ただ今阿弥陀仏にすくわれることがあります。

2009-06-30

私とはなにか(papaさんのコメント)

papaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏と一体になる私(信念冥合の機法一体の機)とは、どんな私でしょうか?

このようにお尋ねしている私(意識)とは違うものでしょうか?(papaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090625/1245932609#c1246095881

これについては、蓮如上人の御文章に以下のように教えておられます。

更に一念も本願を疑う心なければ、辱くもその心を如来のよく知ろしめして、既に行者の悪き心を、如来のよき御心と同じものになしたまうなり。

この謂をもって、『仏心と凡心と一体になる』といえるはこの意なり。(御文章2帖目10通・夫れ当流聖人・仏心凡心)

行者の悪き心を、阿弥陀如来のよき御心と同じものにして下されるのだといわれています。それを「仏心と凡心と一体になる」のだと言われています。

一体になる機というのは、阿弥陀如来が救うと言われている機ですが、どこまでが私なのかというのはそのあたりは分かりません。

自覚の上から言えば「私を救って下された阿弥陀仏」といっている「私」が、「救われた」と言っているのですから意識が入るのは間違い有りません。

ただ、生まれた時に生じる「自我」というものをだけを救うというのであれば、十劫の昔に本願を建てられたときにその「私という自我」は無かったわけですから、本願のお目当てそのものではないということになります。煩悩具足の凡夫を目当てに建てられた本願ですが、煩悩と意識はどう違うのかと言うのは宗派・学問により解説が違うので私もよくわかりません。

ただ、意識=自力ということではありませんので書いておきます。

救われるとか、一体になるというのは、その凡心が変化するということではありませんので、御文章には続けて

これによりて、弥陀如来の遍照の光明の中に摂め取られまいらせて、一期の間はこの光明の中に住む身なりと思うべし。(同上)

と言われています。ただ今阿弥陀仏に救われると、阿弥陀仏の光明におさめ取られ死ぬまでそこから離れない身になるのだと言われています。

一体というのは、阿弥陀仏の光明におさめ取られて、捨てられないわけですから、papaさんが質問される意図を推察しますと、分類はあまり意味が無いと思います。私という意識だけて光明におさめとられるわけでも、それ以外の場所だけおさめとられるわけでも無いのですから。

2009-05-21 花さんと1さんのコメントに回答しました。

南無阿弥陀仏はどういう人を救うために成就されたのか(花さんのコメントより)

花さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏は十方衆生を助けるために南無阿弥陀仏を成就してくださいました。仏様の慈悲は苦ある者に偏に重しと聞かせて頂きましたが人生は楽なりと思っている人より、人生苦なりと苦しんでいる人が先に救われるのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090512/1242102913#c1242870833

回答します。

今現在どういう状況だから、先に救われるということはありません。

現在人生楽なりと思っている人も、いつどういう縁で人生苦なりとなるかもしれませんし、それがご縁となって仏法を聞こうと思われるかもしれません。

ただ、「人生苦の強弱」が、信心獲得を早めたり遅くしたりと言うことはありません。もし、そういうことが言えるのなら、人生苦をより味わうのが仏法を求めるということになってしまいます。しかし、それは聖道仏教、自力修行の仏教の発想です

苦しむ者に偏に重しといわれたのは、私たち人間の中に差別を設けられたということではありません。阿弥陀仏の目からご覧になられれば、みな同じなのです。自力で修行して悟りが開けるような人がいるとするなら、そういう者よりも、生死出離の行が一つもできないもの目当てに建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。(教行信証教巻)

花さんがいわれるように、阿弥陀仏が願を建てられ、南無阿弥陀仏を成就されたのは、われら凡夫を哀れに思われて与えるためなのです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄第3章)

歎異抄には、このように、どんな行をしてみても生死を離れることができない者と見抜いて阿弥陀仏が本願をおこされたのは、私たちを仏に成らせるためですから、阿弥陀仏に救われた人が、往生出来るのだといわれています。

