Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-11

「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。(退会二年目さん、酔っぱらいさんののコメントより)

退会二年目 2013/09/10 03:13

(略)

私は信心決定したのですが私の周りの人は信心決定していないどころか仏教を全く知らない人達ばかりです。どうにかお伝えしたいのですが親鸞会に在籍していた頃の失敗を思い出しなかなかお伝えすることができません。そんなとき「私が死んで浄土に参ったのちはすぐに戻ってくるからな」とか「阿弥陀様、どうかあの人達に仏縁を」とかなどそのようなことを思いながら念仏するのですがこれは正しいのでしょうか。わかりずらい質問ですみません。

あと余談ですが信心決定してから「信心決定」という言葉を使うことにやや抵抗を感じます。恐らく親鸞会で求道していたときに思い描いていたものと実際のものがかけ離れていたからだと思うのですが。山も山さんはそのようなことはありませんか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378750437

最初の念仏する上で思うことについてですが、特に間違ったものではありません。

なぜなら、御消息に親鸞聖人が以下のように書かれているからです。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。(親鸞聖人御消息(下)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P783)

「往生を不定におぼしめさんひと」というのは、阿弥陀仏にただ今救われていない人のことです。そういう人は、まず救われることを思い念仏しなさい。そして、すでに阿弥陀仏に救われていいるひとは、阿弥陀如来のご恩を思って念仏し、世の中が安穏であるように、仏法がひろまるようにと思いなさいと書かれて有ります。


念仏は祈祷のするための言葉では確かにありません。しかし、私がただ今称えているところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のお働きそのものです。そのお働きである南無阿弥陀仏が、人を救っていくのですから、念仏するときに「どうかあの人が仏法を聞くように」と思われてもおかしなことではありません。


また、仏法を聞く人が周りでいないなかでも、そのようになんとか浄土往生をしてもらいたいと思うことは、まことに有り難いことだと思います。私も、そのように縁のあるいろんな人に対してそのように思っています。とはいえ、なかなかすぐに聞く人ばかりではありませんので、そこは悩ましいところです。南無阿弥陀仏と念仏するときは、そういうなかなか聞かない人のことを思うこともあります。


あと「信心決定」についてですが、私も同じような気持ちはあります。加えて、元会員や現役会員の人と話をする時に「信心決定」という言葉を使うのを少し控えようという気持ちがあります。理由は、退会二年目さんと同じで、「信心決定とはこのようなもの」という固定観念がそうとう強いので、信心や安心の話をしていても「信心決定」という単語を出すと、どうしてもその固定観念から話を聞いてしまうからです。


酔っ払い 2013/09/10 16:12

自分も昔から、会の「信心決定」というニュアンスが違うと主張してました。

それは会(会長)が実際のものを理解しておらず、

聖教にあるような意味使い方でなく一般受けするようなキーワードとして利用しており、言葉の使い方を歪めていることからだと思ってます。

あ、自分は未信なので信用性はどうだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130906/1378453444#c1378797173

酔っ払いさんがコメントされていることも同様のことだと思います。「スッキリハッキリ」とか「人生の目的を達成した喜び」とかいろいろと某会では言います。それを聞いた人は「信心決定とはそのようなもの」と思い込まされ、それに向かって一生懸命「進もう」と頑張ります。信心は「求めるもの」で「与えられるものではない」というのが某会では常識になっていますが、それは間違いです。


多くの会員が今でも所属しているので、それらの人が早く阿弥陀仏の本願を本当の意味で聞かれるようにと思い、私も南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏をするものです。

追記

連絡先はこちらをご覧下さい。

山も山さんのプロフィール - はてな

2012-12-29

「無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。」(マヤさんのコメントより)

「無疑心=ハッキリする」の言い方について考える - 安心問答(浄土真宗の信心について)についてコメントをマヤさんより頂きました。有り難うございました。

マヤ 2012/12/28 06:25

無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121228/1356637362#c1356643509

これについては、蓮如上人の御一代記聞書に「心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬと思うは心得たるなり」と書かれています。とくよしみねさんのコメントにも紹介されている文章です。

マヤさんの言われる自覚の定義によるのですが、「理解した・分かった」という意味の「自覚」はありません。弥陀にまかせたことをさして、自覚とわれるのならば、それはあります。


そのことを御一代記聞書では、「理解した・分かった」ということはないという事を、「少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」と言われています。

では、救われたと言うことはどういうことなのでしょうか?については「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり」と言われています。


上記の御一代記聞書の全文は以下の通りです。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(御一代記聞書213・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1300)

http://goo.gl/q7aiN

自覚という言葉に相当するのが、「心得た」です。この御一代記聞書も、当時同じような質問が多かったので蓮如上人が仰ったものと思います。

ここから言えることは「救われる」の意味は、「弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思う」ことだということです。私の側での「理解した・分かった」ことではないと書かれています。


また、自覚という言葉の意味は、辞書を引くと以下のようにあります。

【自覚】じかく

① 自分自身の立場状態能力などをよく知ること。わきまえること。「自分の立場をよく―している」「本人の―に待つ」(大辞泉より)

「自分自身の状態をよく知ること。わきまえること」という意味でいえば、救われている状態であるということをよく知ることはあります。


しかし、一般に「自分自身の状態をよく知ること」は、なにか「分かった・理解した」ことからいうので、その点では異なります。

自分の「分かった・思った」ことの土台にたって、救われたかどうかを言っているのではありません。阿弥陀仏の仰せにまかせたかどうかを、救われたと言っているのです。


ですから「『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。」と言われています。

私にむけてただ今助けるという阿弥陀仏が仰せになる南無阿弥陀仏をそのまま聞くよりほかにはないということです。それ以外に「分かった・理解した」ことで往生できるかどうかが決まるのではありません。


最後にあらためて書きますと、「理解した・分かった」からくる自覚はありません。「弥陀の仏智にまかせた」からくる自覚はありますということになります。

2012-11-08

「私のように自力念仏しか称えられない者は果遂の誓いに帰することが出来なければ18願に入り信心決定出来ないのでしょうか。」(頂いた質問)

親鸞聖人の和讃に「定散自力の称名は果遂のちかいに帰してこそおしえざれども自然に真如の門に転入する」とありますが、果遂の誓いに帰してこそとは、どういう意味なのでしょうか。私のように自力念仏しか称えられない者は果遂の誓いに帰することが出来なければ18願に入り信心決定出来ないのでしょうか。(頂いた質問)

(66)

定散自力の称名は

 果遂のちかひに帰してこそ

 をしへざれども自然に

 真如の門に転入する(浄土和讃_大経讚・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P568)

http://goo.gl/9iNpA

質問の和讚は、上記の浄土和讃です。

「果遂のちかひに帰してこそ」について、「果遂の誓い」が20願のことです。「帰する」は、入るということです。

お尋ねでは、「自力念仏しか称えられない者は、果遂の誓いに帰することができない」とありますが、浄土に心をむけて念仏している方は、すでに20願の中に入っている人です。そのため、質問された方は「自力の称名を称えている人は、今から20願にどうにかして入っていかねば救われない」という趣旨で質問されています。

しかし、ここは「自力の称名を称えている人も、20願の中に入っているので」という意味です。


なぜなら、自力の称名を称えているとう事自体が、20願の願力のお働きだからです。20願は、「まず自力の念仏を称えさせよう」という願ではありません。18願の他力念仏の救いを聞きながら、それを疑い自力の念仏を称えるものがいたとしても、そんなものでもなんとか化土になりとも往生させてやりたいと建てられた願です。そうは言っても、化土往生させるのが阿弥陀仏の本願ではありませんので、その本当の願いは、何とか18願の救いによって報土往生をさせてやりたいというものです。

たとえ自力の称名といっても、称えている念仏(南無阿弥陀仏)自体には私を救う働きがあるのですから、そのお働きによって「南無阿弥陀仏のお働きで18願に転入する」といわれたものです。

とくにこのご和讃は、20願の願の働きを讃えられたものですから、南無阿弥陀仏は、自力の念仏行者も決して見捨てられないという御心で建てられたということを、南無阿弥陀仏のお働きに焦点をあてて書かれたものです。

しかし、このご和讃を「自力の称名をまず励みなさい、そしたら自然にいつのまにか救われる」と思うのは大変な間違いです。自力の称名の功徳で報土往生できるのではありません。たとえ自力の称名であっても見捨てることはないという阿弥陀仏の御心からいえば、直ちに自力を捨てて他力に帰するべきです。

そのため、このご和讃の直後には、次のように言われて厳しく自力疑心を戒めて、他力の信を勧めておられます。

(67)

安楽浄土をねがひつつ

 他力の信をえぬひとは

 仏智不思議をうたがひて

 辺地・懈慢にとまるなり(同上)

http://goo.gl/sMceS

「安楽浄土を願いつつ 他力の信をえぬ人」とは、「定散自力の称名」の人も当然入ります。その人で「仏智の不思議を疑い」「他力の信をえぬ人」は、化土にとどまるといわれ、報土往生はできないのだと戒められています。そして、疑いを離れ他力の信をえて報土往生を遂げなさいと勧めておられます。

お訪ねのように、私のようなものは20願にも入っていないとか、18願はまだ先という考えはもたれない方がいいです。また、自分はまだ20願に入っていないからまず20願に入ろうというのも間違いです。

ただ今救うの本願招喚の勅命が南無阿弥陀仏ですから、それを現在称えておられるということは、その仰せがすでに働いているということです。

ただ今救う本願ですから、ただ今救われます。

2012-10-06

「私が本願を知って、本願に誓われてある通りになろうともしないで、本願の通りになる、ことなどあるのでしょうか?」(りきいしさんのコメントからの問答)

りきいし 2012/10/06 02:33

私が本願を知って、本願に誓われてある通りになろうともしないで、本願の通りになる、ことなどあるのでしょうか?


yamamoya 2012/10/06 04:53

りきいしさん

本願を知らずに本願通りになるということはありません。しかし、本願を聞いてみると、「自分が求めねばならないと思っていた本願」とは違うので、「(自分が思っていた)誓われている通りになろうと思った本願」通りになっていません。

「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。しかし、なろうと思ったからなれたというのは、間違いになります。


りきいし 2012/10/06 06:39

「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。

とおっしゃるのは、どういう意味でおっしゃるのか。何故大事なのか。思い通りになるのではないのに、思いは大事とおっしゃる意味がわかりません。


はてな 2012/10/06 09:23

その思いは,阿弥陀仏によって起こされた心だから大事なのだと思います。

阿弥陀仏が私に本願を知らせ,本願に誓われてある通りにならせようし,本願の通りになる」

という言い方の方が合いませんか。


りきいし 2012/10/06 09:59

そうならば、なろうと思ったからなれるのではないにしても、本願通りになろうと思うことは、本願のねらいの一つと言えるのではないでしょうか?