大事なのは、どんな人が助かるのか?ということを聞いてその人をまねするのではありません。

私はどうしたら助かるのか?ということです。それが求道です。

我がごととして真実信心を求め、なかなか求まらないことに苦しむ人には阿弥陀仏の願力がかかっています。それはより仏の慈悲が強くかかってきたのではなく、もとから強く阿弥陀仏の慈悲がかかっているのですが、実感としてその人の身の上に現れただけです。

繰り返しになりますが、どんな人がたすかるのか?ではなく、私が助かるかどうかは、私と阿弥陀仏との間のことで、阿弥陀仏のただ今の救いに向かうかどうかが大事なことです。

2009-05-12 南無阿弥陀仏を頂こうとする心(メールより)

南無阿弥陀仏を頂こうとする心(メールより)

メールを頂きましたが、大事な内容なのでエントリーとして紹介します。

南無阿弥陀仏の偉大さ,功徳の大宝海,阿弥陀仏がものすごい修行を積み重ねられて完成された南無阿弥陀仏に思いを馳せる時,ものすごいギャップを感じてしまい,「私が本当になれるのだろうか」という心が出てきます。

しかもそんなすごい南無阿弥陀仏を私に与えようとされているというみ心を聞かせて頂くと,「そんなことがあるのだろうか」「本当に南無阿弥陀仏と一体になれるということがあるのだろうか」という心になります。南無阿弥陀仏を受け取りたいという気持ちと本当に届いてくれるのだろうかという気持ちがあります。(メールより)

南無阿弥陀仏は、私を浄土往生させるという大変な働きがあります。南無阿弥陀仏を成就されるための阿弥陀仏のご苦労を「五劫思惟」とか「兆載永劫の行」といいます。その大変なご苦労によって完成した南無阿弥陀仏は、元々私たちに与えるためのものです。

如来の作願をたずぬれば

苦悩の有情をすてずして

廻向を首としたまいて

大悲心をば成就せり(正像末和讃)

阿弥陀如来がなぜ本願を作られたのかという御心を考えて見ると、苦しみ悩むものを見捨てられず、与える一つで助けるために南無阿弥陀仏を完成されたのだといわれています。

「苦悩の有情」とは、未だ阿弥陀仏の本願に救われていないすべての人のことです。すべての人に与えるという南無阿弥陀仏であっても、受け取った本人からすれば、その嬉しさ、浄土往生できる正定聚の位に入ったというのはその人一人のものです。

隣の人が救われたと喜んでいても、私自身が救われない限りは、私の救いにはならないのです。

歎異抄には親鸞聖人のお言葉としてこのように書かれています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり(歎異鈔)

阿弥陀仏が五劫思惟された願をよくよく案じてみれば、ただ私親鸞一人を助けるための本願でした。

普通に考えても、縁もゆかりもない人を助けることはありません。阿弥陀如来といっても会ったこともないのに、なぜ南無阿弥陀仏を与えて下されるのだろうかと思います。

私の姿からいえば、南無阿弥陀仏を与えられる価値や、善根は一つもありません。なにか南無阿弥陀仏をいただけるような縁手がかりがあるからいただけるのではありません。何も助ける縁手がかりが無いものに、与えるために阿弥陀仏が作られたのが南無阿弥陀仏です。

与える南無阿弥陀仏に対して、受け取る方が受け取らない心が雑行雑修自力の心なのです。

「迷の衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、諸の雑行を棄てて一向一心に弥陀をたのまん衆生を、たすけずんばわれ正覚とらじ」と誓いたまいて、南無阿弥陀仏となりまします。(御文章5帖目8通・五劫思惟)

「一念にもろもろの雑行を棄てて、一心一向に阿弥陀仏をたのむものをたすけなければ仏のさとりをとらない」と本願を建てられて南無阿弥陀仏を成就されています。

本当にいただけるのだろうかと、南無阿弥陀仏を疑うこころは、自力の心です。こんな自分は助かる縁がないのではないかと思われても、助かる縁がないというのは阿弥陀仏が願を建てられたときから見抜いておられることなのです。

南無阿弥陀仏を頂こうという心は、阿弥陀仏によっておこされた聞法心です。邪魔をしているのは雑行雑修自力の心です。本当に届いてくれるのだろうかという心は捨てねばならないものですから。雑行をすてて、一心に阿弥陀仏をたのみ、南無阿弥陀仏を頂く身になってください。