はてな 2012/10/06 13:01

ねらいの一つというよりも,過去世からの不思議な因縁と仰がずにおれないというのが私の味わいです。


たかぼー 2012/10/06 16:05

諸善万行の雑行を行するをもって仏道を求めるよりは、弥陀名号を専念して行することの方がはるかに仏心に近づいたと言えますでしょう。しかし、自力疑心の罪深く、弥陀の18願海に転入することは永久に不可であります。念仏の行を行うことをもってよしとせず、自力疑心を弥陀の願心を聞くによって消尽させて頂きましょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121005/1349428196#c

りきいしさん

分かりにくい文章になりすみませんでした。

>「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。

について、コメントします。

上記のような心が起こらない人は、法を聞く気がない人であり、念仏を称えようという心も起きません、浄土往生を願う気持ちも起きない人です。言葉を変えると法に向き合う心のない人に、自力だとか計らいという話は問題にもならないことになってしまいます。

そういう意味で「法を聞く気持ち」は大事です。しかし、その「法を聞こうという気持ち」を強めていけば救われるという法ではありません。

「法を聞こうという心」は、阿弥陀仏に向かったときに、「私から阿弥陀仏の法を取りに行く」心になるので、私の求めるより先立って建てられた本願に合わなくなります。いわゆる先手の法に対して、こちらから先に手を出せばそれを自力の計らいと言われます。なぜなら、すでに本願が成就して現在働いておられる阿弥陀仏の本願があることにもかかわらず、「こちらから信心を受け取りに行こう」という心は本願に自分の力を加えてなんとかしようという心です。

簡単に図示するとこのようになります。

f:id:yamamoya:20121006175304p:image

本願力がどこか途中で止まっており、自分と本願力の隙間を「自分の努力」「自分の聞法心」「自力の念仏」を加えて埋めようとする考えは間違いです。

「本願力はすでにただ今この私に届けられている」ことを認めない計らいが問題なのです。

自分のなにかを加えなければならないという計らいは、すでに私に先行して届けられている本願を疑っていることになります。

本願力は、南無阿弥陀仏となって私にすでに呼びかけられています。現在、本願に救われようと思われているりきいしさんにとっては、「聞く気になるかどうか」ではなくて、「本願をただ今聞くかきかないか」という問題です。

縁あって、阿弥陀仏の本願を聞かせていただくご縁があったのですから、あとはりきいしさんがただ今救う本願力を疑い無く聞くだけです。

2012-10-05

「一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めていることにはならないのですか?」(りきいしさんのコメントより)

りきいし 2012/10/05 02:43

そういう本願を、一心正念でない者に呼びかければ「一心正念になろう」と努める心を生じさせるところに、阿弥陀仏の狙いがあるのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349372589

yamamoya 2012/10/05 04:37

りきいしさん

阿弥陀仏の狙いということでしたら、第十八願に「本願を信じ念仏するものを浄土に往生させ仏に生まれさせる」とあるので、それになります。「努める心」が起こせないもののために、阿弥陀如来が如来の至心を信楽せよと誓われています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349379474

りきいし 2012/10/05 06:29

一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めていることにはならないのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349386197

たかぼー 2012/10/05 10:44

念仏を称えることによって一心正念になろうと努めることは、弥陀20願の果遂の誓いの願力によるものでしょう。しかし、それは祖師が「罪福を信ずる心をもて本願力を願求す。これを自力の専心となづくるなり。」(化身土文類)と言われている廃捨されるべき本願疑惑心であります。この疑惑心をもって18願の真実信心に転入することはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349401464

りきいしさんが言われるように、「一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めている」ことになります。しかし、阿弥陀仏は一心正念になることを期待して念仏を称えなさいと言われているのではありません。また、一心正念になるための努力をしなさいといわれているのでもありません。阿弥陀仏の本願を、疑い無く聞き入れなさいといわれています。

なぜなら、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞くことと、私が自分で称える自力念仏や努力は関係がないからです。念仏を多く称えたほうがいいとか、称えないほうがいいとか、努力したほうがいいとか、しないほうがいいとかいう考えは、すべて自分の行為の多少と阿弥陀仏の救いが関係あるというところから出発しています。

念仏について書きますと、阿弥陀仏の18願で誓われる念仏は、私の行為ではありません。

そこで、親鸞聖人は尊号真像銘文で、このように言われています。

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文・本・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

http://1wv.j2.sl.pt

「乃至十念」という念仏は、阿弥陀如来の本願によって成就した南無阿弥陀仏を称えることを勧められるのに、数を問わず、時間を定められないことを私に知らせようと思われて、「乃至」と十念の念仏に添えて誓われているのだといわれています。

念仏を何回と称えるとか、いつ称えるということを作り出していくのは人間の行いです。それを問題にしないということは、ここで言われる十念の念仏は、人間の行いではないということです。

本願の念仏を、親鸞聖人は大行といわれ、教行信証に以下のようにいわれています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証・行文類・浄土真宗聖典(註釈版)P141)

http://6pu.fx.sl.pt

念仏は「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」ですから、私の行為ではなく阿弥陀仏のなされる大行です。私が救いの足しにしようとする行いではもともとありません。

南無阿弥陀仏と念仏するときは、これは私の行為であって、これで何とか助かろうとするのではなく、これは「ただ今救う」と呼びかけ、働いておられる阿弥陀仏の本願力だと、そのまま聞いてください。

追記

エントリーを書いている間に、コメントがついていたので、追記します。

りきいし 2012/10/05 17:39

それならば、念仏は称えなくてもよいのですか?

上記にかきましたが、念仏は「往生の助けになる私の行」ではなく、「本願の行・大行」です。これは阿弥陀仏の喚び声であるとそのまま聞いて念仏してください。

2012-10-04

考えてみると阿弥陀仏の本願は「信楽の心を得た人を必ず往生させる」「本願を信じて念仏する者を必ず往生させる」であり「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願」でないのではないでしょうか。(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2012/10/04 09:49

 質問があります。宮田さんはいつも、阿弥陀仏の本願は今必ず私を救い取る本願であると言われています。でも考えてみると阿弥陀仏の本願は「信楽の心を得た人を必ず往生させる」

「本願を信じて念仏する者を必ず往生させる」であり「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願」でないのではないでしょうか。(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121003/1349254153#c1349311754

たかぼー 2012/10/04 13:19

そうなんですよね。「只今救う」という本願を聞いて、これに疑いを持たない人にとっては「往生は弥陀任せ」となりますが、疑いを持つ人にとっては「往生は不定」の思いになるでしょうね。だから、「ただ今信楽させる」という誓いではないと思ってしまうのでしょうね。しかし、弥陀は衆生を一切差別せずに本願念仏をひとしく回向し、念仏称えてくれよと願われているのですから、あとは、それを聞いた私が弥陀のその願心とともに念仏を受け入れられるかどうか、でしょうね。受け入れられたら、私にとっても「ただ今のお救い」に遇えたということになりますよね。ほんのささいな違いが大きな違い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121003/1349254153#c1349324353

アドウチさんが言われるように、阿弥陀仏の第十八願は「本願を信じ念仏するものを必ず仏に生まれさせてみせる」という内容です。それに該当するのは、尊号真像銘文の以下の部分になります。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

http://1wv.j2.sl.pt

次にアドウチさんの言われている「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願ではないのでは」に関係するところは、同じ尊号真像銘文での、「至心信楽」の解説の部分を紹介します。

信楽とは、もともと阿弥陀如来の心です。私の心ではありませんから「凡夫自力のこころにはあらず」と尊号真像銘文に書かれています。

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P643)

http://1wv.j2.sl.pt

私を必ず浄土に生まれさせ、仏にすることに全く疑い無い阿弥陀仏の至心信楽を、私がそのまま聞き入れたことを信心といいます。

そこで、上記の尊号真像銘文では「わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり」といわれ、阿弥陀如来の真実の誓いを疑い無く受け入れなさいと、誓われている本願だといわれています。

「信楽の心にしてみせる」というと、何か自分の心が変化していくような語感がありますが、そういう意味では確かにいわれていません。「阿弥陀如来が、どうか私の本願を疑い無く聞き入れてください」と誓われているということになります。

その本願が成就して、阿弥陀仏となられたのが今の阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏を、親鸞聖人は、「本願招喚の勅命」といわれています。その大悲招喚の声を、善導大師は二河白道の譬で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(教行信証信文類 大信釈 引文・浄土真宗聖典(註釈版)P224)

http://2jq.pp.sl.pt

といわれ、親鸞聖人も教行信証に引文されています。

阿弥陀仏の本願は、ただ今私に向かって「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と招喚の声をかけておられます。そのことを、ブログでは「ただ今救う本願」「ただ今救うと呼びかけられています」と書いています。

「本願を信じ念仏するものを必ず浄土往生し仏に生まれさせる」という阿弥陀仏の本願は、現在南無阿弥陀仏となって「その私の本願をただ今疑い無く聞き入れなさい」と呼びかけられているので、それを疑い無くただ今聞いたことを信心といいますから、そのことを「ただ今救う本願ですからただ今聞いてください」と書いております。

長々と説明しましたが、意味を書くとこういうことになります。

2012-09-30

「すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです」についてのコメントと追記

「南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか?」(ぱるるさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄から、抜粋したものと、それに関連して追記したものをエントリーします。

こむら 2012/09/25 17:15

yamamoyamaさんへ

>すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです。

まだいまいちわかりません。

私が名号を聞かなければ、阿弥陀仏も私を往生させることはできないのですから、名号を聞くという私の行為は必要なのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348560913

yamamoya 2012/09/25 17:51

こむらさん

「聞其名号」といわれる「聞」については、親鸞聖人は「聞というは衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。」と定義なさっています。私の「聞くという行為そのものを」聞といわれているのではありません。もし、「聞くという行為」を「聞」としますと、私が聞くという私の三業を加えた結果として救われることになるので、すべて他力によって救われるということになりません。

「聞其名号」の「聞」は、上記にあげた親鸞聖人の定義にしたがうと、私の計らいを差し挟まずに本願の仰せを受け入れたことをいいます。そこで蓮如上人は「一心に弥陀に帰命」とか「弥陀をたのむ」と表現されたのが「聞」です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348563096

こむら 2012/09/26 03:45

なるほど。

「聞」というのは、まだ聞いていない名号をこれから聞くという「聞」ではなく、すでに名号を聞いている状態のことを「聞」と言われている。

そういうことですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348598744

yamamoya 2012/09/26 04:51

こむらさん

「聞即信」の言葉のとおりで、聞とは信心をあらわすことばです。言われる「すでに名号を聞いている状態(信)」のことです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348602676

ここから、追記として書きます。

「聞其名号」とも言われるので、「聞く」という行為にどうしても力が入ってしまいます。その結果、「真剣に聞かねば」「どのように聞いたらいいのだろうか」と聞き方を問題にしたり、「誰から聞いたらいいのだろう」と知識選びを問題にすることになります。

しかし、よくよく考えると名号を聞いて助かるのですから、聞き方以前にその人が南無阿弥陀仏のことをそれほど信用していなければ意味のないことになります。

阿弥陀仏の本願はただ今救う本願であるということを、信じているからこそどこかの法話に足を運んだり、御聖教を自分で読んだり、念仏したりします。それでも、「実感がない」とか「ただ今救われるとはなかなか思えない」という気持ちはぬぐえません。そこで、間違いないと思えない法を、聞き方や知識の力を加えることで間違いないのない法にしようと努力をします。

しかし、大前提として法を間違いないものとしていないので、聞いたといっても聞いたことにはなりません。阿弥陀仏の本願も、名号もただの文字やお話ではありません。

親鸞聖人は、教行信証真仏土巻に往生論註を引文されています。

〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。{乃至}いふところの〈不虚作住持〉は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符うて、畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。(顕浄土真実教行証文類・真仏土文類5 真仏土釈引文・浄土真宗聖典(註釈版)P361)

http://6us.t0.sl.pt

ここで「不虚作住持功徳成就」とは、阿弥陀仏の願力は虚妄なものではなく衆生を完全に救い遂げるものであるという意味です。

ですから「願徒然ならず、力虚設ならず」といわれています。阿弥陀仏の願いとっても、いたづらことになるようなただの努力目標でも、ただ願っているだけのものではありません。本願力も、実際に私を助ける働きがあるもので、「ほんとうにただ今助けられるのか?」と疑念を差し挟むようなものではありません。その本願力は私に向けられているものですから、私と関係ない方向に働くことはありません。

五劫の思惟と兆載永劫の行によって、「力願あひ符うて、畢竟じて差はず。」願いと力がぴったりと一致して、少しも食い違うことがありません。そのことを本願成就といいます。

そういうものが本願力であり、南無阿弥陀仏です。私を救う法です。それを聞いたのが信心というものです。そのような本願力が、現在私に働いているからただ今救われます。ただ今救う本願を、ただ今聞いて下さい。

2012-09-24

「南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか?」(ぱるるさんのコメント)

ぱるる 2012/09/24 12:13

南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか。

「わたし」は聞くことができません。

何故なら「わたし」が聞こうとする時点で自力になってしまうからです。

聞くことが(出来る・出来ない)と思うのは私の側の考えで、阿弥陀仏の仰せはただ聞けばいいということならば、一体誰が南無阿弥陀仏を聞いていることになるのでしょうか。わたしでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120922/1348261902#c1348456433

たかぼー 2012/09/24 17:28

以前にオーボイドという人も、同じようなことを言っていましたね。それは別にして、大経下巻の「聞其名号信心歓喜」は諸有の衆生について言われたことです。あなたは諸有の衆生に入らないのでしょうか。問題は聞く中身です。名号を聞くとは如来の願力に誤りのないことを聞く、ということです。聞く中身を間違えていては聞いたことになりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120922/1348261902#c1348475337

阿弥陀仏の仰せを聞くというのは、「私という主体」が聞くということではなく、「私を場として本願力が働いて下される」ということです。

あくまでも主体は阿弥陀仏です。阿弥陀仏の本願力を光明ともいわれますが、光明が私に届いたというときは、届いた私が何かをしたということではなく、光明が私に届いたといいうのと同じことです。しかし、届いた光明は私に届けられているので、その光明は私に働きます。

そのことをお軽同行は

おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから

と言われました。

ハイの返事も向こうからというのは、私の方で挟む行為は一つもないことを言われています。すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです。

ただただ、ただ今救うの仰せをそのまま受けたのが「聞いた」といわれることです。

2012-09-22

「助からなくて当然」は間違いです。(頂いた質問)

「本願を聞いて疑い無い」のが信心だと聞きますが、本願を聞いた上での疑いというのがよくわかりません。この疑いが晴れなければ救われないとすれば、疑いを感じていない私は救われないように思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、「お前をただ今救う」という本願です。その本願を聞いた疑いは、「『お前をただ今救う』なら、どうして私は救われていないのか?」となります。

言葉を変えれば「助かって当たり前なのになぜ私は助からないのだろうか?」という疑いです。

この文章を読まれている方の中には「助からないのが当然」という前提で法を聞いておられる方もおられると思います。「堕ちて当然助かれば不思議」という言い回しは私も昔はよく聞いていました。そのため、「地獄に堕ちて当然の私がどうしたら助かるのだろうか?」と、地獄に堕ちない手段を探すような考え方になっていました。その考え方の全体は、前述した「堕ちて当然」です。

しかし、阿弥陀仏の本願の生起本末を聞けば、法蔵菩薩として「ただ今救う」と誓われた誓願はすでに成就して阿弥陀仏となっておられます。その本願成就の上から言えば、私が助からない道理はありません。「助かって当然、堕ちれば不思議」なのが法の上からいえることなのです。

法の上からいえば、当然助かるように成っているその働きを、親鸞聖人は「自然」と言われました。

「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。

「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。(正像末和讃・自然法爾章)

http://1wv.1s.sl.pt

自然の「自」とは、私(自分)という意味ではなく、阿弥陀仏自らということです。「然」はしからしむと読む言葉で、そのようになさしめるということです。阿弥陀仏の本願は「ただ今救う」という本願ですから、私が「堕ちて当然」と思おうが思うまいが関係なく、私を救うようになっているということです。

それを「もとよりしからしむる」といわれています。

すでに阿弥陀仏という仏になられてから、私を助ける法はすでに完成しており、私は「ただ今助かる」法があるのです。その本願を聞けば、「助かって当然ならなぜ助かっていないのか?」という疑問が出てくるのではないでしょうか?

法に向かうといっても「堕ちて当然」と思っているのは、そもそも法を聞いていないということになります。また、「堕ちて当然」「助からなくて当然」と思っているから、「現在助かっていないこと」に疑問が起きないのはまた当然です。何十年聞いても救われないという事実に全く驚きも疑問も起こさない人もいますが、それは「助からなくて当然」「助かることは滅多にない」という大前提があるからです。

その「助からなくて当然」という大前提こそが、本願を疑っているということです。

阿弥陀仏の本願はただ今救う本願であり、それはすでに成就しています。ただ今救われるのが法の上から言えば当然のことです。ただ今救う本願をただ今聞いて救われてください。

2012-09-07

「信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。」(がくとさんのコメント)

がくと 2012/09/07 03:04

「必ず助かると思え」「のような考えで法を聞くべきではない」と仰っていますが、

助かるには私の側の思い、言葉を変えると「信じる心」が必要ということと理解しますが、

片や「私の側で添えるものは何もない」ともよく仰っています。

信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120906/1346921035#c1346954690

信心決定にとって必要な心というものは、ありません。ないというのは、「これがなければ信心決定できない」と阿弥陀仏が要求されているものはなにもないという意味です。とはいっても、全く仏法を聞く心が生涯起こらず、一度の念仏も称えない人を救うという本願でもありませんので、聞法心は必要です。

それに対して、信心決定にとって必要でない心には、本願を疑う心です。エントリーに書いた、「救われるかどうかわからない」「救われる可能性は限りなくゼロに近い」と本願を疑う心です。

しかし、本願を疑うといっても、上記のようなものばかりではありません。「真剣に聞こう」という「強い聞法心」も本願を疑う心です。

なぜなら、「真剣に聞いたらなんとかなる」と思えばこそ真剣に聞こうとするのですが、それは「真剣に聞くものでなければ救ってくださらない」と阿弥陀仏を疑う心になるからです。

とはいえ、「真剣に聞かねばよいのだろう、待っていればよいのだろう」と考えるのも、「そのようにすれば救ってくださるだろう」と本願を計らっている心ですから捨てものです。

結論から言えば、現在阿弥陀仏の救いを聞こうという心の人にとって「必要な心」というのはありません。反対に「必要でない心」は、いろいろとあります。

しかし、それを「捨ててから」聞こうと思えば、それもまた自力の計らいですからそれも捨ててそのまま阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われてください。必ずただ今救われます。

2012-09-02

「阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。」(香取さんのコメント)

香取 2012/09/02 03:30

質問させていただきます。阿弥陀仏の本願に救われたいと思い、念仏をとなえたり、仏教の本を拝読したりしています。しかし、自分の思いや理解を深めることに一生懸命でないかと最近思われてきます。方向が逆になっているのかも知れません。阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120901/1346486883#c1346524216

香取さんが言われるとおり「自分の思いや理解を深めること」は、阿弥陀仏ではなく自分へ自分へと心を向けているので方向が反対です。

ただ、阿弥陀仏が私に働きかけて下さっていることは実際そうなっていることですから、「どう考えたらいい」という性質のものではありません。何か今まで見えなかった力が「考え方」を変えることで見えるようになるというものでもありません。

このようにお尋ねになるのも、なにか「きっかけ」が欲しいという思いからではないでしょうか?しかし、「きっかけ」と言っても本質的には「方法・手段」のことですから、そんなものは阿弥陀仏の救いにはありません。私の側で用意しなければならない「方法・手段」なく救われるように、阿弥陀仏は本願を建てられました。

香取さんからすれば、念仏を称えたり、仏教の本を読むのは、「どこかに救われるきっかけ」を探している行為となります。私の方から手を出すのではなく、阿弥陀仏から出されている法をそのまま聞くのが救いです。

そのことを御文章2帖目7通から引用します。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。(御文章2帖目7通 五戒・易往)

http://278.dj.sl.pt

智恵や才学、お金、善悪、性別も関係なく、ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰することであるといわれています。

そこで、その正行に帰するとはどういうことなのかについて、続けて書かれています。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。(御文章2帖目7通 五戒・易往)

「なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。」です。

こちらの側でなにも用意するものはありませんから、「なにのやうもなく」と言われています。私の方に何も条件を付けられないので「あら、やうもいらぬとりやすの安心や」と続けて書かれています。

香取さんのお尋ねで「どう阿弥陀仏を思ったら」ということをいわれるのは、「ただ今救う本願」と思えないので少しでも阿弥陀仏のことを心にかけようとされているからではないかと思います。

さらに言えば「方向」と言われるのも、阿弥陀仏の救いをただ今ではなく少し未来に置いておられるのではないかと思います。そのように、自分と少し離れた場所から私に向けて働きかけられるような本願ではありません。南無阿弥陀仏はただ今私に働いておられます。ただ今ということは、今私がいるこの場所ということです。「こんなところにいるはずもないのに」という所にでも、私に常に呼びかけられる声が南無阿弥陀仏です。

そういう南無阿弥陀仏ですよと教えられているのが、お釈迦さまであり親鸞聖人です。

心がけるより先に、ただ今救う本願を聞いてただ今救われて下さい。

2012-09-01

「因果の道理を学ばなければ救われませんか?」(頂いた質問)

因果の道理は仏教の根幹である」と聞かされてきました。仏教の根幹というくらいですから、これを知らなければ何も始まらないように思います。因果の道理を学ばなければ救われないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いに、「まず因果の道理を知らねば」というものはありません。もし、「まず因果の道理を知らねば」ということならば、因果の道理を聞いている人もあれば、聞いていない人もあるので、世の中に「ただ今救われる人」と「ただ今救われない人」の二通りがあるということになってしまいます。

しかし、そんな二通りの人はありません。なぜなら、阿弥陀仏の救いは「まず私が○○せねば」というものは一つないからです。そのように「条件」を設定すると、どれだけ素晴らしい浄土があってもそこへ往生できない人が出てきます。それは阿弥陀仏の願心に合いません。

唯信鈔から紹介します。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。

布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。(唯信鈔)

http://684.8t.sl.pt

上記にあるような「孝養父母」「読誦大乗」「布施・持戒」「忍辱・精進」など、どれかをしなければ往生できないとなれば、必ずそれが出来ない人が出てきます。

お尋ねの「因果の道理を学ばねば」と言ったところで、臨終に初めて仏法を聞こうという心が起きた人に「まずは因果の道理」を聞く時間はありません。そうなれば、本願に漏れる人がでてきます。


そこで、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏一つで救う、念仏一つで救うというという本願を建てられました。

 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。

(略)

さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。(同上)

第十八願は念仏往生の願ともいわれます。念仏で往生させる本願だからです。どんな人でも称えられる姿になって、南無阿弥陀仏となって私に働いて下さるのですから、私の方で何かをしなければならないということはありません。


もし「まず因果の道理を学ばねば」念仏が口から出てこないということならば、因果の道理を知らない人は救われないということになりますが、そんなことはあり得ません。

ただ今私に働いて下さっている南無阿弥陀仏は、私だけでなく「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん」と言われている通りです。もれるひとは一人もありません。

ただ、南無阿弥陀仏一つで私を救って下さいます。ただ今本願力に救われて下さい。

2012-08-25

本願と信心の沙汰について(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2012/08/25 02:31

 本願は、私の心の状態に関係なく救って下さると聞いていますが、その反面 信心の沙汰

をして自分の心をありのままに打ち出すことが大事だとも聞いております。

 この前者と後者の違いをどう解釈すればいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120823/1345710792#c1345829516

信心の沙汰とは、「自分の心を阿弥陀仏の救いに合う状態にもっていく」とことを目的にしているものではありません。整体の人に、骨格のゆがんだところを直してもらうようなものとは違います。自分で勝手に「これで信心をえた」と思っている信心が間違いかどうかを互いに沙汰するのが、信心の沙汰の目的です。

一 仏法の由来を、障子・かきごしに聴聞して、内心にさぞとたとひ領解すといふとも、かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづねて、信心のかたをば治定すべし。そのままわが心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし。ちかごろこれらの子細当時さかんなりと云々。

一 信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文章4帖目7通 六か条)

上記の御文章では「信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて」とあります。(自称)信心をえたなら、それをいくたびも人に尋ねなさい。なぜなら、ちょっと「障子・かきごしに」聞いて「内心にさぞとたとひ領解」したとしても、「わが心にまかせば、かならずかならずあやまり」になるからです。

阿弥陀仏の救いは心の状態に関係なく救ってくださいます。しかし、「これが救いだ」「これが信心だ」という人は、自分で思ったとおりになったことを「信心だ」と思い込もうとしてしまいます。いわゆる一人合点になっては、信心ではありませんので、よくよくその沙汰をせよといわれます。

では、自称信心をえた人でなければ信心の沙汰をする必要がないのかといえばそうではありません。過去聞いたことも含めて、わからないところ、不審なところは考えてもわらないところは「わからない」とそのまま言うのも信心の沙汰です。そもそも「善をしなければ救われない」と思い込んでいる人などは、本願はもともとそういうものではないということを、よく沙汰されればいいと思います。

「計らうのは自力、その計らいを捨てることも阿弥陀仏の働きなら、救われた人とそうでない人の違いは何のでしょうか。」(bsfさんのコメント)

bsf 2012/08/24 19:10

阿弥陀仏の呼び声を聞こうと何かしようとするとすべて自力。

かと言って何もしなければ、ほんとに何もしてないだけ。

というよりも、救われるために何もしようとしないのもやっぱり自力。

自分の計らいをすてて、そのまま聞くだけというのが、こんなにも難しいものなのかと思います。

計らうのは自力、その計らいを捨てることも阿弥陀仏の働きなら、救われた人とそうでない人の違いは何のでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120823/1345710792#c1345803050

阿弥陀仏にすでに救われている人と、そうでない人の間に何か努力の量や、学問の有無、無常や罪悪を見つめていたとか、見つめていなかったという違いはありません。

お尋ねの趣旨からいうと、救われている人は法を聞いている人です。救われてない人は、法を聞かずに自分の心に向き合っている人です。

なぜ法を聞かずに自分の心に向き合うかといえば、仏智の不思議を疑っているからです。

(67)

自力諸善のひとはみな

 仏智の不思議をうたがへば

 自業自得の道理にて

 七宝の獄にぞいりにける(正像末和讃)

bsfさんが、なにかしても自力、しなくても自力と自力と向き合っておられるのは、上記のご和讃でいう「仏智の不思議をうたがう自力諸善のひと」ということになります。なぜ、そのようになるのかといえば「自業自得の道理」いわゆる「因果の道理」を阿弥陀仏の救いにあてはめて考えているからです。

自業自得の道理からいえば、自分が何かしないことには自分に得るものはなにもありません。そこで、自力を捨てねば救われないと聞くと、「何かをしたから」自力が捨てられるのではないかと考えてしまいます。

しかし、阿弥陀仏の本願は、自業自得の道理ではなく救済の道理です。「お前を助ける」という本願です。かりに自業自得の道理でいえば、私が何かをしないと絶対に助からないことになります。阿弥陀仏の本願は、救済の道理ですから、「お前を助ける」本願を聞くだけです。私のほうでは特になにもしておりません。

本願を聞かずに、どうしたらいのかという「自業自得の道理」の発想で計らいばかりをしていたら、いつまでもそこにいるだけです。

最後にお軽さんの歌からみてみます。

聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな

まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな

自力はげんでまことはきかで 現世いのりにみをやつす

思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん

領解すんだるその上からは ほかの思案はないわいな

ただでゆかれるみをもちながら おのがふんべついろいろに

おのがふんべつさっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ(お軽同行の歌)

「まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな 自力はげんでまことはきかで」とありますが、自力が捨てられないと悩む人は努力が好きな人でしょう。しかし、阿弥陀仏の救いに努力を持ち込む必要はありません。救われる前に努力しなければとがんばるのは「まこときくのはおまへはいやか」とお軽さんがいう通りです。

「思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん」ですから、いわば今聞かなかったらあれころ計らったといっても手遅れになるということです。

ただ今救う本願を聞けというのが、阿弥陀仏の勅命です。どうしたら自力が捨てられるのかという分別もふくめてまるごとやめて、弥陀の思案にまかせてください。

2012-08-23

「十刧安心との違いを説明していただけませんか。」(田中屋さんのコメントより)

田中屋 2012/08/22 20:01

十刧安心との違いを説明していただけませんか。

よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120822/1345627431#c1345633265

十劫安心とは何かについて最初に書きます。御文章に十劫安心について以下のように書かれています。

「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。(御文章2帖目11通)

http://goo.gl/Nli49

そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。(御文章1帖目13通)

http://goo.gl/KEWK4

十劫安心は、阿弥陀仏が十劫の昔に仏になられて本願が成就したことを知って忘れないのが信心であるという異安心のことです。

一言でいえば、「本願を知って忘れないのが信心」と思っている異安心です。いわゆる「知って忘れない」というだけで、弥陀に帰命したということがないので、無帰命安心ともいわれます。

そこで、この十劫安心に対して上記に「弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし」(2帖目11通)「他力の信心といふいはれをしらず」(1帖目13通)といわれています。

そこで御文章ではくりかえし「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのむ」のが信心であると書かれています。

そこで田中屋さんのコメントでは、前回のエントリーに書いた内容が十劫安心とどう違うのかというお尋ねでした。

あたらめてエントリーを読み直しました。南無阿弥陀仏と私についていろいろと書きましたが、帰命するということについては特に書いていませんでした。そういう点でわかりにくい表現になっていたことはお詫びいたします。

後生助けたまへと一心に弥陀をたのむ相が、前回のエントリーに紹介した才市さんの歌です。

私と阿弥陀仏の間には、なにも隔てるものがありません。「知って忘れない」というような、自分の考えや記憶に頼るものではなく、現在ただ今南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられることをそのま聞いているのが信心です。

「知って忘れない」という十劫安心とは違います。

2012-08-20

どうしたら信心決定できるかと考えるのはよくないと聞きますがなぜでしょうか?(頂いた質問)

どうしたら信心決定できるかと考えるのはよくないと聞きますがなぜでしょうか?悩んでこその聞法求道ではないでしょうか?(頂いた質問)

どうしたら、どうしたらと心配したり悩んだりすることは決してよいことではありません。

お尋ねの文章から理由を二つ述べます。

  1. 心配するのは私ではなく阿弥陀仏の仕事だから
  2. その阿弥陀仏の仕事はすでに完成しているので、今更私が心配してもすでに時機を逸しているから

1.心配するのは私ではなく阿弥陀仏の仕事だから

私が修行をして浄土往生の身になるということならば、「どうやったら浄土に往生できるのか」という心配や悩みも大いに意味のあることでしょう。しかし、阿弥陀如来の仕事ですから私が心配しても意味のないことです。また、心配した方が早く救われるという本願でもありません。

2.その阿弥陀仏の仕事はすでに完成しているので、今更私が心配してもすでに時機を逸しているから

阿弥陀仏の本願が、まだ成就していない時機だと仮にした場合は、私が心配するのもわからないではありません。しかし、すでに成就しているのですから、私から阿弥陀仏に「はやく本願を成就してもらえないでしょうか」と心配するのは時機が外れています。

現在は、阿弥陀仏から私へと本願力によって南無阿弥陀仏を差し向けておられています。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・六字釈)

http://goo.gl/nf036

阿弥陀如来は「すでに」本願を起こされて、私が浄土に往生する行を私に与えて下さっています。

そのため、私から阿弥陀仏という方向の考え方は全く意味がありません。阿弥陀仏から私に、ただ今差し向けられているのが本願力ですから、阿弥陀仏から私へなったときには私の方で心配したり、悩んだりする意味はありません。

また、悩んでこそ求道の出発点とか、やっとスタート地点に立っているというような発想は、根本的に私から阿弥陀仏という方向でしか考えていないので、その考えは直ちに捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。

2012-08-11

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心と聞きましたが、そのように聞いているつもりですがこれでよいのでしょうか?(頂いた質問)

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心と聞きましたが、そのように聞いているつもりですがこれでよいのでしょうか?(頂いた質問)

信心の定義は、本願を聞いて疑い無いことですが、そのように聞いているつもりだから大丈夫だろうと、自分の聞き方に目を付けて安心するのは信心とはいいません。

このように確認されるのは安心したいという気持ちが強いからだと思います。しかし、安心感や喜びは信心そのものではありませんので、それを「信心」と想定して求めていってそこにはなにもありません。

同じような考えから、誰から聞けば良いのだろうということを問題にする人もあります。このように聞く「人」を問題にするのも、自分自身の安心や幸福感を求めるからです。なぜなら、本願を聞くよりも、安心したい心が先にあるから、より直接的に目に見える人からなにかを与えて貰おうとします。

そのため、本願を聞くと言っても、人から話を聞くようにしか思えません。そこからさらに、知識からなにか特別な言葉を聞くことのように想像していく人もあります。

本願の仰せはただ今救うの仰せ以外にありません。誰から聞くのでもなく、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いたのが信心です。人に確認して認可をもらうようなものではありません。

2012-08-05

「いろいろとお話を聞いて、これで信心決定なのかと思いますがどうでしょうか?」(頂いた質問)

いろいろとお話を聞いて、これで信心決定なのかと思いますがどうでしょうか?(頂いた質問)

私に信心決定しているか否かを尋ねられても、私にはわかりません。逆に、私が「それが信心ですよ」と認定すれば、土蔵秘事・知識帰命と同じになってしまいます。加えて言えば、私が仮に認定したところで、それが信心決定ではありませんし、何の意味もありません。


また、そのように人に尋ねる心境を考えて見ると2つあります。

一つは、誰かに認定して貰わなければ不安な信心である。

二つは、自分で「信心」というものを事前に想定して、それにあった体験をした。


どちらの場合も、自分の心を基にして信心を造っているという点で共通しています。

信心とは、自分の心が安心したことでも、想像していた体験をすることでもありません。南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P677

本願の名号を聞くとは、本願を聞いて疑う心のないことです。誰かに「それで大丈夫だ」と認めて貰ったことではありません。また、事前に自分が想定した通りになることでもありません。もし、自分が想定した通りになるのであれば、それは仏の願いではなく、私の願いです。私の願いが叶ったのことを信心とはいわないのです。

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心ですから、ただ今救うと聞いて下さい。

2012-08-02

疑情とはなにか2

GTO 2012/07/31 23:38

yamamoya さん

ご説明が全く理解できない訳ではないのですが、結局のところ疑情と煩悩は同じものなのでしょうか?

それとも異なるものなのでしょうか?

疑情=煩悩と初めに説明されたこととの論理矛盾が未だ解消されていないように受け取れるのは、私に理解力がないだけなのでしょうか。


たかぼー 2012/08/01 10:52

疑情と煩悩についての区別をことさらに問題とする理由は何なのでしょうか。学問的興味からのご質問なのでしょうか(某会では疑情と煩悩とは別であると説明していることとの関係で興味があるということでしょうか)。

それとも真宗(本願による救い)を理解する上で重要な意味があるのでしょうか。議論をする上で「問題の所在」(「問題とする理由」)が分かりません。


ティーちゃん 2012/08/01 12:03

yamamoya様

私の問いにはお答え頂けないのでしょうか。念のため再掲します。

阿弥陀仏の救いとは「救いをそのまま聞く」心を与えることではないのですか?

そしてそれは南無阿弥陀仏を称え念ずる者に与えられるのだとの理解は間違いですか?


GTO 2012/08/01 12:10

yamamoya さんは本願を聞き入れない原因を疑情であると説明されています。

真宗とは本願を聞く一つで救われる教えです。

その本願を聞けないという致命的な原因である疑情を問題にすることに何か特別な理由が必要でしょうか?

またそう言われるということは疑情以上に問題にすべきものがあるということでしょうか?


たかぼー 2012/08/01 14:44

1.真宗は本願を聞く一つで救われる教えです。また、その阿弥陀仏の救いとは「本願をそのまま聞いていること(=信楽=大信)」を信因とし大行たる南無阿弥陀仏を行因として浄土往生させて証果を開かせることです。

2.本願をそのまま聞く心(=大信)は阿弥陀仏の本願から生じるものです。祖師は大信は回向されると言われていますので、その心は阿弥陀仏から与えられる心といって良いと思いますが、本願をそのまま聞いているのが大信です。

3.大信は「南無阿弥陀仏を称え念ずる者」に与えられる、との言い方は誤弊を招く恐れなしとしません。前記の大信は大行たる南無阿弥陀仏とともに回向されていますが、救いを求めている人の称念する意業や口業とは無関係に回向されているものです。

4.疑情は自力(分別知を働かして本願を聞くこと)と同義語です。本願召喚の勅命を聞く上で自力は無用です。自力をまじえて本願を聞いている限り本願をそのまま聞いていることにはなりません。よって、自力を捨てろと言われますが、本願をそのまま聞くしか自力が廃ることはありません。この難こそが求めている人にとっては一番問題となるところですが、そのまま本願の勅命を聞けば、これほど得易い信心はありませんから、祖師は易行と言われ、蓮如聖人は心得安の安心と言われています。したがって、疑情以上に問題となるべきものは他にはありません。

 以上のとおり、大信は阿弥陀仏から与えられている信心であり、その信とは本願の勅命をそのまま聞いていることですから、本願をそのまま聞いてくださいという言い方しかできないのです。もちろん法義としてはさまざまな名目を立てて教えられていますが、それはすべて本願の勅命をそのまま聞くということに集約されてきます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120727/1343332558#c1343745494

長くなったので、エントリーにします。事情によりコメントが遅くなり申し訳ございませんでした。

疑情と煩悩はイコールか否かについてですが、疑情の語義によって変わります。

一般的に「疑」は煩悩のことです。

その疑とは、

『大乗義章』6には「疑とは境において不決猶予するをいふ」とあり、疑を猶予不定といわれる。「あれかこれか」という不定を場とする。(教育新潮社_浄土真宗用語大辞典より)

といわれています。

本願をあれこれと計らうことを疑情というといった場合は、GTOさんは上記の意味で理解をされているのではないかと思います。(違ってたらすみません)その意味では疑情=煩悩です。「ある事象に対してあれこれと決まらない精神作用」を疑とすればそうなります。実感としては、そのように思えますが親鸞聖人が「疑情」といわれる場合は、上記の意味も踏まえたうえで定義が異なります。それが以下にあげるものです。

もう一つの意味から言うと、疑情=「阿弥陀如来の法を受け付けない心」のことです。第18願を撥ね付けることです。

またそれにも二つの意味があります。

一つには、凡夫が本願力を受け付けないことを疑情といわれています。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)

ここで「疑網」とか「遅慮」をいわれています。これが私のような凡夫で修行もしない人が、本願を信受しない場合です(正確に言えば19願、20願の行者も入りますが)。こう言った場合の疑情は、煩悩ではなく「本願を受け入れないこと」です。これも煩悩の一つといえるのですが、定義上分けています。

もう一つは、19願や20願の自力の信をもっているために、18願の信を受け入れないことです。

(61)

仏智の不思議をうたがひて

 自力の称念このむゆゑ

 辺地懈慢にとどまりて

 仏恩報ずるこころなし(正像末和讃・誡疑讃)

(67)

自力諸善のひとはみな

 仏智の不思議をうたがへば

 自業自得の道理にて

 七宝の獄にぞいりにける(同上)

ほかにもいろいろとありますが、19願の行者、20願の行者は自らの行によって往生を願うので本願の名号をそのまま受け入れることがありません。

最初にあげた「猶予不定の心」だけを疑情とするのは、本願が私にむけてすでに働きかけて下さっているということを抜きにした話になってしまいます。GTOさんが「疑情以上に問題にすることがあるでしょうか?」と書かれたことに、そのように感じました。

次に、ティーちゃんさんのコメントについてです。

阿弥陀仏の救いとは「救いをそのまま聞く」心を与えることではないのですか?

そしてそれは南無阿弥陀仏を称え念ずる者に与えられるのだとの理解は間違いですか?(ティーちゃんさんのコメント)

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を与えて浄土に往生させる、仏に生まれさせるというものです。「救いをそのまま聞く心」というと、何か私が救われると素直な人間になるようですが、そうではありません。そのまま聞くというのは、本願の仰せに信順したことです。ただ今救うという仰せに従ったことです。

そして、何かを期待して念仏するのは自力の念仏です。本願の念仏は私を救うお働きであると、そのまま聞いて称えるのが他力の念仏です。

ティーちゃんさんが、「南無阿弥陀仏を称え念ずる者」と いわれるのが、何かを期待して念仏するという意味であるならば、それは間違いです。

2012-07-27

疑情とは何なのか?(ティーちゃんのコメントより)

ティーちゃん 2012/07/25 22:47

計らいとは、疑蓋、疑情と理解したらいいです。

何とも突き放されたようなお答えですが、私には理解が難しいからと思い遣られてのことでしょうか。

だとすれば単に「計らいは疑情である」と言うだけでは表せない難しい何かがあるかのようです。

それが何なのか、そのあとにありました。

「信か疑か」ということは、「救われているかいないか」であり、本願を「聞いているか、聞いていないか」ということです。何か特別に、「疑情」というものを想定して、それを探そうとしても出てこないのは、「疑情」「疑蓋」の言葉の意味を取り違えているからです。

煩悩の他に疑情というこころを想定するのは誤りだ、と述べておられます。

ならば、「計らい」という煩悩の作用を疑情と呼ぶのも誤りのはずです。

疑情は蒸発してしまいました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120724/1343118903#c1343224030

ティーちゃんさんへ

突き放したつもりはありません。

説明が二重になりわかりにくくなったことをお詫びいたします。

実際に「計らい」とは、「分別心」ともいわれ、私が阿弥陀如来の心をあれこれ「分別」(判定)する心をいいいます。仏さまの心を凡夫が判定することは本来出来ません。それを、あれこれ計らうことを「疑」といいます。また「分別心」ともいいます。

そういう意味で「計らいは疑情である」は、それ以外の意味はありません。それ以上に言い表せない難しい問題があるわけではありません。

ただ、疑情も分別心も煩悩のことだから、救われたらなくなるのだろう、ならば煩悩が減るのではないかと疑問を起こす人もあります。

確かに、煩悩は阿弥陀仏に救われたからといって減るものではありません。ならば、計らいとはなんなのか?と考えていく考えは、救われない要因を自らのなかに追求し、それさえなんとかなれば自分は救われるという考えになっていきます。そうなると阿弥陀仏の本願の方に目が向かなくなるので、あまり深く考えなくてもよいところだとお勧めしました。

阿弥陀仏と私の関係性において、「本願を聞かない」「仰せに従わない」状態を「計らい」と呼んだ方がわかりやすいのでそのように説明しました。「本願を聞かない状態の私」は、煩悩具足の凡夫ですから、煩悩のほかに疑情というものを考えてもなにもでてはきません。

一方で、

本願をそのまま聞かない人は、必ず自らの計らいをそこに加えているので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。

聞かない状態が疑でありながら、聞かない人は更にそこに、計らいを「加えている」のだという。

疑情が二重に現れました。

うーん、やっぱり私はバカですね。(テーちゃんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120724/1343118903#c1343224030

これは説明が不適切でした。

自らの計らいを加えて本願を聞いている人は、本願をそのまま聞かないので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。

説明がまだ足りないところもあると思いますので、またご指摘があれば教えて下さい。

2012-07-24

信と疑の関係について「計らいとは疑蓋=疑情である、との理解でよろしいのですか?」(ティーちゃんさんのコメントより)

ティーちゃん 2012/07/24 05:44

(略)

計らいは「全く邪魔になる」と明解なお答えです。

煩悩は信楽の邪魔にならないことからすると、計らいは煩悩ではないことになります。

つまり、計らいとは疑蓋=疑情である、との理解でよろしいのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120723/1343034116#c1343076259

計らいとは、疑蓋、疑情と理解したらいいです。

そこで、信心と疑蓋(疑情)の関係について書きます。

親鸞聖人は、「」の反対語として「」という言葉を使われています。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P234)

http://goo.gl/vKodm

といわれているのは、信楽とは疑蓋が交わらないことであると示されています。言い換えますと、信心とは無疑心ということです。

つまり、救われたことを「信」といえば、「疑」は救われていないことをいいます。そこで「無疑心」とは、「救われていないことではないこと=救われていること」という意味です。


親鸞聖人以前は、信の反対語は不信とあらわしていましたが、親鸞聖人の反対語をと表されて、信疑決判であきらかにされました。


ですから、「信か疑か」ということは、「救われているかいないか」であり、本願を「聞いているか、聞いていないか」ということです。何か特別に、「疑情」というものを想定して、それを探そうとしても出てこないのは、「疑情」「疑蓋」の言葉の意味を取り違えているからです。


本願をそのまま聞かない人は、必ず自らの計らいをそこに加えているので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。反対に、本願をそのまま聞く人は、自らの計らいをそこに差し挟まないので「無疑心」「疑蓋間雑あることなし」です。


救われない原因はどこかにあるはずという考えが丸々疑情であり疑蓋です。なぜなら、本願の名号を聞く以外になにか救いの道があると考えているからです。

本願の名号(行)をそのまま受け入れたことを信といい、それをあれこれ計らって受け入れないことを疑といいます。


従いまして、計らいは「全く邪魔になる」というのは、計らいがある状態を信とはいわないということです。

「ただ今救う」が本願の名号です。南無阿弥陀仏はその喚び声ですから、そのまま聞いて救われて下さい。

2012-07-23

「本願をそのまま聞く」ために「私の計らいを差し挟まない」ことを勧められたように受け取めました。計らいは真実信にとって邪魔ですか。また段々計らわなくなれるのでしょうか。(ティーちゃんさんのコメントより)

追記:無根の信について…「阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません」(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄が長くなったので、コメント欄をエントリーにまとめて、あらためて私からのコメントを書きます。

ティーちゃん 2012/07/20 15:19

ただ今助かろうという心をもとより持たないと仰る者に、ただ今聞けと勧めておられますが、矛盾していませんか?



YGM 2012/07/20 16:37

ただ今助かろうという心をもとより持たないと仰る者に、聞こえますから、お伝えされているのでしょう。

それでも助けようという大悲心を教えてもらって、自分を反省し、かたじけないと思うならまだしも、

『矛盾していませんか?』とはひねくれてませんか?


yamamoya 2012/07/20 16:56

ティーちゃんさん

ただ今聞けというのは、ただ今救われて下さいということです。

助かろうという心がない者にむけて、ただ今救うとよびかけられる本願ですから、本願の通りに救われて下さいと言っています。矛盾はしていないです。


たかぼー 2012/07/20 18:17

「助かろうという気のない者」に対して「必ず、救う」と仰る阿弥陀様だから、その願心を伝える側はそのとおりに伝えるしかないのだな。その説かれる阿弥陀様の願心を聞くのも縁、それに反発して謗るのもその人の持っている縁だから、伝える側としては不憫と思えどもどうすることもできないのだ。ただ、質問する側はもっと真摯な質問をしてほしいと思う。「ただ今聞け」とはどういうことかまったく分かっていないのだから、それはどういうことか、もっと突っ込んだ質問をしてほしい。そうすれば、伝える管理人さん側も力が入るようになりますよ。それが「信心の沙汰」です。もっともっと信心の沙汰をしましょう。真宗の繁盛はこの信心の沙汰にあるのですから。


ティーちゃん 2012/07/20 23:34

yamamoya様

それはすなわち「阿弥陀仏の本願間違いないですよ」の呼びかけであって、件の人にどうしろと言っているのではないでしょ。強いていうなら「信じろ」ですか。でも本人は「助かろうという心がない」と言っている、つまり信じられないと言っているのだから、意味があるんでしょうか?

YGMさん、たかぼーさん

バカにバカと言っても効きませんよ。

野次比べなら受けても立ちますが、それがこのタイトルの質問者の問題解決に役立つとは思えないですね。


とくよしみね 2012/07/21 01:42

私は、馬鹿でした。

お前は、馬鹿だよと言われても否定ばかりしていました。

結局馬鹿だ、馬鹿だと言われ続けて、そうか、馬鹿なのかと気づかされました。

馬鹿は、なかなか馬鹿を認めません。

それでも、言い続けないと馬鹿に気が付きません。

お前は、馬鹿だよ。

それだけです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀

追伸:「馬鹿」を「石瓦つぶて」と読み替えても結構です。


GTO 2012/07/21 05:46

「ただ今聞け」とはどういうことでしょうか?

ただ今聞けというのは、ただ今救われてくださいということです。というのは、トートロジーであり、説明にはなっていないと思います。

聞く一つで救われる教えと言われます。

是非そこを納得いくまで聞かせていただきたく思います。


yamamoya 2012/07/21 07:45

ティーちゃんさん

私に助かろうという心がないのですが、どうしたらいいですか?という相談に対しては、助ける本願がありますよと伝える以外にはありません。

そんなことで、その人がやる気になるのか?ならないのなら意味がないというご意見かもしれません。しかし、私はやる気になってもらいたくて言っているのではありません。阿弥陀仏の本願はただいま救う本願ですよと伝え、その人が阿弥陀仏に救われることを念じています。


yamamoya 2012/07/21 07:53

GTOさん

ただ今聞けも、ただ今救われてくださいも、阿弥陀仏がすでに呼びかけられているのを前提として書いています。

南無阿弥陀仏とただ今よびかけられています。それをそのまま聞いたのが、信心であり救いです。

どうしたら救われますかの問いは、阿弥陀仏が呼びかけられていない前提があります。救いの手はすでに差し伸べられているのですから、そこにさらに方法を論じる必要はありません。その手にすがれとしか言いません。

南無阿弥陀仏は声ですから、ただ今聞いて下さいとしかいいません。

答えになったでしょうか?


GTO 2012/07/21 13:58

yamamoya 様

ただ今聞け=ただ今救われてください=その手にすがれ

というご回答ということなら申し訳ありませんが、やはり説明にはなっていないと思います。

では、「その手」とはどの手でしょうか?

私のような泥凡夫には、自分に差しのべられている救いの手など見えません。

ですから、すがりようがありません。


ティーちゃん 2012/07/21 15:18

yamamoya様

「私に助かろうという心がないのですが、どうしたらいいですか?という相談」

分かりやすくして頂きました。

「どうしたらいい」は「どうにかなりたい」のですからすでにやる気はあるということですが、

それは煩悩に過ぎないので、その心にいくら自分で接ぎ木しても「ただ今助かりたい」とはならず、

根拠に挙げられた

「栴檀」といふは、衆生の念仏の心に喩ふ

といわれる心こそ、阿弥陀仏から賜る「ただ今」の心だと、バカにも分からせて頂きました。

どうも有難うございました。


たかぼー 2012/07/21 15:21

さてさて信心の沙汰らしくなってきましたね。お尋ねになっている「その手」とは阿弥陀仏の願心(=18願の「摂取不捨」の仰せ)のことです。管理人さん側は「そのまま救うが阿弥陀仏の願心であり、この願心をそのまま頂くの信。」「だからその願心をそのまま今聞いて下さい。」と伝える。これが分からないという人があればそれはその人の心中(=不信)を正直に告白されたものです。つまり、この阿弥陀仏の仰せが「私に向けられている摂取不捨の願心である」と分かるのが信(信解)、分からぬのが不信。これが決定的な分かれ目になっているということがよく理解されます。因みに「救いの手」で思い出すのは唯信抄の一段ですね。「ひく人の力を疑い、綱の弱からんことを危ぶみて手をおさめれて綱をとらずば、さらに岸の上にのぼること得べからず」と不信を戒めている一段がありますね。この一段でいう綱とは18願の阿弥陀仏の仏智の不思議(=願心)のことですが、この願心が救いの綱(=救いの手)であると見えてない(不信)のでしょう。だから、すがりようがない、というのはまさにそのとおりなのですね。よく分かります。信心の沙汰はどこまで行っても平行線になりそうなのですが、そういう人でも信解してしまうときがあるので、仏智不思議なんですね。さて質問です。願心にすがりようがないというのであればどうするおつもりなのですか。

ティーちゃん様へ

私は「バカにバカ」なんて言っていませんよ。また、ヤジ比べする気もさらさらありません。誤解なきようにお願いします。


たかぼー 2012/07/21 15:31

ティーちゃん様へ

書込みの時間差で私の書込みが後になってしまいましたが、「栴檀」が無根の信と理解なされて良かったです。自力を離れたるすがたが無根の信が生じたすがたであり、念仏する心です。


yamamoya 2012/07/21 23:04

GTOさん

その手と言ったのは、阿弥陀仏の救いの手です。確かに、凡夫の目には阿弥陀仏の手どころかお姿も見ることができません。そこで、南無阿弥陀仏となって私に称えられる形で、手を差し伸べられています。


GTO 2012/07/21 23:43

ということは南無阿弥陀仏にすがれという理解でよろしいですね。

それでは南無阿弥陀仏にすがるとはどういうことでしょうか?

ただ口で唱えることではないですよね。


yamamoya 2012/07/22 08:53

GTOさん

南無阿弥陀仏にすがるとは、助けるの仰せを、そのまま聞くことです。ただ今助けると呼びかけられる阿弥陀仏は、助けるぞと手をこちらに差し出されているのです。その仰せに従うことを、阿弥陀仏にすがると書きました。こちらからお願いしますとすがるのではありません。阿弥陀仏にまかせるということです。

念仏を称えるのも、南無阿弥陀仏がそのように私を救うお働きだと疑いなく聞いて称えるものです。


GTO 2012/07/22 10:05

そのまま聞くと簡単に言われますが、そのままとは、どのままでしょう?

どうなったのが「そのまま」なのでしょう。

このように普通に考えれば、疑問しか出ない内容です。

それを疑いなく聞くというのは、思考停止して聞けと、どこかの宗教団体が言いそうな発言に受け取れます。


yamamoya 2012/07/22 17:40

GTOさん

そのままとは、そのままであって、私の計らいを差し挟まないということです。

思考停止とは違います。思考停止は、考えないように努力した結果です。そのまま聞くと、ストレスになることを考えないようにしているだけです。

本願は、私の計らいを差し挟まない真実ですから、凡夫の考えによらないで、お助けを聞くということです。


GTO 2012/07/22 18:13

私の計らいを差し挟まないとはどういうことか?

と結局は疑問が出るのですが、それは凡夫の考えだから止めよというなら、それは思考停止ではないのか、ということです。

思考停止を考えないようにした結果と、結果論で解釈されていますが、私は考えないようにすること自体を言っているのです。


サラ 2012/07/22 19:36

先徳は「骨折って聞け」と。

無耳人が知れるといいですね。

ティーちゃん 2012/07/22 20:24

またまた疑心がムクムクと出ましたので悪しからず。

「私の計らいを差し挟まない」とか「凡夫の考えによらない」とか、

まるで「自分の力で何とかなる」かのように誤解しそうなお言葉が重なりました。私も是非お聞きしたい。

そのままとは、どのままですか?


幹部会員歴数十年 2012/07/22 21:36

サラさん

御無沙汰しています。無耳人の意味が違っていますよ。


yamamoya 2012/07/23 05:34

GTOさん

考えないようにすることが、私の計らいを差し挟まないということにはなりません。なぜなら、「考えないようにする」間しか信心が相続しないということに成ってしまうからです。本願を聞けば、私の計らいはそこに差し挟む余地はありません。

ティーちゃんさん

そのままとは、本願をそのまま聞くという意味です。私の側での、造作を加えないという意味でのそのままと言っています。「ただ今救う」の本願に付け足したり、引いたりもしないということです。ただ今救うと聞いたら、ただ今救われるというのが、そのままと言うことです。


ティーちゃん 2012/07/23 07:35

yamamoya様

「本願をそのまま聞く」ために「私の計らいを差し挟まない」ことを勧められたように受け取めました。計らいは真実信にとって邪魔ですか。また段々計らわなくなれるのでしょうか。


YGM 2012/07/23 09:51

ティーちゃんさん

計らいは邪魔です。真実信にまかせれば安心ですが、それを計らえば不安でありましょう。正しい計らいができるようになるのではありません。

私の場合は、気付いたらいつの間にやら計らわれなくなっておりましたが、そうでない人もいるのかもしれません。

ティーちゃんさんへ

本願を計らっているあいだは、それを真実信心とはいいません。なぜなら、

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P234)

http://goo.gl/vKodm

と言われているからです。

真実信心のことを、信楽ともいいますが、それを「疑蓋間雑あることなし」と言われています。

信楽は基本的に「如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」でありますから、阿弥陀如来の心です。阿弥陀如来が、必ず私を浄土の往生させることに全くさわりがないことを信楽といいます。


ですから、その阿弥陀如来の信楽に計らいを差し挟めば、信楽とはなりません。如来のお仕事に手を出せば、全く邪魔になると言うことです。

もう一つの「段々計らわなくなれるのでしょうか?」については、段々という段階的なものではありません。計らいを入れるか、入れないかというゼロか一かの違いのようにそこは全くことなるものです。

阿弥陀如来の本願の仰せは「本願招喚の勅命」といわれ「汝一心正念にして直ちに来たれ」といわれています。それをそのまま聞くと言うことは、「段々計らいがなくなる」というものではありません。直ちに仰せを聞いたのが信心といいます。

2012-07-17

「阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません」(頂いた質問)

阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません(頂いた質問)

阿弥陀仏はただ今救うとつねに呼びかけられています。しかし、「いつかは助けて下されるだろう」と、「待っている」のは阿弥陀仏の本願を聞いているとは言えません。

「待っている」というのは、「ただ今救う」と呼びかけられてている阿弥陀仏に、「いやぁ、今はちょっとその気が起きないんですよ。そのうち助けて下さい」と言っているようなものです。

言い換えると、阿弥陀仏の願いに対して、それを拒否しているということです。「ただ今救う」と言われる阿弥陀仏に「ただ今でなくていい」と言っていることになります。

阿弥陀仏の本願をそのまま聞くということは、私が「ただ今でなくていい」という計らいを入れずに、「ただ今救う」をそのまま聞くことです。気持ちが起きてからというのは、阿弥陀仏の本願を撥ね付けてからそれに対してなにも思わないということですから、そのような計らいは直ちに捨てて聞くことです。

2012-07-08

「阿弥陀仏の召喚の勅命をハイと受け入れた時が信心だと聞いておりましたが

信の一念は凡夫には自覚できないとも聞いています。ではハイと聞いたのは

いつの時点になるのでしょうか。」(トカゲさんのコメントより)

トカゲ 2012/07/07 16:23

阿弥陀仏の召喚の勅命をハイと受け入れた時が信心だと聞いておりましたが

信の一念は凡夫には自覚できないとも聞いています。ではハイと聞いたのは

いつの時点になるのでしょうか。

yamamoya 2012/07/07 20:53

トカゲさん

ハイときいたのはいつかといえば、「はいと聞いたとき」と答えるのが一番適当なのですが、同語反復のようで回答にならないと思います。

「ハイと聞いた」と分かるときはいつか?ということでしょうか?

トカゲ 2012/07/07 21:40

「信の一念に、自覚しないままでハイと聞いた」のかもしくは「自分は信心決定しているんだなと自覚したときにハイと聞いた」のかどちらかかということです。私は前者かなと思っていたの

ですが、自覚なしにハイと聞くということがあるのだろうかと疑問がでてきた次第です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120705/1341474416#c1341645796

「ハイと聞いた」というのが、トカゲさんのコメントの文面からすると、「信心決定した」「救われた」事実のことを言われているのだと思います。

その「とき」は、自覚ができるとかできないというものではありません。しかし、そのときが自覚できなくても、本願をつねに聞いて疑い無いのが信心ですから、救われた上ではいつでも「ハイと聞いている」ということになります。

信の一念から後に自覚の上で救われたということがありますから、「自覚なしにハイと聞く(信心決定)」ということはあります。ただ、死ぬまで自覚がないということはありません。(信一念の直後に命が終わるような場合はわかりませんが)

「ハイと返事をした」とか「ハイと自覚した」というこちら側のことではなく、本願が「お前をただ今救う」と本当に聞いていれば、それをハイと聞いたと言っているのです。反対に、「お前をただ今救う」本願を、「どうやって?」とか「どうなればいいのか?」と聞いているのは、本当の意味では聞いていないということになります。これを不如実の聞ともいいます。それに対して、ハイと聞いたことを如実の聞と言っています。

ただ今救うという本願は、ただの呼びかけではありません。実際に私を救う働きがある本願です。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻より・論註引文・浄土真宗聖典(註釈版)P198)

  • 願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終ることはなく、力は目的なく空転することがない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いがないから成就というのである
http://goo.gl/2vP3a

「願、徒然ならず、力、虚設ならず」の、本願であり、本願力であると如実に聞けば、それは「ハイと聞いた」ということになります。

2012-07-05

スッキリハッキリするのが信心だと思っていましたが、違うのでしょうか?(頂いた質問)

スッキリハッキリするのが信心だと思っていましたが、違うのでしょうか?(頂いた質問)

同様な趣旨で「蓋有る水に月は宿らずといわれるから、疑いの蓋が取れたらきれいな月が見えるのでしょうか?」と質問される方もあります。

これは、阿弥陀仏に救われた、信心決定した、疑情が晴れたということを、なにか覚りのようなものだと誤解しているところからくる疑問です。

「お前を必ずただ今助ける」という本願を聞いて疑い無いということは、本願に疑い無いということであって、それ以外になにか悟ったがごとくわかる智恵が身についたわけではありません。また、「阿弥陀仏」がお釈迦さまのように分かるようになったわけでもありません。阿弥陀仏がそのままわかるようなのが凡夫ならば、南無阿弥陀仏となられた道理はありません。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。(教行信証行巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P180)

http://goo.gl/KvFRu

阿弥陀仏の本願は、名号をもって私を救って下さいます。なぜなら、私が仏を知る智恵を持ち合わせていないからです。

また、阿弥陀仏がそのまま分かるようになるとすれば、阿弥陀仏の浄土も分かるようになってしまいます。しかし、浄土は仏にしかわからないものと、ご和讃に言われています。

(12)

安養浄土の荘厳は

 唯仏与仏の知見なり

 究竟せること虚空にして

 広大にして辺際なし(浄土和讃・天親讃)

「唯仏与仏の知見」であって、大きさが虚空といわれても、ほとりもきわもない浄土は人間にはとてもわかりません。

スッキリハッキリするというのが、阿弥陀仏や浄土に対する不明点が明瞭に分かるという意味で使う人がありますが、それは間違いです。阿弥陀仏や浄土は凡夫にはわかりません。しかし、「ただ今救う」という本願をそのまま聞いて疑い無いのが信心です。

「ただ今救う」以外の何かも分かろうとすれば、出口のない迷路に入るような者です。なぜなら、ただ今救う以外にはなにも理解は出来ないのが凡夫だからです。ただ今救う本願をただ今聞いて救われて下さい。

関連エントリー

追記:疑心往生についてのコメントまとめ - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

用管窺天記さんのエントリーにも関連したことを書かれていたので、紹介します。

疑情 « 用管窺天記

疑ひながらも、念仏すれば、往生す « 用管窺天記

2012-06-22

6月21日のエントリーと関係しますが、自分の心を見つめても煩悩しかありません。そうなると、ますます阿弥陀仏が働いて下さっているのだろうかと思います。(頂いた質問)

6月21日のエントリーと関係しますが、自分の心を見つめても煩悩しかありません。そうなると、ますます阿弥陀仏が働いて下さっているのだろうかと思います。(頂いた質問)

自分の心の中には確かに煩悩しかありません。だからこそ阿弥陀仏の大慈悲がかかるのです。しかし、その煩悩しかない私だからといって、阿弥陀仏のお働きを疑うというのは間違いです。

疑うべきではないことを疑うのは大変嘆かわしいことだと、親鸞聖人は教行信証信巻に、善導大師の般舟讃を引文されています。

光明師(善導)のいはく(般舟讃 七三三)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P260)

http://goo.gl/ORpAx

衆生が疑ってはならないことを疑っているのが、嘆かわしいことだといわれています。浄土は「対面してあひ忤はず」といわれ、人と目の当たりに対面しているように浄土はあり、浄土と私を遮るものは本来ないのです。それにも関わらず、私の方で疑うべきでないことを疑っているのです。

「弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。」といわれています。

阿弥陀仏が救って下されるのか、どうかを論じる必要はないということです。

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって、私をただ今救うと呼びかけておられます。その本願力があるから私は救われるのですから、それを本当かどうかと疑ったり論じたりするものではありません。

本願を聞いて、ただ今救われて下さい。

2012-06-21

自分は信心決定したのだろうかと思うときもあるのですが、自分の心の中を探ってみても信心らしいものはありません。私は信心決定しているのでしょうか?(頂いた質問)

自分は信心決定したのだろうかと思うときもあるのですが、自分の心の中を探ってみても信心らしいものはありません。私は信心決定しているのでしょうか?(頂いた質問)

質問された方がどうかということは、私がわかることではありません。

しかし、信心は「心」という字があるからといって、自分の心の中に探しても何もでてはきません。それを浄土真宗では「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」と言っています。

どういう意味かというと、信心とは仏辺に仰ぐものであって、自分の心の中を探して出てくるものではないということです。ここで、仏辺というのは、阿弥陀仏の本願の事です。阿弥陀仏の本願の上に仰ぐのが信心です。本願の上に仰ぐというのは、別の言い方をすると、本願をそのまま聞くということです。そこで「勅命のほかに領解なし」という言葉もあります。本願招喚の勅命を聞いている以外に、信心というものはないという意味です。

仮に自分の心のなかを探ってみて、信心らしきものがあったとしてそれはいつまでも続くものではありません。その変わりに見えてくるものは煩悩しか有りません。

そこで「慈悲は罪悪機中に味わう」といいます。これは、阿弥陀仏のお慈悲は自分の罪悪煩悩の中に味わうということです。阿弥陀仏の大慈悲は、何によって起こされたかといえば、煩悩具足の私をあわれに思われたのです。ですから、私の煩悩を離れて阿弥陀仏のお慈悲というものはありません。

歎異抄第3条では

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば

といわれ、自分の煩悩の浅ましさを知るほど、それを助けて下さる阿弥陀仏の大慈悲が知らされるということです。

その阿弥陀如来の上に信心を見るということですから、自分の心の中に信心だけを探そうとしても何も見つかりません。

ただ今救うの、本願をただ今聞いて下さい。

2012-06-18

疑いをなくさないと信心は得られないと聞いているので、なんとか疑いを晴らそうと頑張っているのですがなかなか信をえられません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

疑いをなくさないと信心は得られないと聞いているので、なんとか疑いを晴らそうと頑張っているのですがなかなか信をえられません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

疑いを無くしてから、信を獲るという考え方は間違いです。

信心とは、本願を聞いて疑心あることないことです。しかし、疑いがなくなった者に阿弥陀仏が信心を与えて下さるという考えは間違いです。

言い換えますと、無疑心のものに南無阿弥陀仏を与えるとは親鸞聖人はいわれていません。無信の者に南無阿弥陀仏を与えると言われています。

「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P711)

http://goo.gl/57CJ1

ここでは「邪見無信のものにあたへたまへる」と言われています。阿弥陀仏は、邪見無信のものに法(名号)を与えると言われています。

私が南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂くときは、「邪見無信」の者なのです。「邪見無信」のままで南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜るということです。

確かに、信心決定するということは、無疑心であってまた正見の者になるということですが、これはあくまで法の徳、南無阿弥陀仏の徳としていわれていることです。私自身の本来の相から言えば、「邪見無信」という相は死ぬまで変わりません。

「邪見無信」の者に法を与えるということは、「邪見無信」のまま助けるということです。私の方でいえば、助かる身に救って下さるということです。

疑いを除かないことには阿弥陀仏は助けて下さらないと思わずに、そのまま救うという本願を、ただ今聞いて救われて下さい。「疑いを無くしてから」と疑いと格闘しても、出口はありません。

別件ですが、アンテナに以下のブログを追加しました。

お慈悲のままに

2012-06-14

奮起して心に掛からなくても、面倒くさくても、自力いっぱいでも一生懸命後生を自分にとり詰めてみて仏教を聞くのがいいのでしょうか。(頂いた質問)

私の心境を述べますと、後生の一大事が全く心に掛からないし、別に仏教聞く理由も無い。

毎日、自分の煩悩やりたい放題に生きています。

それでは駄目だと奮起して心に掛からなくても、面倒くさくても、自力いっぱいでも一生懸命後生を自分にとり詰めてみて仏教を聞くのがいいのでしょうか。(頂いた質問)

頂いた質問の内容からすると、「後生の一大事をとりつめて、煩悩を抑えて、自力一杯聞くのがよい」と言われているようです。

阿弥陀仏の本願は、上記のような人を優先的に救う本願ではありません。平等に救って下さる本願です。こういう人の方が早く救われるだろうと考えるのは人間の考えで生み出した幻想です。

なぜ「特定の人を優先することがない」のかといえば、阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏となって現在私に呼びかけられているからです。それは、どんな人でも平等に呼びかけられています。「特定の人」にだけ、強く呼びかけられると言うこともなければ、「そうでない人」には呼びかけられていないということもありません。

(53)

弥陀・観音・大勢至

 大願のふねに乗じてぞ

 生死のうみにうかみつつ

 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃)

阿弥陀仏は、大願の船に乗って生死の海に乗り込んで呼んでおられます。

ただ今救うの本願を、ただ今聞いて救われてください。自力一杯と奮起する前に、本願を聞いて下さい。

追記

「煩悩やりたい放題に生きている」私を救う為の本願です(6/14エントリーの追記) - 安心問答(浄土真宗の信心について)追記エントリーを書きました。

2012-06-09

こんな私が仏教聞くのも全て阿弥陀様の働きによるのでしょうが、自分の心に少ししか無い求道心を焚き付けて聞くのが良いのでしょうか?(頂いた質問)

こんな私が仏教聞くのも全て阿弥陀様の働きによるのでしょうが、自分の心に少ししか無い求道心を焚き付けて聞くのが良いのでしょうか?(頂いた質問)

結論から言いますと、「求道心を焚きつけて聞く」必要はありません。本願をそのまま聞かれたらよいです。


なぜなら、現在阿弥陀仏の本願を聞こうという気持ちにすでになっておられるからです。そうでなければ、このように質問されることはありません。


「求道心を焚き付けて聞く」必要があると思われるのは、現在救われないのは「求道心が少ない」と考えられているからではないでしょうか?


そのような心配は間違っています。なぜなら、阿弥陀仏の本願は「求道心がある者を救う」という本願ではないからです。


歎異抄第3条から紹介します。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄第3条・浄土真宗聖典(註釈版)P834)

http://goo.gl/ZiOzP

ここで「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意」といわれています。阿弥陀仏が本願を建てられた御心は、煩悩具足の私ではどんな行をしようとも生死を離れることができないことをあわれに思われたからだと書いてあります。


煩悩具足の凡夫とは、質問にあるような「求道心」がないものです。あるとしても、それを焚き付けて救いの足しにしようというのは「自力作善の人」ですから「ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と言われます。


阿弥陀仏は、私をたのめと呼びかけられています。「求道心をおこして向かってこい」ではありません。

「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」とは、「求道心を焚き付けねば」という心を捨てて、他力にうちまかせればということです。阿弥陀仏の仰せの通りに、弥陀をたのむ人は、「真実報土の往生をとぐるなり」報土往生できます。


阿弥陀仏の本願は、ただ今救うの本願です。ただ今救うと言うことは、心配するな、いろいろと考える計らいは捨てて聞けとの仰せです。ただ今救う本願の通りに、ただ今救われて下さい。

2012-06-03

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)の話を聞くと、これは「本願力にあった人」「信心決定した人」のことであって、自分はそうではないと思うと心が暗くなってしまいます。(頂いた質問)

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)の話を聞くと、これは「本願力にあった人」「信心決定した人」のことであって、自分はそうではないと思うと心が暗くなってしまいます。(頂いた質問)

上記の質問にでてきたご和讃は、以下のものです。

(13)

本願力にあひぬれば

 むなしくすぐるひとぞなき

 功徳の宝海みちみちて

 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P580)

【現代語訳】

本願のおはたらきにおあいすれば、空しく一生を終える人もなく、宝の海のような功徳が身に満ちて、濁った水のような煩悩も阿弥陀仏の救いの障げになることはない。

http://goo.gl/8wFvv

お尋ねのように「本願力にあひぬれば」だから、まだあっていない自分には関係のない話だと思ってはいけません。なぜなら、本願力は現在私に働いていて下さるからです。

「救われたらこうなる」というところにばかり目が行くと、現在働いて下さっている本願力に目がいかなくなってしまいます。確かに、結果として「空しくすぐるひと」になりたくないという気持ちはよく分かります。結果ばかりに目を向けると、本願力も遠くに追いやってしまいます。

ただ今救うと呼びかけ働いてくださっているのが本願力、南無阿弥陀仏ですから、ただいま本願力にあって救われて下さい。